上尾家庭集会


ベック兄

(上尾家庭集会、2001/11/10)

引用聖句:ピリピ人への手紙4章4節-7節
4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
5あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

今朝も浦和で、祈ることの大切さについて一緒に考えたんですけども、今司会の兄弟も、「祈ると主は聞いて下さる。」と何回も言われたんです。確かにイエス様との出会いによって希望を持つようになった人は、誇りを持って言うことができます。「我々の主は聞いて下さる。」と。
宗教を持つ人は、祈りますし、何か拝んでるし、けどもやっぱり自分で努力して、いい子になろうと思えば、長く祈れば何とかなるんじゃないかと思い込んでいるんですけれど、本当は何もならない。
結局、天と地を創造されたお方、十字架上で死なれた主イエス様だけが祈りを聞いてくださる。我々の主とは、祈りの聞き手です。

そして聖書全体の言っていることとは、「失敗をしたくなければ、祈りなさい。」「損をしたくなければ、主の御名を呼び求めなさい」
祈らなければ、失敗するのは決まり。祈らなければ、間違いなく失敗します。いくら真面目に生活しようと思っても、いくら立派になろうと思っても、主の目から見れば全部むなしい努力です。
祈ることとは、主に頼ることです。自分はダメだから、だからこそ主を必要とする。やっぱりイエス様がいなければ「ダメ」と言う証しを聞くと、いつもうれしくなる。随分成長したと言わざるをえないからです。
結局多くの人は、「イエス様を信じます。信じます。」と言うんですね。本当の意味で信じたかは別の問題です。多くの人は、イエス様の存在を認めている。けどこれは「信仰」じゃないよね。悪魔もイエス様の存在を認めていますよ。でも悪魔は全然救われていないよ。信じていますけど、救われてないよ。結局頼ろうとしないから、頭を下げようとしないから、どうしたらいいかという気持が、一切がっさい無いから。

イエス様に頼ること、信頼することは本当に大切なことです。「私は長い間イエス様を信じたけど、今イエス様に守られなければもう終わり」と分かった人は、はじめて本当の意味で祈るようになるなのではないでしょうか。
信じる者にとって最も大切な一節は、私から離れたらあなた方は何もすることはできない。できるけど意味の無いこと、できるけど的外れです。私から離れたら終わり、けど私につながっていればOK。今読みましたように絶えず喜ぶことができる。

パウロは刑務所の中で、「いつも喜びなさい」と書いたのです。自分で出来たからです。思い煩うな。パウロは刑務所の中でも心配しなかったし、思い煩うことをしなかった。本当に喜ぶことができたんです。
神ご自身の平安に守られていたと、彼は言うことができたんです。主は近い。彼は分かったんです。
一人で刑務所に入らなくちゃと思い込んでしまったペテロは経験したんです。「いや、イエス様と一緒じゃないか。イエス様と一緒だったら刑務所だってたいしたもんじゃない」
イエス様と一緒だったら喜ぶことができる。パウロにとって刑務所でいちばん教えられたこととは、「祈ることこそ自分に与えられた使命です。」
刑務所の中で急に楽になった、もう計画たてなくていいし、ああしましょうと思ってもできないし、やっぱり生真面目だったパウロは、前より祈るようになったのです。祈ることとは本当にもっとも大切なんです。

今朝浦和で、サムエルの決心についてちょっと学びました。彼は「私は祈ることをやめて主に罪を犯すことなどとてもできません」と言ったんです。
素晴らしい!国民の前の告白だったんです。結局わたしは主なしになにもできないから、だから私は祈り続けます。あなた方がどういう態度をとってもいい。関係無い。私はもう決めたんです。
イエス様から離れたらおしまい、だから私は祈ることをやめて主に罪を犯すことはできない。結局サムエルというはじめての預言者は、「祈らないことは罪だよ」と言ったんです。

どうして祈らないことが罪であるかと言うと、聖書にそう書いてあるからです。私たちが認めても、認めなくても関係ない。聖書の中で祈らないこととは罪、そう書いてあるからです。主に頼らないこととは、自分の力、自分の知恵に頼ることとは罪だよ。主は見向きもしない。
たとえば嘘をつくことも罪。誰でもわかる。ねたむこともやっぱり悪いとみんなわかる。愛のない態度もやっぱり良くない。誰でも分かる。
でも祈らないことも罪だと多くの人は考えないのではないでしょうか。そうすると、知らないうちに人間は罪を犯すばかりではないでしょうか。主に頼らないことは結局罪だよ。

聖書の中で絶えず祈りなさいという表現が使われている。結局主に頼りなさい。「祈ったらどお」という軽い気持、提案、ではなく命令です。
結局祈らなければ、頼らなければ、悪魔のとりこになるから、「しなさい」と言われているから、やっぱり命令です。拒否することは罪です。
ヤコブという人は、イエスの肉体の兄弟だったのです。それだけではなく、初代教会の中心になる者にもなったんです。比較的早く捕まえられ殺されたんです。彼は次のように書いたんです。こういう訳で、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。
誰でもわかる、祈ることは大切ですし、祈ることは必要ですし、祈ることは良いこと。それはわかる。しなければ罪よ。

それから聖書の強調していることとは、主に頼る大切さ。本当の意味での信じることです。信じることは一つの教えを信じ込むのではなく、主に頼ることです。
へブル人への手紙の著者は、「信仰がなくては神に喜ばれることはできません。」と、言っています。信仰から出ていないことは全部罪です。イエス様は、もちろん罪を犯す可能性を持っていなかったのです。けど、あらゆる人間よりも祈ったのです。
結局祈らなければ御心を知ることはできないし、御心を知ることができなければ、全部的外れです。どうして祈ることが大切であるかと言いますと、主が何を考えているか知るためです。

それから、今朝浦和で強調したのは、与えられた御霊とは、祈りの助け手として与えられている。自分で何を祈るべきかわからない。パウロでさえも、そういうふうに告白しているんです。私たちは、イエス様を信じながら相変わらず弱いものです。私たちはイエス様を知りながら、何を祈るべきかさっぱりわからない者ですと、パウロは正直に告白したのです。
けど、どうでもいい、御霊が知っている。御霊はできる。この御霊、祈りの霊です。祈りの助け手として与えられている。

ローマ人への手紙8:26
26私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

とあります。本当にありがたい。
祈りの助け手として聖霊が与えられているから、祈らない者は何の言い訳もできない。祈ると奇跡を経験します。祈ると家族の人が導かれ救われます。結局、失われた人々とは我々の祈りによってみもとに導かれれば、勿論解放され喜ぶようになります。
祈ることができるとは、本当に大きな特権なのではないでしょうか。祈りによって、祈られた人は必ず導かれるからです。祈らないと、結局間違った安心感に導かれるようになります。
どうして祈ることが大切かというと、守られるためとイエス様は言われた。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りなさい。祈るとは自分の弱さ惨めさを感じながら、主の守りのために、主の導きのためにより頼むことです。

聖書の言っていることとは、祈りは全てを変えます。主は祈りの聞き手であり、主にとって不可能なことはない。祈ると主は働く。ヤコブは義人の祈りは働くと、大きな力があると約束されています。
祈ると何が起こるかと言いますと、無力から力が生じ、敗北からイエス様の勝利が明らかになり、イエス様のために生きかつ働きたいという燃えるような要求によって変えられます。
祈ることとは本当に考えられないほど大切です。ですから、サムエルは祈ることを止めることはしない。私は祈り続けます。私は主を必要とすると言ったのです。

祈らなければ、誰に対して罪を犯すことになるのでしょうか。
第一番目、主ご自身に対して、第二番目、他人に対して、第三番目、自分に対してです。これらの三つのことについて、ちよっとだけ考えてみたいと思います。

第一番目、祈らないと私たちは主ご自身に対して罪を犯します。
サムエルは「私もまたあなた方のために、祈るのを止めて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」と、言ったんです。
ダビデの心からの、悔い改めをあらわすのは、詩篇32篇と51篇なんです。

詩篇51:4
4私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。

二回、あなたと言う言葉が出てきますけれど、事実はどうであったかと言いますと、ダビデは一人の女性に姦淫の罪を犯したのです。ですから本当に、バテシエバという女性に対して罪を犯したのは当然です。
またダビデは、彼女の夫ウリヤを死に追いやったことによって、いうまでもなくこのウリヤに対しても罪を犯したのです。
そしてダビデは兵士たちに対して、さらには彼の国民に対して、とんでもない罪を犯しました。
けどまず第一に、これは主ご自身に対する罪だったのです。わたしはあなたに対し、ただあなたに対して罪を犯したと、告白せざるをえないのです。

放蕩息子も同じ態度をとったのです。

ルカの福音書15:21
21おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。

彼はこのように祈ったのです。結局まずお父さん、けど放蕩息子は財産を使い果たした、遊女たちにも罪を犯したのです。友人たちにも模範となるべきだったのに、罪を犯したのです。
けどおもな彼の罪は、父親に対してです。だから放蕩息子は、「天に対して罪を犯した。」と告白するようになったのです。
祈りとは、主の御心が行われるという目標を持った主との共同です。祈るのを止めると、我々を通して主の御心が行われない状態になります。ですから私たちは、祈らないとまず第一に、生きる唯一まことの神に対して、罪であることがよくわかります。

主は大いなる新しいことを行うことを待っています。

エゼキエル書36:37
37わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。

すなわちこれは、イスラエルの家が祈らなければ、主が祈りを聞き入れないということを意味しています。祈らない者は主の妨げ、「おじゃま虫」です。祈らない者は、何事も起こらないとき、その責任を負っているのです。そしてまた主がご自身を啓示出来ないときも、責任を問われます。
しかし祈る者は、主があふれるばかりの祝福を、流れ出さるることの出来る管となります。その人は、主の計画が実行されるための器となります。
祈らないと、主に対して罪を犯すことになります。

第二番目、祈らないと他人に対して罪を犯すと聖書は言っています。
サムエルは告白したのです。「わたしは、あなた方のために祈るのを止めて、主に罪を犯すことなど、とても出来ない。」
我々の同胞は苦しんでいます。悩んでいない人は、一人もいない。精神的に悩み苦しみ疲れはてて、多くの人は日々、重い足を引きずりながら生活している。これらの悩む人々を助けるため、私たちは何が出来るのでしょうか。
祈ることしかできない。彼らのため祈ることであり、彼ら自身を主のみもとに連れて行くことです。これは我々の義務であります。
私たちが祈るとき、おおいなる救い主はこれらの悩む人と必ず出会って下さいます。わたしたちが祈らないなら、彼等は主の祝福、助け、恵み、力を体験できません。ですから彼等のため祈らないと、彼等に対して罪です。

祈ると主は聞いて下さり、行動して下さる。私たちはどう祈るかといいますと、「主よ、どうか憐んで下さい。御心にかなった祈り人になりたい。」どんな犠牲をはらおうとも、私の人生は真のとりなしの祈りの奉仕の人生となるべきです。
私たちはみんな未信者のご家族をもっていますし、親戚の中でイエス様を知らない人々、もちろんたくさんいます。我々のまわりに福音を知らない人、もちろんたくさんいます。そのような人たちのために祈ることは、我々の特権でもあり、義務でもあります。
彼等のために真剣に祈ることによって、主は彼等に救いの必要を示して下さり、彼等を罪から解放して下さり、本当の喜びに満たして下さるだけではなく、器として用いて下さるのです。
まわりの人々が救われて解放されるまで、祈り続けるべきではないでしょうか。祈らないと私たちは、他人に対して罪を犯します。

第三番目、祈らないと自分に対して罪を犯すことになります。
結局祝福されないし、損します。祈りによって状況が変わるだけではなく、祈る人そのものが変わります。結局価値観が変わる、見方も変わる。人生観そのものが変わる。
祈る人とは主との交わりを持ち、主イエス様をよりよく知り、主のご臨在の力を経験します。それによって、祈る人は知らないうちに変わります。主との交わりを持つ人の生活は、同じ状態にとどまることが出来ません。
主のために生きたい、主のために実を結びたいと望むのです。また主の勝利にあずかりたいと願うようになるのです。
主に近づいて、祈りの人とならなければならない。

「御霊に満たされたい」と思う人は、聖霊によって、すなわち祈りの霊によって動かされなければならない。それですから、祈らない人は自分自身に対して罪を犯すことになる。
そういう人は、何の実も見い出すことが出来ない時、また絶えざる敗北の状態にとどまる時、自分で責任をとらなければならない。自分自身を駄目にして、主の祝福を略奪してしまう、自分自身をもっとも不幸にしてしまうのです。
これよりも大きな愚かさはないなのではないでしょうか。

最後にまとめてみると、私たちが祈らないと、主はこの祝福をやめなければならない。祈るのをやめることは、主に対して、他人に対して、自分に対して言い表すことの出来ないほどの罪です。
何がなされるべきでしょうか。必要なのは正直な告白です。それから個人的な決断なのではないでしょうか。
正直な告白とはいったいどういうことなのでしょうか。あいまいな態度をとることは何の価値もありません。真剣に祈らなければなりません。祈りの生活をしなさい。

もう一つ、個人的決断が要求されています。決断する者は全く個人的にそれをしなければならない。私たちが行わなければならない個人的な決断とは、サムエルが行った決断でしょう。
「私もまた、あなた方のために祈るのやめて、主に罪を犯すことなど、とても出来ません。」これはサムエルの全く個人的な決断でした。
「私にはとても出来ない。」、すなわちサムエルは次のように言ったのです。「私には他人がなにをするのかわかりません。また、イスラエルの民がいかに決断するのかもわかりません。けど、私は私のすることを知っています。私は決断しました。私は祈りの生活に献身することにきめました。」

サムエルは、皆んなの前に告白したのです。「私はあなた方のために祈るのをやめて、主に罪を犯すことなどとても出来ない。」
私たちも、表面的で無関心であったことを告白すべきではないでしょうか。一番大切な奉仕、すなわち「祈りの奉仕」よりも、他のことに忙しくしていたことを、告白すべきではないでしょうか。
「他の兄姉が、何と考え何をしようがかまいません。私は、祈りの奉仕に献身します。」

終りに、祈りをやめることを克服する助けとなる事柄をあげて終わりたいとおもいます。
まず、毎日主と一人だけでいることの出来る時間を自分で決めなさい。イエス様との毎日の交わりは大切であり、義務そのものです。
次、祈る前に、聖書のなかの短い一節を読みなさい。それによって主のご臨在が意識されるようになります。みことばを通して主が語って下さるからです。主の言葉は祈りへと駆り立てます。
それから、その日あなたに起こったすべての重荷、自分の思い、願い、悩み、などを主に申し上げなさい。何も隠さなくてもいい、全部主に申し上げなさい。意識して主に委ねなさい。
それから、いかなる事情のもとにおいても、形式的に祈ることを避けなさい。すべてのことについて、主に語る習慣をつけなさい。台所で、電車の中で、自転車の上で、至るところで主に呼び求めてください。

もう一つ、祈りについて、主のみことばが語ることを真剣に受け取るべきです。アブラハ厶、サムエル、エレミヤ、ダニエルの祈りを新しくお読みになると、非常に祝福されると思います。
初代教会の祈りについて考えるべきです。初代教会の特長とは祈りでした。それから祈りの名簿を作っても、ちよっと助けになるなのではないでしょうか。
救われてもらいたい人々、祝福されてもらいたい人々、用いてもらいたい人たちのすべての名前をお書きになれば、助けになるでしょう。彼等のために、規則正しく祈りましょう。

主の約束にもとづいて、幼子のように主の奇跡を待ち望みましょう。
もう一つ言えるかもしれない。すなわち、あきらめてはいかん。主の前に祈り続けなさい。絶えず祈りなさい。意識して主の交わりの中にとどまりなさい。
主に頼ると、主は必ずあわれんで下さり、恵んで下さるんです。
最後にもう一回、はじめに読まれた個所を読んで終わります。

ピリピ人への手紙4:6-7
6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

主は祈りの聞き手であるから、祈りましょう。大いなることを期待しながら祈ると、主は必ず奇跡をなして下さるのです。




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