引用聖句:コリント人への手紙第I、13章13節、14章1節
エペソ人への手紙2:4-5
大切なのは、一番大切なものを覚えることではないかと思います。パウロは一番すぐれているのは「愛です。」、愛を追い求めなさいと書かれてます。 もちろん「愛」とは「主イエス様」ご自身です。イエス様は主なる神さまの現れそのものでした。 良く言われるのは、イエス様のない人生は無価値であり無意味であると。それと同じように言えるのは、まことの愛を知らない人生も無価値であり、無意味なのではないでしょうか?! ドイツから戻る途中飛行機の中で、一つの映画を観たんですね。こちらでは見る暇がないから、時間をつぶすために見ちゃったんですけど。記録映画だったんです。ちょっと興味深いものでした。ナポレオンについての映画だったんです。 昔の人で、1796年に生まれた者でそれから1821年に亡くなったんです。52歳でした。殺されたと言ってもいいと考えられます。歴史の本には詳しいことかいてないんです。けど52歳で死ぬのはちょっと問題なのではないかと考えます。 結局、当時世界の半分は彼によって征服されたんです。もちろん何人殺されたのか誰もわかりません。けどもあの記録映画の中で、やっぱり彼は非常に淋しい男でした。 離婚しましたし、また再婚しましたし、彼の最も親しい友達は急になくなったんです。みんなショック受けて、けど葬儀終わってから、どうして死んだのか結局医者はそれは調べるべきである墓を開けて、けどもその時死体はないんです。棺もないんです。結局泥棒された、わからないようにです。 その後でナポレオンも病気になって、一番近くの者に毒殺されてしまったんです。40回にわたって「アルセン」という毒を食事の中にいれ続けたんです。もちろんだれもわからなかったんです。 それからずっと後で、187年後で「ちょっと棺を捜しましょうよ?」、棺を開けた時全然腐っていなかった!そのままなんです。今死んだばっかり、そんな状況だったんです。考えられない!!! けど、アルセンという毒はそういう効き目を持つものだそうです。長い間腐らない!だから100%証明されちゃった。本当に有名人だった。ある意味で憧れていた者だったかも知れないけど淋しくて信頼できる人は結局一人もいなかったんです。悲劇的なのではないでしょうか。 僕嬉しかったのは、映画の結論とは何であったかと言いますと『永遠の実がなければ空しい。』、空しく生きることとは悲劇的である!そういう結論だったのです? もちろんその通りなのではないでしょうか。この偉大なるナポレオンでさえも愛を知らなかった。気の毒な男でした。 初代教会の人々は、違うことを経験したのです。主に手紙の中で良く書かれているのは、私たちは神の愛をわかった!体験的に知るようになった。 今読んでいただいた、エペソ人への手紙の中でも同じことが書き記されています。 エペソ人への手紙2:4-5
愛によるのですと言っても良いでしょう。結局私たちは神の愛を知っていた。神さまの愛をわかったと言える人は幸せなのではないでしょうか。 イスラエルの精神史のちょうど真中あたりのところに、一つの麗しい愛の物語を見出すことができます。すなわちそれは、士師記とサムエル記の間にあるルツ記に記されてる愛の物語です。 そして同じような事柄を、新約聖書の中でも私たちは見ることができます。それは偉大なる手紙と、深い教えの真中にある、極めて個人的な親しい愛の書。すなわちピレモンへの手紙に記されている事柄です。 愛とはどういうものであるか、このピレモンへの手紙を読むとわかります。この手紙は、何らかの教えを含んでいると言うよりは、むしろ牢獄に捕らわれの身となっているパウロが、古くから親しい友だちであるピレモンに書き送った、愛に満ちた記録でありますが、これを読むものは誰でも、心が熱くなるのを覚えることではないかと思うのであります。 ちょっと読みましょうか、 ピレモンへの手紙1:1
結局ローマ帝国の皇帝である、ネロの囚人であるパウロとは書いてないんです。確かにネロによって彼は捕まりました。そしてネロによって殉教の死を遂げるようになったんです。けどもパウロはそういう気持ちを持っていなかったのです。 ネロだって主が動いてくださらなければ、何もできません。だからパウロはよく、私はイエスキリストの囚人、イエスキリストに仕える奴隷であると言ったのです。 2節も同じ表現が出てきますね。キリストイエスの囚人となっている私パウロと書き記されています。 キリストイエスの囚人であるパウロ及び兄弟テモテから、私達の愛する同労者ピレモンへ。 ピレモンへの手紙1:2-3
パウロにとって、イエス様は単なる助け手主ではなく『主。』、主人でした。支配者でした。 ピレモンへの手紙1:3-4
そういう兄弟は幸せなのではないでしょうか。 パウロはピレモンのこと考える時いつも感謝することができた兄弟でした。それは主イエス様に、あなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛を聞いているからです。 ピレモンへの手紙1:6-9
命じることができるかもしれないが、けどもう命じたくない。お願いしたい!、だけですと、パウロは言ったのですね。 ピレモンへの手紙1:9-10
ここも私はお願いします、お願いしたいのですと。 ピレモンへの手紙1:11-25
と、非常に短い手紙です。 ピレモンへの手紙は、ローマ人への手紙と比べて非常に簡単で、誰でもわかることができる手紙なのではないでしょうか。 確かに今日は、ある意味で電話の時代、ファクスの時代、E-メールの時代になっちゃったんです。結局手紙を書くということは、特別な時であるとか、形式的な時に用いられるようになったように思われますけども、私たちが決して忘れてはならないことは、偉大なる霊的祝福、ならびに真心からの慰めや励ましは、手紙によって伝えられると言うことではないでしょうか。 聖書にかかれている手紙は、慰めと励まし、また喜びを伝えるために書かれたものです。 勉強しなくちゃいけない教科書ではない! 一般に牢獄でかかれた手紙は、大切にされるべきものですが、パウロが牢獄で書いたピレモンへの手紙は、特別に重要な意味を持っています。聖霊は多くの手紙を守って下さっただけではなく、この本当に小さな手紙をもお守りくださいました。 ですからこの小さな手紙は、私たちすべての者のために、極めて価値のある内容を持っているに違いない。ある意味においてこの小さな手紙は、主の愛のまことの意味、主の愛のまことの愛を指し示す、一種のたとえ話のようなものです。 そして今日最も大切なことは、まことの神さまの愛の意味を知ること。信仰者は絶えず激しい攻撃に直面しますし、それらの問題に打ち勝つことができるのは、ただ主なる神さまの愛によってだけです。 ですから非常に大切なのは、私たちがいかに深く愛されているか、ということを思い起こすことであります。まさにこれこそ、ピレモンへの手紙の言わんとしている主な内容であります。 主の愛とは、まことの愛とは一体どう言うものなのでありましょうか。 まず言えることは、まことの愛は、痛みをともに分かち合うものであります。そもそも、パウロが親しい友達でもあるピレモンに、手紙を書くようになったきっかけは、オネシモという人が原因でした。 このオネシモという者は、ピレモンの買った奴隷でしたが、自由になることになって自分勝手な行動を取り、しかも捕まえられないように、当時の大都市ローマまでに逃げ込んでしまったのです。結局姿を隠そうとしてしまったのです。隠すものは成功しない。 どのようにしたか詳しいことは知りませんが、オネシモがパウロと知り合うようになり、パウロから福音を聞いたことによって、罪を悔い改めて、イエス様を信じ受け入れられるようになったのです。 そしてパウロは、オネシモの主人であるピレモンのところに、オネシモを返すことになるのですが、その際1通の手紙を書いて、ピレモンに手渡すようオネシモに持って行かせました。その手紙の中でパウロはオネシモのことを、「彼は私の心そのものです。」と表現しています。 彼は私の心そのものです。パウロによって、数えきれない大勢の人が信仰に導き入れられたことは、疑う余地はないけど、またパウロがそれらのすべての人々を、心から愛したということも明かです。 けどパウロは、このオネシモのことを特別な強い表現でもって、オネシモに対する深い愛を表しています。彼は私の心そのものであると。 どうしてオネシモはパウロにとってそんなに大切だったのでしょうか? このオネシモに対する答えは、オネシモが悔い改めに導かれたのか、という事情の中に見出されるように思わされます。10節を見ると、獄中で産んだわが子オネシモのことをあなたにお願いしたいのです。と、パウロは書き記したのです。 多くのほかの人達は、パウロのメッセージ、あるいは証し、あるいは旅行などを通して主に出会い、生まれ変わりましたが、けどもオネシモは、鎖につながれている時に新しく生まれ変わりました。オネシモが新しく生まれ変わったのは、パウロの獄中での試練とつながった直接の結果でした。 したがって、別の言葉で言い表わすならば、パウロの苦しみの結果が、オネシモの救い、オネシモの永遠の幸せに他ならなかったのです。 痛みをともに分かち合うとき、愛は最も強いものとなります。 創世記の3章の18節に書かれてありますけれども、紀元前何世紀という時代に、ベツレヘムの近くで一人の男の子が産まれました。 しかしその時の状況は、まさに悲劇としか呼びようのないほどの悲惨なものでした。その子の母親は、大変な苦しみの後でその子を産んだのですが、自分のいのちを失うという、大変な代価を支払わなければならなかったんです。そして母親は、死の床で、産まれた男の子の名前を「ベンノーミ」、すなわち私の苦しみの子と呼びました。 しかしながら、その子の父親であるやコブは、そのことのために絶望の状態に置かれながら、その男の子の名前を「ベンヤミン」、すなわち「右手の子」という名前に変えました。 ちょうど右の手が大切なものであるように、新しく産まれた子も、かけがえのない大切なものとして父親は慈しみました。これこそが、信ずるもののまことの大切な経験なのではないでしょうか。 主イエス様は、十字架につけられて大変な苦しみを経験されましたので、その苦しみの結果として、私たちを新しく生まれ変えらせてくださったのです。 私たちが変えられたのは、自分たちの努力の結果ではなく、主の御苦しみの結果に他ならなかったのです。イエス様は、私たちのために苦しまれましたので、私たちを大いに愛してくださるのです。 イエス様にとって私たちは、苦しみの子でありながら、イエス様は私たちを愛してくださったのです。 イザヤ書43:24-25
もう1箇所、 エペソ人への手紙2:1
そして4節。 エペソ人への手紙2:4-5
私たち自身は、価値のないものでありましょうけど、私たちは非常に大きな代価を支払われて買い取られたものです。 オネシモは、ローマからコロサイへの旅の途中で、しばしば元気を失い迷ったことでありましょう。しかしながら、彼の携えていく手紙の内容を思うことによって、再び勇気と力とを奮い起こさせられたはずです。 オネシモを送り出したパウロが、単なる同情によってではなく、主の深い愛をもって愛してくれているということを思い出す時、オネシモは新しい力と勇気を与えられました。 私たちも、人生の旅の途中でいろいろな経験をしますけど、私たちは1通の手紙よりも沢山の手紙、すなわち聖書全体を持ってるのです。 そしてこの聖書は、私たちが主によって愛されてる、イエス様を通して大いに愛されてるということを、保証してくれます。ちょうど、パウロがオネシモのことを、私の心そのものであると言ったように、私たちも主なる神さまの心そのものであると言うことを確信しようではないでしょうか。 一人一人は主の心そのものであるということは、確かに考えられない、けども動かすことのできない事実そのものです。これこそが、まことの礼拝の根拠ではないでしょうか。 1番目。主の愛は痛みをともに分かち合うものであります。 2番目。主の愛は債務を支払うものです。 オネシモの大きな問題の一つは、ピレモンに対する負債を、どのように支払うべきかということでした。一般に考えられたことは、オネシモがピレモンのものを泥棒したということです。 その当時、奴隷は主人から逃げると、捕まった時に死刑に処せられました。ましてや、主人のものを泥棒して逃げた場合には、どんなにひどい目にあうか想像がつくでしょう。もう絶望的です。 ピレモンへの手紙1:18
この表現は穏やかな表現ですが、オネシモのしたことは、ピレモンの持ち物を盗んだことに相違ありません。そうでなかったならば、オネシモはローマまで行けなかったことでしょう。 ただで行くことができなかったし、やっぱりお金が必要だったのです。結局オネシモは、背負いきれないほどの債務を背負っていたはずです。 まことの愛は不注意であったり、いい加減であったりすることはできません。パウロは、ピレモンにオネシモがしたことを忘れるようにとは言わなかったのです。パウロがしたことは、オネシモの負債を無視したり割引したりすることではなく、自分で完全な責任を取ろうとしたことでした。 「その請求は私にしてください。」という、パウロの言葉を手紙で見たとき、オネシモの心は何と慰められたことでしょうか。 ピレモンへの手紙1:19
と。 他の手紙は、パウロは書かなかったのです。彼はずっと病気でした。目が不自由だったんです。ですから、いつも他の人に書いてもらったんです。一番最後に、大きな字で自分の名前を書くことができたくらいです。 けれどここで彼は、この手紙を自分で書いちゃったんです。何があっても、いくら苦労してもかまわない。私がそれを支払います。たとえ、そのように親しい友達同志であっても、パウロはこの大切なことをいい加減にすることはできず、次のようにはっきりとした態度をとったのです。 私、パウロが自分の手で書いています、と。 オネシモの負債が大きなものであったとしたならば、主に対する債務はどれほど大きなものでしょうか。私たちはどれほど主を悲しませているものでしょうか。 パウロの手紙には、「もしも」という言葉が使われていますが、われわれの場合には、決してもしもという言葉はありません。なぜなら、私たちは主に対して「罪」という負債を持っているからです。 そしてその負債が、どんなことをしても私たちの力では払うことのできない大きなものです。 その請求は私にしてください、という真心からの愛を持った人の、素晴らしい言葉に耳を傾けてみましょう。 『これこそ福音の真髄です。』 |