愛されている幸せ


ベック兄

(御代田喜びの集い、2009/08/16)

引用聖句:ユダの手紙1章1節-3節、20節-25節
1イエス・キリストのしもべであり、ヤコブの兄弟であるユダから、父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。
2どうか、あわれみと平安と愛が、あなたがたの上に、ますます豊かにされますように。
3愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
20しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。
22疑いを抱く人々をあわれみ、
23火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。
24あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
25すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

何年前だったかもう忘れましたけど、おそらく20年くらい前でしょうか、自分の産まれた西ドイツの町へ行きまして、それから有名な磁器の店に行きました。
その時、店の宣伝文句が目に入りました。一言が私の記憶に残りました。「自然と共に生きる幸せ。」と言う宣伝文句でした。
もちろん自然の美しさを認識し、それを喜ぶことも一つの幸せでしょう。けれども、主なる神のみことばによって我々に提供されているものは、比較にならない程大きな価値を持っています。

だから今日は、ユダの手紙、おもに20節から23節までを一緒に考えてみたいと思います。
この手紙を書いたのは、イエス様の肉の弟でした。初代教会の中の非常に用いられた器でした。
今日の題名は、「自然と共に生きる幸せ」じゃなくて、「愛されてる幸せ」と言うものです。

21節「神の愛のうちに自分自身を保ち」なさいと言うみことばが、中心になるみことばです。
いわゆる救われていない人々に対する要求は、悔い改めて信じなさい。正直に、素直になりなさい。主の前にへりくだれば十分だよ。
信じる者に対する要求は、今の箇所を見てもわかります。次のようなものでしょう。

1:築きあげなさい。霊的な成長の要求でしょう。
2:祈りなさい。すなわち主との結びつきの要求であります。
3:待ち望みなさい。すなわち再臨に対する備えの要求です。
4:救いなさい。意味は、燃えている愛の要求です。
5:憎みなさい。妥協のない態度の要求です。

この20節から23節において、救われた兄弟姉妹へいろいろなことが要求されています。ここで、私たちは間違いのない警告を与えられています。私たちは、何をなすべきでしょうか。主は、我々から何を期待しているのでしょうか。
ユダは3節の中で、ともに受けている救いについて述べています。罪の赦しを確信し、主のものとなっているすべての人は当然のことながら、全身全霊を持って主を愛すべきです。
けれども、ユダの手紙の中で与えられているものはまず第一に、主に対する我々の愛が中心になるのではなくて、我々ひとりひとりに対する主の愛です。ですから21節に書いています。

ユダの手紙1:21
21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

このみことばは、主の愛のうちに私たちが置かれているということ、すなわち、いつも主の愛に守られているということを意味しています。
主に愛されているということは最大の幸せです。けれども、自己追求によって盲目にならないように、また不従順や、恐れや心配によって罪を犯さないように、注意してください。
イエス様との交わりを妨げるすべてのものを、避けなさい。イエス様は、私たちを愛しておられるということを、絶えず覚えながら生活しなさい。

愛されている幸せとは、光の中に生きる幸せをも意味しています。絶えず光のうちに生きることは可能でしょうか。
絶えず、そのことを意識しながら、私たちは、主が私たちを愛しておられるということを意識しながら、生きることは可能なのでしょうか。
はい、それは可能ですと、聖書はっきりと答えています。

ユダの手紙の中には、二度、守られていると言う言葉が出て来ます。
最初の1節では、あらゆる信者が、父なる神によって愛されていることだけではなく、イエス様によって守られているということが記されています。
そして24節でももう一度、イエス様が大いなる守り人であること。すなわち主が、あらゆる信者をつまずかないように守ることができ、傷のない者として大きな喜びをもって栄光の御前に立たせて下さると書かれています。

手紙の最初の1節で、守られていることについて語られ、手紙の終わりの24節でも、守られていることについて語られています。
わたしたちは、イエス様のうちに守られており、イエス様ご自身が大いなる守り手ですから、神の愛のうちに自分自身を保ちなさいと要請されるのです。
私たちが、これほど愛されていることを一瞬たりとも忘れてはならないと言うのが、主の命令です。けれども、このことは、どのようにして実践されるのでしょうかね。20節から23節のみことばは、5つの前提条件について語っています。すなわち、

1:築きあげなさい。築き上げるとは、霊的な成熟をすると言う目標を持って生きることです。すなわち、霊的な成熟が要求されています。
2:祈りなさい。祈ることは意識的にイエス様に依り頼んで生きることです。絶えず御座についておられるお方と結びついていることが要求されています。
3:待ち望みなさい。待ち望むことは、主の再臨を喜びながら生きることです。間もなくイエス様が、再臨なさることを通して、心の備えをすることが要求されています。
4:救いなさい。救うとは、失われている魂の救いのために生きることです。主なる神の愛の対象である失われた魂の救いのために、燃えている愛が要求されています。
5:憎みなさい。忌み嫌うとは妥協のない態度で生きることです。聖なる憎しみが、要求されています。

それでは、もう少し詳しく順を追ってみていきたいと思います。
まず、築き上げなさい。築き上げると言う点について、ちょっと考えたいと思います。もう一回、20節を読みます。

ユダの手紙1:20
20しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、

別の言葉で表現すると、霊的な成長をすると言う目標を持って生きていきなさいということになります。霊的な成長が要求されているからです。
私たちは、どのようにして、自分自身を築き上げるべきなのでしょうか。なぜ、私たちは自分自身を築き上げるべきなのでしょうか。
その答えは、ペテロの手紙第II、3章18節に書かれています。

ペテロの手紙第II、3:18
18私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。このキリストに、栄光が、今も永遠の日に至るまでもありますように。アーメン。

聖書は、信仰に導かれた者に対して何度も何度も、彼らが成長すべきことを要求します。霊的に、未熟な状態に留まってはなりません。霊的に前進しなさい。イエス様をさらによりよく知ることができますように。
主なる神の家族に属することは確かに素晴らしいことです。けれども信者が霊的に成長せずに未熟な状態に留まるならば、それは、悲劇的なことです。
こう言う霊的に不完全な者は、主の働きに対する大きな妨げです。

最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさい。みことばは、築き上げることが大切であることを指摘しています。
ちょうど、建物の場合においても、一つ一つの石を積み上げていくことによって、最後に建物全部が完成します。それと同じように、私たちもまた、イエス様をよりよく知り、さらにいっそう主に似た者になることによって成長すべきです。
確かに多くの人は、基礎だけを持っています。この基礎がどれほど大切であっても、その基礎だけでは生きていけません。多くの人は、一階だけを建ててそれ以上は先に進みません。けれども、その上に屋根がなかったら、雨風から守ることができないのは当然です。

そのような中途半端な建築は皆の笑いものとなり、中途半端なキリスト者も、主の御名が崇められるところとはなり得ません。
コリントには、確かに始められた状態のままに留まってしまった信徒がいました。
パウロは、彼らに心の痛みをもって書いたのです。コリント人への手紙第I、3章1節

コリント人への手紙第I、3:1
1さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

私たちはまだ赤ちゃんなのでしょうか。まだ、なかなか成長しない霊的に不完全な者なのでしょうか。あるいは、霊的に大人になっているのでしょうか。最も、聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいと。
けれども、信仰の基礎はみことばです。聖書です。どのようにすれば、私たちは自分自身を築き上げ、霊的に前進することができるのでしょうか。主のみことばによってです。
主は、みことばを通して私たちに語りかけることができ、そのみことばに私たちが従う時、霊的な成長はすみやかに行われます。

私たちの自分の全生涯、自分の考え、自分の行為の土台が主のみことばであるならば、私たちは主をよりよく知ることができるのです。
我々の友情、我々の結婚生活、私たちの仕事すべてが、主のみことばの上に築き上げられるべきです。そうすれば、私たちは主にあって、そして、主の強さの力によって、強くなることができます。
そうすれば、私たちは主に愛されている幸せについて、何かを経験します。

霊的に成長すると言う目標をもって歩みましょう。
それこそ、我々の切なる願いでなければならないのではないでしょうか。
私たちは、イエス様を信じる者として、もう一度初めから人生をやり直すことができるならば、すべてのこと、これまでと違ったやり方で行うのではないでしょうか。

疑いもなく私たちは皆、主のみことばと主の御約束に立っているでしょう。
毎朝、静かな時を持つこと、飢え乾きを持って主のみことばを読むことと祈ることは、霊的な成長にとって、どうしても必要なことです。このような静かな時を持たず、なんとかなると思う人は、盲目となり脇道へ行ってしまいます。
どうか、毎朝、主のみことばを読み、みことばを通して、主に語って頂く時を、もちましょう。

愛されている幸せについて語ると、それは朝の静かな時と関連しています。主によって愛されたいと思うなら、主のみことばの方向によって、豊かな恵みを受け取る必要があります。

ユダの手紙1:20
20聖霊によって祈り、

すなわち祈るとは、意識的に主に依り頼んで生きることです。御座についておられる方と、絶えず結びついていることが要求されます。
確かに、祈りには二種類の祈りがあるでしょう。まず、自分の願望や関心事を言い表す祈り。それから、聖霊と願望と関心事を内容として持つ祈りです。
ヤコブの手紙の中で、よく知られている箇所ですけど、つぎのように書かれています。5章16節。

ヤコブの手紙5:16
16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

すなわち御霊による真の祈りは、働くと大きな力があります。すなわち御霊による真の祈りは奇蹟をもたらします。
まことの祈りは、聖霊によって与えられた祈りです。そのような祈りは、従って、主なる神の御座から来て、再び主の御座にもどります。ですから御霊によって祈りなさいと、主なる神は命令なさるのです。
聖霊によって祈る信者は、主の御座に座しておられる主と結びついています。聖霊によって祈る信者は意識的に、主に依り頼もうとします。

キリスト者にとっては、これほど価値のある大切なものは、ほかにはありません。いかなる犠牲を払っても、引き上げられたイエス様との日々の絶えざる交わりが、我々の人生の特徴とならなければなりません。
主ご自身との絶えざる交わりほど大切なものはほかにはない。光の中を歩む者は、主との交わりを喜ぶことができ、主に愛されている幸せを経験します。
祈りつつ、絶えず主にだけ依り頼みましょう。たとえ私たちがどこに居ようと、何が我々を動かそうとも、我々は常に主の御許に行くことができます。

イエス様の所で、私たちは重荷を下ろすことができます。なぜなら、イエス様は、我々のために心配して配慮してくださると、約束しておられるからです。
祈りつつ、主に頼頼むことは、聖霊によって可能となります。
ローマ人への手紙8章、よく知られている箇所ですが、もう一回お読みします。祈りについて、考えるとき絶えず覚えるべき箇所です。

ローマ人への手紙8:26-27
26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

パウロは、「弱い私たち」と言ったのです。大切なのは主の働きであり、主の働きは常に信者たちの祈りに対する答えであり、したがって要求されているのは聖霊による祈りです。
主は、祈りに対する答えとして働いてくださいます。それですから、主の前に立ち続け、主から大いなることを期待することほど必要なものはありません。
主との絶えざる接触は、何物によっても代えられません。意識的にイエス様に依り頼みたいと言う意欲は、私たちが、聖霊によって祈り主が答え祝福し、主に愛されている幸せを経験するためです。

三番目、待ち望みなさい。
ユダの手紙にもどって、21節ですね。

ユダの手紙1:21
21私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

すなわち、主の再臨を喜びつつ生活しなさい。やがて、行われるイエス様の再臨に対して、心の備えをすることが要求されています。
主の再臨が近いということを喜びつつ、生き生きとした信仰生活を送っている信者がきわめて少ないという事実に、しばしば驚かされます。
主は今日来られるかもしれない。今日は、この地上での最後の日となるかもしれない。そう言う思いをもって今朝起きた人は、我々の中にいるのでしょうか。もちろん本当に生まれ変わった人は皆、イエス様の再臨を信じます。疑いません。

それが、旧約聖書と新約聖書にはっきりと預言されているからです。
この小さなユダの手紙だけでも、主の再臨について何度も言及されています。ユダの手紙の全体は、この主の再臨を待ち望む気持ちで書かれました。
イエス様が、はっきり再臨を約束なさいました。たとえば、ヨハネの福音書14章3節です。いわゆるイエス様の別れの言葉でした。

ヨハネの福音書14:3
3わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

イエス様が弟子達の前で、天に昇られた時、その後、見送っている弟子達に天使が言いました。

使徒の働き1:11
11そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

それから私たちは、新約聖書のいろいろな手紙の中に、主の再臨が指摘されていることを知っています。イエス様が、再び来られるということは、きわめて確実なことです。
しかし問題は、主の再臨を待ち望みつつ生活しているかどうかです。
ただ単に再臨を信じるだけではなく、日々主の再臨を待ち望みつつ生きることが、大切です。

私たちは二、三日、自分のところに泊まりたいと言う特別なお客さんが来るのを待つ時、特別な準備を行います。きれいに掃除をしたり、買い物に行ったりして、準備することでしょう。
けれども、私たちは大宇宙を造り、代価を払って贖ってくださったイエス様を待ち望んでいるのです。
もしも、主が明日いらっしゃるということがわければ、最近出した手紙の内容を書き直したり、悪口言われて興奮したのとは違った反応を示したことでしょう。ヨハネはヨハネの手紙第Iの中で次のように書いたのです。

ヨハネの手紙第I、3:3
3キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

別の言葉で表現すれば、私たちは主の再臨を意識しつつ待ち望んで生活しているならば、もっと注意深くなり、光の中を歩むでしょう。
けれども、光のうちに歩む人生とか、日々清められる人生と言うのは、自己中心の人生、自分だけを考える人生ではないのでしょうかと多くの人は尋ねるかも知れません。
その答えは、ユダの手紙22節、23節の中に見いだされます。

ユダの手紙1:22-23
22疑いを抱く人々をあわれみ、
23火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながらあわれみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。

もっと簡単に表現すると、4番目です。「救い出しなさい。」、あるいは、失われている魂の救いのために行きなさい。
主の愛の対象である失われた魂の救いのために、燃えている愛が要求されています。
私たちは、主に愛されていることを意識しつつ生きるとき、そして光の中を歩むならば、ほかの人々も主の愛を経験し、闇から光へと移されあらゆる束縛から主の解放へと移されることが、我々の関心事となります。

救いなさいと、主は命令しておられます。失われている魂の救いのために行きなさい。そのためには、何が必要なのでしょう。三つのことが必要でしょうね。
第一は、内面的に心を動かされることです。第二は、霊的な識別能力です。第三番目は、大いなる緊急性、切迫性であります。
まず第一は、私たちが主のために魂を獲得したいと思うならば、内面的に心を動かされることが必要です。イエス様について、次のように書き記されています。

マタイの福音書9:36
36また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

私たちは、正直に自らに尋ねてみましょう。私たちが、心の支えもなく、生き甲斐も人生の目標もなく、平和と、真の喜びのない人たちを見る時、そしてまた羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れている人を見るとき、私たちもまた心を動かされるのでしょうか。
あるいは、ルカの福音書の10章に書かれている祭祀やレビ人のように、彼らに無関心に通り過ぎて行くのでしょうか。
苦しんでいる人間は、私たちをあらゆる静けさから、目覚めさせざるを得ないはずです。目を開けて、倒れ略奪され襲われた者、もう自分の力ではなんにもできない人々のために、助けてあげる備えのあるサマリヤ人のような人たちが、求められています。

現代人もまた自分の務めている会社が倒産し、どうして良いか途方に暮れている人や、情欲の虜になって泥沼に入り込んでしまい絶望的な状態に陥っている人も少なくありません。
そう言う人々の永遠の救いのために祈り続けないことは、罪です。

さらに必要な二番目のことは、霊的な識別能力です。
私たちは、何をどのようにしたら良いかを知るために、どうしても主に用いてもらわなければなりません。敏感な判断力と、識別能力が、どうしても必要です。
このユダの手紙の22節、23節によると、ひとつの区別がなされなければなりません。

ある人々が、債務が贖われなければならないこと、主は罪を罰しなければならないこと、身代りのイエス様のなしに生ける神の御手に陥ることが恐ろしいことを知らせなければなりません。
悔い改めのない信仰は、決して十分ではない。そして別の人たちは、主の大いなる愛、主の計り知れない憐れみについて、知らせなければなりません。
わたしたち、ひとりひとりが、どのように語るべきであるかを知るために、どうしても、主の霊に導いて頂かなければならないのです。私たちは、人間を主に導きたいと思うなら、今まで考えたように深く心を動かされること、正しい霊的な識別能力を必要とするのです。

もう一つ、私たちは大いなる緊急性、切迫性を必要とします。
主のしもべであるユダは、人々を火の中から掴みだして救うべきであると言っています。魂を獲得することは、最も緊急を要する使命です。
人は地獄に行かないように救われるべきです。ここでは、世界観や宗教性ではなくて、永遠の救いか永遠の滅びかが問題となります。

私たちは、主に愛されている幸せを毎日経験しているならば、もはや、まだ救われていない大勢の人々に対して無関心でいることはできません。
イエス様によって愛されたパウロは、次のように証ししました。

コリント人への手紙第I、9:16、22
16というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。
22弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。

ユダは、当時の兄弟姉妹に書き送ったのです。「神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。」、すなわち、イエス様に愛されている幸いを、大いに喜び味わいなさい。

最後に、短く第五番目の点について考えましょう。
肉によって汚されたその下着さえも忌み嫌いなさいとあります。別の言葉で表現するならば、妥協のない態度で生活しなさい。
聖なる憎しみが、要求されています。あらゆる罪深さ、不純、曖昧なことは避けられなければなりません。

あなたがマントを着て、その時にそのマントが恐ろしい伝染病の持ち主のものだということを知っているのだと言われた時のことを考えてみなさい。あなたは、驚いてそのマントを脱ぎ捨てるでしょう。
もし、私たちが、罪に対しても同じ態度をとることができれば幸いです。
ちょうど、ヨセフがしたように、驚いて逃げ出すべきです。

ヨセフは、どうしてそのような大きな罪を犯して私の神を汚すことができるでしょうかと言いました。
私たちが見たり聞いたり手にしたりすることがたくさんありますが、それらのものは、私たちを主から引き離そうとすることが少なくありません。
そう言う時には、はっきりとした妥協しない態度をとることが大切です。多くの信者はそれをしないので、愛されている幸せについて、何も知りません。パウロは、主の救いに預かった人々に対して、真剣に呼びかけています。

コリント人への手紙第II、7:1
1愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

私たちは、自発的に断固としてこの妥協のない態度をとる時にのみ、光のうちを歩み、主の全き愛を経験することができるのです。
アメリカに大金持ちが素晴らしい家を買いました。それは、めったにない家で、家全体が回転するので、持ち主は一日中、部屋の中で、太陽光線をあびることができるのです。
絶えず光のうちを歩むことは、如何にして可能なのでしょうかね?そして、また主に愛されている幸せをますます経験することは、如何にして可能なのでしょうか?

私たちは、それに対して5つの答えを出して、それについて考えてきました。
すなわち、築き上げ、祈り、待ち望み、救い、忌み嫌うことです。
すなわち霊的に成長する目標を持って生きること。意識的にイエス様にのみ依り頼んで生きること。主の再臨を喜びながら待って生きること。失われている魂の救いのために、生きること。妥協しない態度で生きることです。

前に紹介したことがありますが、もう一回紹介します。ドイツの歌なのです。非常に考えるべき歌です。

「恵みの時は、終わりに近づいている。
広い世界に、静かに終わりの日が近づいている。
遠い砂漠の底から不安な叫びが聞こえてくる。

私たちの真っ暗な夜には、決して光が差し込まない。
私たちを照らす神の恵み無くしては、私たちは、苦しみと闇の中
暗い道を行かなければならない。永遠に、永遠に。

あなたがたは歌い喜びに満ちている。自分は神の子であると言う。
私たちは、死のいけにえであり、恐怖に満ち、
ひどい苦しみに満ちている。

あなたがたは、なぜ立ち止まっていて、
夜の始まる今、私たちを救おうとしないのか。

あなたがたは、神様がそのひとり子を遣わして
自分たちを愛していることを教えないのか。
あなた達のおかげで、私たちは、それを知らずに
希望無く滅びゆくのだ。

私たちは死ぬために生まれたのであり、
死は、永遠から永遠に至る私たちの運命なのだろうか。

私たちには星が輝かない。
約束の光も照らされない。
遠くの方に、砂漠の雷が聞こえる。

なぜ、あなたがたは急がないのか。
神は、行って全世界に十字架を宣べ伝えよと言っているのに。

あなたがたは、私たちの哀れな心のために
喜ばしき知らせを持っているのに。

傷を癒す薬を、
苦痛を永遠に癒す薬を持っているのに。
なぜ、そんなに長く沈黙しているのか。

あなた達の信仰の岩に至る道を、
示す言葉を私たちに、
聞かせてください。

私たちの涙をぬぐってください。
私たちが死につくのも、あなたがたのせいです。

私たちの罪は、私たちを悩ませ
夜が近づいています。
私たちは、私たちの魂を
サタンの力に預けなければならない。
永遠に、永遠に。

遠くの国々から幾百万と言う人が
収穫の主よ。聞きたまえと呼ぶ。
私たち信者に新しい恵みを与えて下さい。
私たちの罪を赦してください。
待ちこがれている魂の所へ、
十字架の言葉を運ぶ者となさしめ賜え。
彼らが永遠に滅びないように。」

そのために毎週言っているのですけど、集会の本をひとに渡すことは助けになります。
主は、必ず用いてくださるからです。




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