引用聖句:申命記31章7節-8節
サムエル記第I、14:6
歴代誌第II、20:17、20-22
聖書の御言葉の中で、一つの大切な言葉があります。どういう言葉かと言いますと、「今日」という言葉です。 過ぎ去った昨日も、また明日のこともそんなに大切ではないと思います。大切なのは今日です。今日、もし御声を聞くならば、心を頑なにしてはならない。旧約聖書にも、新約聖書にも出てくる言葉です。 大切なのは今日です。従って、我々にとってどうしても大切なのは、聞く耳を持つことです。主よ、何も知りません。どうしたら良いかわからないけど、よろしくお導きになってください。この態度があれば、主は大いに祝福してくださいます。 今読んでもらいました箇所の中で、主に、聞く耳を持つ3人についての箇所です。ヨシュア、ヨナタン、そしてヨシャパテでした。 3人ともは、結局戦いの中に投げ込まれた人々でした。 けれども、彼らは聞く耳を持つようになったから、元気になったばかりではなく、勝利を得た人々でした。 主はヨシュアに、強くあれ、雄々しくあれ、主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたと共におられる。主はあなたを見放さず見捨てない、恐れてはならない、おののいてはならない。 彼は、この言葉を聞いた時、うれしくなったでしょう。主が、共におられれば、もう問題はない。 もちろんこの言葉は、ヨシュアに与えられた言葉だけではなくて、我々一人一人にも与えられている言葉です。 ヨナタンに言われた言葉も、素晴らしい言葉です。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、どんな問題があっても主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。 主を仰ぎ見るとやっぱり、誰でもが元気になります。そして、ヨシャパテも結局、聞く耳を持っていたから主の声を聞くことができたのです。 恐れてはならない。気落ちしてはならない。主は、あなたがたと共にいる。結局、ヨシュアも、ヨナタンも、ヨシャパテも、戦いの中に投げ込まれた人々でした。けれども、聞く耳を持つようになったから、もう主は生きておられる。主は、戦っていて下さると確信を持つことができたのです。 結局、預言者、すなわち預言者の宣べ伝える言葉を信じ頼りなさい、勝利を得なさいと命令されています。人間の力で、もちろん無理なのです。結局、イスラエルの民は、我々の主は生きておられると喜んで宣べ伝えることができたのです。 そして彼らは、どういうふうに勝利を得たかと言いますと、彼らが喜びの声、賛美の声をあげはじめた時、主は奇蹟をなして下さいました。 3人ともは、聞く耳を持っていたから、主の偉大さを知るようになっただけではなくて、主はいつも近くにおられる。祈りを聞いて下さると確信したのであります。そして3人の信仰生活の特徴になるものとは、主に対する愛だったのではないでしょうか。 ソロモンという世界一の王様について、聖書は簡単に報告しています。ソロモンは、主を愛した。おわり。 もし、私たち一人一人に対して同じことをいうことができれば、すごいなのではないでしょうか。あの兄弟、この姉妹は、主を愛している。そう言えるなのでしょうか? 初代教会の人々も確かに戦いの中に投げ込まれました。そしてペテロは、彼らについてすごいことを言ったのです。 ペテロの手紙第I、1:8
初代教会の人々とは、どうしてそんなに恵まれた祝福され、用いられたかと言いますと、彼らは主を愛したからです。 主を信じただけじゃないよ。悪魔も主を信じてるよ。悪魔も悪霊も、主の存在を疑ったことがない。1秒も。信ぜざるを得ない。本当だからです。 けれども、大切なのは、主の存在を認めることだけじゃないんです。主を知ること。結果として、主を愛することではないでしょうか。 主は愛そのものです。私たちはその事実について考えると、ちょっとピンと来ないけど、うれしくなります。礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。 この愛の証拠なるものは、今朝の礼拝の兄弟たちの祈りの中でもよく出て来たでしょう。すなわちこの愛の証拠なるものとは、この罪にまみれた世界に送られ、死に渡された主イエス様です。 この愛を経験した人は、確かに多いに喜ぶことができるし、主を礼拝せざるを得ないのであります。 けれども今朝、ちょっと話したいこととは、主のわれわれに対する愛についてよりも、我々の主に対する態度についてです。 すなわち今日、来られた一人一人についても、彼は、彼女は、主を愛していると言えるかどうかは、問題です。 一番大切なのはなんでしょうかね?絶えず考えることです。一番、大切なのは何か?当然です。一番大切なことを知ること。それから一番大切なことをすることなのではないでしょうか。 ある比較的立派な生活をしていた男でしょう。当時の聖書学者です。彼は、イエス様の所へ行ったのです。「先生!大切な戒めは、なんでしょうかね?」 彼は聞いたんですけど、聞く耳がなかったのです。気の毒な男でした。 マタイの福音書からちょっと見てみましょう。 マタイの福音書22:32-33
群衆は、驚いただけなんです。「悔い改めた」と書いていないのです。 マタイの福音書22:34-40
彼らは、ずるいよ、教えてと言ったけど、本当は聞く耳がなかったのです。イエス様をためそうとして聞いただけなんです。 「私は、救われるためには、どうしたらいいの?」ではなかったのです。残念です。 「先生」というのも偽善的な態度でした。教えてください、導いてくださいの気持ちは全然なかったのです。 イエス様の答えは、短いけど簡単なわかりやすい答えでした。「主を、愛せよ。」聖書全体の一番大切な戒めとはそれなのです。 群衆は、イエス様の話しを聞いて驚いたと書いてあります。 けれども、イエス様は何かを教えようとはしなかったのです。 イエス様は、道しるべではなくて、道そのものです。イエス様は真理について語ったよりも、真理そのものです。イエス様は、いろいろなことを言われたとき、結局、自分自身を明らかにするだけです。 イエス様の教えたことは、ひとつの教えよりも、ひとるの呼びかけじゃないでしょうか。「おいで、待っているよ。疲れた人、孤独になった人、壁にぶつかった人は、おいでよ。私の所へ。」 イエス様はどうしてそういうふうに招いて下さるかと言いますと、イエス様の所へ行くと、愛されてることを知り、結果として、解放され大いに喜ぶことができるようになるからです。 当時の聖書学者は、聖書をよく勉強した人々でした。けれども、聖書のうわべだけの内容を信じただけです。 聖書の中心であるイエス様に対して、全く盲目な者でした。 一人の律法の専門家が、イエス様の所へ行って、教えてもらいたい、真理を明らかにしてもらいたいという気持ちではなく、イエス様を試す、イエス様をだめにしようと聞いただけだったのです。 主なる神は、人間がご自身を愛することを望んでおられます。これは、素晴らしい人間の使命なのではないでしょうか。 人間には、生きておられるまことの神と愛の関係を持つことが許されています。人間以外の被造物、たとえば天の天使たちのような被造物からは、主は別に愛を要求していません。ただ、人間からだけ愛を要求なさるのです。 主に仕える天使たちからは、主は絶対的な服従を要求なさいますけど、どうしようもないだめな人間からは、それ以上のことを求めておられます。すなわち、主は、我々によって愛されることを望んでおられます。 主を愛せよ。これは最大のそして一番大切な戒めです。主は、我々の二心なき愛を求めておられます。主は、真心からの愛を望んでおられます。今日です。 主は、私たちが愛しても、愛さなくてもかまわないと言うくらいに我々を自由勝手にされることをなさいません。愛することを、提案されているのではなくて、命令されています。 どうして?なぜならば、人間は、ただその時のみ、人生の満たし、完全な喜び、まことの自由を見いだすことができるからです。 主は、すべてのものを存在するようになさった、大いなる創造主です。この主は、私たちがそのことを信じようが信じまいが、そのことを認めようが認めまいが、一人一人の創造主でもあります。 けど、この大いなる創造主なる主は、同時に大いなる救い主でもあります。主は、人間一人一人に対して無関心ではありません。 一人一人はこの救い主によって、考えられない程愛されています。このことは、聖書の全く大いなる福音です。 聖書は、主が愛であると明言しています。別の言葉を用いるならば本当の愛は主からのものです。 主無き本当の愛は存在しません。誠の愛と主は、不可分のものです。主は、愛そのものです。 聖書は、神が愛を創造するとか愛を送るとか言っていません。神は、その愛をお示し下さったのです。 ヨハネの手紙第Iの手紙3章16節は、みんな暗記している言葉でしょう。 世界中で一番知られている素晴らしい箇所です。どうしてであるかと言いますと、全部、一文書にまとめられているからです。 ヨハネの手紙第I、3:16
体験的に神様の愛を知るようになりました。 主は、わたしたちのためにご自分の命をお捨てになったのです。 簡単に読めますけど、ちょっとつかめないし、理解できないし、どうしてか全くわからない。けれども事実です。 初代教会の多くの人々は、サウロによって迫害されました。このサウロという男は、長い間イエス様のことを憎み、信ずる者を迫害しました。 確かにどういう人も、彼を間違った道から引き戻すように説得することはできませんでした。けれども、彼はどういうふうにイエス様の熱心な伝道者、世界一のイエス様の紹介者になったのでしょうか? そのことを彼は、一つの文章で短く記しています。やっぱりよく知られている箇所です。ガラテヤ人への手紙2章20節です。 ガラテヤ人への手紙2:20
「私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子キリスト」と彼は、イエス様を呼ぶようになったのです。もう奇蹟そのものです。 私をも愛し、私のためにもご自身をお捨てになった神の御子キリスト。彼は、何を瞬間的にわかったかと言いますと、十字架につけられたキリストは犯罪人でもなく、詐欺師でもなく、うそつきでもなく、神の御子である。約束された救い主そのものです。 結局、サウロはわかったのです。十字架につけられたイエス様は復活なさり、今もなお生きていると。 生きるまことの神は、確かに人間になりました。 生きるまことの神は、私たちが受けなければならない罰を、いわゆる天罰をご自分の身に受けて下さいました。 主は、ご自身で我々の救いのために身代金を支払う備えをしたのです。 この愛そのものは、パウロを圧倒しました。この愛は、パウロの人生を根底から変えたのです。 価値観も生き方も、全部変わったのです。 この愛はパウロに迫り、パウロにすべてを放棄し犠牲にし、この愛を宣べ伝えることを要求しました。 十字架は、何を語っているのでしょうかね。私は、あなたの創造主であり、またあなたの救い主でもある。愛そのものである。私は自分自身を犠牲にし、苦しみの人、悲しみの人となり、呪われ罪とされ、救いの代価を支払ったと。 生けるまことの神が愛であり、ご自身を捧げて下さった故に、主は、愛されることを要求する権威を持っておられます。 生けるまことの神は、限界に至るまで愛してくださった故に、次のように命令なさるのです。すなわち、私は愛であるから、あなたもまた私を愛すべきであると。 次の声が現れてくるかもしれない。 つまり、いったい誰が主を愛することができるのでしょうということです。 答えは当然ですけれども、次のようなものでしょう。主を自分で経験した人だけ。 我々の中には、まだ主の愛を経験していない方々、そしてまだイエス様に出会っていない方々、さらに人生が絶望的な孤独によって特徴ずけられている方々がいらっしゃるかもしれない。だから願い求めることは、どうか主の愛を受けなさい。 主が与えたいと思っておられること。罪の赦し、心の平安、変わらない喜び、生き生きとした希望を、受けなさい。つまり大切なことは、キリスト教に入ることではない。 ある教会の会員になることでもない。洗礼を受けることでもない。より良い人間になるための努力でもありません。私たちが主の愛を経験すること、すなわち私たちが罪と債務を担う罪人として、イエス様の御許に行き、罪を赦して頂くことです。 人間の必要としているのは、一つの教え勉強し悟ることではない。主の愛を体験的に味わい知ることです。 だから聖書の中に何回も同じ言葉が出て来ます。心を尽くし、思いを尽くし知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ、これが大切な第一の戒めです。 けれども、正直な人は、みなわかるでしょう。すなわち自分の力では主の律法、主の戒めを守ろうとしても、うまくいかない。主の御許に近づき言うべきなのではないでしょうか。 「私は本当は守りたいけど、無理、できません。敗北者です。あなたが助けて下さらなければ全く不可能です。私のうちには、何一つ良いものが宿っていません。」 自分の力によっては、自己中心的な生活を送ることしかできません。自分が降参することを公にすることは、生まれつきの人間にとっては最も嫌なことです。 すべてのいわゆる宗教は、遙かに受け入れやすいものなのではないでしょうか。というのは、すべての宗教は、人間そのものを中心に置き、人間が努力することを要求するからです。 しかし、生けるまことの神は、人間が自分のだめな状態を認め降参することを公にし、砕かれることだけを望んでおられます。 イエス様を愛する者は、イエス様を中心にすえたいと願っています。イエス様を愛さない人は、自分が中心になりたいと思っています。 バプテスマのヨハネはイエス様を愛した男でした。彼は、イエス様は盛んになり、私は衰えるべきであると言ったのです。私は無視されてもどうでもいい。イエス様が中心になれば私は有り難い。うれしい。 彼はこういう態度をとったから、喜びを持って殉教の死をとげるようになったからである。イエス様に対する愛なしに、何かをすることは肉的に行動することを意味します。そして、肉からは自分からは何も良いものが出てきません。 一つのことは明らかです。すなわち人間そのものはダメです。自分のことしか考えられないからです。主を愛することはできません。 けれども、自分の債務を告白し、自分の無力さをもはや隠さずに、ありのままの状態でイエス様の御許に来る者は、次のことを経験します。 イエス様は、ご自身の御許に来るすべての人を受け入れてくださるということ。また、イエス様は、主に告白されるすべての債務を赦してくださるということ。そして、イエス様が内側から新しくして下さるということです。 ローマ人への手紙5:5
ローマ人への手紙5章5節は、考えられないほど大切な箇所です。動かすことのできない事実として述べられています。主ご自身の愛は、信じる者に与えられている。 だからできる。愛することができるのです。 人生のむなしさ、罪のどろ沼から解放されたダビデは、主を信じたよりも、主を愛したのです。彼は告白しました。 詩篇18:1-2
慕います=心から愛している。ダビデの心からの告白です。 ダビデは、いったいどうして主を愛したでしょうかね?なぜならば、彼の多くの罪を赦して頂いたからです。 彼は姦淫の罪を犯しました。そしてその罪を覆い隠すために、彼が親しい関係を持った婦人の夫を殺させてしまったのです。考えられないひどい男でした。 結局、この債務を解決しようとするあらゆる人間的な道は、新しい債務に導くだけでした。惨めさから脱出する道は、ただ一つしかない。 ダビデの子供であるソロモンは書いたのです。父親から聞いたでしょうし、自分でも経験したのでしょう。箴言の28篇の13節です。 箴言28:13
聖書全体の言わんとしていることは、全部ここに含まれているんじゃないの!ね。 聖書の中で、なかなか良い約束もある。けど、たいへんな約束もある。「隠す者は、成功しない。」たいへんですけど、本当なのです。 ヨハネの手紙第I、1章の9節も福音そのものです。 ヨハネの手紙第I、1:9
私たちは、未信者ではなく信ずる者のことです。どうしてでしょうか。答えは、7節です。 ヨハネの手紙第I、1:7
ダビデは、この道を行く覚悟をしました。 彼の告白は詩篇の中にあちこちに出てくるのです。一番よく知られている箇所は、たぶん、32篇の3節からでしょう。 詩篇32:3
「疲れた」、彼の挨拶はそういうものだったでしょう。あんまり働かなくても疲れた。 詩篇32:4-5
その結果として、ダビデは解放されました。次のように言い歓呼の声を上げることできたのです。1節と2節です。 詩篇32:1-2
2,600年前に、イザヤも結局同じ事実について書いたのであります。 主とはどういうお方であるか。主とは何を考えておられるのか。その問いに対する答えなのではないかと思います。 イザヤ書57:15
パウロも、結局同じ事実を経験する特権を預かるようになりました。パウロも、イエス様を真心から愛するようになりました。 「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子であるキリスト」と彼は言ったのです。 結局パウロは、この主の愛に圧倒されてしまったのです。キリストの愛が、私を取り囲んでいると証ししました。すなわち、私たちはイエス様の愛を経験し、喜びに満たされているから主に対するいかなることも喜び感謝せざるを得ません。 ローマの刑務所の中で彼は、いわゆる喜びの文、ピリピ人への手紙を書いたのです。 その中で、彼は告白しました。これも驚くべき証しです。 ピリピ人への手紙3:7
今までたくわえた聖書の知識も、損と思うようになりました。 ピリピ人への手紙3:8
パウロは、なぜ主を愛したのでしょう。真心から愛したのでしょうか。なぜなら、彼は多くのことを赦して頂いたからです。ダビデとパウロは、心から主を愛しました。だからこそ、彼らの生活は祝福の生涯でした。我々の場合は、どうでしょうかね。 心から主を愛さないことは、あらゆる悩みの原因です。私たちはもしかすると、初めの愛から離れちゃったかもしれない。 昔の、エペソの兄弟姉妹は模範的でした。パウロは彼らのことを考えた時、もう礼拝せざるを得なかったのです。けども、何十年後で、天にお帰りになった主は判断しました。ヨハネの黙示録2章の4節です。 ヨハネの黙示録2:4-5
もう用いられない。祝福され得ないということです。初めの愛から彼らは離れてしまった。 「初めの愛」とはなんでしょうかね?もちろんイエス様との交わりです。イエス様なしに何事も欲せず、イエス様なしに何事もなし得ない。そういうことです。 もし毎日毎日、御言葉が我々の力の泉、慰めのもととなり、喜びの源となっているならば、そして私たちの考えと行いの中心にイエス様がおいでになるならば、それこそが、私たちの初めの愛が保たれてることの証拠です。 これが、燭台がその場に置かれていることの大切な条件です。けれども、エペソにいる兄弟姉妹の心は、イエス様との親しい交わりの中にはなかったのです。 その結果は、主はもはや、私はあなたと共にいるということができず、私はあなたに対して対立する、あなたを用いられない、あなたを祝福できないと言わざるを得なかったのです。 外面的に見ると、エペソの教会の群れはすべてがうまくいったでしょう。けれども主は満足なさらなかったのです。熱心さがあったでしょう。困難に対する忍耐もあったでしょう。けれどもこれらのものも、初めの愛、イエス様に対する献身の代わりになるものではありません。 主は、まず何よりも我々の愛、我々の心をご自分のものにしたいと望んでおられます。イエス様にすべてを依り頼まない人は、初めの愛を捨てた人です。 かつては、エペソの教会の兄弟姉妹も、イエス様に憐れみを与えられ、受け入れられ、解放を与えられ、主に仕える者とされたことは考えられない程に、素晴らしいことでした。 けれども、このような恵みに対する驚きは次第に消えました。ですから、初めの愛を失うということは、決して愛を捨て去るということではなくて、愛を忘れ去るということです。 私たちは、エペソの信じる者の群れのように、初めの愛を忘れないように、忘れないために、確かに毎日曜日、確かに主の聖餐を守るようにしています。このことを通して、常に新たに主の苦しみと、死と、主の恵み、主の愛を思い起こそうとしているのであります。 常に主の恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から礼拝を捧げようとすべきです。 私たちは、毎日毎日主に聞くべきでしょうか。あなたは、私に対して、対立すべきものを持っておられるの?けれども、主の御前に静かな時を毎日持つことをしない人に対しては、主がその人について何を対立すべきものを持っておられるかそうか明らかになさることはできません。だから、今日、聞く耳を持つ者は心を頑なにしてはならないと、あります。 初めの愛の特徴はなんでしょうか。主の足下に静まることです。主よ、語ってください。僕は聞いております。主にすべてを明け渡すことです。主にだけ依り頼むことです。主の御心に従っていこうと熱心に祈り続けることです。 そして言うまでもなく、主と主の導きに信頼することです。 飢え乾きを持って、御言葉を読まない人は、主を本当に意味で愛していません。主よ語ってください、僕は聞いておりますと言う態度がなければ、主は語ることがないし、御心を明らかにすることもないし、ご自分の大いなる愛を示すことができません。 初めの愛は、イエス様を我々の中心に置かせます。 そしてこのことは、我々の過去に於ける一時的な事柄であてはならない。我々の全生涯を貫くことでなければなりません。 大切なのは、なんなのでしょう?すべての事柄がイエス様との交わりから生じているということです。 初めの愛のひとつの実例は、ルカの福音書10章に出てくるマリヤと言う女性です。 彼女は、すべてにまさって主イエス様を愛した方でした。イエス様の足下に座り、イエス様の御言葉に耳を傾けました。 彼女は、値高い香油を主に捧げました。自分を批評する人々のことは考えないで、イエス様の御心にかなうことだけを求めた者でした。パウロは、当時の信じる者に書き送ったのです。 コロサイ人への手紙3:23
もう一箇所 コリント人への手紙第II、5:9
初代教会の用いられた秘訣でした。「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」 初めの愛とは二心のないイエス様への愛であり、本当の謙遜であり、ただちに従うことであり、主の再臨を心から毎日、待ち望むことであり、兄弟姉妹に対して、真心からの愛を持つことです。 本当に私たちは、初めの愛を失ったのでしょうか。 イエス様を愛する者は、イエス様だけを依り頼みたいと願い、主にだけ全幅の信頼を置きたい、主の近くに居ることを願います。 いかなる代価を払っても、イエス様と交わりたいと望むのです。 イエス様だけを喜んでもらいたいと願っている者です。イエス様のために生きたいと望む者です。 まとめてみると、イエス様を愛する者は憐れみを受け、恵まれます。 イエス様を愛する者は守られ喜びに満たされます。 イエス様を愛する者は、心の目が開かれ導かれます。 この間も話したように、結局どうして私たちがイエス様を信じるようになったかというと、もちろん主が憐れんでくださったからです。 どうして主を信じるようになったかというと、結局用いられるためです。ある人々は、いや、ちょっと無理です、口べたです。何も出来ません。 ですから、集会の本をお取りになって配ってください。再臨まで、心を一つにしてイエス様を紹介しましょう。 口でできなくても、本くらい誰でも渡すことができるんじゃないか。捨てられるかもしれない。でも、今まで捨てられた本を見て導かれた人もいます。 本当に主は支配しておられます。期待を持ってイエス様に頼りましょう。 |