引用聖句:コリント人への手紙第I、16章21節-22節
主イエス様は、人にいろいろなこと聞こうとしなかったようです。けどある時、ペテロに向かって、「どう、ペテロ!私を愛するの?」と聞いたことがあります。最も、大切な質問なのではないでしょうか。 今読みました箇所は、非常に短い箇所です。ご存知のようにパウロは、自分の手紙を自分で書こうと思ってもできなかったようです。目が非常に不自由になったからです。この手紙も自分自身で書いたのではなく口述筆記されたものです。 けど、手紙の結びの言葉をパウロ自身が手ずから記したのです。おそらく、パウロは大きな字で自分の名前を書いたのではないでしょうか。最後に、どうしても言いたかったことをパウロは書き記したのです。 パウロは、イエス様を心から愛した者でした。そしてパウロの切なる願いは、コリントの信者たちもパウロと同じように心の底から主を愛するようになることでした。 主を愛さない者は誰でも呪われよ。すなわち聖書の下の欄外注に書いてあります、アナテマ。これは、ギリシャ語の言葉で、呪われることを意味します。 イエス様に対して冷たい思いしか抱くことができない人、また、無関心な人々、生ぬるい態度しか取らない人々こどが呪われよと、パウロは書いたのです。 呪われよとは、信ずる者のお互いの交わりからも追放されることでもありました。 パウロはここで、呪われよという内容について詳しく記していませんが、それは呪われよ、アナテマという言葉が何を意味しているかは当時の人々はよくわかったからです。 このアナテマという言葉を初めて使った人は、エノクだったそうです。エノクという男について聖書は多くのことを言っていません。6,000年前に生きた人だったのです。アダムからの7代目の人だったのです。創世記の5章22節、24節。ヘブル人への手紙11章5節の3カ所、エノクについて言っています。 創世記5:22、24
いわゆる空中再臨のようなものを体験したのは、このエノクなのです。ノアの洪水、裁きが来る前に彼は天に移されたのです。 ヘブル人への手紙11:5
彼はどうしてこのように素晴らしい経験をするようになったかの箇所です。彼は、人間ではなく主に喜ばれたいと心から願った男でした。 このエノクは、人間は自分自身の力によっては、決して癒され救われることは決してないと、知っているのです。 彼は、人生のまことの目的は、自分自身の意欲を達成することでも、文明と進歩でもなく、生ける神との交わりのうちに歩むことであると知っていたのです。 彼は主と共に歩むことを慕い求めており、その事によって、世の人々から変わり者と見られることを意に介しませんでした。彼は、いついかなる時も動揺することなく、主なる神に信頼して、より頼んでいましたから、後に来るノアの洪水という主からの裁きに、世の人々が会う前に天に上げられました。 エノクは信者同士の交わりの本当の意味を正しくわきまえて、その交わりを清く保つために力を尽くしたと言われています。 だから、彼は、主に対して中途半端な態度をとっている信者に対して、主を愛さない者は誰でも呪われよと語り、信者の交わりから追放されることを主張したのであります。 信じる者が、主に対してはっきりとした態度を取ることが求められています。私たちが、主イエス様に対して、どのような態度をとるかによって、私たちに祝福がもたらされるか、呪いがもたらされるかが決まります。 イエス様を愛する者は、祝福に続く祝福を与えられ、主を愛さない者は呪われる、すなわち祝福を断たれる。私達は、主によって祝福される者なのでしょうか?あるいは呪われる者なのでしょうか。 もちろん、呪われることとは地獄に行くことを意味しているのではない。ただ、祝福されないことです。けど、主の祝福がなければたいへんなのではないでしょうか。 ヨハネの福音書3:36
救われるか、救われないかの箇所です。信ずる者は、へりくだる者は救われます。頭を下げたくない人、正直になろうとしない人々はおしまいという箇所です。 神の怒りが上にとどまることは永遠の滅びを意味しています。呪われることは、永遠の滅びを意味しているのではない。ただ、祝福されない、用いられないことを意味しています。 永遠の滅びの恐ろしさとは、確かに考えられないことです。永遠に渡って、まことの光が見えないこと。喜びも知らない、平安も安らぎも知らない状況とは、確かに恐ろしいものです。 従ってもっとも大切なのは、主なる神との和解を受けること。主イエス様の提供されている罪の赦しを受け入れることです。主なる神との平和を自分のものにすることです。 イエス様のない人生は確かに無価値であり、無意味です。イエス様のみが永遠の命をお与えになり、本当の満足をお与えになるお方です。 またすべての問題を、解決できる力を持つお方です。 3,000年前に、主のソロモン王に対する判断は素晴らしい判断でした。 列王記第I、3:3
ソロモンは主を愛した。それから、ずっと迫害された初代教会の兄弟姉妹について同じことがかかれています。 ペテロの手紙第I、1:8
悩みながら踊ることとは、いったいどういうことなのでしょうか。彼らはあらゆる苦難、苦しみを耐える力を持っていたのです。どうしてでしょうか?主を心から愛したからです。 主ご自身について、聖書はよく言っているのです。すなわち、主は愛なるお方である。愛そのものである。愛のかたまりです。 確かに私達は、この事実について考えると主を礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。この愛の証拠なるものは、この罪にまみれた世界に送られ、死に渡された主イエス様です。この愛を経験した人は大いに喜ぶことができます。 けど、パウロはこのコリント人への手紙第Iで注意したかったのは、主の我々に対する愛よりも、我々の主に対する態度についてです。今日来られたひとりひとりについても、彼は、彼女は、主を愛しているということができれば、すごいなのではないでしょうか。 主の教えたことはひとつの教えよりも、一つの呼びかけです。聖書全体は、祈りへの呼びかけです。イエス様のところに行くと愛されていることを知り、解放され大いに喜ぶようになります。 主は、人間がご自分を愛することを望んでおられるとは、不思議なのではないでしょうか。すばらしい人間に与えられている使命であります。 結局、主は愛の関係を持つことを許されています。人間以外の被造物、天使たち、御使い達から主は愛を要求されていない。ただ、従順に従うことだけです。けれども人間から主は、愛を要求なさるのです。 あなたの神である主を愛せよと、旧約聖書で何回も語れています。これは、大切な戒めであるとイエス様は言われました。主は我々の二心なき愛を求めておられます。真心からの愛を求めておられます。 主は、私たちが愛しても愛さなくても、かまわないという具合に、自由勝手にさせることはなさいません。愛することを命令されています。いったいどうしてでしょうか? なぜならば、人間はその時、主を愛する時にのみ人生の満たしを経験することができるからです。まことの喜びを自分の喜びにすることができるからです。 主の愛について考えると、やっぱり、何もわからないとしか言えないのではないでしょうか。どうして、愛されるのか、いくら考えてもわからない。 主を愛さない者は誰でも呪われよ。すなわちアナテマと、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 もちろん主の愛を体験したことのない人は、主を愛することはできません。主イエス様を愛せよと言うこのパウロの命令は、従って、イエス様の愛を経験したまことの信者に対してのみ書かれたものです。 イエス様によって、受け入れられた者、そして自分の罪が赦された者はこの主の愛を体験したものです。聖書、全体は、主を愛せよと言っているのです。 モーセは、申命記6章5節に、 申命記6:5
3,000年前に書かれた言葉です。モーセの跡継ぎであるヨシュアも、何回も何回も同じことを言ったのです。 ヨシュア記23:11
もちろん、イエス様も何回も何回も同じことを強調したのであります。 ヨハネの福音書13:34
ヨハネの福音書15:9、17
言うまでもなくパウロも何回も何回も同じことを書いたのです。 ローマ人への手紙12:10
前に開いたコリント人への手紙第Iの16章14節、 コリント人への手紙第I、16:14
ガラテヤ人への手紙5:13
エペソ人への手紙5:2
似てる箇所もいっぱいあります。ペテロも同じように強調したのです。 ペテロの手紙第I、4:8
主なる神の愛は、真実の愛は、自分自身を投げ出し、無条件に捧げることです。聖書の中心なるみことばは、ヨハネの福音書3章16節でした。 ヨハネの福音書3:16
ローマ人への手紙8:32
父なる神の愛だけでなく、主イエス様の愛も自分自身を捧げることによって、明らかにされました。パウロはこの愛に圧倒されてしまったのです。 「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子」と彼は、喜んで告白するようになったのです。 キリストが教会を愛し、教会のために、ご自身を捧げられたのです。喜んで自分自身を犠牲にしてくださったのです。 初代教会の兄弟姉妹の証しとはどういうものだったかと言いますと、「私達は愛しています。神は、まず私たちを愛してくださったからです。」 主に愛されていることについて考えると、確かに疑問符をつけなければならない。「どうして愛されるのか?」「どうして、主は私たちのような者をお見捨てにならなかったのか?」、不思議で不思議で仕方がない。 けども、主の愛について考えると、やっぱり主を愛せざるを得なくなります。ですから、ペテロは、「あなた方は、イエス・キリストを見たことはないけれども愛している。」ということができたのです。 主に対する愛の祝福とは、本当に素晴らしいものです。すなわち、主の守り、主の導きを、心の目を開いてくださることだからです。 ローマ人への手紙8:28
こういうふうに初代教会の人々は証しすることができたのです。 ヨハネの手紙第I、4:17
結局安心して、喜んで、将来に向かうことができるのです。 我々に与えられてる使命のひとつとは、結局、主を知らない人々に、「どうか、この主の愛を受けなさい。主が与えたいと思っておられるもの。罪の赦し、心の平安、変わらぬ喜び、生き生きとした希望を受けなさい。」と。 人生のむなしさ、罪の泥沼から解放されたダビデは、本当に主を愛したのです。彼は、次のように告白することができたのです。ここを最後に読んで終わります。 詩篇18:1-2
私はあなたを慕います。すなわち、心から愛しています。ダビデはいったいどうして主を愛したなのでしょうか?なぜなら彼の多くの罪を赦して頂いたからなのではないでしょうか。 彼は、とんでもない方向へ行ってしまったのです。罪を隠そうと決心したこともあります。けれども耐えられないで、全部公にするようになってから、やっぱり前よりも祝福されるようになったのです。 結果として、「主よ、わたしはあなたを慕います。」ということができたのです。 もう一カ所、ヨハネの黙示録2章4節を読みます。エペソ人への手紙という手紙を読むとわかります。すなわちエペソで、パウロの奉仕によって救われた兄弟姉妹は、本当にパウロの喜びとなったのです。 しかし彼らは走り続けられなくなってしまったのです。主を捨てたのではない。けども成長は続かなくなてしまったのです。結果として、彼は救われてから36年あとで、次のようにヨハネの黙示録で告げなければならなくなったのです。 ヨハネの黙示録2:4-5
あなた達は地獄へ行くのではない、ただ燭台を取り除かれる。結局使いものにならなくなる。祝福され得なくなる。これこそ悲劇的なのではないでしょうか。 このはじめの愛とは、いったい何なのでしょうか?イエス様との交わりです。イエス様をよりよく知りたい。毎日、御言葉を開いて、「主よ語ってください。」という心のからの態度がなければ、もうすでに初めの愛から離れてしまったことを意味してるのではないでしょうか。 ですから、私たちも毎日、毎日、主よ私は、はじめの愛から離れたの?教えてくださいと、祈り続けるべきではないでしょうか。 |