あなたは主を愛するの?


ベック兄

(御代田喜びの集い、2010/07/25)

引用聖句:列王記第I、3章3節
3ソロモンは主を愛し、父ダビデのおきてに歩んでいたが、ただし、彼は高き所でいけにえをささげ、香をたいていた。

ペテロの手紙第I、1:8
8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

今日は、ある姉妹を紹介したい。彼女はやっぱり色々な問題をかかえてるし、けど喜んでる。悩みながら喜ぶことができるのは、普通の人だったらちょと考えられない。
彼女の書いた手紙ちょっと紹介します。もちろん言うまでもなく、自分の言葉よりもまず、聖書の言葉を書いた。


詩篇19:12
12だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。


主人は、けしからんじゃなくて、私の罪をお赦しください。

「昨日、このみことばを読んだ時、私は自分の罪の重さに涙が止まりませんでした。今までのたくさんの罪と、今日もまた犯している罪を思うと心が重くなりました。
そして自分の感情で接してしまう、この主が与えてくださった子供たちは、こんな罪人の私と一緒にいて、まっすぐ主の道を歩んでいけるのかどうか、考えたりもしました。
でも今日テープを聴いて聖書を開いたら、心が楽になりました。すべてを主に渡し、主にゆだねたからです。」

また、聖書の箇所引用されています。


出エジプト記15:26
26わたしは主、あなたをいやす者である。

この頃はできるだけたくさん、イエス様からの喜びをいただこうと、聖書をいつもテーブルの上に置き、座るたびに開いて、みことばを食べています。」

理解しようと思っているんじゃない、解かろうと思っているんじゃない、食べています。


申命記4:7
7まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。

私はイエス様が大好きです。」

現代人である姉妹は、「私はイエス様が大好きです。」と言ってますが、3,000年前にこの世界をおさめたソロモンについても、同じことが書かれていますね。「ソロモンは主を愛した。」
もっとも大切なのは、それなのではないでしょうかね。初代教会の人々とは、いったいどうして、そんなに大きな影響を及ぼしたのでしょうか。どうして、毎日、人々は導かれ、群れに加えられたのでしょうか。
今、兄弟の読みました最初の箇所の中で、書いているんですね。

ペテロの手紙第I、1:8
8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

喜びにおどろうと思えば、やっぱり主を愛さなくちゃ。最も大切なのは、主、それなのではないでしょうか。
主なる神は、もちろん愛そのものです。私たちはこの事実について考えると、礼拝せざるをえないのではないでしょうか。
この愛の証拠となるものは、この罪にまみれた世界に送られた、また死に渡されたイエス様です。

この愛を経験した人は、大いに喜ぶことができます。けど、今日いっしょに考えたいのは、主の我々に対する愛についてよりも、我々の主に対する態度についてです。
すなわち、今日来られた、お一人おひとりについても、彼は、彼女は、主を愛していると言えるかどうかは、問題です。
一番大切なのはいったい何なのでしょうか。言うまでもなく一番大切なことを知ること、また大切にすることです。ある聖書学者は、イエス様に次のように尋ねました。「先生、大切な教えは、どれですか」ちょっと見てみましょうか。

マタイの福音書22:32
32『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』とあります。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。」

意味は、アブラハム、イサクもヤコブもまだ生きている、死んだけど生きている。

マタイの福音書22:33
33群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。

残念です。悔い改めたと書いてない、驚いただけ。

マタイの福音書22:34-35
34しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
35そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。

救われるために、どうすればいいかなのではない。イエス様をためそうとして、偽善者そのものです。

マタイの福音書22:36
36「先生。

これも偽善的な態度でしょ。本当だったら、先生、教えて、導いてください。けどもそういう気持ち、ぜんぜんなかったのです。

マタイの福音書22:36-37
36律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
37そこで、イエスは彼に言われた。

すなわちイエス様は、彼を無視したのではない。我々だったら、あの偽善者に答える必要はない、どうせ聞く耳がないから。
けどイエス様はちがう。イエス様は、彼を無視したのではなく答えた。イエス様は旧約聖書の箇所を引用してくださいました。

マタイの福音書22:37-40
37「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
38これがたいせつな第一の戒めです。
39『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
40律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

大切なのは何でしょう。イエス様の答えは、「あなたの神である主を愛せよ。」これは聖書全体の一番大切な戒めです。
当時の群集は、イエス様の話を聞いてそして驚いたけど、イエス様は何か教えようとしなかったんです。イエス様は道しるべではなく、道そのものであるから。
イエス様は真理について語ったよりも、イエス様は真理そのものであられるから、自分自身をあきらかにしようと望んだのです。

イエス様の教えたことは、1つの教えではなく、1つの呼びかけです。すなわち、「ありのままでおいでよ、わたしのところに。待ってるよ。」
イエス様のところに行くと、愛されていることを知り、開放され、大いに喜ぶようになります。

当時の聖書学者たちは、聖書をよく勉強して、聖書のうわべだけの内容を信じたのですが、聖書の中心であるイエス様に対してまったく盲目の者でした。
ですから、1人の律法の専門家がイエス様のところに行って、教えてもらいたい、真理をあきらかにしてもらいたいという気持ちではなく、イエス様をためそうとしたと書いてあります。

主なる神は、人間がご自身を愛することを望んでおられます。これはすばらしい、人間の特権ではないでしょうか。人間の使命です。
人間には、主なる神と愛の関係を持つことが許されています。人間以外の被造物、たとえば天使のような被造物からは、主は愛を要求していない。ただ、人間からのみ主は愛を要求なさるのです。
天使からは、主は絶対的服従を要求なさいますけど、人間からは、それ以上のものをお求めになるのです。すなわち、主は我々によって、愛されることを望んでおられるのです。

「あなたの神である主を愛せよ。」これは、最大のそして一番大切な戒めです。
主なる神は、我々の二心なき愛を求めておられます。主は真心からの愛を望んでおられるのです。主は、私たちが愛しても、愛さなくてもかまわないという具合には、我々を自由勝手にはなさいません。愛することを命令しておられます。
どうして?なぜならば、人間はただその時にのみ、人生の満たし、完全な喜び、まことの自由を見出すからです。

主はすべてのものを存在するようになさった大いなる創造主です。この主は、私たちがそのことを信じようが信じまいが、そのことを認めたいと思おうが、思うまいが、一人ひとりの神でもあります。
けど、この大いなる創造主なる神は、同時に大いなる救い主でもあります。すなわち、主なる神は、人間一人ひとりに対して、無関心ではない。一人ひとりは、この救い主によって、愛されています。
このことは、聖書のまったく大いなる福音です。

聖書は、主なる神が愛であると名言しています。別の言葉を用いるならば、まことの愛は神からのものです。神なきまことの愛は存在しません。
まことの愛と主なる神は、不可分のものです。主なる神は愛そのものです。
聖書は、神が愛を製造するとか、神が愛を送るとか言っていません。神はこの愛をお示しくださいました。一箇所、ちょっと見てみます。

ヨハネの手紙第I、3:16
16キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。

主は、私たちのためにご自分のいのちをお捨てになりました。簡単に読みますけど、内容は、本当の意味でちょっとつかめない。信じるか、信じないか、感謝するか、しないかのどちらかでしょう。

サウロという男は、長い間イエス様を憎みました。信じる者を迫害しました。いかなる人間も、このサウロを間違った道から引き戻そうと納得させることはできませんでした。
けど、彼はイエス様を信じるようになったよりも、心から愛するようになったんです。どうしてでしょうか。どうして彼は、世界一の熱心な伝道者、イエス様を紹介する証びとになったのでしょうか。
そのことを彼は1つの文章で短く語っています。有名なガラテヤ人への手紙2章20節

ガラテヤ人への手紙2:20
20私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子

と彼は言うようになったのです。もう奇跡そのものです。彼は、何を瞬間的に解かったかと言いますと、十字架につけられたキリストは、犯罪人ではなく、詐欺師でもなく、嘘つきでもなかった。なぜなら、復活なさり、今もなお生きておられるから。
生ける神は、確かに人間になりました。生ける主なる神は、私たちが受けなければならない罰をご自分の身に受けてくださった。主なる神は、ご自身で我々の救いのために、身代金を支払う備えをしたと。この愛はパウロを圧倒しました。
この愛は、パウロの人生を根底から変えました。この愛は、パウロに迫り、すべてを放棄し、犠牲にし、この愛を述べ伝えることを要求しました。

十字架は、何を語っているのでしょうか。「わたしは、あなたの創造主であり、またあなたの救い主でもあり、愛する者である。わたしは、わたし自身を犠牲にし、苦しみの人、悲しみの人となり、呪われ、罪とされ、救いの代価を支払った」と、生けるまことの神が愛であり、ご自身をささげてくださったゆえに、主は愛することを要求する権利を持っておられます。
生けるまことの神は、限界に至るまで愛してくださったゆえに、次のように命令なさるのです。すなわち、「わたしは愛であるから、あなたもわたしを愛すべきである」と。
ここに1つの問いがあらわれてくるでしょうね。「いったい誰が、主を愛することができるのか」その答えは、次のようなものでしょう。主を自分で経験した人だけです。

私たちの中には、まだ主の愛を経験していない方々、そしてまだイエス様に出会っていない方々、さらに人生が、絶望的な孤独によって特徴づけられている方々がいらっしゃるかもしれない。
だから、願い求めることは、「どうか主の愛を受けなさい。主が与えたいと思っておられるもの、すなわち罪の赦し、本当の心の平安、また変わらない喜び、生き生きとした希望を受けなさい。」
つまり大切なことは、キリスト教に入ることや教会員になることや、洗礼でもなければ、より良い人間になるための努力でもなく、私たちが主なる神の愛を経験すること、すなわち私たちが罪と債務を担う罪人として、イエス様のみもとに行き、罪を赦していただくことです。

人間が必要としているのは、1つの教えを知ること、勉強すること、悟ることではなく、主の愛を体験的に味わい知ることです。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、あなたの神である主を愛せよ」これが大切な第一の戒めです。
けど、正直な人は皆わかるでしょう。すなわち、自分の力では、主の律法を主の戒めを守ろうと思っても、うまくいかないと。
主のみもとに近づき、言うべきです。「私は、守りたいけど無理、できません。私は、敗北者です。あなたが助けてくださらなければ、全く不可能です。私の内には何ひとつ良いものは宿っていません。自分の力によっては、全く自己中心的な生活を送ることしかできない。」自分が降参することを公にすることは、生まれつきの人間にとって、最もいやなことでしょう。

すべての、いわゆる人間によって作られた宗教は、はるかに受け入れられやすいものです。というのは、すべての宗教は、人間を中心におき、人間が努力することを要求するからです。
けど、生けるまことの神は、人間が、自分が駄目な状態を認め、降参することを公にし、砕かれることを望んでおられます。
イエス様を愛する者は、イエス様を中心に据えたいと願います。イエス様を愛していない人は、自分が中心になりたいと思っています。

バプテスマのヨハネは、イエス様を知るようになったよりも、イエス様を愛した。
彼の告白とは、「イエス様は盛んになり、私は衰える」という告白でした。イエス様に対する愛なしに、何かをすることは、肉的行動することを意味します。そして、肉からは何も良いものは出てきません。
1つのことは明らかでしょう。すなわち、人間は全く堕落してしまっています。人間は、自分のことだけしか考えられません。人間は自分の力で主を愛することはできない。全く不可能です。

けど、自分の債務を告白し、自分の無力さをもはや隠さず、ありのままの状態で、イエス様のみもとに来る者は、次のようなことを経験します。
すなわち、イエス様が、ご自分のみもとに来るすべての者を、受け入れてくださるということです。また、イエス様は、主に告白されるすべての債務を赦してくださるということです。また、イエス様が、内側から新しくしてくださるということです。
皆さん暗記しているローマ人への手紙5章5節ちょっと紹介します。

ローマ人への手紙5:5
5私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

主ご自身の愛は、信じる者に与えられています。だから愛することができます。
人生のむなしさ、罪の泥沼から開放されたダビデは、主を愛したと聖書は言っています。
彼の告白は本当にすばらしい告白です。詩篇18篇を見てみましょうか。彼は、こういうふうに告白しただけではなく、心からそう思ったんです。

詩篇18:1-2
1彼はこう言った。主、わが力。私は、あなたを慕います。
2主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

「私は、あなたを慕います。」どうして、ダビデは主を愛したのでしょうかね。なぜならば、彼の多くの罪を赦していただいたからです。
彼は、姦淫の罪を犯しました。そしてこの罪を覆い隠すために、彼は、彼の親しい関係を持った女性の夫を殺させました。この債務を解決しようとする、あらゆる人間的な道は、ただ新しい債務を導くだけでした。
惨めさから脱出する道は、ただ1つしかない。このダビデの息子ソロモンの言ったことばです。

箴言28:13
13自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

聖書全体が言わんとしていることは、そういうものなのではないでしょうか。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

御子イエスの血は、すべての罪から私たちをきよめます。ダビデは、この道を行く覚悟をしました。

詩篇32:3-5
3私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
4それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。
5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

その結果として、ダビデは本当の意味で開放され、次のように歓喜の声を上げることができたね。

詩篇32:1-2
1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
2幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

悔い改めてから、赦されたことを信じてもいいと聖書全体の言っていることでしょう。

イザヤ書57:15
15いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

パウロも同じ事実を経験する特権にあづかるようになりました。パウロもイエス様を、真心から愛するようになった。「私を愛し、私のために、ご自身をお捨てになった神の御子キリスト」と言えるようになったのです。
結局、パウロもこのイエス様の愛によって、圧倒されてしまいました。「キリストの愛が、私を取り囲んでいる」と彼は告白したのであります。
すなわち、私はイエス様の愛を経験し、喜びに満たされているから、主に対する気持ちでいっぱいです。感謝せざるをえません。後で彼は、ピリピ人への手紙の中で告白したのです。

ピリピ人への手紙3:7-8
7しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

パウロは、なぜ主を真心から愛したのでしょうか。なぜなら、彼は多くのことを赦していただいたからです。ダビデもパウロも心から主を愛した。
初めに読みました箇所の中で、「ソロモンは主を愛した」とあります。だからこそ、彼らの生涯は、祝福の生涯でした。心から主を愛さないことは、あらゆる悩みの原因なのではないでしょうか。
ヨハネの黙示録2章4節に驚くべき箇所があります。天にお帰りになった主イエス様は、かつて、模範的なエペソにいる兄弟姉妹に書いたのです。人々が救われてから、だいたい35、6年あとなんです。

ヨハネの黙示録2:4-5
4しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
5それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

そうすればおしまいです。初めの愛とは何でしょうか。初めの愛とは、イエス様との交わりです。イエス様なしに、何事も欲せず、何事もなしえないということです。
もし毎日毎日、聖書が我々の力と、力の泉、慰めのもとになり、喜びの源となっているならば、そして我々の考えと行いの中心に、イエス様がおいでになるならば、それこそが我々の初めの愛が保たれていることの証拠です。
これが、燭台がその場に置かれていることの大切な条件です。

けど、エペソにいる兄弟姉妹の心は、もはやイエス様との親しい交わりの中にはなかったんです。その結果、イエス様は、もはやわたしがあなたと共にいることができない。わたしはあなたに対して対立する。あなたを用いられない。
外面的に見ると、エペソの群れは、すべてが上手くいっておりましたけど、主は満足をされなかったのです。熱心さがあり、また困難に対する忍耐がありました。けど、これらのものも、初めの愛、イエス様に対する献身のかわりになるものではありません。
イエス様は、まず何よりも、我々の愛を、我々の心をご自分のものとしたいと望んでおられます。主にすべてをより頼まない人は、初めの愛を捨て去った人です。

かつては、エペソの兄弟姉妹にとって、イエス様に憐れみを与えられ、受け入れられ、開放を与えられ、そして主に仕える者とされたということは、考えられないほどに、すばらしいことでした。けど、このような恵みに対する驚きは、しだいに消えてしまったのです。
ですから、始めの愛を失うということは、決して愛を捨て去るということではなく、愛を忘れさるということです。
私たちは、エペソの信じる者の群れのように、初めの愛を忘れないようにするために、毎日曜日、主の聖餐を守ることをしていますけど、このことを通して、常に新たにイエス様の苦しみとイエス様の死、全てのイエス様の恵み、イエス様の愛を思いおこそうとしているのです。

常に新たに、主の恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から主を礼拝することができれば本当に幸せです。
毎日主に聞くべきじゃないかな。「あなたは、わたしに対して何か、対立すべきものを持っておられるのでしょうか。」
けど、主の御前に、静かな時を毎日持つことをしない人に対しては、主がその人に対して、何か対立すべきものを持っておられるかどうかを、明らかにされることができません。

初めの愛の特徴は、イエス様の足元に静まることです。すべてを主に明け渡すことです。徹頭徹尾、主にだけより頼むことです。また、主のみことばに従うことです。そして、主の導きに信頼することです。
飢え渇きを持ってみことばを読まない人は、主を本当の意味で愛していません。
「主よ語ってください。しもべは聞いております。」という態度がなければ、主は語ることはないし、御心を明らかにすることもないし、御自分の大いなる愛を示すことができません。

初めの愛は、イエス様を我々の中心におかせます。
そしてこのことは、我々の過去に起こる一時的な事柄であってはならず、我々の全生涯を貫く事柄でなければなりません。
大切なのはいったい何なのでしょうか。全ての事柄が、イエス様との交わりから生じているということです。

初めの愛の実例は、ルカの福音書10章に出てくるマリヤです。
彼女は、全てにまさって、イエス様を愛していました。イエス様の足元にすわり、イエス様のみことばに耳を傾けました。
彼女は、値高い香油を、イエス様に与えました。自分を批評する人々のことは、考えないで、イエス様の御心にかなうことだけを求めたのです。

パウロも当時の信じる者に書いたのです。「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」
また、初代教会の人々について、何を書いているかといいますと、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」
初めの愛というのは、二心のないイエス様への愛であり、本当の謙遜であり、直ちに従うことであり、イエス様の再臨を心から待ち望むことであり、兄弟姉妹に対する、真心からの愛を持つことです。私たちは、始めの愛を失ってしまったのでしょうか。

イエス様を愛する者は、イエス様だけに、より頼みたいと願い、
イエス様を愛する者は、主にだけ全幅の信頼をおきたい。
イエス様を愛する者は、イエス様の側近くにいることを願います。
イエス様を愛する者は、いかなる代価を払っても、イエス様と交わりたいと望んでいます。
イエス様を愛する者は、イエス様にだけ、喜んでもらいたいと願います。
イエス様を愛する者は、イエス様のためにだけ、生きたいと願う者です。

まとめてみると、
イエス様を愛する者は、憐れみを受け、恵まれます。
イエス様を愛する者は、守られ、喜びに満たされます。
イエス様を愛する者は、心の目が開かれ、導かれるようになります。




戻る