引用聖句:ヨハネ福音書1章35節-51節
今日は、おもに「証しする大切さ」について一緒に考えてみたいと思います。 今読んだ箇所の中で、アンデレは、シモンをイエスのもとに連れてきたとあります。彼はイエス様を紹介した結果として、ペテロは導かれ救われたのです。アンデレはどうして生まれたか、救われたか、おそらくそのためだけなのではないでしょうか。 イエス様を紹介することこそが、考えられないほど大切です。証しすることとは、結局イエス様を紹介することです。証しするために救われたと言ってもいいのではないでしょうか。 昨日読んだところなんですけど、彼もおそらく皆に言ったほうがいいじゃないかということです。 昔のことなんですけども、戦争中、怪我されて入院されたある若いフランス人は、ベッドの上に小さなパンフレットを見て読んだところ、信じ救われたんです。 彼は、他ならぬ有名な将軍コリニーでした。彼は後でフランスの宗教改革者になったのです。 けどそれだけではなく、この将軍コリニーの看護婦さんは、病院の婦長さんに同じトラクトを見せた結果、彼女もイエス様を信じ救われたのです。当時、イエス様だけを信じることによって救われるということを、カトリック教会は絶対に受け入れなかったんです。そういう人々は、迫害され殺されてしまったんです。 だから彼女はフランスから逃げて、ドイツまで来たんです。そしてドイツで彼女は、オランダ人であるウイルヘルム第3世に出会い、結婚するようになりました。彼は、オランダの宗教改革者となったのです。 聖書こそが、考えられない力を持つものです。そして主は、結局、証しする人々を捜し求めておられるのではないかと思います。 ちょうど昨日、昔の一人のおばあちゃんの証しをちょっとまた読んでたんです、あんまり良かったから。覚えている人はあまりいないと思うんですね。娘はご主人を亡くしてしまったし、子供2人も亡くしてしまったし、いろいろなことで苦労したおばあちゃんだったんです。彼女の証しをちょっと紹介します。 「本日は、ご多忙の中、またこんな辺鄙な山奥までおいでいただきまして、ありがとうございました。親戚の者は、さぞ驚いて困惑してると思います。私はこの歳でイエス様を知ったこと、また生きていてイエス様を証しする幸いに恵まれましたことに感謝します。 私は、本当はイエス様を信じ受け入れたことを、生涯言うことができないまま、この世を終わるだろうと思っていました。ですけど、イエス様はそのことをお許しにならず、今日このように皆様の前で、お証しすることになりました。 生まれてこれまで、仏教しか知らなかった私ではありましたけど、夫を23年前に亡くし、2人の娘たちも嫁ぎ、残された母も96歳で6年前に亡くし、一人ぼっちになって、言い知れぬ孤独になりました。 すでに信仰を持っていた下の娘から、イエス様の話はイヤというほど聞かされておりました。けど全然聞く耳を持たず、むしろ反発さえ感じておりました。 ある日、イエス様が直接私に語られて、イエス様が私の心の中にすーと入って来られました。今まで経験したことのないような喜びと平安に満たされ、嬉しくたまらない毎日でした。 そして5年前に受洗しました。受洗する時に、上の娘から『おばあちゃんたち、何て話すの』と言われました。人の目を恐れる私にはできないと解かっていたのでしょう。結局、イエス様を信じたということを実の兄弟にさえも親戚の者にも言うことができず、隠れキリシタンのようでした。 だんだん心が落ち着かなくなり、たびたび行なわれる法事などの時、どのようにしたらよいか解からなくなってしまいました。主人の母の法事が近づき、ますます心が落ち着かなくなり、喜びもなくなってしまいました。 喜びの集いの中で、姉妹たちとの交わりの中で、主は、私の長年の悩みを光の中に出されました。主から、今まで親戚の者たちに黙っていたことを示され、この際、信じたことを明らかにしていこうと決心しました。 でも現実を見ればとても恐ろしくなりましたけど、すべてのことを主がなさってくださり、一人ひとりにイエス様を信じたことを話に行くように導かれました。 また先祖代々の納骨堂は、お寺の境内の中にあり、この際イエス様だけを信じて行くために、お寺とはっきり決別をして、お墓を購入することになりました。 親戚の者たちの多くは、何でいまさら、この歳になってイエス様を信じなくてはいけないのかと申しますけど、この歳だからこそ、イエス様が必要になりました。イエス様は生きておられ、私にいつも語って導いてくださいます。『あなたが変になった。』と言う人もありますけど、この喜びには変えられません。 これからどのようなことが起こるか想像もできませんけど、イエス様の御手にすがって、イエス様だけを信じていきたい、生きて行きたいと思っています。残された人生、自分の信じたとおりに生きたいと思います。 いつも励ましになった聖書のみことばは、マタイの福音書11章28節『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』、そしてテサロニケ人への手紙第I、5章16節から18節『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。』、この2つのみことばです。 今日はありがとうございました。」 このようなすばらしい証しだったのであります。「証しするために救われた」と絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。 我々の周りにいる人々とは、みんな悩んでいます。もちろんうまく隠しているのですけど、悩んでいない人はいない。そういう人々にとって、大切なのはイエス様を紹介する人々なのではないでしょうか。 それから初めて、不安から心配から解放されます。 前にドイツの高速道路の道路標識のところに、一つの言葉が書かれてあったのです。ドイツ語ではなくて、英語だったんです。「Safety First」安全第一。 もちろんドイツにいるイギリス人、アメリカ人のためじゃなくて、やっぱりすべての人のために必要なのは、いわゆる安全なのではないかということです。人間は安全を求めます。けど絶対の安全というものはないのではないでしょうか。 逆説的に聞こえるかもしれないけど、人間の死ほど確実なものはないのではないでしょうか。どれほど生活が保障されていても、遅かれ早かれ、誰でも死を迎えなければならない。 人間は安全を求め、人間は安全を必要としますけど、現代の特徴とは不確実性なのではないでしょうか。そして不確実性は、結局、不安定と心配をもたらします。 私たちの問題や苦しみなどに対する本当の答えは、いったいどこに見いだすことができるのでしょうか。 ただ、今話したように、みことば聖書だけです。 昔のことだったんですけど、スペインの沖で、一隻のドイツの商船が沈没してしまったのです。誰も助かりませんでした。たくさんの水夫の衣服が見つかり、それとともに一冊の新約聖書が見つかったのです。 最初のページには、次のように書かれていました。名前はマルクス・ゴットマン、1864年生まれ。「私はこの聖書を、まず最初に私の姉ロトの願いのために読みました。しかし第2回目には私は、私の魂が滅びることを恐れてその不安のために読みました。 しかしながら第3回目からは、毎回いつも私の救い主である主イエス様に対する愛によって、私はこの聖書を読みました。」と聖書の最初の1ページに書きしるされていました。 どういう理由からでも結構ですけど、やっぱり聖書を読んでもらいたい。みことばに頼ってもらいたいという気持ちでいっぱいです。そうするとおのずから救われたいという願いが出てまいります。 それからさらに読み続けるということによって、救われた喜びでイエス様を聖書を読まざるを得なくなります。 詩篇の作者であるダビデは、そういう気持ちでした。有名な119編の105節を見ると次のように書かれています。 詩篇119:105、160、162
ダビデはこの態度をとったから祝福され、用いられたのです。 私たちの人生は、聖書に対して私たちがどのような態度をとるかによって決まるのではないでしょうか。聖書を拒む者は、神ご自身を拒むのです。 主のみことばとしての聖書を拒む者は、結局救いを拒むことです。私はまったく確信を持って、聖書こそ最も信頼すべきものであるということができます。 聖書が本当に信頼できるものであるということは、すべてに証明済みです。 確かに聖書は、非常に古い書物であり、一番古いものはおそらく今から3,500年前に書かれ、一番新しいものは、今からだいたい1,900年前に書かれました。この聖書は全部で66巻からできており、40種類の作者によって書かれました。 このように書いた人は、40人もおりますが、しかしそれらに共通して一つの中心となっておられたお方とは、救い主なる主イエス様であり、その意味では聖書の作者は、主なる神ご自身であるから聖書は、主なる神のことばであると言えます。 今日聖書は、千何百以上の各国によって翻訳されています。聖書の大部分は、将来に対する預言によって示されていますけれども、旧約聖書の預言は、今までに成就されたのでしょうか。 この問いに対して私たちは、はっきり「その通りです」と答えることができます。例えばエジプトやバビロンあるいはイスラエルに関する預言は、まさに聖書に書かれている通り実現されました。それは歴史書を紐解けばすぐに明らかになります。 ですから私たちは、聖書に対して全き信頼をおくことができるのです。 一人ひとりの人間の将来に対して聖書は何と言っているかといいますと、ヘブル人への手紙9章27節です。 ヘブル人への手紙9:27
死後に裁きが来ることを誰でもが知らなければなりません。 人間はこの地上における安全を第一と考えますが、死後の安全に対しては全く注意を払いません。これは一つの悲劇であると言わざるを得ません。なぜならまさに死後にこそ、裁きがやってくるとともに永遠なるものが始まるわけですから、このことを真剣に考えない者には、主なる神の裁きが下さざるを得ないのです。 この裁きに関しては、次のことに注意する必要があります。すなわち罪とは、主なる神に対する債務です。債務はどのようなものであっても支払わなければなりません。 主なる神が裁きをなさるに違いない。主なる神が裁かなければならないのです。主なる神は、義なる正しいお方ですから、やがてすべての者が明らかにされるのです。正しくない恥ずべき行ないは、すべて裁かれるようになります。戦争、強制収用所、搾取、詐欺、偽り、これらはすべて裁かれるようになります。 多くの人は、この地上には義はないと考え、絶望してしまいますが、このような迫害されたり、苦しめられたりした人々に、主なる神は、主の義が明らかになるためにも、迫害したり苦しめたりした人々に、主の裁きが下るのです。 これが真理であるために何と多くの人々が、破局に向かうことでしょうか。 しかし、多くの人々はこのことを真剣に考えようとはせず、いったいどこに神はいるのかと言います。 けど、聖書は主なる神の愛を我々に示されています。すなわち主なる神は、全き罪の赦しをすべての人に提供しておられます。神の御子であられる主イエス様が、すべての罪を贖ってくださったのです。 自分の罪を告白し、悔い改め、イエス様を自分の救い主として信じ受け入れる者は、神の裁きにあうことはありません。 その裁き、それ自体は恐ろしいものですけど、御子である主イエス様を救い主として信じる者は、この裁きから免れます。 主なる神のみことばである聖書の上に立ち、主イエス様を信仰の目的として選ぶ者は、絶対に揺るぐことのない土台を持っています。 主なる神の約束はその通りである。これは真理です。主イエス様に対する信仰によって、私たちは喜び、平安、力など今まで及びもしなかった大いなるものをいただくことができるのです。 自分は死罪に値する者であり、滅ぶべき者であるということを認め、イエス様に対して、自分のわがままを告白し、救いの御業のために感謝し、自分自身をイエス様に明け渡す者は、永遠に安全とされるのです。 イエス様はそのような人を誰も御手から奪い取ることができないと言っておられます。 主なる神の御手に守られているという、このことこそ真の安全であり、また幸せです。 ヨハネの福音書3:36
私たちは、永遠のいのちを持つか、さもなければ神の怒りのもとにおかれるかのどちらかです。 本当に今日来られたお一人お一人が、イエス様を信じ、知ることによって永遠のいのちをお持ちになることこそ、私の切なる願いまた祈りです。 証しについて考えると、私は最後にちょっと紹介しますけども、ある小学2年生の子供の証しを思い出します。担任の先生に書かれた手紙なんです。 「昨日、Jesusという映画を見に行った。映画は、救い主イエス・キリストの映画だ。先生、イエス様を知ってる?イエス様を信じたら、皆天国に行けるんだよ。 私はクリスチャン。クリスチャンって知ってる?イエス様を信じた人だよ。イエス様は本当の神様だよ。イエス様は皆の罪を背負って十字架にかかったんだよ。 私の家族、従兄弟は皆信じてるんだよ。イエス様を信じたらお祈りをする。怖い時、いやな時、必要のあることだったら、イエス様は助けてくれるよ。 でもイエス様の十字架を信じないとダメだよ。信じた人は、他の神様を拝んではいけないんだ。皆信じれば、皆きれいな暖かい心になるんだよ。 日曜日、私の家においでよ。イエス様のお話を聞くんだよ。先生の知らない人もいるけど、おいでよ。お話を聞いたら、信じると思うよ。 イエス様は本当の神様だ。イエス様はやさしいんだ。十字架にかかって3日目に復活したんだよ。でも私たちにずーとそばについてくれているんだよ。さあ、おいでよ。日曜日の集会に。」 先生は、その下に次の文章を書いたのです。「イエス様を信じて、暖かい心を持つ人になることはすばらしいね。」 証しするとは、我々に与えられている使命であり、また特権です |