引用聖句:マルコの福音書6章1節-6節
今の箇所は、よく知られている箇所です。イエス様は、驚かれた。驚かれたよりも悲しくなったのではないでしょうか。 その場にいた病人は、イエス様はもちろんみな例外なく癒すつもりでした。けれど、何でもできるお方は何もできなかったと書いているのです。 彼らの不信仰のゆえです。 聖書の中の最もすばらしい約束の一つは、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」 けれど、多くの信じる者は、結局なかなか信じようとしない人々とは、頑固でけしからん。もしかすると主の考えは違うかもしれない。主はどうして奇跡を行なうことができないのか。 未信者の心の頑なさよりも信じる者の不信仰と不従順のためなのではないでしょうか。 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」もちろん私たちは、家族と聞くと血のつながりを持つ者と思っているでしょ。新約聖書が書かれた時は、違ったのです。親戚も含まれている、知り合いの人でも含まれている。 当時の金持ちは、時々奴隷を扱ったのです。これも家族でした。それを考えると初代教会のおそらく8割以上は奴隷でした。 どうしてであるかと言いますと、奴隷を持つ人々とは結局、彼らのことを大切にして彼らのためにもイエス様は死んでくださったから祈ろう、救われてもらいたい、多くの人々はそれによって導かれました。 主イエスを信じなさい。そうすればあなただけじゃなくて、家族も親戚も知り合いの人々も救われる。 確かにこの言葉は、多くの人々にとって愛されているみことばです。私たちも何回もこのみことばで祈り、このみことばを信じてきましたけれど、どうしてこのみことばが今日まで実現しなかったのでしょう。 どうしてそんなにたくさん答えのない祈りがあるのでしょう。 もちろん主は、ご自分の定められた時に、我々の祈りを聞き届けてくださるけれど、祈りが聞かれない原因も考えてみる必要があるのではないでしょうか。先週、私たちはこの祈りが聞き届けられない理由について考えました。7つの点だったんですね。 不従順、隠された罪、無関心、聖書をおろそかにすること、頑なな心、心の不安定、不純な動機のゆえに主は、多くの祈りを聞き届けられない。 主の御心とはいったい何なのでしょうか。イエス様は、ひと言葉で言いました。「事実、わたしの父の御心は、子を見て(結局わたしを見て)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」永遠のいのちを得ることこそが、主の御心です。 一時的な問題を解決することではないかもしれない。普通の人間は、やっぱり今、この問題が解決されればと考えています。けれど、主は一時的な問題をつぎつぎと与えてくださる。そうでなければ、ペチャンコにならないし、壁にぶつからなければ助けを求めない。 そして、悲劇的なのはそれです。助けを求めなければ助けられません。助け主を知ることができないからです。だからイエス様は、「悲しむ者は幸い」結果として悩み、助けを求めるようになれば、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 主の絶えざる呼びかけとはそれなんです。しっかりしなさいなのではない。勉強せよなのでもない。「わたしのところに来なさい。」「父がわたしにお与えになる者はみなわたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者をわたしは、決して捨てません。」 イエス様は、この世にいる間、自分の家族のことを考えられないほど悩んだと思います。 イエス様を産んだマリヤは、もちろん初めから信じました。疑おうと思ってもできなかったのです。けれど、他の家族の人々とはダメ。 イエス様の弟さんたち少なくても4人でした。妹さんたち何人だったかわからないけれど、聖書は、妹さんたちと書いているのですね。2、3人か5、6人かわからない。けれどもダメでした。 使徒の働き1:14
イエス様の兄弟たちは、イエス様が殺されてから復活なされてから導かれ救われました。家族の人々と妥協しているところに救いはない。絶えず身をもって証ししているなら、救いが訪れてきます。 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」このみことばを私たちは、信じて戦わなければなりませんが、このみことばを信じる現れとは、いったいどういう形で現れるのでしょうか。 まことの信仰の現れとは、いったいどういうものなのでしょうか。まず、祈りにおける勝利です。 ルカの福音書10:39
あのマリヤがしたように、イエス様の足もとにすわり続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。マリヤは集会ではなく、自分の家で主の足もとにひざまづきました。集会の時だけでなく、ただ一人でいる時、密室でみことばを黙想し、主と親しく交わることは本当に大切です。 イエス様の御声を聖書を通して聞いた人は、本当に祈り人です。聖書は、アブラハムについて、アブラハムは神と顔と顔とをあわせて語ったと言っています。また、主なる神はアブラハムに対して、「わたしのしようとすることをアブラハムに隠してよいであろうか。」と言っておられます。 また、アブラハムはなお主の前に立っていたとアブラハムの祈りの態度を、聖書は教えています。アブラハムの祈りは、砕かれた謙遜を身にまとった祈りでした。彼は主に向かって 創世記18:27
このアブラハムの祈りの結果はどうだったでしょうか。 創世記19:29
アブラハムは、甥のロトに対して無関心ではなかったのです。また主の御前にとりなすにあたり、心が定まらないようなこともありませんでした。 彼は心を定めて、主の御前に立ち続けましたが、祈り続けました。 家族に対してなされたもう一つの祈りを見てみましょうか。 マタイの福音書15:21-28
家族の救いとはそういうものですね。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」「あわれんでください。主人はまだ聞く耳がない。子供もまだ救われていない。」彼女はこういうふうに祈りました。 私たちの家族、親戚、友人が間違った霊に取り付かれているといったらどうでしょう。実際に悪魔の手の中に陥っているかもしれない。悪魔は、ヨハネによると、初めから人殺しであると言われています。 永遠の滅びに滅ぼそうとする悪魔の手の中に、愛する家族が友達が陥っているのです。それを知りながら、私たちはなお無関心でいることができるのでしょうか。悪霊につかれた娘を癒してもらいたい異邦の女は、アブラハムのように主の御前に叫び続けました。主は必ず応えてくださると信じてから叫び続けたのです。あきらめようとしなかった。 マタイの福音書15:28
私たちがマリヤのように、主の足もとにひざまづき、何ものにもまして主のみことばを愛し、またアブラハムのように、主の御前に留まり続け祈り、またこの異邦の女のように、主の御前に叫び続けるなら、主は必ず約束します。 「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」とみことばをかけてくださるに違いない。 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」というみことばが実現します。私たちは、このみことばを自分のものにしなければならない。 このみことばを信じる現れは、ここまで言いましたように祈りにおいて、祈りにおける勝利という点に現れますが、第2番目、イエス様の全能に信頼するという点で現れます。 マタイの福音書8:5-8
これこそが要求されている素直な信仰、信頼であります。 マタイの福音書8:9-13
ここで東からと書いているね。これは日本でしょうね、イスラエルから見ると。 8節「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」これは、イエス様の全能に対する全き信頼の現れです。この百人隊長は、イエス様の所に行って自分の悩みを打ち明けました。 イエス様に自分の悩みをありのままに打ち明ける、これが本当の祈りなんです。百人隊長の下には兵卒がたくさんいました。そして彼が一言いえばその通りにしました。それで百人隊長は、イエス様に「主よ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」これはイエス様の全能の御力を、彼が信じきっていたから言えたことです。 イエス様は、この言葉を聞いて嬉しくなったでしょう。非常に喜び、百人隊長に答えて言われました。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」 百人隊長は、自分の血のつながりを持ついわゆる家族のために行ったのではない。血のつながりのない僕のために祈ったんです。私たちはどうでしょう。私たちの親戚、家族、友達のために祈り、とりなし戦っているのでしょうか。 パウロはテモテに手紙を書いたのです。非常に大切な言葉を書いたのです。 テモテへの手紙第I、5:8
信者は、不信者よりも悪くなる可能性があり得るということです。もし私たちが、無関心に陥り、自己中心の道を歩むならば、まことに残念であり、災いのことだと言わなければならない。 もし私たちが、主のそば近くにひざまづき、「主よ。あなたは全能なるお方です。あなたにゆだねております。私の両親、兄弟姉妹、夫をお救いください。ただ一つのみことばでも与えてくだされば救われるのですから。」と迫るなら本当に幸いです。 そうして主は、「行け。あなたの信じたとおりになるように。」とみことばをかけて下さるに違いない。 「もし、あなたが信じるならあなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」と御声をかけてくださるでしょう。 もう一人、家族のために祈った人を見てみましょうか。 マタイの福音書17:14-20
この父親は、悪霊につかれた息子を持っていました。この息子は父親の重荷であり、悩みの種でした。またこの子は、父親にとって、絶望を意味していました。あわれな父親は、これらの悩みを全部、イエス様の御許に持って来ました。 父親は、イエス様の所へ来てひざまづいてお願いしました。自分の悩みをありのままイエス様に話しました。イエス様は、その父親を助けてあげました。自分の心をイエス様に打ち明けることは、簡単なことではありません。 けれど、私たちはありのままを主イエス様に申し上げ、ひざまづきましょう。そうしたら、イエス様は必ず応えてくださいます。 イエス様は、17節に「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」と言っておられますが、これは我々にもあてはまるみことばではないでしょうか。 20節「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」 これはイエス様のお叱りのことばであり、また約束のことばでもあります。 イエス様の最も喜ばれることは、私たちが目に見えるところによらないで、主の全能の力に信頼する信仰です。 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」このみことばを私たちは信じて立たなければなりませんが、このみことばを信じる現われとは、どのような形で現れるのでしょうか。 今話したように、まず、祈りにおいて、祈りにおける勝利において、それから主イエス様の全能に信頼することによってです。 |