引用聖句:詩篇33:8、18
詩篇103:13
詩篇128:4
今読んで来てくださった箇所では、何回も何回も同じ表現が出てきます。すなわち、「主を恐れる恐れを持つ大切さ」 全人類に向かって、全地よ主を恐れよ。世界に住む者よ、みな主の前におののけ。 いわゆる現実の前に、心配するようになる人はいっぱいです。将来はいったいどういうふうになるの。心配いっぱい。けれどもそういう心配から得るものは何もない。たいてい、麻痺してしまいます。心配のかたまりになります。 聖書は、現実を見て心配しなさいと私たちに言ってない。主を恐れよ。結果として主を知るようになるのです。 父がその子を憐れむように、主は、主を恐れる者を哀れまれます。 主を恐れることとは大切です。心配することじゃないのです。どうして心配するかと言いますと、恐いからじゃないよ。主は愛のかたまりです。人間はみな考えられないほど、愛されているのです。 恐れることとは、それによって祝福があるからです。そして祝福がなければ、もうおしまいです。 はっきり言えることは、イエス様のない人生は無意味です。無価値です。イエス様のみが、本当の意味で満足感を与えてくださるからです。いかなる問題をも解決する力を与えることのできる方であるからです。 ですから主の祝福がなければ、人生はみじめなものになります。最後に読みました、詩篇128篇には、幸いという言葉も出てきます。 幸福という言葉も、幸せ、実を結ぶ、全部主の祝福の結果です。ですから私も主の祝福を必要であるとわかる人は、必ず恵まれます。 イエス様は、ある教会に向かって次のように言われたことがあります。 あなたは富んでる。豊かになっている。乏しいものは何もないと言って、実は自分が、みじめで、あわれで、盲目で、裸の者であることを知らない。 これこそ考えられない悲劇ではないでしょうか。自分がだいじょうぶだと思う人は、気の毒でしょう。なぜならばそう言う人々は、助けを求めようとしないし、守ってもらいたい気持ちもないし、結局自分はOKと思い込んでるからです。 今年は羊の年です。こういう人達は羊よりもずっと多かった。羊はもちろん、動物の中で全然ダメ。もうどうしようもない動物です。けども自分はOKと思う人間はもっと愚かです。もう使いものにならないし、少なくても主はそういう人を祝福することができません。 ダビデという男は、主の祝福を得たのです。どうしてでしょう。彼は、自分は相変わらずどうしようもない者です。弱い、何も知らない羊です。けど大切じゃない。主は私の羊ですから、乏しいことはありません。私の杯は溢れていますと言ったのです。 意味は、「もうわたしは喜びで満たされています。」悩みがなかったからじゃないのです。いっぱいあったのです。ダビデは悩みながら、苦しみながら喜ぶことができたのです。 ほんものはそういうものです。問題がなければ誰でも喜びます。けど次々問題が入ると、もうたいへんなのではないでしょうか。ダビデは、主にあって大いに喜ぶことができたのです。 パウロも同じようなことを経験しました。彼はイエス様を王の王として紹介したから、何回も捕まえられ刑務所に入れられたのです。ある時、刑務所の中でつぎのように書いたのです。「わたしの神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富みを持って、あんたがたの必要を満たしてくださいます。」 私のこと忘れないで、早く出れるようにって書かないのです。自分のことをもう忘れて、自分は満たされていたから、刑務所を知らない人も、同じように祝福されるように、喜びに満たされるように。聖書の中で、今年のための主の呼びかけであるかもしれない。 エゼキエル書36:11
短い言葉ですけど、「以前よりも栄えさせる。このとき、おもえたちは、私が主であることを知ろう」 結局ね、主を知ることこそがすべてではないでしょうか。主を知ることによって、よりよく知ることによって、人間は心配から不安から解放され、生活することができるのです。 主を知る者は主を恐れるようになります。結果として満たされます。おそらくもう十何年前でしょうか?ある沖縄の奥さんから、死にそうだったんですけど、手紙をもらいました。きれいな字で、筆で書いた巻物のようだったんです。後で、ご主人と子供にその手紙をあげたのですが、彼女は次のように書きました。 主イエスを知るようになってから、幸せになった。もうちょっと天国です。 ね。あの姉妹は、司会の兄弟のお姉さんだったんです。彼は家族の救いを願ったし、祈ったし、けど彼女はもう結構です。いつも断ったのです。 説教はもうじゅうぶんです。聞きたくない。けども、彼女も悩むようになったのです。病気になったからじゃない。金がなかったからじゃない。ご主人が愛人を作ったからじゃない。子供が、わがままになったからじゃない。全部思い通りにいったのです。 けども、心は満たされていなかった。どうしよう。もしかしたら、宗教だったら何とかなると思ったのです。 幸福の科学。宗教というより金儲けのための商売でしょうけど、入っちゃったのです。そしてご主人は裁判官ですから、すぐに要求されたのです。 あのご主人は裁判官ですから、金があるはずです。あなたは幸せになりたい、幸福になりたいと思ったら、今1500万円献金すると良いよ。そして彼女は払ったのです。 考えてご覧なさい。人間は羊よりも愚かで、もうばかだよね。そして内緒だったんですよ。 そして3ヶ月後に癌になちゃったんです。幸福の科学の人達は説明したのです。どうしてあなたは癌になったかと言いますと、悪霊につかれているからです。 みんなお見舞いしてはいかん。悪い霊が移る。見舞いに行く人はみんな癌で死ぬ。捨てられちゃった。 その時兄弟はまた連絡したらしいんです。1回だけでも、俺の友達、ドイツのベックに電話しなさいよ。電話が来たのです。聞いたことないなあ。でも弟の名前聞いたとき、ああそうか、わかった。東京にいなくて、御代田だったのです。御代田の台所に中で、長い話しだったのです。 次の日また弟電話してきて、お姉ちゃんの体はぼろぼろ。長くない。けど精神的に元気になったよ。イエス様信じています。もうびっくりしました。 会うチャンスがなかったのです。けども死ぬ前の最後の手紙は、今の手紙なんです。イエス様を知るようになって幸せになった。 どうして今、そのことを話すかと言いますと、あらゆる宗教はうまくいく商売にすぎません。宗教はどうして存在するかと言えば、人間は騙されやすいから。 問題があれば、宗教に入ればなんとかなるとみんな思うでしょう。でも違います。注意したほうが良い。 もうひとつ。救われることとは、生ける希望を持つこととは簡単だよ。 今日欲しければ与えられる。イエス様とは本当に完璧なお方で、「求めよそうすれば与えられます。」 罪を赦してもらいたいと願えば、赦されます。心の平安が欲しいと祈れば、与えられます。変わらない喜びを自分のものにしたいと思えば、頼めば与えられます。 ちょっと、宗教によって盲目になってるわれわれには考えられない。本当にそうですか?勉強しなくちゃいけないのではないですか?もう少し立派にならなければならないのではないか。金も必要なのではないかと、普通の人は考えるのです。 必要ない。 イエス様は十字架の上で、「完了した。終わった。救いのみわざは成し遂げられた。ばんざい。」と言われたからです。私たちは、自分だけに依り頼むとみじめになります。だからこそイエス様の助け、祝福を求める必要があり、そのために主に目を向けざるを得ません。主の祝福こそ、すべてのすべてです。 昔、昔、ヤコブという男は非常にずるい男でした。偽善者でした。自分の父親でさえ、平気で騙したのです。 結局、自分、自分、自分。自分のことしか考えられなかったのです。結局財産があれば、金があれば、幸せと思ちゃったのです。けど、持つようになったのです。成功したのです。でも前よりもみじめになったのです。それで、叫んだのです。すばらしい祈りです。 創世記32:26
主の祝福を受ける人々とは、いったいどういう人々なのでしょうか。答えは、主を恐れる人々です。 主を恐れる者は、へりくだって心砕かれた人々です。そして光によって自分のむなしさを、みじめさを知るようになった人々です。そういう人々こそが、今日も捜し求めてられるのではないでしょうか。 イザヤ書66章で、主を恐れるという言葉じゃなくて、内容的に同じですが、 イザヤ66:2
主はどういう人々を捜しておられるかといいますと、心砕かれ、私の言葉におののく者だ。確かに主の考えと人間の考えは全く違います。いまの世とはどういう人々を大切にするのでしょうか? もちろん優秀な人々。 健康な人。 頭の良い人。 お金を持つ人。 権力を持つ人。 けども主の求める人々は、そういう人々じゃないよ、主の求めているのは、心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れる人々であると、聖書には何回も何回も出ているのです。 確かに人間は騙されやすい。主は騙されません。意味は、砕かれている心を持たない人は祝福されません。みことばにおのかない人は、決して祝福されない。 けども主を恐れることとはいったい何なのでしょうか。もちろん主を知ることです。主を知らなければ、主を恐れられないでしょう。ですから主を恐れる条件とは、主を知ることです。そのため人間とは、いろいろなことで悩みます。 隣に座ってる兄弟は、ある意味で面白くない職業を持ってるかもしれない。悩んでる人々ばっかり会っています。なんの問題も持ってない人は、兄弟のところへ行かないよ。いやあ、たいへんなのです。 でも人間はどうしていろいろなことで悩むなのでしょうかねえ。 必要だから。問題がなければ、誰も祈ろうとしない。形式的には祈るかも知れないけど、問題がなければ誰も心から祈りません。 そして祈らなければ、祈りの答えもあり得ないでしょう。そうすると主を知る可能性もない。だからいろいろなことで悩むこととは、考えられないほど大切です。必要です。 どういう問題があっても、一度イエス様のせいにして。間違ってないよ。主が許さなければ不幸はないよ。病気もないよ。すべての背後に、主は目的を持っておられるのです。 それを考えると、ある意味で楽になるんじゃない。「どうして?」「なぜ?」と考えても意味のないことです。いくら考えてもわからないよ。けども主は知っている。明後日のことも、何億年先でも。全部。 主にとって知られてないことないし、主にとって不可能なことはない。結局主は、問題を、悩みを、苦しみを与えてくださいます。主を知るために。 自分は、自分で自分を救うことができないことこそ、知るべきではないでしょうか。頑張ればなんとかなるのではない。良い子になろうと思っても、なるもんじゃない。ありのままで、おいで。と、イエス様は呼んでおられます。イエス様は、救うことができるのです。 最近、御代田のセンターの前に大きな、道しるべよりも、イエス様を紹介する看板があるのですけど、何が書かれているかといいますと、「イエス・キリスト唯一の救い。国際センター」、下に英語でも書かれているのは、「イエス・キリストこそ、唯一の救い主そのものである」と書かれています。 遠くから見るから、土台の石は3トンの重さだそうです。すごい。ゴルフ場行く人にも、必ずみんな見えるのですよ。 イエス・キリストとは宗教家ではない。唯一の救いです。唯一の救いとは罪の赦し、変わらない喜び心の平安です。 こういうものが与えられるのは、もちろんキリスト教という宗教ではなくて、十字架の上で犠牲になったイエス様です。どうしてでしょうか。 ペテロの手紙第I、3:18
救いとは、創造主のみもとに導かれることです。そしてイエス様は私を通してでなければ、誰も父のみもとに行くことができないと、イエス様のみもとに導かれた人々こそが、イエス様ご自身を知り、救いに預かった者です。 そういう人々だけが、主を恐れることができ、それによって人間を恐れる恐れから解放されます。親戚はなんと言うのか、会社の連中はなんと言うのか、同級生はなんと言うのか関係ない。主を恐れる人は、そういう変な考えから解放されます。自由になります。 主を知ることとは、罪より救われ地獄より救われ、天国が保証されてることを意味するのです。信ずるようになった人は、みな自分の心の中に持っていた満たされない心に気がつかされ、自分は、主から離れた者であり、主の罰を受けなければならないということを知るようになるのです。 その時イエス様の十字架の福音を聞き、私の受けるべき刑罰を受けて死なれたイエス様を信じ、すなわち誰でも重荷を負っている者は私の所に来なさい、私があなたがたを休ませてあげようとイエス様の招きに従ったのです。 マタイの福音書11:28
イエス様の所に行くこととは、もちろんキリスト教に入ることではないし、教会の会員になることを意味してるのでもないし、洗礼を受けるのとも全く関係のないことです。 憐れんでください、ごめんなさい、赦してください、という態度をとることです。主を知ることこそが、主を恐れるための必要条件です。 主を知ることとは個人的に知ることであり、主を喜ばせたいと願うことです。パウロは救われた瞬間、どうしたかと言いますと、 使徒の働き22:10
自分が考えてることは大切ではない。教えてください。その後で彼は、もちろん同じ祈りを捧げ続けたのですけど、それだけではなく、主よ、あなたを喜ばせたいから教えてください。 結局、主を喜ばせたいと願う気持ちを持つことも本当に大切なのです。 もう二十年前でしょう、もっと前かもしれない。ある奥さんがいました。歳は32歳で、こちらの姉妹と同じマンションに住んでいたのです。吉祥寺の近くだったのです。 そして奥さんは、子供が二人いましたけど、癌になったのです。とんでもないショックでした。 自分ひとりだったらまだしも、主人もいるし子供も二人いるし。けどもこちらの兄姉を通して集会に導かれるようになり、本当に救われたのです。心配から解放されたのです。 それはやっぱり普通じゃないよ。心配するのが普通です。けども、もう私の病気のために、癌のために死ぬのではなく、イエス様が召してくださる時に死にます。イエス様の召してくださる時は最善です。ですからもう心配しません。ゆだねちゃった。 こういう態度とることができたから、彼女の母親も、娘はすばらしいというよりも間違っていない。悩みながら喜ぶようになっちゃったからです。お母さんもイエス様を受け入れたのです。 今は大きなホールでメサイアするのですけど、昔も音楽会したのです。ちょっと小さい所で。たぶん1200人くらいかな。武蔵野文化センターで毎年。何回もやったのです。 けどもお金を取らなかったのです。そして毎回、同じ職業の兄弟姉妹が並んだのです。学校の先生だけ。幼稚園から、学校、大学の先生ばっかり話したのです。いかにイエス様知るようになったか。 ほかの回はお医者さんばっかり話したのです。その間に音楽入れて。ある時、癌にかかった人ばっかり証ししたのです。けども、やっぱりみんな真剣だよ。そしてあの姉妹も喜んで証ししたのです。 病気のおかげでイエス様を知りました。本当に有り難い。彼女の父親は、イエス様を知らなかったのですけど、もう一生懸命、写真を撮ったのです。おそらく今日が最後のチャンスじゃないかと思ったからです、もう召されると思ったから。 終わってから、ちょっと裏の廊下で会ったのです。でもどうなちゃったかと思ったのです。廊下で会った時、姉妹は悲しそうな顔してるのです。 「いったい、何かあったの。」、彼女は、「今のわたしの証しを聞いて、イエス様は喜んでくれたでしょうか?」それだけでした。 もしイエス様が喜んでくださらなかったら、どうしましょうか。 結局ね、そういう心構えを持ってることとは大切です。イエス様を喜ばせたい。人間じゃないよ。 彼女は本当に希望を持って死に向かうことができたのです。召される前の、前の夜でしたけね。木曜日の夜の祈り会が終わってから、行きましょうよ。もう一回、会いましょうよ。 重病人ですから、夜でもいつでも会える。入ったら姉妹がいて、妹さんが面倒みてたのです。小さい声で、歌ったり聖書を読んだり。その時姉妹は「本当に心からそう思う。癌になって良かったあ。全部うまくいったら求めようとしなかった。救われなかった。」と話したのです。 姉妹は我々に向かって話したのですけど、本当は隣に座っていた妹のためにだけ話したのです。直接だったら反発するから。 ですから賢い姉妹でした。私たちに向かって話したのですけど、妹のために証ししたかっただけなのです。妹は何を言ったかと言いますと、「強い。」結局、つかめなかった。 この強さはどこから出てくるの?その後で妹も、お姉さん召されてからイエス様信じるようになり、会社を経営してるお父さんもイエス様信じるようになり、妹さんのご主人もイエス様を信じるようになったのです。 次々と、導かれたのです。どうして? あの姉妹はイエス様を喜ばせたいと思ったからです。普通の生まれつきの人間は、皆、自分、自分、自分、自分、自分、自分のことで、いっぱい。自分の思い通りに行かなければ嫌なのです。 けども彼女は、自分はもう良いよ。わたしのために何が一番良いかわからない。イエス様は私を癒すことができるし、あなたにとって不可能はない。 でも今、癒されることが最善であるかどうかわからないからおまかせします。彼女は本当に勝利者として召されるようになったのです。 結局、自分自身を喜ばせようとしても、なかなかうまくいかない。ほかの人を喜ばせようとしてもたいへんです。 けどもイエス様を喜ばせたいと思うと、主は本当に祝福してくださるのです。 自分のことだけを考えれば、全部うまくいかなくなる。結婚生活も、家庭生活も、社会生活も、うまくいかない。結果として競争があり、ねたみがあり、不平不満があり、憎しみまでもあります。 イエス様について、聖書はなんと言っているかといいますと、自分自身を喜ばせようとはなさらなかった。無視されても、殺されても捨てられても、結構。ある詩人は、つぎのように歌ったのです。 人間が、私を批判したり、誉めたり、大切にしたり、誤解してもかまいません。 主よ、あなたに喜んでいただくことが、私にとってずべての、すべてです。 このような態度をとる者は、人間の判断から解放され、隣人に対する態度は正しいものとなります。自分自身のために生きるのではなく、主に喜ばれたいと思うようになります。 主に喜ばれたいと願う者こそが、大いに祝福されます。 一番大切なのは、それだけではないでしょうか。最後に一カ所読んで終わります。この世で一番成功した王様、ソロモンの告白です。 箴言10:22
結局、主が祝福してくださらなければ、もう、おしまいです。 |