引用聖句:詩篇33篇1節-22節
今の世界とは、みなさんご存知のようにばらばらになった世界なのではないでしょうか。世界そのものでなく多くの家族も、もうばらばらになっています。 ある家族の上の二人の娘さんは、家出してボーイフレンドと住むようになってしまった。親がなんと言っても結局全く聞く耳を持たなかった。 6人の子供を持つ家族なのですけど、主人は愛人を作っちゃったし、奥さんはもうどうしようもなくて、逃げなくてはならなくなっちゃった。それまでに奥さんは電話で話したのです。「主人は全然主を恐れてはいません。」それはじめての文章だった。ようくわかっています。問題はそれだった。主人は全然主 を恐れてはいません。家帰ると、主人は大きな声出して、子供は恐ろしくて泣いてる。誰がなんと言っても聞く耳はない。姉妹はかしこい姉妹でしたから、「どうしましようよ?」と聞かなかったよ。自分でわかちゃったから。「祈るしかないねえ」と。その通り。 人間的に考えれば、もうなんにもできない。けれども主を恐れないと祝福はないし、家族は確かにばらばらになるし、平安もないし、喜びもあり得ない。ですから聖書全体は、主を恐れる恐れの大切さを強調しているのです。 おそらく一番頭も良いし、大財産家でもあったソロモン王は次のように言ったことがあります。 詩篇111:10
短い文章です。けども本当に大切です。主を恐れることは知恵のはじめ。主を恐れない人はノーベル賞をもらっても決して賢くないと、聖書は言っています。 今の読みました詩篇33篇は、すごい素晴らしい賛美、主を誉め称える証しなのではないでしょうか。 今の世界の出来事について考えると、10節、11節に書かれているのですけど、 詩篇33:10-11
結局主は支配しておられる。ですから何があっても、もう全部主のせいにしましょか。 主が許さなければ何にもなり得ない。我々は長い目で見ることはできないから、やっぱりいやどういうことになるのか。たいへんじゃないのかと、もちろん思うようになります。 けども人間はそう言うものなのです。人間の視野はあんまり狭いなので、イエス様は明日のことは考えないで、今日のことで十分でしょうとおっしゃったのです。 この詩篇の中で12回も、や、ごめんなさい23回も「主」という言葉が出てきます。今の時代で、我々も、神、神 ではなくて、「主」と言う言葉を使うべきじゃないかなあ。 結局ただ神様という言葉を使うと、私たちは単なる宗教家になります。ね、文部省で登録されてる17649の宗教は、みんな「かみさま、かみさま、かみさま・・・」と言うのです。宗教によって、かみさまは違うのです。そうすると全く意味のない言葉じゃないでしょうか。 詩篇の作者は、神という言葉、2回しか使ってないね。12節、 詩篇33:12
結局まことの神とは、もちろん無宗教です。宗教と全く関係のないお方です。この方とは結局、全部自分の命令によって創造されたのです。 詩篇33:9
光よあれと言われた時、光になっちゃった。なんの材料も必要ない。主がすべてを無から創造されたお方です。この主とはどこでも臨在しておられ、同時にそれから、この主とは、なんでもできるお方である、なんでも知っておられるお方であります。結局、ピンときません。 この創造主なる神、支配者なる神をわかろうと思っても無理です。できません。死んでから永遠の世界に入って、初めてわかるようになります。今は全く無理です。 けども悩んでる人々は、この方に信頼し、もし答えられれば確信できる。けども理性では相変わらずわからず説明できないけど、三千年前にダビデは主を知るようになった者として、このように主を誉め称えたのです。 そして、彼の呼びかけとは8節です。 詩篇33:8
幸福になる道は、それしかないから。 詩篇33:18
結局聖書全体は、主を恐れることの大切さを述べているのです。どうして主を恐れるべきなのでしょうか。恐いからじゃない。 すべての宗教の神々とはこわい。恐ろしい。結局従わなければ、良い子にならなければダメだからです。 まことの神を恐れることとは、ちょっと全く違うことなのです。どうして主を恐れるかと言いますと、そうしないと祝福されないからです。幸福になり得ないからです。 アブラハムという男は、確かに大いに祝福されたのです。彼は自分の持っている物を全部捨てたのです。「あなたの国かから離れなさい。」「友達から離れなさい」 どこまで導かれるかと彼は知らなかったけど、彼は従ったのです。ちょっと考えられない。説明はステパノの言った言葉です。 ステパノは石で殺される前に、イエスラルの歴史について、大切なことを全部証ししたのです。使徒の働きの6章、7章を読むと全部細かく書いていますけど、そのステパノは、アブラハムについて一言葉だけ引用したのです。 栄光の神がアブラハムに現れた。それで彼は偶像を捨ててこの神に従った。この栄光の神に従いますと損しません。必ず報われます。この栄光の神のために生きることこそ、私の使命であると彼はいっぺんにわかったのです。 そして彼は大いに祝福されましたし、全世界の人は彼によって祝福されたと聖書は言っているのです。本当の意味での信者は、アブラハムの子と呼ばれています。アブラハムは信仰の父と呼ばれるようになったのです。 けれどもこのアブラハムは、どうして祝福されたのでしょうか。彼は主の前に告白しました。祈りの中で彼は「わたしは塵、灰にしかすぎません」と、言いました。 多くの人は、私はだめだ、だめだと言っています。本当はでもそう思ってないよ。相手がそう言えば、本当に良い気持ちになりません。けどもアブラハムは私は塵、灰にしかすぎません。 塵、灰とは役に立たない捨てるべき物です。ね。塵、灰を集めても金持ちにならない。アブラハムは本当に心からそう思ったのです。私は、捨てるべきものです。全く役に立たないものです。 主を恐れる結果とはそう言うものではないでしょうか。 ペテロもそう思ったことがあるのです。ですから彼は必死になってイエス様に頼んだのです。もちろんイエス様は、幸いに人間の愚かな祈り全部聞いたりしないよ。 ペテロはなんと頼んだかと言いますと、イエス様お願い、私から離れて、私は罪深い者だからです。 宗教によって影響を受けた人々の気持ちは、そういうものなのです。主は、神は、あんまり聖いですから私と交わることはあり得ない。無理です。あり得ない。 ペテロはそう思ったから、私から離れてください。私は罪深い者です。そう言ったのです。彼の祈りは聞かれなかったよ。主は彼の罪を赦してくださった。主は彼の自分の弟子としてくださった。そして後で大いに用いてくださったのです。 結局、自分はダメだとわかると非常にありがたいのではないでしょうか。 時々若者でさえも、もう自信がないと言うのです。確かに大変だよ。けども聖書からみると、これを出発点にならなければ、祝福がないなのではないでしょうか。 イザヤは、もう私はダメだ、汚れた者だからと言ったのです。けども祝福される出発点だったのです。主を恐れる人こそ幸いである、幸福であると聖書は言っているのです。 主を恐れることとはなんなのでしょうか?主を恐れることとは自分のむなしさ、みじめさを知ることではないでしょうか。主を恐れる人々こそが、捜し求めておられるのです。イザヤ書の66章を見ると次のように書かれています。 イザヤ書66:2
結局主を恐れることとは主の言葉におののくことである。だいたいの人々の聖書はちっぽけなものなのです。意味は、大切なのは、聖書の言ってることじゃなくて、自分は何を思ってるか、何を言っているか。 そうすると祝福がない。聖書の強調している自己否定は、 「わたしの思ってること、考えてることは大切ではない。みことばはなんと言ってるか?」 青年であるサムエルは心から祈ったことがあります。「主よ語ってください。しもべは聞いております。」 主は、その当時大祭司であるエリに話すことができなかった。彼は聞く耳を持っていなかったからです。主よ。私はどうしたら良いですか。そういう気持ちが一切なかったのです。ですからこの大祭司は無視され、若いサムエルに主は語られたのです。 結局主を恐れる者は、聞く耳を持っているのです。だいたいの人間は耳を持っているのですけど、聞く耳を持っていなければちょっと問題なのではないでしょうか。 ヨハネの黙示録の2章と3章の中で、7回もやっぱり耳を持つ者は聞きなさいとおっしゃっています。結局聞く耳がないと、主は祝福することがおできにならない。まことの幸せの秘訣とはいったい何なのでしょう。「主を恐れることです。」 詩篇128:1、4
一言で言いますと、主を恐れればOK。だいじょうぶ。祝福が流れるからです。主の祝福こそが幸せの素であります。 ある時沖縄からすばらしい手紙をもらったことがあります。素晴らしい筆で書かれていたので、後でご主人と息子にあげちゃったのです。裁判官の奥さんからの手紙でした。彼女は幸福の科学って新興宗教に入っちゃって、そして要求されたから1500万円払ったのです。幸せになりたいと思ったら1500万円払いなさい。彼女は払ちゃったのです。 ちょっと考えられない。幸福になりたかっただけだよ。ね。本当の意味で幸福になれて永遠の命を得れるなら1500万円はちょっと安いのじゃないかな。けども宗教に入ることによって人間は騙されます。 宗教がどうして人間に騙されるかと言うと、人間は騙されやすいからです。結局内緒で彼女は1500万円払ったのです。3ヶ月後で癌になって手遅れだと言われたのです。もちろん宗教家は偽善者ですから、言い訳けを見つけます。 「あなたは悪霊につかれているから、このひどい病気になちゃった。」見舞いに行ってはいけないと言われたし、結局捨てられたのです。結局私は彼女の弟をよく知っています。彼は一生懸命止めたのです。 姉ちゃんイエス様しかないよ。イエス様しかないよ。ダメでした。けども幸福の科学から捨てられちゃったし、病気も手遅れ。どうしよう。弟は私の電話番号を教えたのです。 弟の名前を聞いてわかった。40分、50分。話した。弟が次の朝電話して来て、「お姉ちゃんは体はもうぼろぼろだけど、精神的に元気になったよ。幸せだよ。 イエス様を信じてます。」 もうびっくりしました。会うチャンスはなかったのです。死ぬ前の手紙。欲しい物全部持ってたような生活だったけど、心が満たされていないから騙されてしまいました。得るものはひとつもなかった。でも今イエス様を知って幸せです。もうちょっとで天国です。 宗教とはそう言うものなのです。宗教は人間の幸せを考えるものじゃない。人間の金だけ。どういう宗教であれ、キリスト教を含めて。 幸いにイエス様はキリスト教と関係のないお方ですからうれしい。そうでないともう逃げたい気持ち。結局宗教は、お金、お金、お金しか考えていない。 イエス様は人間から何も要求しません、お金も、立派になることも、頭の知識も。「ただおいで。私の所に来なさい。休ませてあげます。」 それから奥さんは、一回も教会も集会も聖書も読んだことがないけど、イエス様を信じましたから幸せです。天国です。結局希望を持って死に向かうことができた。 結局彼女も、いろいろなことを勉強して理解したのではない。信じたのです。へりくだれば、頭を下げれば、主は喜んで下さるということなのです。 主を知ることの結果とは、悩みながら喜ぶことができる。不安からも解放されます。そして今話した姉妹のように、安心して死に向かうことができるのです。 結局主の考えと人間の考えは、全く違う。 今の社会また世界とは、やっぱり権力者を大切にする。金持ち、頭の良い人、そのような人を大切にします。主はそういう人々を無視します。主はどういう人を求めておられるかというと、心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人々です。 確かに人間に信頼しないほうが良い。何かを聞くと、あ、そうか。そうかもしれないし、違うかもしれないと言う態度をとったほうが安全ではないでしょうか。 人間は騙されやすいよ。けども主は騙されません。これはある意味でありがたい話しで、別の面で大変な事実なのではないでしょうか。 すなわち砕かれている心を持たない人は祝福されない。みことばにおののかない人は決して祝福されない。主を恐れない人は、何があっても祝福されない。ということです 主を知るようになる者は、主を恐れるようになります。けども主を知ることとは、ごめんなさい、変な表現使ってしまうのですけど、主を知ることとは頭でもって掴むことじゃないんです。 主を信じることとはみことばを信じることです。聖書から見ると、主とみことばは同じです。ですからイエス様も聖書の中で神の言葉と呼ばれています。主を信じることとはみことばを信じることです。 みことばを信じると楽になります。たとえばひとつのみことばだけ信じてみると、違うのです。たとえば「すべて疲れた人、重荷を負ってる人。悩んで人、孤独なひとはおいでー。私の所へ」イエス様の所に行くと、何を経験するのでしょうか? すなわち愛されてることを確信できるのです。愛されてる事実を知るようになった人は、もう喜ぶことができるようになる。感謝することができるようになる。安心してすべてをまかすことができるようになる。 主を知ることこそが、最も大切なのではないでしょうか。この主について聖書は次のように言っています。 ペテロの手紙第I、3:18
みもとに導かれた人こそが、主を知り救いに預かった者です。 (この後テープが少しとぎれています) みことばの前に小さくなることです。主よ語って。わたしの思い、考えは大切ではない。御心だけがなるように。 それから、主を喜ぶことのもうひとつの結果とは、主を喜ばせたいという切なる願いです。もう自分のために生きたくない。心は空っぽになるから。あなたのために生きたい。あなたを喜ばせたい。どうしたら良いのでしょうか?この態度をとることです。 イエス様は自分のことをきれいに忘れました。私は無視されても、捨てられても、殺されても別にいいよ。父の御心だけがなるように。という態度をとられました。この態度を取ると喜ぶことができるのです。自分自身のことばっかり考えると、ほかの人を導こうと思っても導けません。何と多くの人々が、自分のことで精一杯で、なんにもできなくなってるのではないでしょうか。 ある詩人は、次のように歌いました。 「人間が、私を批判したり、誉めたり、大切にしたり、誤解したりしても、かまいません。 主よ、あなたに喜んで頂けることこそ、私にとっては、すべてのすべてです。」 こういう心構えを持つことこそが、大切です。この態度をとる者は人間の判断から解放されます。隣人に対する行動は正しいものになり、自分自身のために生きるのではなく、ほかの人のために生きたいと切に思うようになります。 主に喜びたいという願いの結果とは、こういうものであります。 主を恐れることとはなんなのでしょうか。主の前に小さくなること。みことばにおののくこと。そして主に喜ばれたいと思うことです。もうひとつ、主にすべてを捧げることです。もっとも良いものを捧げることです。もちろん、自分の力ではできません。 けども主の偉大さを知るようになれば、やっぱり違います。前に話したアブラハムは、栄光の神に出会ったから、価値観も考え方も変わりました。主は彼に素晴らしい約束を与えました。あなたの子孫を通して、全世界に素晴らしい祝福を与えられますよと。 けども子供いなかったのです。けども主は心配しないで、私にとって不可能な事はない。何十年待っても子供が生まれない。確かに変な道にも行った。けども彼は失敗した後で悔い改めるようになったのです。 それから前よりも祝福されるようになったのです。子供は与えられたのです。イサクという子供です。もうアブラハムにとってすべてのすべてでした。 もう朝から晩まで、イサクが与えられたうれしい。やっぱり主は祈りを聞いてくれた主はすごい。完璧だ。けどもある時主は、この子供を私に捧げなさい。いけにえとして。意味は殺せ。ちょっ−と考えられない。創世記を見てみましょうか。 創世記22:2
アブラハムは、主よなぜ。どうして。なぜ息子を殺さなくちゃならないの。もしイサクが死んだらあなたの約束はどうなるの。そうつぶやくことを断じてしませんでした。結局栄光の神とはあんまり偉大であるから、私は今主の命令によって子供を殺しても5分後でこの子を生かすことだってできる。主にとって不可能なことはない。彼は確信したと、ローマ人への手紙4章に書かれています。 私に捧げなさい。そして彼はそうするつもりだった。ほんとは必要なかった。主は「やめろ。子供殺さなくても良い。ここに小羊がいるから、あの小羊を殺しなさい。」この小羊とは、イエス様を指し示すのであります。人間が裁かれないために殺されなくても良いように、イエス様は犠牲になられたのです。アブラハムは主を恐れたものでした。 創世記22:5
人間的に言えば、うそつきじゃないか、偽善的な行為じゃないかと考える人もいるかもしれない。もしアブラハムが現実だけを見たら、言えなかったはずです。 彼はなんと言うべきだったかといいますと、私はあそこに行き、あそこで子供を殺してから、私はぺちゃんこになって一人で戻ります。けども彼は、そう言わなかった。私はあそこに行き礼拝をすると言ったのです。礼拝とは、すべてを捧げる事です。 創世記22:12
アブラハムは何をわかったかといいますと、主はまことの礼拝者を求めておられます。 礼拝することとは、捧げることです。 捧げることとは、主を恐れる結果であると言われています。主の祝福を受ける人々とは、主を恐れる人々です。ですから詩篇の作者は「幸いなことよ。すべて主を恐れる者は。」そういう人々こそが大いに祝福されるのです。 この祝福とはいったいどう言うものなのでしょうか。前に読みました詩篇128篇の中で、現実問題としていろいろ詳しいこと書き記されています。 詩篇128:2-3
ね。「あなたの子らはあなたの食卓を囲んで」とは、親子の親しい交わりです。多くの人々は夢の世界だと言います。でも主の祝福の結果とは、そう言うものなのではないでしょうか。 ま、夕べもある家族の目標について話されたのです。ある家族はひとつの目標を持つようになったのです。8つに分けて。 【1】イエス様、大好きな家族になろう。 【2】お父さんはイエス様に従い、お母さんはお父さんに従い、子供達は親に従う家族になろう。 【3】みんなが優しい気持ちを心がけ、愛し合い、祈りあう思いやりの育てる家族になろう。 【4】「ありがとう」が言える明るい、優しい声の溢れる家族になろう。 【5】家族の中から、いじわるな気持ちを追い出そう。 【6】間違った時には、ごめんなさいと言える家族になろう。 【7】他の困った人や、悲しんでる人のために、イエス様に祈る家族になろう。 【8】イエス様に喜ばれる家族になろう。 ま、自分の力でできないよ。でもそういう心構えがあれば、主は必ず不可能を可能にするのです。これこそが祝福なのではないでしょうか。 詩篇145:17-19
この詩篇145篇も、主を恐れることの大切さなのではないでしょうか。 ソロモンは、主の祝福そのものが人を富ませ人の労苦は何もそれに加えないと記しました。毎日、主よわたしはどうしたら良いの?教えて−−? あなたを喜ばせたいけど、何をしたら良いかわからないから、明らかにして−−この態度をとると、主は必ず恵んでくださるのです。 |