引用聖句:詩篇25篇9節
コリント人への手紙第II、8:9
今読んでもらった箇所の中で、同じ言葉が何回も出てきたんです。「貧しい」という言葉です。 イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」、「幸せです」と言われたのです。結局貧しくならなければ救われる見込みがないと、聖書ははっきり言ってるのです。 普通の人はもちろん貧しくなりたくない、富む者になりたいのではないでしょうか。けどもここでパウロはコリントにいる人々に、「あなたがたは富む者となるために主イエス様は貧しくなられた。」ということです。 詩篇の作者であるダビデは、「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えらるる。」、結局貧しくならなければ導かれ得ない、祝福され得ない、幸せになることができないということになります。 昨日大部分の方々が、大宮までメサイアを聴くために、あるいは歌うために行かれたなのではないかと思います。2,500人入るホールはだいたいいっぱいになったし、別に宣伝なし。 時々パンフレットを作ったり、いろいろなポスターを作ったりして、あちこち宣伝します。どういう団体かちょっとはっきりわからないけども、兄弟は電話で頼まれたんです。「われわれもメサイア歌いますから、私たちは玄関の所であなたがたの所に来る人みんなに配りたいからいいですか?」 彼は僕とも相談したけども、「断っていいじゃないか」と言ってたんです。どういう団体か結局はっきりわからないし、後でどういうことになるかわからないから断った方がいい。結局ね、宣伝しないと人がなかなか集まらない。それ普通でしょう。 けど集会の場合はそうじゃないでしょう。別に頼まなくてもみんな犠牲を払って、幸せになってもらいたい人々のためにキップを買ってあげるんです。そうするといっぱいになっちゃた。 はじめて来た人も非常に多かったし、オペラグラスを借りて見たら、歌う人々ちゃんとよく見えるんです。一人一人どういう顔で歌うのか、どういう気持ちで歌うなのか、だいたいわかる。大きく見えるから。 ちゃんと見たんです。バスのソロ兄弟もいましたし、本当にもう真心から歌ったんです。けど奥さんは死にそうです。今日か明日かいつ死ぬかわからない。けども奥さんの願いもそれなんです。「主人に歌ってもらいたい。主のために歌ってもらいたい。」、それをもうはっきり感じました。 ある兄弟は、もう一番考えてる顔で歌ったんです。それから奥さんは、前からいつも勧めたんです。「あなた練習行きなさい。私はもう今日死んでもいいよ。行きなさい。あなた歌わないとだめよ。」、そしていつでしたかね、一月前にあの奥さんは天に召されたんです。 けども彼は本当にイエス様こそ最善であり、奥さんは先に行っちゃたけどもちょっとまた会える。彼はメサイアを歌うことによって、導かれイエス様を信じるようになったんです。 それから別の夫婦も、ご主人も奥様も入って一緒に歌ったんです。けども先週の火曜日の集会の前だったか、奥様はちょっと2階に来て、「実は息子夫婦は自殺しようと思って、薬を飲んで車の排気ガス車の中に入れて、それから新聞配達の人に次の日の朝発見されて入院されてるんです。嫁は意識戻ったんですけど、息子はまだ戻っていない。けど私たちはメサイア歌います。2人とも死んでも。」と言ったんです。 普通の人はちょっと考えられない。けどもやっぱりイエス様知るようになった人は、自分のこと忘れ、「イエス様が働くことができればいいじゃないか」、そういう心構えになってるんです。 今息子も意識戻ったんです。一度助かったけど、もちろん二人ともはお互いのこと、精神病院で知るようになっちゃたし、ですから健康人は判断できません。ですから別に判断しなくてもいいけども、あの親の気持ちもやっぱりちょっと想像できないし、理解することもできない。 けども自分はいくら悩んでも、イエス様はすごい!やっぱりイエス様が働くことができればありがたい、そういうま気持ちだったのです。 音楽会終わってから、ちょっと帰り道である病院まで行こうと思って、ある兄弟と会いたかったんですから行きました。私たちの前に先に5〜6人も行っちゃたし、僕たち帰った時また5〜6人急に見えましたし、結局みんな行きたい行きたい気持ちでいっぱいなんです。 本人ももちろん音楽会に出たかったし、来週からドイツの喜びの集いが始まるんです。その時彼の家族みんな行くと予定したんですけど、キャンセルになったんです。無理、いくら考えても無理。 今朝もちょっと手術になりますけど、あんまり意味のない手術なんですけれども、助けにならないけども、ですから夕べどうしても会うと思って。彼は50歳なんです。会社を経営する兄弟で、会社で勤めてる人だいたい70人ですかね、もう何年間の戦いですしいつ倒産になるのか、けども今度彼の番になっとるんです。 やっぱりたいへんだと思うよ。けどももう喜んでる、本人は。手遅れだと聞いた時、「あぁそうか、50年間、じゅうぶんじゃないか。そしたら天国行くと、いいじゃないか。」 もちろん子供も、3人の子供残さなくちゃいけないし、人間的にがんばってと言えないし、何も言えないよ。「一緒に悩みたい。」、としか言えないでしょ。 けども彼も奥さんも本当に慰められている!この世に来られたメサイアのおかげです。イエス様は自分自身を、永遠の昔から持っていた栄光と富を全部捨てちゃって、貧しくなられた。どうして?それは「あなたがたがキリストの貧しさによって、富む者となるためである」、とここで書かれてます。 本当にメサイアはもちろん聖書そのものなんです。人間の言葉ひとつも入ってないんです。全部聖書から引用された言葉だけです。 「主の栄光が現われる。」そういうふうに始まるんです。「闇があっても、苦しみがあっても、孤独があっても、絶望があっても関係ない。メサイア、人間を救うお方、人間を解放するお方、人間の心を満たすお方が来られるよ。」、と約束され、それから「この方とは、ま素晴らしい助け手です。何でもできるお方です。」 それから「イエス様が来られた。お生まれになった、主に栄光あれ。」と、それで、この来られたメサイアの招きの言葉も出てきた。「すべて疲れた人、重荷を負ってる人はわたしのところに来なさい。休ませてあげます。」 もちろん復活について、またイエス様の再臨について全部出てきたんです。ちょうどあの再臨の言葉を、バスの兄弟が歌ったんです。おそらく奥さんの死について、イエス様の勝利について考えながら歌ったに違いない。 結局イエス様はすべてにまさって偉大である。メサイアという音楽は結局、勝利者なるイエス様を紹介するためのものです。勝利者なるイエス様は、人間の決して解決できない問題、すなわち罪の問題を解決してくださった! イエス様はあらゆる心配から、孤独から解放することができるお方です。イエス様だけが本当の希望を与えられるお方である、と聖書全体は言っているのです。 パウロは何回も勝利者なるイエスを紹介したから、刑務所の中で何年間も過ごすようになったのです。ある時彼は次のように書いたのです。 私の神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもってあなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。主はもちろん同情しないお方です。人間の欲しいものを与えようとしないお方です。 人間の欲しいものすべて持つようになれば、考えて。もう大変なことになると思う。もっともっとわがままになります、みんな。 主は人間の欲しいものを意識して与えようとしない。人間の欲しくないもの、いろんな悩み、苦しみ、病気を与えてくださる。どうして?必要だからです。 パウロはそれを刑務所の中でまた経験したんじゃないかね。主は私の必要を満たしてくださる。幸せ。私はもう心配する必要はない。一緒に、刑務所の中で一緒にいるイエス様は、私の必要なものを満たしてくださる。結局こういうふうに不自由になったパウロは、自由の身となってる人々のためになっちゃたんです。 「私の神」ね、財産家でしょ、神は私のものと彼は言ったんです。私の神は、イエス・キリストにあるご自身の栄光の富をもってあなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。主とはそういうお方です。 旧約聖書の中で、この必要を満たすお方を知るようになったやもめについて、次のように書かれています。よく知られてる箇所なんです。非常に満たされていない状態におかれた女性についての箇所です。 列王記第II、4:1
ま、大きな声で。叫んだ〜。 列王記第II、4:1
彼女は一人ぼっちになった。 列王記第II、4:1
結局私の主人は、 列王記第II、4:1
大切なのはそれなのではないでしょうか。主を恐れない人はもう希望なし。まことの喜び、平安なし生活しなくちゃならないからです。 私の主人は主を恐れておりました。それで終わればありがたいけど、決してそうじゃない。 列王記第II、4:1
昔はそういうやりかただったんですね、借金をすると返すことができなければ、結局金の代わりに子供を捕らえられるようになったのです。母親にとって考えられない心配、悲しみでしょ? 列王記第II、4:2
隠さなくてもいいよ。 列王記第II、4:2
もう、貧乏人の貧乏人です。 列王記第II、4:2-7
結局、借金全部払うことができただけじゃなくて、もう今から安心してまた子供と一緒に生活するようになった。結局もういっぺんに問題は解決され満たされるようになったのです。 満ち満ちておられる主は、私たちをも満たしたいと望んでおられると聖書全体は何回も何回も言ってるのです。結局主の切なる願いは、ご自身の満たしでもって私たちを満たすことです。主の満たしとは、主のうちで、イエス様のうちで形をとってあらわれてくるものであり、そしてこの主と結びついてる者は結局満たされるようになります。 コロサイ人への手紙の2章を見ると次のように書かれています、 コロサイ人への手紙2:9-10
結局満ち満ちておられるイエス様につながる者は、満ち満ちてるのである。離れたらもう空っぽです。 あの列王記第IIに出てくるやもめとは、だいたい2,600年前に生きた女性でした。非常に賢い女性だったのではないかと思います。近所、知り合いの人々の所行って、不平不満を言ったのではないし、いろいろな人間の助けを求めようとしなかったのです。主によって特別に遣わされた預言者であるエリシャの所へ行ったのです。 そしてこのエリシャとは、空っぽの器を借りなさいと言ったんです。空の器を借りるようにと彼は言ったのです。結局聖書の中で、確かにいろんなおもしろい、考えられないこと、書かれています。 ある時主はエレミヤに、「カルデヤのところにいる土地を買いなさい」と言ったんです。あの土地は敵のものになっちゃたんです。ですからそのために金を出すのはまったくおかしいよ。意味のないことです。 例えば日本人は例えばどこですね、北の島サハリンですかね、向こうに行って土地を買いなさい。普通の人しませんよ。いつ日本のものになるかわからないよ。相談するんですけど何年かかるのかわからないからやっぱりおかしい。そういうことだったんです。そしてエレミヤはそれをしたんです。 結局敵の国行って、土地を高いお金を出して買っちゃたんです。人間的に言えばばからしいよ。けども彼はどうしてそうしたかと言いますと、主は「近いうちにイスラエルのものになりますよ、あの土地。」、彼はそれを信じて金を出して買っちゃたんです。人間的に言えばおかしい。 このやもめのやったこともおかしかったよ。空の器、借りても何にもならないじゃないでしょうか。人の捨てた金を集めなさい。そういうもんです。まったくおかしいよ。 けど彼女はそうしたんです。結果として損しなかったのです。満ちあふるるばかりの祝福を体験的に知るようになったのです。ですから彼女は、まこの態度とったからわれわれの模範となりえるなのではないでしょうか。 彼女は結局全部言ったんです。何を持ってるか答え、「何も持っていない。」、やっぱりおもしろくないよ。何にもないよ。結局何も隠さないで、ありのままの状態を、自分の困ったことをあらわに示したからです。 イエス様の呼びかけ「おいで、わたしのところに来なさい。」ということとはそれなんです。隠すと何とかなるじゃないかと思う人は、ほんとの意味でイエス様のところに来ることができません。 別の女性について、聖書は次のように言っています。彼女はイエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実をあますところなく打ち明けた。結果として彼女は奇跡的に癒されちゃったんです。喜びに満たされるようになったんです。 イエス様の前に出なければ、何か隠すと結局人間は決して決して満たされ得ない!私たちも同じように、どんな困ったことがあっても、その時こそイエス様のみもとに行き、そのことを包み隠さず主に打ち明けると、もちろん受け入れられるだけではなく、救われるだけではなく、あらゆる束縛から解放され、本当の意味での喜びに、平安に、希望に満たされるようになります。 かつて空っぽであった器は、用いられる器となるということです。やもめはエリシャのところ行くことによって、何も隠さないことによって、心配から解放され、今まで知らなかった喜びを得るようになったのです。 人間はみな空の器のようなものです。けども主は、その空の器を満たしたいと望んでおられます。 イエス様の弟子たちはある意味で、それを何回も何回も経験しました。ヨハネは弟子たちの代表者として、次のように書いたことがあるんです。あのヨハネの福音書の1章の16節に次のように書かれてます。 ヨハネの福音書1:16
弟子たちはイエス様と一緒にいると、「やあ大変です。神経を使います。」と、誰も言ったことがないんです。主の近くにいることは、われわれにとって幸せであると、彼らは3年半経験することができたのです。私たちは、イエス様の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。これこそが彼らの経験でした。 聖書の言われてる「満たし」とは、もちろん「もの」ではない。イエス様です。そしてこの主イエス様は、私たちをも満たしたいと切に望んでおられます。 預言者エリシャは、やもめが自分の持ってる器だけを満たしてもらうだけではなく、他の人たちの器をも借りてきて満たしてもらうようにと、言ったのです。 同じように私たちの場合も、自分だけが満たされるだけじゃなくて、いろいろな問題で悩み、苦しみ、まことの救いを求めてる人々も、また主は満たしていただきたいと望んでおらるるのです。 詩篇の作者であるダビデは、主の代わりに次のように書いたのです。詩篇の81篇の10節です。多く人々の大好きな言葉のひとつなんですね。 詩篇81:10
結局主は満たしたい。ほんの少しのものだけをあげたいなのではなく、完全に満たしたいと望んでおらるるのです。残念ながら多くの人は祈りのために、また祈りを通して、口を大きく開けようとはしませんし、また主が私たちを豊かに満たしてくださるまで、辛抱強く待とうとしません。 ヨハネの福音書の2章。ある結婚式についての話が出てきますけれども、イエス様のはじめて、弟子たちの前に行なわれた奇跡とはある結婚式の時行なわれたのです。 ヨハネの福音書2:1-2
おそらくイエス様の母親であるマリヤの親戚の結婚式だったのではないかと考えられます。ですからイエス様も弟子たちと一緒に一度招かれたんです。もちろん単なるお客さまとして。 ヨハネの福音書2:3
今日の結婚式だったらそんなことおそらくありえないでしょう?来る人数はだいたい決まってるし。そしてぶどう酒出しても披露宴はだいたい2〜3時間しかないから、だいたい計算できるんです。なくならないように。 けど、昔は計算できなかったんです。一日だけじゃなくて、だいたい一週間みなお祝いしたんです。そうすればいつぶどう酒がなくなるか、ちょっとわからない。招かれてない客も急にみえたかもしれないし、みんなどうぞ、どうぞ。けど結局なくなったんです。 マリヤはもし中心的な人物じゃなかったならば、それをわからなかったはずです。ただお客さまとして招かれた人々は裏のことわからないからです。彼女は裏のこともわかったから、「ぶどう酒がなくなった。」と、彼女は報告しただけなんです。「イエス様おねがいします。何とかして。」と言わないよ。その時までイエス様奇跡を行なったことがないんですよ。けどもやっぱり報告すれば、まちがいない。何でもイエス様に話せば、ほんとに楽になる。4節は、ちょっとびっくりする節じゃないかな。 ヨハネの福音書2:4
イエス様はマリヤに向かって、おそらく一回も母と言った・・・ (テープ A面 → B面) ・・・「私の神よ」と言った人に向かって、イエス様は一回も「違う違う、わたしは神じゃない」と言ったことがないよ。神だからです。イエス様は神と呼ばれていたし、神の子どもとも呼ばれていたし、そして人間の子どもとも呼ばれていたんです。全部正しいよ。 けども、イエス様はどうしてここで「女の方」と言ったなのでしょうか。結局マリヤは困ってるでしょう?何とかしなくちゃいけないじゃないの?イエス様はちょっと違う感覚だったんです。 大切なのは人間の思ってることじゃない。あなたは人間的に考えてるし、わたしは祈ります。大切なのは父の思ってることだけです。わたしの時はまだ来ていない。わたしは自分勝手に行動しません。父が動けと言えば私は動く。わたしの話してることは、わたしの考えてる言葉ではない。父から聞いた言葉だけです。 結局イエス様は自分のこと大切にしようとしなかった。わたしは虫です。そういう態度とったんです。 人間は、生まれつきの人間はそういう気持ちを知らない。やっぱり自分、自分、自分を大切にするのは人間です。イエス様はそういう気持ちを持っていなかったのです。ですからその意味で、イエス様を産んだマリヤとイエス様とは全く関係のないものでした。もちろん彼女は怒らなかったよ。 けしからん。あなたのために痛みを感じたじゃないか。いままでただで食べさせたなのではないか。ただで泊まったじゃないか。そういう気持ち、いっさいがっさいなかったんです。5節見るとその証明でしょう? ヨハネの福音書2:5
ほんとに素晴らしい考えなのではないでしょうか。ある意味で彼女は無視されたのではないでしょうか。けども彼女はやっぱり、私は間違っていたと瞬間的にわかったと思うよ。 ですから召使いたちに、「あの方が言われることを何でもしてあげてください。あなたがたはわかってもわからなくても、関係ない。彼の言うことに従いますと、満たされます。後悔しません。」 ヨハネの福音書2:6-7
大仕事だったんですね。700リットル、800リットルまでぐらい水運ぶのは。水道なかったでしょう?どこか井戸行って、くまなければならなかったんです。彼は半分いっぱいにしたのではない、縁までと書いとるんです。 ヨハネの福音書2:8-11
結局イエス様はみんな困ってるから、かわいそう、同情して水をぶどう酒に変えたのではない。イエス様は同情するお方ではない。どうしてこの奇跡をなしたかと言いますと自分の栄光を現わすためです。 イエス様は自分のご栄光を現わされた結果として、弟子たちはイエスを信じた。弟子たちは、このイエス様に頼ると人間は解放されます、満たされると、知るようになります。 ぶどう酒とはいつも聖霊を意味するものであり、あるいはあふれるばかりの喜びを象徴するものであります。結局お客さまとしてのイエス様とは、急に中心になるお方になっちゃたんです。満たされるようになったのです。 イエス様は召使いに水がめに水を満たしなさい、と言われたので彼らは水がめをふちまでいっぱいにした、と書かれてます。その時彼らはもちろんわかったんです。必要なのは水じゃないよ、ぶどう酒です。ですから水運んでも何にもならないなのではないか、と彼らは思ったでしょう。けどもマリヤの言葉をおぼえたでしょう、「あの方が言われること何でも、してあげてください。」、彼らは従ったから、結局この奇跡を経験することができたのです。 人間的に考えれば結局水をいっぱいにしても何もならない、問題は解決されえないとわかったんです。彼らはイエス様の命令を理解することができなかったんです。ばからしいじゃないかと、思われたかもしれないけど、「あの方が言われることを何でもしてあげなさい」、と聞いたから、理解できないことをした結果として、結局満たされるようになったのです。 要求されてることは、私たちが素直に信じ、主の要求に従順に従うことだけです。これこそ自分が満たされ、さらにまた他の人のためにも用いられる秘訣そのものです。少しだけの満たしで満足せず、縁まで満たしていただくことを主は望んでおられるのです。 弟子たちとはいつ用いられる者になったなのでしょうか。聖霊に満たされた時からです。その前に結局駄目だったんです。聖霊に満たされてから彼らははじめて、用いられる器となったのです。 使徒の働きの2章4節に、簡単に「みなが聖霊に満たされた。」と、書き記されています。その時の集まった人数は、ちょっとまだ少なかったんです。120人だけだったんです。 けどもこの120人を通して、主は働くようになったのです。彼らは聖霊に満たされた結果として、同じ日、3,000人の人々は信ずる者の仲間に加えられた、と聖書は言ってます。1日3,000人。おそらく2〜3週間あとで男だけ5,000人、イエス様を信じるようになったのです。 結局あのエルサレムという一つの町で、おそらく1ヶ月以内に何万人の人々はイエス様を信じるようになっちゃたんです。考えられない祝福だったんです。 どうしてであるかと言いますと、120人の人々は聖霊に満たされたからです。結局聖霊に満たされることこそが、主の望んでおらるることです。 ルカの福音書の15章の中で、よく知られてる放蕩息子の話が出てきます。この放蕩息子の父親とは、結局主なる神を象徴してるものであり、放蕩息子とは結局人間なんです。 人間に対する主の判断とは確かにおもしろくない。駄目。人間は使いものになりません。0以下。正しい人はいない、一人もいない。善を行なう人はいません。一人もいない。 人間はもちろん判断します。いい人もいるじゃないか。けどちょっと違う。ある人は言ったんですね、二種類の人間しかない。一種類は刑務所に入ってる。もう一種類は入るべきです。結局駄目なんです。どうしようもないものです。 ルカの福音書の15章に出てくる放蕩息子は結局、自分のわがまま通そうと思っただけなんです。自己実現。十分の金があれば、あのうるさい父親から離れれば幸せだと。 隣の町まで行ったならばわかるけど、彼は隣の国までいかないで、遠い国に行っちゃたよ。もう家にいると束縛されちゃうし、聞く耳を持っていないとおもしろくないし、逃げた方がいい。けども結局彼は壁にぶつかって、金があっても、いわゆる自由があっても、それはほんとの意味での自由じゃない。 もちろんはじめの頃は全部うまくいったんです。思う通りに。まず友達いっぱいつくっちゃたんです。いっぱいの友達があるといいんじゃないんですか。 ある時一人の娘はまた精神病院に入るようになったんですね、茨城県に住んでる人なんですけども、あのお母さんに聞いたんです。「どうして、3回もいれたの?普通の社会人として働いてるんでしょう?」 たまにおかしくなって、そしたら早く精神病院に入れるんですって。けどもまともな人だったんですよ、「どうして3回も入れたの?」、「いや、叫んだんです。動物のように叫んだよ。」、「何を叫んだの?」、「友達欲しい!」それだけなんですけど、まそれだけじゃないよ。 癌よりもひどい病気は孤独です。人間は寂しくなると、おしまい。あの放蕩息子は友達いっぱいできたんです。どうして?金があったから。 金がなくなった瞬間、友達も消えちゃったよ。ほんとの友達だったら一緒に悩むべきでしょう?一緒に苦しむべきでしょ?みんな知らん顔したんです。人間はそういう者なんです。 けども、彼は本当にどうしようと思っちゃたでしょう。ここで餓死するか、頭を下げて家へ帰るか。頭を下げることとはおもしろくないけど、ほかの道、結局なかったよ。必ず餓死する。豚のえさを食べようとしても、それでさえも許されていなかった。もう大変です。やっぱり帰ろうと決心したんです。 ま、何週間かかったかわからない。遠い国だったからねぇ。 新幹線もなかったし、飛行機もなかったし、何週間疲れ果てて帰っちゃたんです。けどもどういうふうに受け入れられるか、それもちろんわからなかったから、罪意識もあったし。ですから彼は息子としてまず、無理と彼は正しく判断したらしい。息子として駄目だったら、召使いとしてぐらいいいじゃないか。死ぬよりもやっぱり召使いとして、寝る所があれば、食べるものもらえばいいじゃないかと。そして彼はひとつの祈りをつくっちゃたんです。すばらしい祈りをつくったんです。 「お父さん、天の前にも、あなたの前にも罪を犯しました。ごめんなさい。息子として受け入れられないのはわかってる。けど召使いとしてどう?」いい祈りでしょう!! 時間があったから、何回もこういうふうに祈ろうと思って暗記したんです。そして家の近くまで行った時、父親は彼をすぐわかったんです。父親は毎日首を長くして、今日か、明日か。 ですから遠く離れても、父はすぐ息子に違いない。いつも下向くだけなんですね。これは動物らしい歩き方です。人間というラテン語の言葉は「上を仰ぎ見る者」、上を仰ぎ見る者は人間です。動物はいつも下を見て歩くんです。彼は動物らしく下だけ。 ですから走ってる父を見ないんですよ。下だけ見たからです。けど急に音を聞いて「あ、何?父親かあ。暗記した祈りは・・・」、それからはじまった。 「お父さん、天の前にもあなたの前にも罪を犯した。」、終わり。せっかく暗記した祈り、最後まで祈れないよ。抱きしめられ、接吻されてしまったから。 「もう息子として受け入れられる資格がない」と、ほんとは暗記したんですけど、もう言えなくなっちゃた。それから15章の22節に父親はしもべたちに言った。「いそいで!一番よい着物を持ってきて、この子に着せなさい。」、父なる神の考えはそういうものでした。適当なもの持ってきなさいじゃないよ、もうめちゃくちゃな服だったと思うよ。もう、彼も何ヶ月間風呂に入らないで、くさかったでしょうし、けども召使いとしてじゃなくてやっぱり息子として受け入れられた。 「はやく、はやく、適当なものじゃなくて、一番よい物を持ってきて」、主とはそういうお方なんです。結局主は一番よいものしか与えられないよ。私たちは「主よ、ああしてください、こうしてください」と祈るでしょう。主はなかなか聞こうとしない。人間の欲しいもの与えようとしないからです。最もよいものを与えたいからです。 マタイの福音書の25章の34節見ると、次のような箇所があります。 マタイの福音書25:34
結局、世が創造される前にもちろんこの地球もなかった時、人間は一人もいなかった時、主は結局創造される人間、駄目になる人間、堕落する人間のために、御国を備えられたとあります。 われわれ人間を本当の意味で満たしてくれるものは、目に見えるものではない。世のはじめから備えられた御国です。父なる神は私たちに主イエス様を通して、最もよいものを与えてくださったのです。最もよいものとは、もちろんイエス様です。イエス様によってのみ、人間の必要を満たされます。 ローマ人への手紙の8章32節に、パウロは次のように書いたのです。昨日のメサイアの中でも、この世に来られたメサイアの苦しみについて、悩みについて、痛みについて出てきたのです。 ローマ人への手紙8:32
結局、父は自分にとって全ての全てであるイエス様を死に渡された。私たちの代わりに罰せられたのです。考えられない愛、そのものなのではないでしょうか。 イエス様によって本当に全てが与えられてるのです。人間の必要としとるのは、イエス様だけなんです。イエス様を持つともう十分です。イエス様とつながっていれば、どういう状況に置かれていても、安心して将来に向かうことができる。 入院している兄弟は、はっきり宣告されたのは、「10月いっぱい。」、ですからドイツ行く前にちゃぁんとパネルを作りなさいと頼まれたんですね。ちょっと考えられないね。若いうちの娘のように、20歳の娘だったら結婚していないし、一人だったらまだ楽だよ。 けど家族があるし会社があるし、いや大変です。けどももう用意ができてる、嬉しい、行き先は決まってると言える人こそが、幸せなのではないでしょうか。 人間の満たしとちょっと違うんです。けど本物なんです。人間の考えてる満たしとは、もうつまらないよ。死ぬまでもつかもしれないけどそれで終わり。けどもイエス様を持つ者は本当に幸せなのではないでしょうか。 |