青葉台家庭集会4


ベック兄

(青葉台家庭集会、2004/04/15)

引用聖句:出エジプト記15章22節-27節
22モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
23彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
24民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。
25モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
26そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」
27こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。そこで、彼らはその水のほとりに宿営した。

この間、ふたりの方々のために、御代田の国際福音センターで納骨式がありました。
私たちは納骨堂という部屋は、納骨堂とは言わないで、いつも「待合室」と呼んでいるのです。ちょっと他とは違うなのではないでしょうか。けども主イエス様を知る者にとって、この世そのものはひとつの待合室なのではないでしょうか。

それを考えると初代教会の告白とはよく分かります。すなわち、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光にくらべれば、取るに足りないものと私たちは考えます。」
確信する。今辛くても、今だけで辛いことであって、いつか、どうしてか、なぜかと全部明らかになります。これこそがイスラエルの民の経験でした。
今の読んだ箇所を見ると、マラについてだけではなく、エリムについても書き記されています。マラとはイスラエルの民にとって全く面白くない場所で、エリムとはやっぱり探し求めた場所になってしまったのです。

主なる神は、大変な苦しみを平安に変えることがおできになるということは、本当にすばらしい事実であります。私たちは必ずいつか、みんな告白するようになります。すなわち、「主のあらゆる導きは、良かった。完全だった。最善だった。」と。
聖書を見るとはっきり言えることとは、人間の考えてる偶然とはありえない。導き手がおられます。
すなわち、いわゆる、荒野の経験、すなわち理解することのできないような試練を通して、私たちは人間の中に何があるかを知るようになります。そしてこのような試練を通して私たちは自分の無力さ、みじめさだけじゃなくて、主の偉大なる力を、全能を、もちろん愛と恵みも知ることができるようになります。

多くの人々は悩むと、「どうして?、なぜ?」と考えます。もちろん大体何かあれば自分のせいじゃない。相手のせいです。環境のせいです。
全部イエス様のせいにすればいいじゃないでしょうか。イエス様は支配者であるからです。結局全部イエス様の御手から受け取ると、やっぱりまた前向き生活することができるのです。なぜならば主は、すべての背後にはっきりとした目的を持って導いておられるのです。

イスラエルの民もマラに行ったのです。行きたかったからじゃない、主に導かれたからです。主ご自身が彼らを導いたのです。そして主はお導きになるときにいつもはっきりとした目的を持って、はっきりとした目標を持って、変わらない愛を持って、導いてくださるのです。
イスラエルの民は大変な苦しみを味わわなければならなかったこととは、彼らの運命でもなかったし、言うまでもなく天罰でもなかったし、主のご計画でした。
主ご自身が彼らをマラまでお導きになったのです。すなわちイスラエルの民は、それを通して確かに失望を経験したのですけど、彼らは、主こそが何でもできるということも知るようになったのです。

主はマラの苦い水を少しだけ甘くなさるだけじゃなくて、水全体を甘水に、結局飲む水に変えることがおできになるお方です。言い表わすことのできないほど大きな激しい苦しみは、救いと平安となるべきです。
人生とは一体何なのでしょうか。高揚と落胆、悲しみと喜び、祝福とのろいの繰り返しなのではないでしょうか。けども主は、私たちが主の喜びと平安に満たされて、主の光の中に生きることを望んでおられます。
そして実際私たちはみな、しばしば自分自身のことを中心に考えてるなのではないでしょうか。これこそが主の働きの妨げになります。

けど主は、私たちが理解できない多くのことを確かに赦しておられます。そうすると、「どうして?、なぜ?」と考えないほうがいい。別に今分からなくてもいいけど、将来かならず分かる。
だからパウロは、今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものであると書いたのです。

すべてはわれわれにとって最善となるよう、また主の栄光のために配慮されています。
私たちは喜び、歓喜を持って夜寝るようになるかもしれない。次の朝、電報が入ったり、電話が入ったりしてその瞬間、もう一遍にすべてが壊れてしまいます。
どうしようか。という気持ちになりうるなのではないでしょうか。もはや日の光を見ることができない。すべては非常に厚い闇の中に覆われてしまうかのようです。すなわちその時は、私たちはマラに来てしまっているということです。

当時のイスラエルの民の指導者はモーセでした。人間的に考えれば気の毒な男でした。なぜならば、彼は二百万人以上の人々を導かなければならなかったのです。
初めは、二百万以上の人々は確かにモーセに信頼して従ったのです。エジプトから引き出され、主なる神の贖いを経験し、流された過越の羊の血の価値を彼らは体験的に知るようになりました。
彼らは主の偉大さを、主の救いを経験しましたが、その信者たちを信仰的、霊的に導いて、約束されたカナンの地にともに入るようにすることが、当時のモーセに与えられてる使命でした。

イスラエルの民が、紅海を通って主の大いなる奇跡的なわざを経験したとき、彼はもう、たとえもないほどの歓喜の声を上げたし、喜びのあまり踊りだして、出エジプト記の15章に書かれたモーセの歌をもって、主の勝利を喜び、祝いました。
主はすごい!われわれの主は生きておられる。主に信頼すると奇跡を経験する。これは彼らの証しでした。
けど、こうした主のすばらしいみわざを経験したあと、彼らは三日間の試練のときを迎えたのです。一滴の水もない生活が始まったのです。水のない、憩い場のない荒野での三日間は、決して面白くなかった。簡単ではなかったけど、彼らは必死になって水を探し求めました。そして、待ち望んだ水を見たらしい。

「水だー!水だ。」、多くの人々が喜びながら叫んだことでしょう。確かに彼らは気持ちも楽になって、大喜びで水の所に駆け寄りましたけど、何とがっかりしたことでしょう。
水があったけど苦くて飲めない水でした。結局喜びは悲しみ、失望、つぶやきに変わってしまったのです。もちろん私たちはそういうことだって3,500年前に起こったことで、むかーしむかしのことですから、われわれにとって、もう関係ないなのではないでしょうかと考えるかもしれない。
けども、一度神のみことばである聖書に書かれてるから、やっぱりわれわれのためにも書かれてるのであると考えるべきなのではないでしょうか。

ですからパウロは、たとえばローマ人への手紙15章4節に次のように書いたのです。

ローマ人への手紙15:4
4昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。

結局、こういうことが私たちのために書き記されているのですから、私たちはマラにおけるイスラエルの民の経験を通して、主がわれわれに何を教えようとしてるのか、考えるべきなのではないでしょうか。4つの点をあげてちょっと考えましょうか。

・第一番目、私たちが予想しなければならない試練について。
・第二番目、私たちが避けるべき危険について。
・第三番目、私たちが取らなければならない態度について。
・第四番目、適用させるべき万能薬について。

まず、予想しなければならない試練とは一体どういうものなのでしょうか。疑いもなく私たちはだれでもみな、マラの経験をしてるでしょう。すなわち、軌道から外れてしまったり、失望、落胆させたり、すべての望みを私たちから奪いしまうような経験が、ここでいうマラの経験です。
だれでも、自分の苦しみや悩みを持っており、色々な問題で弱り果て、出ることも入ることも分からないような状態におかれるという経験を持ってるはずです。
これは聖書の言ってるマラを意味してるのです。結局、悪魔は信ずる者を夜昼攻撃します。「あなたが何をしても結局無意味だよ。諦めたほうがいいよ。」

結果として、望みの光を全然見ることができないし、人間的に見るならば、そこには何の望みもない。けど私たちの人生とはそういうもんだという事実を避けることができません。
だれひとり、マラを避けて通ることはできないからです。主ご自身も、イスラエルの民をマラへと導きました。これは主のせいだったのです。
そしてこの同じ主は、われわれをもマラ、すなわち逃れ道のない状態に導き入れてくださるのです。けど、それは決して偶然ではないと絶えず覚えるべきなのではないでしょうか。

宗教的な考え方とはだいたい、運命だから諦めたほうがいいんじゃないか。けども聖書を見ると、とんでもない話です。どういう状況に置かれていても諦める必要はない。
イエス様のひとつの名前は、「望みの神」だからです。望みの神が生きておられる限り、諦める必要はない。結局、主ご自身が御手のうちに手綱を持っておられ、それをほかのだれにも渡しません。

すべてのことはうまくいき、それほど大した困難なことを経験しなかったと思うかもしれないこと。はっきり言えることは、問題、悩み、患難は必ずやって来ます。
ひょっとすると明日かもしれない。二、三ヶ月あとかもしれない。三年あとかもしれないけど来ます。これは悲観論とは関係がありません。それは聖書の言ってることです。
だれもマラから逃れることはできないと、聖書ははっきりと述べています。ですから人間は結局みんな悩む者なんです。悩んでない人はいない。

人によって悩みはもちろん違うけど、やっぱりみんな悩んでます。昨日も、ちょっと年配の方が、「もう何の心配もない。何の悩みもない。」と言うんです。けど話を聞くとやっぱりうそと分かったんです。結局、人間はみんな悩んでます。
次のように言う人たちがいます。「救われる人は、もはや何の悩みも、何の苦しみも問題も持っていない。救われれば全部OK。」
これは根本的に間違ってます。聖書の言ってることは違う。主が私たちを試練にあわせ、聖めることができるため、悩みはたくさん存在してると。すなわちこれらの悩みはそもそも信仰者になるときに初めて始まるのです。

信ずる者の人生は、いつも嬉しくて嬉しくてしょうがないという人生ではない。イエス様ははっきり信ずる者に言ったんです。「あなたがたは世にあっては患難がある。」、避けられない。
どうしてあるの?必要だからです。主は、必要ない悩みや苦しみを与えられない。けど私たちは長い目で見ることができないから、やっぱり、あまり面白くない。
初代教会の人々も、色々なことでやっぱり苦しみました、悩みました。彼らを励ますためにペテロは次のように書いたことがあります。

ペテロの手紙第I、4:12-13
12愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
13むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

結局ペテロは彼らに同情しようとしなかった。かえって、「喜びなさい。」「今の試練とは必要だよ。」と。
ヘブル人への手紙の著者も、この問題について色々なこと書いたのです。例えば、「主は、その愛する者を懲らしめます。」と。すなわち懲らしめられること、マラへと導かれることは運命でもないし、天罰でもないし、愛されてる証拠にすぎないと聖書は言ってるのです。

すなわち、私たちは主に関心を持たれてます。主は私たちのことを配慮しておられます。信ずる者はだれでも困難な試練を通って、主のあとに従うようになるのです。
私たちに、こうした悩みや苦しみがないとするならば、私たちは本当の意味で主を知ってるかどうか、主を愛してるかどうか、あるいは主をよりよく知りたいと思ってるかどうか、非常に疑わしいものなのではないでしょうか。
出エジプト記に戻りまして、

出エジプト記13:18
18神はこの民を葦の海に沿う荒野の道に回らせた。

とあります。どうして主は回り道をさせたなのでしょうか。どうしてイスラエルの民は、荒野を通らなければならなかったなのでしょうか。なぜ、主の恵みによって、救いにあずかった者は主に愛されてる者が、マラへ行かなければならないなのでしょうか。その理由は15章の25節に与えられています。

出エジプト記15:25
25主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。

とあります。心の中にあるものは明らかにされるべきです。そのために荒野の経験はどうしても必要です。もう一箇所見てみましょうか。

申命記8:2
2あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

とあります。主は私たちを悲しませるために試練を与えたり、患難を許したりされるのではない。私たちを謙遜にするため、また心の奥底にあるものを試すために、それらのことをなさるのです。
私たちが本当に主にとどまるかどうか、私たちが本当に主を愛するかどうか、またどんな代価を払っても主に従うかどうかが必ず明らかになるはずです。
けども主は、ただ単にマラへ導くだけではない。更にエリムへも導かれますね。

出エジプト記15:27
27こうして彼らはエリムに着いた。そこには、十二の水の泉と七十本のなつめやしの木があった。

十二部族のために十二の水の泉があった。主がお与えになり、お許しになる試練は非常に色々な種類のものです。
イスラエルは、飲むことができないほど苦い水を経験しただけではない。水が全然無かったこと、パンが一切れも無かったことをも経験しなければならなかったのです。
結局主は、私たちにお与えになる試練はしばしばほとんど耐えられないほど厳しいものなのではないでしょうか。イスラエルにとってマラは困難な経験でもありました。

人はだれでも水を必要とします。けど三日間の間、彼らは水を求め続け、見つけたと思ったときには、そしてまた実際にその水を見て、飲もうとしたとき、その水はとても飲めないほど苦い水でした。
私たちは次のことを決して忘れてはならない、すなわち私たちもまた試練を受けなければならないということ。試練はわれわれに対する愛されてる証拠です。

もしも私たちが試練を通らないで、簡単な楽な道を選ぼうとするならば、それはわれわれにとって決して好ましいものではなく、むしろ気の毒なことです。
私たちの経験がどのようなものであろうとも次の態度を取るべきです。すなわち主よ、

(テープ A面 → B面)

これは私たちの第二番目の点ですね。私たちが避けるべき危険とは一体どういうものなのでしょうか。
イスラエルの民がマラへ行き、恐ろしい失望をしたとき、彼らの反応は間違っていました。ダメでした。

出エジプト記15:24
24民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。

二百万人以上、こういうふうに言うとモーセは本当にかわいそうなのではないでしょうか。
結局、イスラエルの民は度を失ってしまったのです。モーセに対してつぶやき、そのことによって実際にはもちろん主ご自身に対してつぶやくことによって、心の憂さ晴らしを示しました。
つぶやく者はもはや信頼しません。内部の事情によって動かされる者は簡単に度を失います。ですから聖書の中で、「見える現実よりも、主イエス様から目を離さないでいなさい。」とあります。

イスラエルの民は、彼らを解放してくださった力強い主に対しては、確かに誉め歌いましたけども、そのすぐあとで彼らは完全に打ちのめされ、主に対して不平不満をつぶやきました。
それを考えると、当時の人間と現代人はまったく同じなのではないでしょうか。主は私たちが理解できない苦しみを経験することを、一度許しておられます。
私たちの心の中が夜、すなわち暗たんとなるのは、いかにたやすく起こることでしょうか。私たちは絶望の淵にたやすく立たされるのです。けど、主を見上げる者は、マラからエリムへ進んで行くこと、すなわち大変な苦しみを通してまったく新しく変えられることを経験できます。すなわち私たちは新たなる使命、新たなる奉仕を与えられます。

不信仰は私たちをつぶやきや反発へ導きます。目に見えるものに支配される者は、知らないうちにとんでもない方向に行ってしまいます。苦しみや悩み、多くの問題、理解できない導きを見る者は自己憐憫に陥ります。
私たちはつぶやき、次のように言い始めます。「主が私たちに飲める水を与えることがおできにならなかったのだろうか。主はこのこと、あのことをやめることがおできにならなかったなのでしょうか。主はなぜ守ってくださらなかったなのでしょうか。」

もちろん主はおできになったでしょう。主にとって不可能なことは一つもない。問題は、信ずる者が本当に主に信頼しなかったことでした。
主はいつも信仰者の近くにおられ、助けたいと思っておられ、ご自身を啓示したいと思っておられます。結局、心から祝福したいと望んでおられます。
私たちが試練にあうとき、われわれの反応はどのようものであるべきなのでしょうか。私たちの上に困難が襲いかかり、逃れ道が見えないときはどうなのでしょうか。
私たちが苦しいマラの状態に置かれたとき、そして、どうなるのか本当に分からないときはどうでしょうか。そこで私たちは第三番目の点に入って行くことになります。すなわち、取らなければならない態度についてちょっと考えたいと思います。

私たちは、避けるべき危険はつぶやくことであるということを見てきました。私たちはつぶやくことによって少しも前進しません。すべてが途方に暮れるような状態、またあらゆる反発はわれわれの不信仰の印です。
私たちは試み、すなわちつぶやいたり、反発したりする誘惑に対して、どうすれば勝利をもって立ち向かうことができるなのでしょうか。それが問題です。
前に読んでくださった箇所には次のように記されています。

民はモーセに逆らってつぶやきましました。しかし、モーセは主に叫びました。結局この民と話しても話にならない。議論によって何にも生まれて来ない。モーセは主に叫びました。
これこそ勝利の秘訣なのではないでしょうか。モーセは主に叫んだのです。モーセは怒って、人々を叱りつけることをしなかったのです。もちろんモーセは次のように言うことができたはずです。
「どうか愚かなことしないように、主を信じなさい。主は今もなお何でもおできになるお方です。主は決して、来るのに遅すぎるということはない。主にとって不可能なことはない。」と、彼は言えたのですけども、言っても意味がない。彼らは目に見える現実しか見えなかったからです。モーセは人間を叱る代わりに主のみもとに行き、すべてを主にゆだねました。

またモーセは次のように言うことができたでしょう。「もう十分です。もう諦めます。自分勝手にしたいことをしなさい。」と。またモーセは主に向かって次のように言うこともできたはずです。「おお、主よ。私には荷が重すぎます。二百万人もの人たちの世話をするのは大変だよ。」と。
けどもモーセはそのような態度を取らなかったのです。モーセは精神的な重荷を持ちながら、主のところに行きました。それによって問題は根本的に解決されてしまったのです。
というのは、主は祈りを必ず聞き届けてくださるからです。御名のゆえに主は応えてくださり、ご自身を啓示してくださるのです。自分の重荷を持って主のみもとに行き、その重荷を主にゆだねることのできる人は本当に幸せです。ヤコブの手紙を見ると次のように書かれてます。モーセと同じような態度取りなさいという意味です。

ヤコブの手紙5:13
13あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

ここでヤコブは次のように言わなかった。「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいるならば、直ちに医者に急報しなさい。あるいは長老を呼びなさい。」
だれでも分かることは祈るということです。まず静まることです。
「どうしたらいいか分からない、お教えになってください。」

苦しんでいる人がいるならば、その人は試練にあっているのであり、別の表現をすれば、先ほど申し上げたマラの状態にいるのであって、つぶやくすべての理由を持ってるでしょうけど、その人は主により求めてください。
私たちはどのようなことを経験しようとも、まず第一に、主をたずね求めましょう。主が配慮してご栄光を現わしてくださることがおできになるように、すべてを主にゆだねましょう。

こういうふうにゆだねた人々の実例は聖書の中でいっぱいあります。サムエル記第Iの1章10節、ひとりの祈り人について書かれてます。サムエルの母親ハンナについてです。
彼女もまたマラを経験したのです。聖書は、彼女が心痛めていたと言ってますね。

サムエル記第I、1:10
10ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。

確かに彼女は苦しみましたが、諦めなかったのです。彼女はすべてを主にゆだね、祈りました。これこそ勝利の秘訣です。主のみもとに行く者は捨てられません。その人は主の助けを、救いを、解放を経験します。

列王記第IIの4章の中で、もうひとつの実例が書き記されてます。すなわちエリシャという預言者は、ひとりのやもめとともにマラの経験をしたのであります。
彼女が預言者に、「私の息子が亡くなりました。」と言ったのです。彼女がいかに苦しんだか、想像することができる。まずご主人が亡くなって、ひとり息子も亡くなっちゃった。エリシャはこの苦しみ悩んでる女をもはや見ることができないほどでした。
そのとき彼は色々な慰めの言葉をかけようとしなかったのです。

列王記第II、4:33
33エリシャは中にはいり、戸をしめて、ふたりだけになって、主に祈った。

その結果、主は死んだ子どもを生き返らせ、栄光を現わしてくださった。
私たちが、苦しいマラの状態に置かれ試練にあうとき、祈ることこそ勝利の秘訣です。
もう一箇所、イザヤ書の37章。当時のイスラエルの民の王さまであるヒゼキヤは、一通の驚くべき、ひどい手紙を受け取りました。けど彼はそのことを怒ったり、不満を言ったりしなかった。その手紙を公に見せたり、愚痴を言ったりしなかった。何をしたのか。

イザヤ書37:14
14ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げた。

主に至る戸はいつも開かれています。主は私たちがわれわれの問題と悩みをもって、主のみもとに行き、主に信頼することを待っておられます。すなわち主は奇跡を行なうお方です。主にとって不可能なことはひとつもありません。

この主は非常に・・・主だけに仕えたダニエルを導いたのです。すなわち彼も絶望的な状態に置かれてしまったのです。彼の敵対者は王さまに懇願し、ひと月以内に、王ではなく、神に願い求める者はみな、ライオンの穴に投げ込まれるべきであるという、変えることのできない法律を発令するよう迫りました。
ダニエルはそのときどういう態度取ったなのでしょうか。怒って王さまのところに行ったなのでしょうか。非常に親しい関係があったんです。彼はそうすることができたんですけども、彼はそうしなかった。
ダニエルは敵の卑劣なやり方に対して怒ったなのでしょうか。友だちを呼び集めて逃れ道を求めたなのでしょうか。決してそうではない。

ダニエル書6:10
10ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

祈っただけじゃないんです。感謝したんです。すなわちダニエルは法律によって許されていないことをしたわけなんですけど、そのとき彼は主に叫び、祈り、すべて主にゆだねました。
彼は意識的にすべてのことがらを主の前に申し述べました。彼は主が必ずみわざをなしていてくださると確信したからです。このような信頼は決して失望させられません。
不可能と思われたことが起こったのです。すなわちライオンはダニエルにあえて触れようとはしなかった。おそらく彼を恐れたんじゃないでしょうか。信じられないようなことですけどそうだったのです。結局主は生きておられる。

これこそがダニエルの経験だっただけではなく、当時の王さまもそれを確信しただけではなく、当時の全世界に述べ伝えたのです。
「この神、ダニエルの信ずる神は本物です。ほかの神々とはみんな人間の作った偶像にすぎない。」
結局彼は、知らないうちに福音を宣べ伝える者になってしまったのです。どうして?ダニエルは自分のこと弁明しようとしないで、祈ったからです。

使徒の働きの16章の中でも、同じようなこと書いてます。無実の罪で牢獄に入れられたパウロとシラスも、やっぱりマラを経験したのです。鞭打たれ、凶悪犯罪者のように取り扱われた。
けど彼らは決して反抗的な態度を取らなかった。「なぜ主はそんなことを許しておられるのか?」と彼らは考えようとしなかった。
結局主は許した。どうして許したかは分からないけども関係ない。自分たちは分かる必要ない。主は許したから。だから、全部ゆだねることができる。

使徒の働き16:25
25真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、

ダニエルのように祈っただけじゃなくて、感謝した、賛美した、主をほめたたえたのです。
彼らは、なぜそのように導かれたのか、理解できなかったはずですけど、主は決して間違いをなさらない、このような導きもわれれにとって最善の益となるに違いないと、二人は確信したのです。
だから彼らは祈りつつ賛美の歌を歌うことができたのです。

モーセの状態も同じように絶望的な状態でしたけど、彼は祈りました。主に叫びました。
モーセはすべての悩みをもって主のところに行きました。すると主は答えたのです。われわれの主は答えるお方です。出エジプト記に戻りまして、

出エジプト記15:25
25モーセは主に叫んだ。すると、

祈りの結果として、

出エジプト記15:25
25主は彼に一本の木を示された

前にあったんですけど、彼は見なかっただけなんです。木を示すことはモーセの祈りに対する答えでした。祈る者は以前に見たことのないもの見ます。考え方も、見方も変わるんです。

主は結局、祈る人にご自身を啓示なさいます。苦しんだ苦しみは、いかにして平安に変えられるのでしょうか。主が示された木によってです。
人間が絶望的な状態、苦しい状態において、いつ主に叫んでもその人は主が聞いてくださるだけじゃなくて、必ずかなえてくださることを経験します。
主は大いなるみわざをなさってくださる。その状態だけではなく、人間の心をも変えてくださるのです。

モーセは主に叫びました。すると、主はモーセの願いを聞き届け、問題全体の解決として一本の木を彼に示したのです。けどそれは何を意味してるのでしょうか。
これはわれわれの最後の第四番目の点ですね。適用されるべき万能薬とは一体どういうものでしょうか。万能薬はどんなことにも効き目があり、いつでも適用されるべき薬なんです。

モーセに示されたこの木は、疑いもなく救い主なる主イエス様ご自身です。
この木が、苦くて飲むことのできないマラの水に投げ入れられると、すべての問題がいっぺんに解決され、その水が甘くなって飲めるようになります。
旧約聖書において、約束された救い主であるイエス様について次のように述べられています。エレミヤ書の23章。「若枝」という表現が出てきます。

エレミヤ書23:5
5見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。

この預言で約束されたみことばは、主イエス様にあって成就されました。イエス様は罪という大問題を解決してくださった。もう一箇所読みましょうか。

ペテロの手紙第I、2:24
24そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

もちろん若枝が木の一部であることは言う間でもありませんが、その若枝とは主イエス様のことを意味してるという点に注意してください。
しかも救いのみわざはイエス様が来て、作られた十字架にかけられたことによって成就されました。したがってここでいう木とはまず第一に、イエス様ご自身を意味し、第二にイエス様によって成就された救いのみわざを意味するのです。
私たちが悩みがいかに大きなものであろうとも、万能薬はイエス様とイエス様の成就してくださったみわざであるということです。

イエス様は苦しみと死を通して、永遠に救われる道を開いてくださいました。イエス様は大祭司として、瞬間瞬間どのような一瞬であっても、われわれのことを、ひとりひとりを覚えてくださり、われわれのために勉強してくださり、私たちのために働いてくださるのです。
確かに色々なことで悩むと、不平や不満を言ったり、自分の殻の中に閉じこもってしまうことはありうるのです。けど私たちは、よりはるかに苦しめられ、底知れぬ深みを通っていかれたイエス様を見上げるべきです。

私たちの主は苦しみを味わってくださいましたが、その結果は何だったでしょうか。比類なき救いでした。全人類の罪の問題は解決されたのです。
悪魔は力を失い、死の力を奪われたのです。イエス様は勝利者です。
私たちがみな、いかなるマラの経験に対しても、それがどれほどわれわれを苦しめ、落胆させようとも、そのことに対していつか必ず主に感謝できると確信してます。

イエス様は十字架につけられ、捨てられ、のろいとなられたことによって最大の勝利を勝ち取られました。外側を見ると、決してそのようには見えず、悪魔が勝利したように見えました。
私たちもまた何度も次のように思うかもしれない。それは悪魔の勝利ではないか、どうして神はそんなことを許すのでしょうか。
私たちは万能薬を用意しなくちゃならない。木を苦い水の中へ投げ入れるべきです。意味はありのままの状態で、自分の悩みすべてをもって、十字架につけられた主イエス様のみもとに行こうではないでしょうか。

主は苦しみを平安へと、苦しみを祝福へと変えてくださるのです。私たちは完全に打ちのめされた状態から溢れるばかりの喜びに至ります。
パウロは木を、水の中へ投げ入れたのです。だから彼は次のように告白したのであります。それ最後に読んで終わりましょうか。驚くべきすばらしい証であり、また告白です。

コリント人への手紙第II、4:16-18
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

避け所であるイエス様のところに行きましょう。主はその状態を変えてくださるだけじゃなくて、周りの人々、それどころか自分自身を変えてくださるのです。
すべての重荷と悩みを持って、主のみもとに行く者は経験します。すなわち私の苦しんだ苦しみは、平安のためでした、と。




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