主を仰ぎ見ること


ベック兄

(「集会広場」から転載)

人間にとって一番大切なことは、上を仰ぎ見ることではないでしょうか。ラテン語の人間と言う言葉の意味にも、上を見ると言う意味があります。動物はだいたい下見て歩いていますが、人間は上を仰ぎ見るものです。ヘブル人への手紙の12章(p-404)1節から2節、

ヘブル人への手紙12:1-2
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

これは、単なる提案ではなく、はっきりした命令です。命令に従わないことはもちろん罪です。

ヘブル人への手紙12:2-3
2イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
3あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

人間はみな元気を失い疲れはててしまうものではないでしょうか。
「わたしは、いつも元気です。いつも喜びに満たされていると言う人はいないと思います。だからこそ、イエスさまから目を離してはいけない。だからこそイエスさまのことを考えるべきであると書き記されています。

詩篇16:8-9
8私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
9それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

「わたしは いつも 」、いつも。毎週2回だけとかではありません。いつもわたしの前に主をおいたと ダビデは記しました。
これは単なる教えではなく証しです。ダビデはどうしてこのように証しできたかと言うと体験的に知るようになったからです。

「わたしは、ゆるぐことがない。」普通だったら考えられない告白です。彼は、強い者になったから、立派になったからではない。
わたしは、いつも いつも 主を置いた。」 自分を見ても、他人を見てもわたしたちは、いっぺんにぺっちゃんこになります。 自分の置かれている環境に支配されれば、喜ぶことなんてとんでもないことになってしまいます。

主を仰ぎ見ると、喜ぶことができるのです。
上を見るとは実際問題としてみ言葉に頼ることであり、そして助けを求める姿です。「主よ語ってください。しもべは聞きます。」
そしてあらゆる心配事を 主にゆだねることです。

幼子のような素直な心をもってあらゆる思い煩いを主イエスさまに明け渡すこと、これこそ奥義です。罪が赦されたと言う確信こそノイローゼから私達を守る城壁です。なぜ多くの人は恐れたり おののいたり不安と恐怖の中にいるのでしょう。その方々は霊的な糧、すなわちみことばを日々食べていないからです。

聖書は決して、学校の教科書ではありません。学校の教科書は勉強するために作ったものです。勉強して理解できなければ先生はぜったいに満足しません。学生は勉強したかどうかを知るために試験があります。
聖書はそういうもんどえはありません。 聖書を読んで、この個所を理解しわからなければダメだと言う思いに支配されると結局「壁」にぶつかるでしょう。 得るものはありません。けれども何もわからなくても、「私のたましいに語ってください、お願がぁ−−い。」この心構えでもって読むと必ず励まされ慰められるようになります。

また・・・
人間は、どういう状況におかれていても、み言葉に頼ると顔が輝くようになります。心配から解放されるようになります。最近も数人の召された方を送りました。 ある方は召される前に、これが最後ですと何度も喜びの集いで証ししてくださった。その方の家族の方もそれを通して主に導かれました。自分の宗教で息子の葬儀すると言われた家族が、集会で記念会をしてくださいました。 人間的にいくら説明しても動かなかった親の心が、ひとりの人が主を仰ぎ見たときまわりも導かれました。

まわりの人が主に導かれないのは、未信者の頑固さじゃなく、信ずる者の不信仰ではないでしょうか。期待をもって、感謝すれば主は必ず奇蹟をなしてくださいます。
あるお母さんは、娘のことですごく悩むようになってしまいました。
その悩みで軽井沢の集会に来て救われちゃったんです。
結局、人間はいろんな事で苦労すると「 いやぁ たいへんだ たいへんだ」と思います。でも、最後の、最後は、主の憐れみの現われになります。
決して、悪魔の勝利にはなりません。家族の救いのために感謝しつづけると必ずつぎつぎに導かれるようになります。

自分のまわりの環境に支配されず、「いつも」「どんなときも」上を見上げることが、最も大切なことではないでしょうか。
主を仰ぎ見ると、喜ぶことができるのです。

クリスチャンの生活が、失敗なのでしょうか、成功なのでしょうかは、われわれの「見ているところ」によって決まるのではないでしょうか。
「見方」は大切です。「心の持ち方」は大切です。
ルカの福音書の中でイエスさまは、ひとつの間違った見方について、次のように言われました。p−121 ルカの福音書9章。

ルカの福音書9:62
62するとイエスは彼に言われた。「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」

うしろを見ることは、よく ない。たとえばある人が悩みます。そして多くの信者も主のところに行く前に、精神科や専門家の所に行きます。 専門家だからそう言う意見もたいせつだと考えます。けれどど、そう言う人々が一番なにをするかと言うと、過ぎ去ったことについて、いろんなこと聞きたい。どうして、こう言うふうになったかを知るためです。けれども、聖書は、終わったことではなく、今からが問題ですと語ります。どう言うことがあっても、いままでの過ちは、赦されていると言う確信を持つことこそが大切です。

うしろを見る者はふさわしくない。うしろを見る者は救われないとは書いていない。ただ、うしろを見る者は、主に用いられる器になり得ない。そのことがたいせつです。

イスラエルの民はもちろん救いに預かった民でした。けれども救われるだけでは十分ではない。結局、救われた人々とは、主の 「 あかし」となるべきです。ですから、主は、イスラエルの民を約束の地、カナンまで導こうと思った。主の計画とは、40日の間に導くつもりでした。もし、彼らが主に従ったならば、5-6週間以内、エジプトからイスラエルまで行くことができました。けれども、40年間、かかったんです。結局、カナンに入ったのは、新しい世代でした。ふたりをのぞいて、みな、途中で死んでしまいました。悲劇的です。聖書は、信ずる者の不信仰のゆえに、信ずるもの不従順のゆえに、彼らは約束された国に入ることができなかったと告げます。

40年間、彼らは確かに主の奇蹟を経験しました。40年間、荒野で生活しました。主は、この奇蹟をなしとげた。彼らは、救いを失ったのではない。しかし、彼らの生活は実りのない生活でした。

喜びのない生活、安らぎのない賛美。感謝のない生活。

どうして?
彼らは、うしろを振り向いたからです。イザヤ書の41章のなかで、もうひとつの間違った見方について次のように書かれています。これは最近召された兄弟も大好きなみことばでした。

イザヤ書41:10
10恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

「恐れるな」は原語では、「不安そうに あたりを見回すなかれ」となります。そう言うふうになります。集会のある兄弟も主を仰ぎ見た兄弟でした。結果として彼はたえず喜ぶことができました。ガンとの戦いは、決してやさしくない戦いでした。85kgの彼が、召されたとき 45kgでした。けれども、彼はいつも元気でした。何ヶ月間、なにも食べられなかったのです。 そう言う状態のときも一緒にでかけた事がありました。あるとき、沖縄まで行きました。
もう忘れられない経験です。力がなくなり、彼は、ふとんの上で寝てました。でも、挨拶ぐらいできるかもしれない。彼は、みんなの前に立ったとき1時間、証ししました。「イエスさまこそが私のすべてです。」そう彼はそのときあかししました。病気をとおして、彼は、イエスさまを仰ぐことを知りました。 主を仰ぎ見ただけなんです。自分を見、奥さんを見、子供さん達を見たら、もちろん、ぺちゃんこになったはずです。主を仰ぎ見たから彼は多くの人々のあかしになりました。

コリント人への手紙第II、10:7
7あなたがたは、うわべのことだけを見ています・・・・

もうひとつの誤った見方は、コリント人への手紙第II、10章7節にあります。
「あなたがは、うわべのことだけを見ています。」とは、異邦人、救いに預かっていない人たちに書かれているのではなく、やっぱり、イエスさまを受け入れ救いに預かった人々に書かれたのです。もちろん、このコリントの教会は模範的なものではなかった。めちゃくちゃな教会でした。
そのひとつの理由は、「あなたがたは、うわべのことだけを見ている。」と書いたのです。私達は、ときどき、自分が現在直面している問題だけを見ます。近視眼的に見ることは、限られた視野を持つことを意味します。私達は、目の前のものを見て、すっかりこんがらがってしまいます。「もう、ダメ。」と思いこみます。けども、この考え方はもちろん間違っています。
どうして?

われわれは、主とは、「望みの神」と呼ばれているからです。望みの神が生きておられる限り、あきらめる必要はありません。主は、生きておられます。主にとって、不可能なことはない。結局、すべてを主の御手から受け取れば、なにがあってもかならず益になります。「どうして、どうしてなの?
わたしだけ、どうして悩まなければならないと。」と思うと、ぺちゃんこになります。今の、悩みは、そんなに大切じゃない。目に見えない、霊的な現実こそが、より我々にとって、現実とならなければならないのではないでしょうか。

近視眼的にものを見ることとは、信仰生活の多くの妨げになります。

ピリピ人への手紙2:4
4自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

ここにも、もうひとつの間違った見方について書かれています。
おのれのことのみ考えるのは、ほんとうに自分勝手なことです。
他の人の事も顧みなさいとは、一体何を意味しているのでしょうか。なにかひとつの問題がある時、それは、私にどんな影響があるか、考える必要はない。何か事が起こったとき、自分に害がなければそれで良いとする考えが往々にあります。けど己の事だけを考え、己のことだけに意を用いる考え方は、誤ったものの見方です。己ばかりを顧みることは、己を不幸にする一番の早道ではないでしょうか。

もちろんいつも自分自身を見つめることも役に立たないし、自己分析して見つめてばかりでは人間は不幸になります。自分を見詰めると不幸になり、また絶望する結果になります。我々のうちに、何の良いところもない。これこそが、知る必要があるのではないでしょうか。

きのうの集会でお会いした姉妹は、18歳のとき、どこかの教団の教会で洗礼を受けました。けど、確信がなく、しばらくで教会に行かなくなり、50歳になった。子供の事で、多いに悩むようになって、ほんとに泣いちゃったんです。「私は、罪深い人間です。」彼女は語りました。

わたしは、「おめでとう!」と言ったんです。彼女はびっくりして「どういうことですか。」と尋ねました。
自分はダメだとわかると、聖書は「おめでとう!」です。
結局、それがわかれば、もうたいしたものですね。一億円、もうけたよりも、すばらしいと思います。自分がダメだとわかれば、イエスさま必要になるでしょう。イエスさまに頼るようになります。そうすれば奇蹟を経験するようになります。
主を仰ぎ見ると、祝福されるようになります。

主を仰ぎ見ると、祝福されます。だから前に読みましたように、ダビデは「わたしは、いつも、わたしの前に主を置いた。」と語りました。主を仰ぎ見ると輝きしかしません。多くの人は、どうして、ぺちゃんこになるかと言いますと、やっぱり「罰せられた」と思い込んでしまっているからです。こないだ集会である姉妹も「罰せられた。」と言いました。結局、自分は、わがままで失敗するから、だから今不幸になったのは、仕方がないじゃないか。結局、宗教の影響とはそう言う影響です。宗教の持つ、神概念とは根本的に間違っています。あらゆる宗教の神概念とは、結局、神は恐ろしい方です。いい子にならないと、たいへんだ。だから人間は頑張らなくちゃいけない。勉強しなくちゃいけない。
これらは、おかしいです。

人間が何をやっても、神は見向きもしない。人間は、「わたしはダメです。」
「罪深い人間です。」「あわれんでください。」この態度をとると多いに祝福されます。

最近、ひとつのすばらしい実例になる兄弟がいました。その兄弟は3ヶ月前に召されました。1回も集会に来られたことはありませんが、吉祥寺に住んでいました。奥さんは、18年間、どこかの教会へ行って、その中で喜びもなく、確信もなかったし、ちょっとかわいそうでした。「 光よあれ 」 をもらって読んで、元気になったんです。それから集会に来るようになりました。彼女のご主人は、東京大学の数学の教授でした。彼は もう、教会なんんてとんでもないと言いつづけたんです。肝臓癌で入院されて、それから訪ねたんです。会った瞬間、いや、なかなか立派な人格者だと思ったんです。彼は世界的に有名な数学者だったらしい。自分の本も出したんです。訪問の最後に、けれども彼は、わたしは確かに傲慢だった。
わがままだった。ゆるしてもらいたい。イエスさまが、わたしのためにも死んでくださったから、ありがとう。素直にその時、イエスさまに祈っちゃったんです。

さよなら言うとき、彼は、救われるって簡単ですねって言ったんです。どうして? 東京大学の教授だったからではない。彼は、幼子のようになったからです。

救われることは 簡単ですねと言う言葉を聞いた奥さんは、勇気を持つようになりました。2日あとに、あなたは、いつ死んでも不思議じゃない体だと泣きながら話しました。彼は、なんと言ったかと言うと、「イエスさまに ゆだねたでしょう。安心です。」と答えました。

彼は、集会に来たことないし、自分で聖書を読む力もなかった。けれども、彼は確信があったんです。2回目に会ったとき、また変なことやっちゃたんですけど、奥さんの行ってた教会で葬式について話しましょう。彼は、それを誤解しないでわかったんです。よし、遺言状を書きましょう。書こうと思ったけど、書く力がないんです。ですから奥さんがかわりに書いたんです。「わたしの葬儀は無宗教でやってもらいたい。聖書にもとづいて、やって欲しい。わたしの葬儀に来る人は、みんなイエスさまの事を知って生きる希望を持って欲しい。」

結局、奥さんは、イエスさまを彼が知ってくれてうれしい。でも彼は、それだけで召されるはさびしい。それだけが重荷でした。召された、わたしの娘 リンデも、 そうでした。「わたしは、この地で イエスさまのために実を結ぶことができなかった。 喜んで死にますけど、そのままでイエスさまのところに行きたくない。実を結びたい。」そう言う気持ちでいっぱいでし た。 この兄弟も、わたしは、イエスさまのために なんにもできなかった。そこで、わたしの葬儀を通して、実を結ぶことができるようにと言う心構えを持つようになったのです。

主を仰ぎ見ると、見方がかわります。心配から解放されます。信ずることとはイエスさまを見上げることだけなんです。信ずることとは、聖書の内容を知ることではないんです。また、それを事実と認めることでもないんです。信ずることとは、意識して主を仰ぎみることです。主を仰ぎみると、もちろん永遠の命を持つようになり、生きる希望を持つようになり、安心して、死に向かうことができるのです。

イザヤ書45:22
22地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

「わたしを仰ぎ見て救われよ。」主を仰ぎ見ると、ま ち が い な く 救われます。十字架にかけられたイエス様こそ、われわれが仰ぎ見なければならないお方です。イエスさまを信ずるとは、いまも生きておられるイエスさまとの生き生きとした交わりを持つことです。見方はほんとうに大切です。
自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらします。あるいは、優越感や傲慢な気持ちをもたらします。

そういう人々はもちろん滅びるのではない。けども、用いられなくなる。
救われることとは、たしかにすばらしい。主の目的とは、救われた人々を用いようと望んでおられることであります。自分自身を見たり、他人を見たり周囲を見たりしないで、ただイエスさまだけを仰ぎ見ることは、勝利の生活の秘訣です。

もう1回詩篇の16章8節、9節を読みます。

詩篇16:8
8私はいつも、私の前に主を置いた。

この個所を反対に読めば、わたしは、ただ、自分だけを見る。自分の知恵や力に頼りながら、わたしはゆるぎます。
だから、わたしは、喜びを知らない者であり、わたしの魂も悩んでいて、わたしのからだも、なんの安らぎもない。

自分を見ると、そう言うことになります。けども、それは主のせいじゃない。
主を仰ぎ見ると、重荷から解放されます。イエスさまは、私達のために生きておられます。1秒、1秒。瞬間、瞬間にイエスさまは私達、ひとりひとりのことを見ておられ、心配してくださるお方です。この主を仰ぎ見ると、喜ぶことができるようになります。

ヘブル人への手紙の著者もこのことを考えています。イエスさまから目を離さないならイエスさまのことを見つめるなら、元気になる。と言うことです。どうして、イエスさまを仰ぎ見るべきか、どうして、十字架につけられたイエスさまのことを考えるべきか。と言いますと、それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。主を仰ぎ見ると、自分も変えられますし、周りの環境も必ず変わります。なぜならば、重荷から解放されるからです。ほんとの意味で喜ぶことができるからです。多くの人々は、キリスト教と関係持ちたくないと言います。どうしてかと言うと、多くの自称クリスチャンが本当の喜びを知らないからです。もし、イエスさまを信ずる人々がみんな喜べば、たいしたものです。

ドイツ人で哲学者であるニーチェと言う人は牧師の息子だったんです。神は、死んじゃった、死んじゃったと宣言して、最後に、病院で彼も死んじゃったんです。でも、彼は、ときどきいいこと言ったんです。彼は、なんと言ったかと言いますと、「もし、信ずる者の(イエスさまを信ずる人々)の顔が、喜び で輝いていれば わたしも信じますよ。」と。彼の、まわりの人々は、【いわゆる】 クリスチャンにしかすぎなかったんです。まことの救いを、さっぱりわからなかった人々です。

結局、私達は、なにもしゃべらなくても、主を仰ぎ見ると、喜びが与えられます。
そうすると、まわりの人々もみんなここを選びますよ。イエスさまを仰ぎ見ると、どう言う問題があっても、喜ぶことができるからです。どうして、そんなに喜んでるの。問題があるのに。だから、革命的です。普通だったら、ぺっちゃんこになるのに、ノイローゼになるの決まってることです。けれども、いろいろな問題を、 抱えながら、喜ぶことができるのは、やっぱり革命的ではないでしょうか。 人間が努力してるからではなく、イエスさまを仰ぎ見る者は、自分は、もうダメだ。どうしようもない者です。あいかわらずめちゃくちゃです。だから私は、イエスさまを必要とする。この態度をとると、主は、多いに祝福してくださいます。信仰の創始者であり、完成者である、イエスさまから目を離さないでいなさい。そうすると、元気になる。喜ぶことができる。生きる希望に満たされるようになります。

ヘブル人への手紙12:1-2
1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。




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