引用聖句:箴言4章25節-27節
ヘブル人への手紙12:1-3
ある時、イエス様の弟子たちは、イエス様の所へ行って、本気になったと思うのですけれど、頼んだのです。「主よ、祈ることを教えてください。」、どうしてこういう気持ちになったか、誰でもわかると思います。 イエス様は悩みの方でした。生きることとは、楽しくて、楽しくて仕様がないという気持ちを一秒も持っていなかったはずです。苦しみの人でした。 けれど、何があっても、イエス様はいつも元気だった。どうして。祈ったから。だから、弟子たちは、「主よ、祈ることを教えてよ。」 祈ることとは、主に話すことです。自分の無力さを認めることです。力の源です。祈ることは、もちろん、助けを求めることだけではなく、聞く耳を持つことこそ大切です。「主よ、語ってください。しもべは聞いております。」 結果はなんでしょうか。すなわち、私たちの思いではなく、みこころだけがなるように。 もちろん、絶えずこの態度をお取になったのは、イエス様しかいない。けれど自分の思いではなく、みこころだけがなるように、という態度こそが、まことの礼拝ではないでしょうか。 パウロとは、本当に祈りの人でした。彼は、ある時次のように言いました。 ローマ人への手紙8:18
「取るに足りないもの」とは、パウロの場合どういうものだったでしょう。 少し、コリント人への手紙第IIから2、3節読みます。「もう大変だ。」としか言えません。 コリント人への手紙第II、11:23-28
こういう箇所を読むと、パウロは、本当に大変、悩んでいる人だったのではないでしょうか。だからこそ彼は、やっぱり祈ることの大切さを強調したのであります。 このコリント人への手紙第IIの1章8節から、また彼は書いたのです。 コリント人への手紙第II、1:8-9
おそらく主は、どうしてこれを赦すのでしょうか、どうして、我々はそんなに悩まなくてはならないのでしょうか。 もちろん、主は答えたのです。だから、パウロは続いて書くことができたのですね。 コリント人への手紙第II、1:9
まだ、なっていなかった。 コリント人への手紙第II、1:10
悩んでいるパウロは、いつも元気でした。祈ったからです。そして言うまでもなく、初代教会の特徴とは何であったかと言いますと、主の再臨を待ち望むことでした。 ヘブル人への手紙10:37
と書かれています。 ルカの福音書21:28
すなわち、花婿なるイエス様が ルカの福音書21:28
と。結局、どういう状況に置かれていても、もう少しと考えるべきなのではないでしょうか。 イエス様を知るようになった人々は、輝かしい、素晴らしい将来を持つものです。イエス様は彼らにとって道であり、真理でありまたいのちであるから、確かにイエス様なしの将来は真っ暗闇です。 イエス様を知るようになった者は、本当の意味で悩みながら喜ぶことができます。なぜなら、確信するからです。もう少し、イエス様はおいでになるからです。今日かもしれない。どういう状況に置かれても、どういう問題があっても、私たちは希望を持って、将来に向かうことができるのです。 けれども、そのために必要なのは、結局目に見える現象に惑わされないで、イエス様を仰ぎ見ることなのではないでしょうか。 今、兄弟がお読みになりました箇所の内容は、結局、主イエス様を仰ぎ見る大切さが強調されています。 もちろん、救われるためにも、必要なのはそれだけなのではないでしょうか。ヨハネの福音書6章40節に、 ヨハネの福音書6:40
結局、代わりに十字架の上で犠牲になられたイエス様を心の眼で見る人は、もちろん救われます。イエス様を見ることこそが大切です。もちろん、この目ではないよ。心の目でイエス様を見ることこそが大切です。 我々にとって、最も大切なのは、イエス様だけを見ることです。 私たちは、今、イエス様の一方的な愛、また恵みによって救われましたけれど、救われるために救われたのではない。一つの目的を持って、一つの褒美を得んがために、救われたとあります。この目的、この褒美は、我々にとって大切な事柄です。 聖書全体を見ると、私たちがこの目標を、褒美に与るための道が、その中に教えられていることがわかります。 とりわけ、ヘブル人への手紙の著者は、救われた兄弟姉妹が、常に前進すべきことを教え、何々すべし、何々すべし、と私たちに前進を要求しておられるのであります。 と共に、ヘブル人への手紙の著者は、前進することを進めているだけではなく、必ず、問題の目的に達することを約束しております。そのわけは、イエス様ご自身が、この目的に達する道を先に歩まれ、今想像に絶する栄光のうちにおられるからです。 イエス様は、身を低くし、我々のあらゆる悩み、苦しみをなめられ、ついに勝利を得て、今は父の栄光のうちに引き上げられたお方です。 だから、私たちもそこに到ることのできるという確信を持つことができるのです。 もちろん、イエス様のおかげです。ヘブル人への手紙6章19節ですかね。 ヘブル人への手紙6:19-20
とあります。私たちはこの目的を達する確信を持っているのでしょうか。 一つの注意しなければならないことは、旧約聖書と新約聖書は、私たちがこの目的に達しないかもしれないという悲しい可能性を書いているのです。 もちろんイエス様を信じ、イエス様の前にへりくだった人、恵みを乞うようになった人は、もちろん永遠のいのちを持っています。この永遠のいのちは、失われ得ないものです。 けれど、この目的を達せないかもしれないと聖書ははっきりと言っているのです。すなわち、我々の目的を達せず、褒美をもらえない可能性があります。 我々の生活は、この意味で失敗しているか、それとも成功しているかのどちらかです。失敗か、成功か。我々の見ているところによって決まるものです。 いったい、どこを見るのでしょうか。何に目を留めているのでしょうか。初めに読んでもらいました箇所の中のヘブル人への手紙12章ですね。 ヘブル人への手紙12:2
意味は、他のものから目をそらしなさい、とあります。結局、イエス様を見ないで、置かれている環境によって支配されてしまう可能性が十分あります。 ですから、聖書の中で、誤っている見方の危険性について、色々なことを言っています。 1、後を振りかえること。一つは、おそらく、皆すぐ思いだすでしょう。ルカの福音書の9章62節ではないかなと思います。すなわち、後を振り返ることです。 ルカの福音書9:62
これこそ、イスラエルの民が現実にやったことです。 詩篇78:41
とあります。いったいどうして、イスラエルの民はカナンの国に入らないで、荒野で40年もの間彷徨い続けたのでしょうか。何故、彼らの間に実りがなく、勝利、喜び、安らぎ、賛美、また、感謝がなかったのでしょうか。彼らは、後を振り向いたからです。 救われた兄弟姉妹に、大きな重荷をパウロが感じていたのも、この後を振り向くという点でした。 だから、パウロは、ガラテヤ人への手紙を書いたのです。彼らは救われていたのです。けれど、なかなか成長しませんでした。後を振り向き始めてしまったからです。 ユダヤ教の信者たちは、イエス様の恵みに与った兄弟姉妹を惑わそうとしたのです。後を振り返るということは、結局、世に戻るということでもなく、無神論に帰るということでもなく、また、イエス様を捨てることでもありません。 当時のガラテヤの人々にとって、後を振り向くことは、冷たい、いのちのない、掟的なユダヤ教に立ち返ることを意味していたのです。 イエス様の恵みによって救われた彼らは、イエス様の満たしに与る者でした。けれど、もしも冷たいユダヤ教に立ち返ったとしたら、決してかかる満たしに与らなかったことでしょう。 また、それは決して主のみこころにかなった霊的生活とはならなかったでしょう。というのは、ガラテヤの信者たちは、後を振り返り、少しも前進する兆し、様子がなかった。その場に立ち止まったままでした。 ガラテヤの信者たちが、内面的に前進するか、または、霊的に退くかが問題です。 後を振り向かず、前進すべきことは、パウロの願いであり、パウロの心からの願いであったので、パウロはガラテヤ人への手紙の中でこの事柄について書いたのです。 けれど、我々の状態はどうでしょうか。後を見ているのでしょうか。後ろを振り向くと疑いが起こり、悪魔が勝利を握ります。 後を振り向くたびに、イエス様を否認しているのです。ですから、後を振り向くこととは、間違った見方です。 2、不安そうにあたりを見ること。もう一つの間違った見方とは、不安そうにあたりを見ることです。イザヤ書の41章の10節。素晴らしい言葉が書かれています。 イザヤ書41:10
「不安そうにあたりを見回すなかれ」という言葉は、原語にだけあり、日本語の訳では、「驚くなかれ」となっております。恐れてはならない。「恐れるな。」、私たちは、なんとしばしば周りを見回すことでしょう。 福音書を見ると、ペテロについて色々なことが書かれてあります。彼は、不安げにあたりを見た男でした。 波の上を歩いていたとき、今まで見ていたイエス様から目を離し、あたりを見たとき、波の中に沈み始めたことが書かれています。マタイの福音書の14章の中で、次のように書かれています。 マタイの福音書14:28-29
泳いだのではないよ。ちゃんと水の上を歩いた。できたよ。何メートルだったか、何十メートルだったかわからないけれど。 確かに、ペテロは水の上を歩いた。 マタイの福音書14:29-30
問題は、それなのです。 マタイの福音書14:30-31
恵み深いお方ですから マタイの福音書14:31
今、話したイスラエルの民も、同じく、不安げにあたりを見回したことがあります。 12人の使いが、カナンの地をのぞき見て、そのうちの10人は不安げにあたりを見回し、カナンの地の堅い要塞と内に住む巨人たちだけを見て恐れたのに対して、残りの二人は、ただ主を見上げカナンの地に入ったことは、旧約聖書で明らかです。 イスラエルの民は、恐れおののいた10人に従ったのです。結果として、約束された地に入ることができませんでした。カナンの地に入ったのは、先の二人だけでした。 不安げにあたりを見回してはいけません。主は、我々を救いました。その主が、救われて以来我々を導いていてくださいました。 困難や苦しみは確かにある。けれど、困難や苦しみに縛られ、主に従うことができなくなるというようなことにならないように、ですから、箴言の4章の中で、 箴言4:25
とあります。すなわち、不安げにあたりを見回すなかれ。 3、近視的に見ること。第三番目の間違った見方とは、近視的にものを見ることです。 パウロは、なかなか前進しなかったコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第II、10:7
パウロにとって悩みの種でした。「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。」、これは危険な謝った見方の一つです。 私たちは時々、私たちの直面している悩みだけを見てしまう。我々の直面しているものだけが、我々に影響を及ぼします。 もし、私たちが、周りの問題だけを近視眼的に見るならば、決して、主の目的に到達することができません。 このような限られた視野を持つことは、主の栄光を奪う結果となります。我々は、目の前のものを見て、すっかりこんがらがってしまいます。「もうダメだ。」と考えてしまいます。この近視眼的見方は、我々の大きな悩みなのではないでしょうか。 私たちは、未解決の苦しみや問題だけを見つめます。苦しみや問題は確かにありますが、だからと言ってそれでおしまいではない。 周りにあるそれらの問題は、私たちを妨げるものであり、またヘブル人への手紙12章1節の「いっさいの重荷とまつわりつく罪」を意味しているのであります。 今日ある問題は、重荷のように我々の上にのしかかり、私たちは、「もうダメだ」と思っているかもしれない。これこそ、我々にまつわりついている罪です。 近視眼的な見方は危険です。悩みです。妨げとなることです。 箴言4:25
主イエスから目を離さないでいなさい。今の悩みは重要な事柄ではありません。目に見えない霊的な現実が、目に見える事柄より、我々にとって現実的な問題とならなければならないと思います。 困難に閉じ込められてはいけません。困難は決して尽きることがありません。私たちの腹痛のような問題は、たいした問題ではありません。イエス様のみ苦しみが最大の問題です。 ペテロは当時の色々なことで悩んでいる兄弟姉妹を励ますために書いたのです。ペテロの手紙第Iの4章から2節お読みします。 ペテロの手紙第I、4:12-13
4、自分勝手なものの見方。もう一つの間違った見方は、自分勝手なものの見方です。 パウロは次のように書いたのです。ローマの刑務所の中から。ピリピ人への手紙2章4節。 ピリピ人への手紙2:4
己のことのみを顧みることは、まことに自分勝手なことです。イエス様を信じる者として、利己的な生活をすることは許されません。 私たちはイエス様の肢体として、イエス様から目をそらせている兄弟、また罪に沈んでいる姉妹に対する責任を持っています。 「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」これは、何を意味しているのでしょうか。 何か一つの問題がある場合、それは私にどんな影響があるかと考える必要はない。人には、もしことが起こった場合、自分に害が及ばなければ、それでよいとする考えが往々にしてあるでしょう。 もし、集会の兄弟姉妹が、悩みにあっており、あるいは、意識してイエス様に不従順であり、またイエス様から目をそらし他のものを見ているとしたら、私たちが無関心でいることが、果たしてできるのでしょうか。 自分のことだけを顧みてはいけません。己のことのみを顧み、己にだけ意を用いる考え方は、誤ったものの見方です。己自身を顧みることは、己を不幸にする、一番の早道なのではないでしょうか。 5、自己分析すること。もう一つの間違った見方とは、五番目になりますね。自己分析することです。 パウロは、書簡をもってかかることを行なわないようにと警告を与えています。己の内に目を留めることの結果は、霊的な停滞をきたします。 何故、私たちは、己の内を見つめるのでしょうか。自分のうちにイエス様を満足させるものがあると考えているためでしょうか。自分を見ることによって、自分を喜ばせたいと思っているのでしょうか。これは、誤った見方の一つです。 己自身を見つめると不幸になり、また絶望する結果となります。 我々のうちには、何の良いところもありません。これは、知る必要があります。我々の内に良きことを期待することをよしましょう。だから、ソロモンは、 箴言4:25
イエスから目を離さないでいなさい。 今まで、少し、誤った見方の危険性について考えました。 今度は、逆のことを考えましょう。すなわち、イエス様を見る祝福について、少しだけ考えたいと思います。 我々の見るところは、今、話したように非常に大切です。ヘブル人への手紙の著者は、ヘブル人への手紙を通して、救われた人々の特権に目を留めることを教えてきて、そして最後にこの12章2節にまとめて、 ヘブル人への手紙12:2
と書いたのです。「イエス様から目を離さないでいなさい。」という言葉の原語を見ると、今、話したように、他のものから目をそらし、主イエスだけを見よ、という意味が含まれていますが、過ぎ去ったすべての事柄を振り向かず、私たちを取り巻いている事柄に目を奪われず、あらゆる己につける問題に心を奪われず、目前にある悩みに目をくれず、また己自身を見つめず、ただ、イエス様を見よ。 我々の見るところは、非常に大切な働きをします。私たちの目は、あれこれを見ます。我々の目は、ここあすこで満足を追い求めますけれど、聖書は言っていますね、 箴言4:25
結局、私たちの目的とはどこに置いているのでしょうか。我々の目は、どこに向けられているのでしょうか。天的なものに目が向けられているのでしょうか。それとも、地的なものに、この世的なものに目が向けられているのでしょうか。 もし、私たちの目が天的なものに向けられているならば、それは信仰の原動力となることです。 霊的成長の秘訣は、天に眼を向けることです。 箴言4:25
この言葉は、どのような意味を持っているのでしょうか。主のみこころが、主の目的が何であるかを、みことばと御霊によって教えていただきたいものです。主のみこころそのものを教えていただきたいものです。 全生涯を、主のみこころと目的にかなうようにしていただきたいものです。 イエス様を仰ぎ見る者は、主の目的を見ることができます。もし私たちが、主の目的ではなくて、己の目的を目の前に置くならば、我々の生涯は、失敗に帰し、主の目的を達することができず、褒美に与ることもできないのです。 主のご目的は、目に見えるものではなく、永遠のものです。だから、パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 これも、よく引用される大切な箇所です。 コリント人への手紙第II、4:17
パウロは軽いという言葉を使ったのです。 コリント人への手紙第II、4:17-18
私たちは、永遠に連なるものを見ているのでしょうか。我々の生涯は、主の目的にかなっているのでしょうか。 悪魔は、私たちが主の目的を達成しないように、また私たちが地的なもので縛られているように、また私たちが世的な目的を追い求めるようにと、あらゆる画策をしております。 悪魔が、我々を目的からはずした興味をもって、麻痺した状態に陥れることは、しばしば経験することです。我々の生涯が、主の目的とみこころにまったく合致するように祈り求めたいものです。 私たちは、今、対人関係に縛られ、自分でどうしたらよいかわからないでいるかもしれない。主の目的を考え、イエス様を仰ぎ見ましょう。 もし、私たちが悩んでいる対人関係が、主の目的を達成することを妨げているならば、その関係を速やかに断ち切らなければいけない。 私たちは、次に訪れる未来の出来事が、いかなるものであるか、皆目見当がつかないかもしれない。主の目的を深く考え、イエス様を高く、高く見上げようではないでしょうか。 将来どこで働いて、また奉仕したらよいか見当がつかないかもしれない。そのような時も、主を仰ぎ見ようではないでしょうか。 主のみこころはいかなるものなのでしょうか。 パウロは、エペソ人への手紙3章10節、11節に次のように書いたのです。 エペソ人への手紙3:10
半年後ではない エペソ人への手紙3:10-11
とあります。イエス様を仰ぎ見るべきです。ほかのものから目をそらし、イエス様だけを見よ。 悪魔は、イエス様にこの世のすべての富を示しただけではなくて、提供したのです。けれど、イエス様は、それを断固として退け、天なる神の目的に目を止め、ひたすらに前進したのではないでしょうか。 悪魔は、イエス様が十字架にかかることがないために、この世の一切のものを、イエス様に提供しました。けれど、イエス様の眼は、ひたすらに、ただ前を見つめていたのです。ヘブル人への手紙の著者は書いたのです。 ヘブル人への手紙12:1
走ることとは、イエス様だけを仰ぎ見ることです。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」ほかのものから目をそらしなさい。 ダビデは、いったいどうして、「みこころにかなう人」と呼ばれたのでしょうか。 詩篇の16篇を見るとその答えが出てきます。詩篇16篇を最後に読んで終わります。 詩篇16:8-9
|