日々新たにされる必要性


ベック兄

(御代田喜びの集い、2006/07/23)

引用聖句:コリント人への手紙第II、4章1節-18節
1こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、
2恥ずべき隠された事を捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています。
3それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。
4そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。
7私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。
8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
12こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。
13「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。
14それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。
15すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

今読んでもらいました個所は、使徒パウロ自身の告白、証しだけではなく、初代教会の兄弟姉妹の勝利の生活の秘訣についての個所ではないかと思います。
「日々新たにされる必要性」という題をつけたいと思います。
過ぎ去ったことはもう終わったし、明日のことはまだ来ていないし、けれど今日のためにわれわれが必要としているのは、新たにされることではないでしょうか。

イエス様を信ずる者の中で、二種類あるのではないでしょうか。すなわち、敗北者たちと勝利者たちです。
大切なのは、日々、毎日主によって新たにされることです。確かに全てのイエス様を信ずる者は遅かれ早かれ、自分の信仰生活の妨げとなるものは、実は自分の周りの環境や人たちにあるのではなく、自分の心の内にあるのだと気付かされます。

なぜ多くの信ずる者は、霊的に進歩しないのでしょうか。それは自分の生活の支配者がイエス様ではなくて、自我であるからです。
私たちの内に二つの相逆らういのちがあります。御霊によって新しく生まれた兄弟姉妹は、永遠のいのちを与えられていますけれど、生まれながらのいのちは、この新しく与えられた主のいのちを外に出さないように覆い隠そうとします。
今読んでもらいましたコリント人への手紙第IIの4章では、生まれながらのいのちを外なる人と呼び、主のいのちを内なる人と呼んでいます。16節をもう一回読みます。

コリント人への手紙第II、4:16
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

この外なる人を持ってしては、どうしても主に喜ばれる生活をすることが出来ないという体験をもたなければならないときがやって来るはずです。
いつも同じ失敗をし、いつも同じ罪を犯します。これを繰り返してついに、自らに絶望してしまった経験をお持ちなのでしょうか。
この経験はもし私たちが霊的に前進し、実を結びたいと心から願うならば、どうしても経なければならないことです。どんなに熱心でも、どんなに一生懸命祈っても、一度この霊的破産を通されなければならない。

今朝はちょっと短く三つの点を挙げていっしょに考えたいと思います。
第一番目。外なる人と内なる人とは、どういうものなのでしょうか。
第二番目。死によって実を結ぶことができる。
第三番目。壊された器となる必要性。

まず、外なる人と内なる人について、聖書は色々なことを言っています。例えば、ローマ人への手紙7章。多くの人々の読む個所です。
25節ありますけれど、20何回も、私、私、私ということばが出てきます。そうすると上手くいくはずがない。
結局、パウロの信仰者として、イエス様に奉仕する者としての告白です。例えば、7章の22節。

ローマ人への手紙7:22
22すなわち、私は、内なる人

主イエスと考えてもいいでしょう、

ローマ人への手紙7:22
22としては、神の律法を喜んでいるのに、

主の救いにあずかったパウロは、ここで何とかしてイエス様のみこころにかなった生活をしようと努めています。
パウロはこのローマ人への手紙の中で、私の肉のうちに良いものは住んでいないことを分かっている。経験によって知らされるようになった。けれども、イエス様は勝利者であると彼は最後に言うことができたのです。
このパウロはまた、エペソという町に住んでいる人々に次のように書いたのです。

エペソ人への手紙3:16
16どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

ここでも、内なる人ということばが出てきます。
パウロはここでエペソ人の信者にこのように書き送っています。すなわち、エペソにいる愛する兄弟姉妹を、あなたがたはすでに救われているけれど、あなたがたの内なる人はさらに強められなければならないと言っています。
そして前に読みましたコリント人への手紙第IIの4章の16節にもやっぱり、外なる人、また、内なる人という表現が出てきます。

コリント人への手紙第II、4:16
16私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々

毎日

コリント人への手紙第II、4:16
16新たにされています。

ここではパウロはコリントにいる兄弟姉妹に、内なる人は日ごとに新しくされ、日ごとに上から新しい力を受けなければならないと書き送っています。
このように、今挙げましたみことばを見ても分かりますように、聖書は、救いにあずかった人々には内なる人と外なる人のあることが書かれています。
聖書で言う外なる人は自我のいのちであり、内なる人は主なる神によって与えられた主のいのちであり、すなわち、イエス様です。

バプテスマのヨハネは、彼は必ず栄え、われわれは衰えるべし。あの方は盛んになり、私は衰えなければなりませんと言っています。
けれどもヨハネが言った「彼」とは内なる人、すなわち主のいのちであり、「われ」とは、外なる人、すなわち自我のいのちです。
私たちが主に仕え、霊的に前進しようと思うなら、内なる人、すなわち内に住んでおられる内住の主イエス様が、私たちの内で自由をもたらせられなければなりません。内なる人が外なる人によって縛られていては、実を結ぶ奉仕はできません。

内なる人、内に住んでおられる主イエス様は、私たちのうちに現実的に主となり、支配者となりたく思っておられますし、またイエス様は当然そうされるべきお方です。
私たちの内にイエス様が支配者となっておられることが一番大切なのではないでしょうか。
私たちの内なる人は時々、牢屋に入ったように縛られてしまいますが、自由にされなければなりません。私たちの内に住んでおられるイエス様が、私たちを自由に支配なさる。その度合いにしたがって私たちはイエス様のために役に立つ者となり、主の目に尊い者となるのです。

外なる人。自我のいのちを満足させようと努める人もたくさんいます。
この世は自我のいのちを満足させるために、全てのものを備えています。大部分の映画、テレビ番組、娯楽雑誌は人間の外なる人を満足させるために出来ています。
主イエス様の救いにあずかった私たちは、内なる人を養うために何をしているのでしょうか。

イエス様は、「人はパンだけで生きるものではなく、主なる神の口から出る一つ一つのことばによって生きるのである。」と言われたのです。イエス様ご自身もみことばによって生きておられたお方です。
私たちは本当に、主の口から出ることばによって生きているのでしょうか。
ドロップしたキリスト者を見ると、悲しいことですけれど、主のみことばをいただいて、みことばに生かされていかなかったために信仰の戦いから落ちてしまったことがわかります。

ただ聖書を読むだけではなく、もっとよくイエス様を知ろうと心掛けて、聖書の中にイエス様を求めようとしない者は段々霊的にカタワになってしまいます。
正しく聖書を学び、正しく祈りをしないキリスト者は、同じところにとどまったままです。
私たちは内なる人のために何をしているのでしょうか。私たちもパウロのように、外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていくと言えたら幸いではないでしょうか。

第二番目の点。すなわち、死によって実を結ぶ大切さについてちょっといっしょに考えたいと思います。
一番適当な個所は、ヨハネの福音書の12章24節、25節ではないかと思います。

ヨハネの福音書12:24-25
24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

一粒の麦の中にはいのちがあります。けれどそのいのちは堅い殻によってしっかりと包まれています。
いのちが外に現われるためには、堅い殻が破られなければなりません。殻の中にあるいのちが問題ではなく、殻を破っていのちが現われるか否かが問題です。
麦の殻は、私たちの外なる人、自分のいのち、自我のいのちを表わし、一粒の麦の殻の中にあるいのちは、内なる人、すなわち神のいのちであり、イエス様ご自身であることを意味します。

内なる人、主のいのちが自由にされるには、外なる人、自我のいのちが小さくされなければなりません。主イエス様は盛んになり、私は衰えなければなりません。
何と多くの人々はただ、自我のいのちだけしか持っていません。主のいのちについては何も知らない。ただ、イエス様に出会った人々だけが、永遠のいのちを持っています。
イエス様の弟子であるヨハネは、ヨハネの手紙第Iの5章12節に次のように書き記したのです。

ヨハネの手紙第I、5:12
12御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。

存在しているだけです。多くの人は器だけを見、大切にします。すなわち、外なる人だけを見ていますが、私たちは、器の中に入っているナルドの匂いを尊びたいものです。
イエス様を信ずる者の中にも、二つの種類があります。全てのキリスト者はイエス様を内に宿し、永遠のいのちを持っていますけれど、ある人は、内なる主が押し潰されてしまって、外に現われないで、またある人は、主が心の内を自由に支配されて外に現われています。
ですからキリスト者にとって問題なのは、いかにして永遠のいのちを受け取るかなのではなく、もうすでに永遠のいのちがいかにしてわれわれの内で自由をもつかということです。救いにあずかった人々の内なる人が外に現われて初めて、ほかの人々に祝福をもたらしていくことができます。

ところで、多くの実を結ぶには、まず死ななければなりません。
一粒の麦が死ぬにはまず、地に蒔かれ、土の中に埋められます。全くひとりぼっちになります。光が見えません。そして外の殻が腐ってダメになってしまいます。けれども、このようにして死にきるなら、私たちもパウロと同じような経験をもつようになります。

コリント人への手紙第II、4:16
16私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

コリント人への手紙第II、4:11
11私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

と。

最後に、第三番目の点についてちょっと考えたいと思います。壊される器についてです。
二、三ヶ所ちょっと見てみましょうか。

マルコの福音書14:3-4
3イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
4すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。

もったいないと彼らは思った。イエス様の価値を知らなければ仕方がない。

ヨハネの福音書12:3
3マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

それから前に読みました、コリント人への手紙第IIの2章です。

コリント人への手紙第II、2:14
14しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

マリヤは、価の高い匂い油を持っていました。彼女の全財産だったでしょう。
この香り高いナルドの香油の匂いが家中に満ちる前に、まず、匂い油の入った器が壊されなければなりません。もし器が壊されなければ、香り高いナルドの油は匂わなかったでしょう。
多くのキリスト者は、香油をしっかりとしまったまま、信仰生活を送っているようなものではないでしょうか。イエス様を受け入れ、永遠のいのちを与えられていますけれど、いのちを外に現わしていくことをしません。そういう人々についてパウロはテモテに書いたのです。

テモテへの手紙第II、3:5
5見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。

多くの兄弟姉妹の足りないところは、いったい何なのでしょうか。中身よりも器を大切にしています。
多くの兄弟姉妹は、熱心であればそれで良いと思い、それが肉の力であるかどうかを見分けないで、また、この世の教育を問題にします。すなわち彼らは器だけを見、外なる人だけを見ています。
けれど私たちは器の中に入っているナルドの匂いを尊びたいものです。器は隠れ、ただ内なる主のみが現わされていきたいものです。

私たちは確かに土のような者で、内なる人はイエス様ご自身です。生まれつきの賜物や能力は、主の支配の下になければ、本当は何の役も成さないものです。まず砕かれることが大切です。
私たち自身は消えてなくなってもいい。ただ内に住んでおられるイエス様が私たちを通して現わされていくことが問題です。
主の御霊は休みなく私たちに働きかけておられます。御霊は私たちを導いて、私たちが自我を死にきり、砕かれきり、ただイエス様の御栄えのために、主の道具として用いられるようになるように導いておられます。

外なる人は破れなければならない。殻は砕かれなければならない。殻そのものは砕かれなければならない。なぜならば、死なくして、実を結ぶことなく、霊的破産なくして、いのちと祝福をもたらすことはできないからです。これを深くイエス様に教えられて、知りたいものではないでしょうか。
少し小さな困難が来ると不平を言い、つぶやきが出、度を失ってしまいます。主なる神は、われわれの内に御位を定められてから、私たちの内で一つの目的を持って働き続けておられます。
それは、器の中にある永遠のいのちが、内なる人が自由に外に現われていくために、外なる人が壊されていくことです。

土の器の中に持っている宝が、外に現わされていかなければなりません。今日が差し迫って必要なのは、器ではなく、外に溢れ流れていく主のいのちです。
また、この世が求めているものも、器ではなく、イエス様の光です。
パウロはコリントにいる兄弟姉妹に次のように書くことができたのです。

コリント人への手紙第II、4:6
6「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

しかし、外なる人に死に、内なる人に生きることは、悩みを通してのみ、出来るのです。
もし私たちが本当に主に仕え、ほかの人に祝福をもたらそうと願うなら、自我のいのちを捨てなければならない。イエス様は・・・

(テープ A面 → B面)

・・・

マタイの福音書10章38節、39節をお読みいたします。

マタイの福音書10:38-39
38自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。
39自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

多くの、主イエス様の救いにあずかった人々が、自分に対する主のみこころは何であるかを知っていないことは、大きな悲劇です。
私たちは主の、われわれに対するご目的を深く知りたいものです。私たちの心の目が主のご目的に開かれるなら、今までの色々な問題や、悩みや、苦しみは、私の内に、また、私たちを通して内に住んでおられるイエス様が現われるためであったことがわかります。
私たちの過去に起こった出来事で、無駄は一つもありません。イエス様は最善の道を歩ませてくださいました。どんなに苦しいときも、また、先が見えなく、苦しかったときも、イエス様はそのようなときにも、最善を成していてくださったのです。これらの全てのことはただ一つ。

イエス様は栄え、私が衰えるためになされて来ました。
イエス様の霊がわれわれの内に自由を得るために、外なる人は砕かれなければなりません。主イエス様はこの目的を目指して私たちを導いておられます。
その導きは、ひとりひとりによって違います。ある人には早く、ある人には遅く主は働きます。たいていの場合、自分がゼロとなり、自分の内に主を主とするには、長い時間がかかります。

心の内に主のご支配を妨げるものを持っていますので、主は前へ導くことができません。
まだ主にささげていないものを持っておられるなら、今日それを主におささげしましょう。
「イエス様よ。あなたのために、兄弟姉妹のために、また、あなたを知らざる人のために、私は全てをあなたにささげます。あなたが私の内にあなたを通して外に現われることができるように、私は私自身をあなたに全てをおささげいたします。」と、全てを主に明け渡したいものではないでしょうか。

今までに、自分自身に恐れを抱いたことがあるのでしょうか。いくら救われたとしても、どんな悪いことでも出来る可能性を持っているということを、気付いたことがあるのでしょうか。
巨人ゴリアテのような自我が自分の前に立ち塞がり、どうしてもそれに勝つことが出来ず、パウロのように、

ローマ人への手紙7:24
24私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

イエス様は言われました。

ヨハネの福音書12:25
25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

と。自己否定は、自分の権利をささげることです。自己否定は、自分に拠り頼まないことです。
「私の心ではなく、あなたのみこころをなしてください。」、これがイエス様のご生涯の変わらなかった態度でした。ですから、イエス様から恵みの流れが、いのちの泉が、人々に分け与えられていたのです。
私たちの考え、私たちの感じ、私たちの意思全てを主のご支配の下に置かれる時、私たちの内からも、いのちの泉が湧き出てくるはずです。

私たちの生まれながらの考え、感情、意思は、霊的ではない。これを御霊の支配にゆだねる時、初めてそれはみこころにかなう者となります。
それらを主にささげることにより、霊的なものになります。自分みずからの考え、感情、意思を自分からイエス様にささげなければ、私たちの内から主のいのちは流れ出ないのです。
大ぜいの人が一緒にする決心ではなく、ひとりひとりが決心しなければならないのです。

「主よ。私は自らにもう絶望しています。自ら何もすることができません。どうか私を通してご自分のみこころをなさしめてください。」と言いたいものです。
アブラハムは息子であるイサクをささげる前に、イシュマエルをささげたのです。
多くの救いにあずかった人々は、反対に、反対のことをしています。イシュマエルをささげようとせず、イサクだけをささげます。自らの肉の力で主に仕えようとする。

聖めは罪の解放よりもっと深く、大きいものです。それは自分の意思を主にささげ、自分の支配をイエス様にゆだねることです。
アブラハムは勇気を振り起こして自ら出たイシュマエルを荒野に捨てました。そのあとでアブラハムにもたらされた主の祝福はどんなに大きかったことでしょう。
アブラハムの勝利の生活を私たちも送るためには、何をやったら良いのでしょうか。アブラハムと同じように、自分の最も愛するものを主にささげることによって、勝利の生活を送ることができます。

ドイツのアイドリンゲンの神学校の前の校長先生である姉妹は、自分の生まれながらの性質を非常に苦にしたことがありました。
いつも悪魔に試みられ、「お前は繰り返し、繰り返し同じ失敗をしている。お前はもうダメな人間だ。」と言って、囁いたのです。
けれども、ある日、姉妹はひとつの夢を見ました。夢はあまり大切にしないほうがいいと思う。夢は夢なのですけれど。彼女にとって非常に良い経験だったらしい。夢の中で、遠く離れた十字架を見たのです。

「あー、十字架か。」、もう少し近づくと、「あっ!どなたかが架かっている。誰かな。」、急にもう、びっくりしたのです。自分だったのです。
それから悪魔が攻めてきました。この時十字架につけられた自らを指し示したところ、悪魔は逃げてしまった。もう十字架につけられたから、死んでしまったから、もう攻撃する必要はない。
ある兄弟は、八年間集会から離れてしまったのですけれど、また戻って来ました。その時の告白とはどういうものであったかと言いますと、「私は十字架につけられていなかったのです。」と。十字架を見ると、そこには主イエス様だけでなく、私たちの古き人もそこについています。

ローマ人への手紙6:6
6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

とあります。どんなに悪魔が攻めて来ても、私たちはこのみことばをもって立ち向かうことが出来ます。
イエス様の勝利は完全です。イエス様は、私たちに古き人とともに十字架につけられて亡くなってくださいました。生きているのはもはや、私ではなく、イエス様が私の内に住んでおられる。悪魔は私たちに対して何の権利も無い。「悪魔よ。退け。」と言うことができます。

私たちの持っている問題が何であろうと、イエス様の御臨在を深く心に覚えるまで、主の御前に静まり、主の臨在を確信したならば、みことばを開いて、主の声を聴きましょう。
そうしていくなら、日々新たなる力を上からいただく勝利の生活を送ることができるのです。
日々新たにされることとは、何という恵みなのでしょうか。




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