御霊によって歩もう


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/12/06)

引用聖句:使徒の働き19章1節-7節
1アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、
2「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。
3「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。
4そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。
5これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。
6パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。
7その人々は、みなで十二人ほどであった。

テモテへの手紙第II、1:14
14そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。

本物があればにせものもあるでしょう。結局、本物のイエス様を紹介できるのはありがたい。
結局宗教と関係しているイエス様はにせものです。本物のイエス様は宗教とは関係のないお方です。呼んでおられるお方です。要求しない。ああしないと、こうしないとダメだと言わないお方です。
「疲れているなら、色々な問題があるならおいで。ありのままでいいよ。待っているよ。休ませてあげます。」

神のみことばである聖書は主の永遠の昔からのご予定について多くのことを語っています。すなわち、主なる神はなぜ人間をお造りになったのでしょうか。主の永遠からの創造における予定は、いったい何なのでしょうか。
聖書は三つのことを言っています。

第一番目。主なる神の性質にあずかるために、人間が創造された。
第二番目。主のご愛に報い、応えるために、創造された。
第三番目。永遠のいのちを得るために。

これは人間を造られる前に、主の持っておられたご予定でした。
それから、救いにおける主の永遠からの予定は何だったのでしょうか。イエス様はどうして尊い血潮を流し、十字架の上で死なれたのでしょうか。
消極的な面は二つあります。すなわち、私たちの罪の問題を解決するために、また二番目に、私たちの古き人、すなわち罪の性質の問題を解決するためにイエス様は犠牲の死を遂げたのです。

今まで私たちはこの二つの面について詳しく考えてまいりました。簡単に申しますならば、私たちが何を成したか。すなわち、罪を犯した。
罪を消すためにはイエス様の血潮がある。イエス様の血潮を信じると、罪の赦しの確信が与えられます。御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
3,000年前にダビデ王は救いの確信を得てから、赦されたと確信したとき告白したのです。

詩篇32:1-2
1幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
2幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

けれども私たちは何を成したかは問題だけではありません。私たちは何であるか。すなわち、罪人である。罪の性質を持つ者である。
その解決の手段はイエス様の十字架そのものです。十字架を信ずる者はまことの解放、罪の力からの解放を経験することができるのです。

しかし消極的な面だけではなく、積極的な面もあります。イエス様の死はどうして必要だったかと言いますと、悪魔が失ったものを、初めての人間であるアダムが失ったものを回復するために、元通りにするために、また悪魔のわざを滅ぼすために必要だっただけではありません。
主の永遠からのご予定が成し遂げられるために必要でした。
初めての人間が失ったものを回復するため、すなわち罪の赦しと罪の力からの解放だけではなく、自らのいのちを与えることにより、人類に永遠のいのちを得させるためにイエス様が死に行かれたのです。

イエス様は教会を愛してそのためにご自身をささげられたと、パウロはエペソにいる人々に書いたのです。イエス様の死によって私たちがアダムが堕罪する前に持っていたものより、もっともっと多くのものを持つように至ったのです。
罪が赦され、古き人が殺されたばかりではなく、主なる神がもっておられる永遠のいのちにあずかる者とされたのです。永遠のいのちを持つことにより神の子どもとされ、主イエス様の兄弟とされたのです。
主イエス様を受け入れた者ひとりひとりは主なる神の家族の一員とされたのです。何というすばらしい救いのみわざでありましょう。

どうしたら実際にイエス様の御姿が私たちに形造られるのでしょうか。どうしたら実際に憧れの勝利の生活に達することができるのでしょうか。
またどうしたら信仰生活が前進することができるのでしょうか。これらの疑問を今日まで考えて来ましたが、その答えは第一番目、霊的に知ること。第二番目、信仰の計算をすること。第三番目、おのれを主にささげ尽くすことです。
今日は第四番目の点について少しだけ考えたいと思います。すなわち御霊によって歩むことです。

御霊とはいったいどのようなお方なのでしょうか。
今より数十年前の地図を見ると、アジヤ、アフリカ、オーストラリアの部分は白いままで残されており、地図の側にはまだこの地方は調べ尽くされていないと書いてあり、河川も実線で示されておらず、点線で示されています。また地図によっては、都市の所在地もマチマチというありさまです。
イエス様を信ずる兄弟姉妹の経験におきましても、その地図のように白いままで残されている未知の世界がたくさんあります。とりわけ、御霊についての知識に乏しい人が多いようです。

エペソの信者たちがやはりそうでした。今読んでいただきました使徒の働きの19章1節から7節までを見るとわかります。パウロが彼らに聞いてしまったのです。
「どう?信者になったとき、あなたがたは御霊を受けたか。」と聞いたとき彼らは、「御霊なるものがあることさえ聞いたことがない。」と言ったのです。結局エペソの信者にとって御霊の世界は未知の世界でした。
今日多くの人に、「あなたはいつ聖霊を受けたか。」、「御霊はあなたにとって現実なお方なのか。」と問うと、やはり答えられない方が多いのではないでしょうか。

父なる神のことはよく知っていて、「主なる神は全宇宙の創造者であり、私たちの天の父であり、全能にして愛に満ちておられるお方である。」と心から言うことができる。
またイエス様のことも身近に覚えて、「イエス様は私たちの救い主であり、私たちの持っているただ一つの富です。」と言います。
ところが一旦、御霊は?と尋ねられますと、御霊様についての知識が、持っていても実際には不確かなぼんやりしたものにしか感じていないようです。御霊とわれわれの間の関係は、私たちの霊的生活、霊的進歩に欠くことのできない関係です。

新約聖書を見ると、初代教会の兄弟姉妹にとっては御霊は本当に現実的なお方だったことがわかります。初代教会の兄弟姉妹は御霊にまず教えられ、それから満たされ、また導かれたのです。ちょっと二、三ヶ所見てみたいと思います。
御霊が彼らに語りかけられたということが使徒の働きに書かれています。使徒の働きとはいわゆる歴史の本です。教会はどういうふうにできたのか、どういうふうに初代教会の人々は導かれ、成長したのか、用いられたのかについてです。

使徒の働き8:29
29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」と言われた。

御霊が命令したからピリポは忠実に従いました。
使徒の働き10章の19節を見ても、御霊が今度はピリポではなくてペテロに語ったとあります。

使徒の働き10:19-20
19ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたをたずねて来ています。
20さあ、下に降りて行って、ためらわずに、彼らといっしょに行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

結局、御霊が言われたとあります。
ペテロは喜んで行く。そういう気持ちが無かったのです。もう嫌です。けれども最終的に同じ幻を3回見たから、仕方がなくて従ったのです。
異邦人の家に入るのは、当時のユダヤ人にとって考えられないことでした。けれども御霊が語ったから彼は従った。結果として異邦人たちの五旬節を経験したとあります。

使徒の働き13:2
2彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。

ここも同じように、聖霊が言われたとあります。
結局、初代教会の兄弟姉妹にとって御霊とは、現実的なお方でした。彼らは御霊に従うようになったのです。
それから初代教会の兄弟姉妹が御霊に満たされたとも、使徒の働きの中で何回も書いてあります。五旬節のことなのですけれども、

使徒の働き2:4
4すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

とあります。彼らはみな聖霊に満たされたのです。
五旬節のとき、聖霊に満たされた人々はまた満たされるようになった。絶えず聖霊に満たされなければ、主は祝福することができません。

使徒の働き4:31
31彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

聖霊に満たされたことのひとつの結果とは、いくら反対があっても、殺されても、彼らはみことばを大胆に語りだした。
みことばとはもちろんイエス様のこと。彼らはイエス様を紹介し続けたのです。

使徒の働き13章の52節。ここで、ひと文章だけですけれど、

使徒の働き13:52
52弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

当時の世界の中の異分子のようなものでした。初代教会の人々は、結局聖霊の御声に従ったし、御霊に満たされたのです。
もうひとつ、彼らが聖霊によって導かれたと使徒の働きをとおしてはっきり知ることができます。

使徒の働き15:28
28聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。

聖霊と私たち。結局彼らはひとつでした。自分の思っていること、考えていることは別に大切ではない。次の個所があります。

使徒の働き16:6-7
6それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
7こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。

聖霊にとめられてしまったのです。
各集会に親しく臨在なさる御霊が、またイエス様を信じない者にとっては非常な恐れを抱かせ、すでに救いにあずかっている人々には勝利と喜びを武器にお与えになったのでした。

旧約聖書においては、御霊をうちに宿していた人々は少なかったのです。限られていました。すなわち、主に特別に選び分かたれた祭司、王、預言者たちだけでしたが、新約聖書の今では聖霊の賜物はすべての救われた者が持つことのできる特権です。
神の友であるモーセ、神のみこころにかなったダビデ、力に満ちた預言者エリヤに臨んだと同じ御霊様が今日の信ずるひとりひとりに内住しておられます。
御霊の賜物により現代のすべての本当のキリスト者は、旧約聖書において主に特別に選び分かたれた主の器と同じ水準に、立場に置かされています。パウロはローマ人への手紙5章の5節に、

ローマ人への手紙5:5
5この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

聖霊はわれわれに与えられたものです。いつか与えられるのではない。もう与えられている。同じく

ローマ人への手紙8:9
9けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

そうすると、救われた人々とは聖霊の宮であります。御霊を持たない人はキリストのものではない。救われていないことになります。
私たちに与えられるすべての賜物はキリストにあって、私たちに与えられるのです。エペソ人への手紙1章の3節。よく引用される個所なのですけれども、御霊の賜物はもうすでに今ここにあるということがわかります。

エペソ人への手紙1:3
3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

過去形になっています。主の賜物はキリストにある私たちには、もうすでに私たちのものとなっています。けれどその賜物は個人的に自分のものとして受け取る段階に来なければならない。
多くの人々は、それでは聖霊という賜物を個人的に受け取る前提条件は何なのでしょうかと聞きます。これに答えるために、今日、一つの点について考えたいと思うのです。すなわち、聖霊は注がれている。
注がれた御霊について考えると、もちろん使徒の働き2章を見なくてはならないのではないでしょうか。

使徒の働き2:33、36
33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

このみことばの中には3つのことが含まれています。

第一番目。主イエス様が救いを成し終えて、高く引き上げられたことです。
第二番目。イエス様は約束の御霊をお受けしたことです。
第三番目。この約束の御霊を信ずる者に降り注がれた。

この3つのことが含まれています。
なぜ御霊の注ぎがあったか。このみことばを見るとはっきりわかります。弟子たちが祈ったからではありません。イエス様が高く引き上げられ、御霊をお受けになったからです。
私たちの場合もこの事実が当てはまるのではないでしょうか。もし私たちが本当に救われているならば、すでに御霊は私たちの上に注がれているのであり、あれをやり、これをやるから御霊を受けるのではありません。イエス様が高く引き上げられたことにより、御霊が注がれたのです。

私たちの罪がいったいどうして赦されたのでしょうか。私たちが熱心だったからなのでしょうか。私たちが自分の罪を告白したからでしょうか。決してそうではない。イエス様が私たちの罪を引き受けて、私たちの受けるべき刑罰の身代わりに、十字架の上で亡くなってくださったからです。
私たちはなぜ新しいいのちを受けるこができたのでしょうか。集会に集まったからでしょうか。聖書を読んだからでしょうか。決してそうではない。イエス様がよみがえってくださったからです。
なぜイエス様を信ずる者全部が、キリストにあって御霊を受けているのでしょうか。あのこと、このことをやったからではない。あのこと、このことをやめたからではない。決してそうではない。私たちの主イエス様が高く引き上げられたからです。

御霊が降り注がれたことは、イエス様が高められた証拠です。五旬節はイエス様が主の主、王の王として諸々の天よりも高く引き上げられた証拠です。
あのナザレのイエスはただ単に自らの考えで殉教したのか。それとも全人類の救い主として、十字架にお架かりになったのか。どうしたら知ることができるのでしょうか。私たちの上に注がれた御霊によってそれがわかるのです。
イエス様が高く引き上げられたがゆえに、私たちはイエス様を受け入れることによって聖霊を受けました。主イエス様を受け入れた者はみな、御霊を受けています。感じても感じなくても、信じても信じなくても関係ない。動かすことのできない事実です。

私たちはどのようにして罪の赦しをいただいたのでしょうか。私たちが集会に集まり、聖書を読み、熱心に祈ったために救いが与えられたのではありません。イエス様が血潮を流してくださったから罪は赦され、救われたのです。
ヘブル人への手紙の9章22節。聖書の中でもっとも大切なことばのひとつなのではないかと思います。血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない。

ヘブル人への手紙の9:22
22血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

救いに至るまたひとつの道は主イエス様の血潮です。
イエス様に出会っていない人々は、「どうして聖書だけなの。」とよく言います。ほかの宗教もなかなか良いことを言っているではないか。もちろんそうです。みんな聖書から借りています。ほかの宗教もなかなか良いことを言っている。
けれど聖書の言っていることは、人間はひとつの教えを信じ込むことによって救われません。十字架が無ければ救いはあり得ない。血を流すことがなければ罪の赦しはあり得ない。だからイエス様しかない。イエス様の血潮は私たちの罪のために流されたのだということを知り、認め、それを心から感謝したとき、救われます。

御霊も同じ方法で受け入れたのです。私たちはイエス様が高く引き上げられたことを信じました。そのとき私たちは御霊をお受けしたのです。
もし私たちがまことの救われた者であり、イエス様の血が流されていて、なお罪が赦されていないということはあり得ません。同じように、イエス様がすでに高められておられるにも関わらず、私たちが救われた者として聖霊を受けていないということもあり得ないことです。

そう言っても私たちは何も御霊について経験していないので、立場としては全てが与えられているとしても、実際に御霊を持っているとは言えないかもしれない。
もちろん私たちはそれらを個人的に我が物として受け取らなければなりません。このすばらしい賜物を個人的に自分のものとして受け取るには、主の永遠の事実に私たちの心の目が開かなければなりません。
私たちはイエス様がもうすでに全てを成し遂げられたことを感謝したとき、救いをいただきました。もし私たちがイエス様の高められたことを見、それを感謝するなら、御霊の力を経験するはずです。

イエス様は私たちのためにご自分のいのちをささげ尽くされたのです。この事実を心の目で見ると、救いのためにもがくことをやめるはずです。そして主の救いに自分の身をゆだね、豊かな赦しをいただくことができるのです。
イエス様は高められ、御霊を教会の上に降り注ぎました。もし私たちがこの事実を心の目で見るなら、御霊をくださいと叫び求める努力をやめるでしょう。
もし私たちが聖書に記されている、主なる神の永遠の事実を上からの光によって知らされると、主は私たちに信仰を与えてくださいます。そしてこの信仰により主の事実は私たちのものとなります。
ある、まだ若いキリスト者があるとき祈ったのです。「イエス様。御霊を与えてください。お願いします。与えてください。」と祈り始めましたけれど、すぐそれはおかしい、誤りだと気が付き、「主よ。もうすでに私のうちに御霊を与えてくださったことを感謝いたします。」と祈ったところ、御霊の力をうちに経験し、その信ずる者の生活が全く変わったということです。

もう一つの大切な点についてちょっとだけ最後に考えたいと思うのです。すなわち、天の宝を引き出す鍵とは信仰です。主に信頼することです。主の約束を単純に信ずることです。
罪の赦しをいただくにも、聖霊を受けるにも必要なのは結局信仰なのです。
イエス様が私たちの身代わりとなって亡くなってくださったことを知り、信じ、感謝したとき、私たちの罪が赦され、私たちは主の御前に義とされました。

イエス様の昇天された日のことを考えましょう。イエス様は地上における33年の間、罪と汚れのこの世に住み続けられ、十字架の上で救いを成し遂げられ、よみがえり、昇天され、天に昇られたとき、天では口では言い表わせないほどの喜びがあったことに違いない。
イエス様はすべてのものの名にまさる名を与えられ、高く引き上げられたのです。イエス様は今、天の父なる神の御座におられます。そこからきよい御霊を私たちに注いでくださったのです。ですから私たちは御霊の注ぎのために祈る必要はもはやない。

2,000年前に一部の人々ではなく、全教会に降り注いでくださり、今すでに私たちのうちにおられる御霊を心からお受けし、感謝すれば良いのです。
私たちのところにまだ御救いにあずかっていない方が来て、救いを求めたとき、私たちはその人の身代わりにすでに救いを成し終えたイエス様を示し、ともに祈ります。
そのとき、その求める人が、「イエス様。あなたは私の罪を赦しになるでしょう。私を赦したいのでしょう。」と祈るなら、私たちはその人が御救いにあずかったとはもちろん信じられません。けれどその人が、「イエス様。あなたは私の身代わりに死に、私の罪を赦してくださった。感謝いたします。」と祈るなら、その方の救いの確かさを私たちは認めるでしょう。

御霊についても同じです。私たちが「御霊をください。」と何十年間祈っても同じです。けれど、「イエス様。高く引き上げられて御霊をお下しくださいましたこと、感謝します。」と言って、御霊を心にお迎えするなら、私たちはその力を自らのものとすることができます。
イエス様はあとになってから、主となれるのでしょうか。そうではなく、イエス様は今すでに主の主としておられます。ですから御霊を待ち望む必要はなく、私たちはすでにきよき神の霊の信者としていただいているのです。心の目で主の事実を見て、そこから湧き出る信仰が大切です。
すでにイエス様が高められ、私たちの上に御霊をお注ぎくださったことを心の目で見るならば、私たちはこのすばらしい賜物を感謝しないではいられません。御霊を受けるに必要な条件が使徒の働きの2章38節に書いてあります。

使徒の働き2:38
38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。

二つの条件とそれに伴う二つの賜物についてここで書かれています。二つの条件とは悔い改めと洗礼。洗礼とは信仰の証しであります。二つ目の賜物は、赦しと聖霊です。

悔い改めとは、どういうことかと言いますと、ひと口で言いますならば、趣味が全く変わるということです。
以前は罪を愛していたけれど、今はそれを嫌うようになった。以前はこの世は自分にとって非常に魅力的だった。けれど今はこの世の快楽は自分を惹きつけない。
以前はイエス様のものとなるということが恐れであったけれど、今はイエス様のものであるということが、無上の喜びです。以前には恥とし、また軽蔑していたものが一番尊いものとなったのです。このように、全く趣味の変化を経験した者が初めて、まことの悔い改めをした者と言うことができるのです。

二番目の条件は洗礼です。洗礼は心の信仰の表われであり、告白であり、また証しです。ですから洗礼式のときいつも、「『式』ではない。『証し』です。」と言います。
イエス様とともに十字架につけられ、ともによみがえらされたことを信ずる者は、洗礼を受けることを求めます。強制されたからではない。自発的に頼まなければ全く意味のないことです。
いうまでもなく、洗礼を受けるから教会の会員になるのでもない。洗礼を受けたから礼拝を守らなくてはいけないのでもない。

この個所によると、罪の赦しと聖霊の賜物を受ける条件がここまで述べた悔い改めと洗礼にあることをはっきり言っています。
私たちは悔い改めてほかの人に信仰を告白したかどうかなのでしょうか。もしそうなら、罪の赦しと御霊の賜物をいただいているのです。
罪の赦しは受けているが、二番目の賜物である御霊は受けていないと言うかもしれない。けれど聖書は悔い改めと洗礼、すなわち信仰の告白という二つの条件を満たすと、それに伴って必ず二つの賜物が与えられるとはっきり言っています。もしかすると今日まで罪の赦しという一つの賜物だけを考えて感謝したかもしれない。

1,000円で500円の本を2冊買い、けれど1冊の本を忘れて帰るなら、思い出してそれをもちろん取りに行くでしょう。そのとき、もう一度500円を払う必要はもちろんない。けれど多くの兄弟姉妹は、せっかく受け取る権利のある二つの贈り物を一つしか受け取りません。
エペソの信者がそうだったのです。救いは受け取っていましたが、御霊の賜物はまだいただいていませんでした。
もし私たちが二つの条件を満たしていながら、まだ御霊について知らないなら、主の御前に静まり、「イエス様よ。私は二つの条件を満たしながら、一つの賜物しか受けていませんでした。あなたは高く引き上げられ、御霊をすでに注いでいてくださいました。感謝いたします。」と言って、御霊の力を体験的に知るようになります。

私たちはイエス様が御座のそばに引き上げられ、全教会の上に御霊を注いでくださったことを心から感謝し、御名をほめたたえると、主は必ず働いてくださるのです。
もし私たちが単純にこの事実を信ずるなら、私たちは贖われた者だけではなく、神の霊、聖霊の宮である御霊が私たちのうちに住んでおられるという、はっきりとした確信が与えられるのです。
ですからパウロはよく、コリントにいる人々に書いたのです。「あなたがたは聖霊の宮であることを忘れたの?」、忘れると、もちろん主は導くことができないし、語ることができないし、用いることもできないのです。




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