御霊にあって歩む生活


ベック兄

(吉祥寺学び会、2005/12/13)

引用聖句:使徒の働き2章33節、36節
33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。
36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

コリント人への手紙第I、3:16
16あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

悩むこととは、長い目で見ると確かにいいものです。
先週私たちは、御霊が与えられたというテーマについて、御霊によって歩めというテーマについて少し考えたのですけれど、今日もちょっと続けたいと思います。

人間はどうして導かれ、救われるのでしょうか。聖書は、父がイエス・キリストのほうに引いてくださるのですって。
そして御霊はイエス様の栄光を現わす。そして父によって引かれた人々、そして聖霊の働きによって心の目が開かれた人々をもちろんイエス様は喜んで受け入れてくださる。
父は結局私たちの救いを永遠の昔から計画したのです。そしてイエス様によってこの救いが成し遂げられました。けれどもそれだけだったらちょっと十分ではない。

聖霊が働かなければ人間は悔い改められないし、信ずることもできない。
結局、御霊の働きによって父なる神に計画した救い。イエス様によって実現された救いは初めて人間のものになります。
ちょっと二、三ヶ所、聖書を読みます。

ヨハネの福音書16:13
13しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。

マタイの福音書10:20
20というのは、話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話されるあなたがたの父の御霊だからです。

ゼカリヤ書12:10
10わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。

ヨハネの福音書6:63
63いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。

コリント人への手紙第II、3:6
6文字は殺し、御霊は生かすからです。

ローマ人への手紙5:5
5私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。

エペソ人への手紙5:9
9――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――

コリント人への手紙第II、3:17
17主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。

エペソ人への手紙3:16
16どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。

こういうことばを見ると、やっぱり聖霊の働きは考えられないほど大切なのではないかとわかります。イエス様は本当に救いの道を開いてくださったよりも、道そのものです。真理そのものです。
このイエス様の死とはいったいどうして大切であったかと言いますと、アダムが失ったものを回復するため。元通りにするために、また悪魔のわざを滅ぼすために必要だっただけではない。主なる神の永遠からのご予定が成し遂げられるためにも必要だったのです。
アダムが失ったものを回復するため、すなわち罪の赦しと罪の力から解放だけではなく、自らのいのちを与えることにより、人類に永遠のいのちを得させるため、イエス様が死にいかれたのです。

パウロは、「キリストは教会を愛し、そのためにご自身を与えられた。」と書いた。また、「主イエスは私を愛し、私のためにご自身をささげられた。」と書いたのです。
イエス様の死によって私たちはアダムが大罪する前に持っていたものより、もっともっと多くのものを持つに至ったのです。罪が赦され、古き人が殺されたばかりではなく、主なる神のもっておられる永遠のいのちにあずかる者とされました。
永遠のいのちをもつことにより神の子どもとされ、イエス様の兄弟姉妹とされました。イエス様を受け入れた者ひとりひとりは、主の家族の一員とされました。何というすばらしい救いのみわざでありましょうか。

けれども大切なのはただ救われることだけではなく、イエス様をよりよく知ることです。イエス様によって用いられることです。御霊と私たちの間の関係は、私たちの霊的生活、霊的信仰に欠くことのできない関係です。
先週私たちはちょっとあっちこっちの、おもに使徒の働きからの個所を読みました。すなわち初代教会の人々とは本当にもう、生き生きとした教会でした。毎日人々は悔い改めて、群れに加えられるようになったのです。結局、毎日人々は導かれ、救われればもうみんな元気になる。主はすごい。と認めざるを得ないからです。
どうして彼らは用いられたか。祝福されたのか。主の奇蹟を経験することができたかと言いますと、ひとことばで言いますと彼らは御霊に教えられ、御霊に満たされ、御霊に導かれたからです。

旧約聖書を見ると、もちろん御霊についても多くのことが書かれています。けれども旧約聖書においては、御霊を内に宿した人々はあんまり多くなかったようです。特別な人々だけ、祭司たち、王さま、預言者たちだけでした。
けれど新約聖書の今では、御霊の賜物は全ての救われた人々がもつことができる特権です。想像できないけれど本当なのです。
神の友であるモーセ、神のみこころにかなうダビデ、力に満ちた預言者エリヤに臨んだと同じ御霊が今日信ずるひとりひとりに内住しておられます。

今読みました個所の中で、何回も「私たちに与えられた聖霊」ということばが出てきます。もう一回使徒の働きの2章33節です。読みましょうか。

使徒の働き2:33
33ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。

使徒の働き2:36
36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

先週も言いましたし、ここで三つのことが書き記されています。まずイエス様が救いを成し終えて高く引き上げられたこと。
二番目。イエス様は約束の御霊を受けたこと。そして第三番目。この約束の御霊を信ずる者に降り注がれたということです。
御霊が降り注がれたことは、イエス様が高められた証拠です。五旬節はイエス様が主の主、王の王として諸々の天よりも高く引き上げられた証拠そのものです。

あのナザレのイエスはただ単に自らの考えで殉教したのか、それとも全人類の救い主として十字架にお架かりになったのか。どうしたら知ることができるのでしょうか。
信ずる者の上に注がれた御霊によってわかります。イエス様が高く引き上げられたがゆえに、私たちはイエス様を受け入れることによって聖霊を受けました。イエス様を受け入れた者はみな御霊を受けています。
大部分の信ずる者はそれをわかっていないかもしれない。けれども信ずる者は、今コリント人への手紙第Iによると、聖霊の宮、神の住まいと呼ばれている者です。

私たちはどのようにして罪の赦しをいただいたのでしょうか。集会に来て、聖書を勉強して、熱心に祈ったからなのではない。イエス様が血潮を流してくださったから、罪が赦され、救われたのです。
色々な人々はほかの教えについて話し合ったり、宗教的な理想について話したりすると、いつも覚えることとはひとつの個所です。ヘブル人への手紙9章の22節。「血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない。」
代わりに死なれた方がいなければ、人間は何をやっても無駄です。結局救いに至るただ一つの道は、イエス様の流された血潮です。イエス様の血潮は私たちの罪のために流されたのだということを知り、認め、それを心から感謝したとき、救われたのです。知らないうちに聖霊の宮になったのです。

御霊も同じ方法で受け入れたのです。私たちはイエス様が高く引き上げられたことを信じました。そのとき私たちは御霊を受けたのです。
もし私たちがまことの救われた者であり、イエス様の血潮が流されていてなお、罪が赦されていないということはあり得ません。
同じように、イエス様がすでに高められておられるにも関わらず、私が救われた者として聖霊を受けていないということもあり得ないことです。

イエス様は全てのものの名にまさる名を与えられ、高く高く引き上げられました。
主イエス様は今、天の父の御座におられます。そこから聖い御霊を注いでくださいました。ですから御霊の注ぎのために祈る必要はない。
2,000年前に一部の人々ではなく、全教会に降り注いでくださり、今すでに私たちのうちにおられる御霊を心からお受けし、感謝すればよいのであります。

私たちはイエス様が御座のそばに引き上げられ、全教会の上に御霊を注いでくださったことを心から感謝し、御名をほめたたえたいものです。
もし私たちが単純にこの事実を信ずるなら、私たちは贖われた者だけではなく、神の霊の宮であります。御霊は私たちのうちに住んでおられるというはっきりとした確信が与えられるのです。御霊が注がれた。
そしてパウロはもうひとつのことをいつも強調したのです。この御霊がやっぱり信ずる者の中に住んでいるのです。

私たちのうちにある宝がどんなにすばらしいお方であるか知っているのでしょうか。私たちのうちの宿っておられる御霊が、主なる神ご自身であられるということを私たちは考えるのでしょうか。
御霊は単に神の影響、力、感情ではなく、人格そのものです。
父は人格者であり、イエス様も人格者であり、御霊も同じく人格者です。結局聖霊は創造主なる神、また救い主なるイエス様と全く同じように、「神」と呼ばれています。

聖霊には次のような名前が付けられています。
真理の御霊、恵みの御霊、いのちの御霊、約束の御霊、力の霊、愛の霊、節制の御霊、栄光の御霊、聖めの霊、知恵の御霊、啓示の御霊、信仰の御霊、主の霊などであります。
私たちのうちに与えられたこのすばらしい贈り物をはっきりと認めておきたいものです。私たちは驚くべき富を心のうちに持っているのです。

私たちのうちに宿っておられる霊は、ひとつの偉大なる人格、偉大なる神であられるのです。私たちのうちに宿っておられるお方とは、私たちの神です。
私たちは確かに土の器にすぎないけれど、驚くべき宝、栄光の神を担っています。
ですからパウロはなかなか成長しなかったコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。前に読んでもらいました個所。

コリント人への手紙第I、3:16
16あなたがたは

コリントにいる兄弟姉妹は

コリント人への手紙第I、3:16
16神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

忘れたのでしょうか。このコリントの信者たちは、いわゆる御霊の現われを重んじて、意見や奇蹟を追い求めていましたが、主のものとしての実際生活は実に乱れていました。
御霊の力が彼らの上に働いていたが、彼らのうちに全き働きを成すことができないままでした。これがコリントの信者たちの実状でした。
彼らはもちろん聖霊を受けたが、成熟していなかったのです。

主のものとなった兄弟姉妹は神の宮であり、御霊がうちに宿っているという知識は今日の主のものにもどうしても必要なことです。
御霊によって主なる神はご自身、私たちのうちに住むようになったのです。もしも御霊が確かに私たちの心に宿っておられるなら、父ならびに御子主イエス様が私たちのうちに宿っておられます。
これは単なる理論ではなく、確かな事実です。私たちの身に起こるあらゆる問題の解決は、私たちのうちに住んでおられる栄光の主にあるのです。この大事実に目が開かれるなら、私たちにはひとつの思い煩いも起きてこないでしょう。

パウロは、「何事も思い煩ってはならない。主は近い。」と書いたのです。イエス様は私たちの呼吸する空気よりも身近におられます。主イエス様は私たちのうちに住んでおられるお方です。
このうちに住んでおられるイエス様は私たちだけではなく、全地を揺り動かすことのできるお方です。
御霊によって新しく生まれた兄弟姉妹は、だれでも栄光の主を担っています。この驚くべき事実をはっきり知っておきましょう。

これを知ると私たちは軽率な行動を取ることができなくなります。もしポケットに20円しか持っていないなら、それを無くしても大して気にも留めません。けれど200万円持っているなら、いつもそれを気にしてポケットに手をやり、在るか無いかと確かめるのではないでしょうか。
私たちの持っている宝は、結局われわれの歩みを定めます。イスラエルの民が荒野をカナンに向かって旅をしたとき、民々は天幕で生活していました。
何百と打ち建てられたどんな天幕で好きな振る舞いをしても良かったのですけれど、ただ一つ、中央にある神の幕屋で不敬虔な行ないをすると、たちどころに死ななければならなかったのです。幕屋は外から見ると、何の変わりもありませんでしたが、神のうちに臨在する宮だったのです。

私たちがイエス様を救い主として受け入れたとき何が起こったか知っているのでしょうか。主なる神が聖霊を放して私たちの霊のうちにはいられた。「私たちは神の住まいになった。」とパウロはコリントにいる人々に書いたのです。
主は、昔は天幕や宮に住まれましたが、今は、生きておられる主のものとなった人々の心に、人間の霊に住んでおられます。
主ご自身が御霊を通して私たちのうちに住んでおられるのです。

御霊が私たちのうちに宿っておられ、私たちは主の宮であるとの自覚に立つとき、軽率な行動や自分の喜ぶ生活は自然に消えて無くなってしまうのです。どこへ行くにも御霊が臨在しておられます。私たちは聖書の知識を運ぶのではなく、主なる神ご自身を運んでいるのです。
一つの大きな問題があるのではないでしょうか。すなわち、いったいどうして聖霊の力を体験している兄弟姉妹は少ないのでしょうか。
それはうちに住んでおられる内住の主イエス様を恐れかしこんでいないからです。

いったいなぜ兄弟姉妹の間にはそんなに差があるのでしょうか。ある兄弟姉妹は勝利の生活を送り、ある兄弟姉妹はいつも打ちのめされています。
イエス様のご臨在の多い少ないがこの結果をもたらすのでしょうか。もちろんそうではない。すべての主のものとなった兄弟姉妹はうちに御霊を宿しています。
内住の主イエス様を心の目で見ますと、生活が全く変わってきます。ある兄弟姉妹は御霊の支配に自分をゆだね、ある兄弟姉妹は自分が自分の主となっています。

信者同士の大きな差は、ある兄弟姉妹は与えられている御霊を主として認めていますが、ほかの兄弟姉妹は主として認めていないところから起きてくるのです。したがって、最も大切なのは主ご自身のご支配です。
もう一回コリント人への手紙第Iの6章を読みましょうか。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

もし私たちが内住の主を知るなら、自らを全く主イエス様に明け渡し、主イエス様の支配にこの身を任せなければなりません。自分が神の宮であることを知ったその瞬間、自分のからだは自分のものではなく、主のものであることも知るのです。
私たちは自分に何の権利も持ち合わせていません。私たちは意識して御霊のご支配に身をゆだねたことがあるのでしょうか。私たちの持っているものは全部主のものです。
もしイエス様が私たちの心のうちで「主」となっていなければ御霊は働くことができない。私たちの全てがイエス様の御手のうちに任せられていなければ、御霊は私たちを導くことができません。

私たちが全てのものを主に明け渡すとき初めて、御霊のご支配がわれわれの上に臨み、御霊は私たちのうちに満ちあふれ、私たちを導くことができるようになるのです。
私たちは、「我と我がものをほしくない。私はあなたのほかに慕うものはない。みこころのままに動きたい。」という、全く主におささげし、おゆだねした心の態度になっているのでありましょうか。

ある若い伝道者がいましたが、この人は未信者の婦人を好きになって、何とかして結婚しようと思い、イエス様に、「どうかこの方を私の妻としてください。」と必死になって祈ったのですけれど、主の許しがありません。
最後にはどこへでも宣教師として行きますけれど、この人を妻として与えてくださいと祈り続けました。もちろん主は許してくださいません。
最後にこの若者は全てを主に明け渡し、その婦人を断念したとき、主の恵みは豊かに彼に降り注がれ、考えられないほど彼は祝福された奉仕をするようになったのです。

すでに主イエス様によって罪を赦された罪人と、まだ罪を赦されていない罪人の間には、同じ罪人でも大きな差があります。同じように、自分の身を全く御霊のご支配にゆだねた兄弟姉妹と、御霊のご支配を拒んでいる兄弟姉妹の間には大きな差があります。
私たちは聖霊の力を経験したいと望んでいるのでしょうか。私たちを通して多くの人々が救われ、イエス様のみもとに導かれることを本当に願っているのでしょうか。
私たちは感情や表われを持っている必要はありません。ただ自分が聖霊の宮であり、うちに御霊が宿っておられることを感謝しさえしたらよいのです。

聖霊によって満たされる者は、次の12の結実をもたらす者です。前に読んだ個所なのです。ひとつはガラテヤ人への手紙の5章22節です。よく知られています。

ガラテヤ人への手紙5:22-23
22御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23柔和、自制です。

もう3つです。

エペソ人への手紙5:9
9――光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。――

とあります。また前に読みましたコリント人への手紙第II、3章17節。

コリント人への手紙第II、3:17
17主の御霊のあるところには自由があります。

御霊、聖霊の真理の霊です。真理の霊としてそれは人を悔い改めに導き、へりくだりの心を与え、砕かれたたましいを与えます。そして聖霊は祈りの霊です。
祈りの霊として、主の霊は私たちをよみがえらせ、力づけ、解放してくださいます。また聖霊は祈りの霊として、それは私たちに賛美と礼拝ととりなしの祈りをするように導きます。
どうでしょうか。私たちは聖霊によって動かされているのでしょうか。御霊は私たちの考えや行ないに臨んで働いておられるのでしょうか。主の愛こそ、私たちにとって第一のものなのでしょうか。それとも、ほかのもっとよい目的でもあるのでしょうか。

イエス様を信ずることによって御霊の賜物を受ける人は、割合に大ぜいいますけれども、御霊の満たしを受ける人は少ないのではないでしょうか。
イエス様を受け入れた人は大ぜいいますけれども、イエス様とともに歩む人は少ないのではないでしょうか。
光に来ることだけが大切なのではない。光のうちを歩むことこそが、信ずる者にとって最も大切なのではないでしょうか。

また、イエス様のみもとに来るだけでなく、イエス様にとどまること、イエス様にあって歩むことが大切です。
信仰をもってイエス様に近づくだけではなく、毎日の信仰生活において、見るところによってではなく、信仰によって歩むことが大切です。
御霊を持つだけではなく、御霊にあって歩むことが要求されています。召しを受けることだけではなく、召しにふさわしく歩むことこそが要求されています。

毎日、「主よ。お導きになってください。あわれんでください。恵んでください。」という態度を取るとイエス様は必ずあふれるばかりの恵みを与えてくださいます。




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