救いの確信


ベック兄

(バンコク喜びの集い、2003/11/25)

引用聖句:ピリピ人への手紙3章1節
1最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。前と同じことを書きますが、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。

ペテロの手紙第II、1:12-13
12ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。
13私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。

あるとき、ひとりの悩んでる姉妹から電話があって、内容は、「家の中で大変ですけど、嬉しい。大変ですけど、嬉しい。」
聖書を通して提供されてる喜びとは、そういうものなんです。問題は解決されたから、主人も子どもたちも導かれ、救われてるから嬉しいじゃない。大変ですけど、嬉しい。
パウロは、今読みましたピリピ人への手紙3章1節に、ローマの刑務所から自由の身となってる兄弟姉妹に書き送ったのです。「私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。」
ただ喜んだらいいのではない、「主にあって」、という言葉は大切です。

主とつながっていなければ、大変ですけど嬉しいと絶対に言えない。けど、「何でもイエス様から受け取れば、イエス様の前に静まれば、悩みながら、苦しみながら、喜ぶことができよう。」、ということです。
パウロは、前と同じことを書きますが、新しいこと書くつもりではない。前と同じこと書きますから、これは、私には煩わしいことではなく、あなたがたの安全のためにもなることです。
この、いわゆる安全とは、揺るがない確信を持つことです。

日々の歌の中で、68番なんですけども、「ゆるがない確信」という歌があります。あの歌を歌うともう、いつも嬉しくなっちゃう。
この歌を心から歌うことができれば、本当に幸せです。結局今の世の中で、最も大切なのは、ゆるがない確信を持つことなのではないでしょうか。
聖書から見ると、いわゆる救いの確信を持つことこそが大切です。今日の題名は「救いの確信」。確かに、救いの確信という言葉は、聖書の中に一回も出てこない。けども、私たちは知ってる。
私たちは確信するという言葉は、何回も何回も何回も出てくる。初代教会の兄弟姉妹の喜びの根拠なるものは、この、ゆるがない確信なのです。

何百年前に、ヨーロッパで大変な動きがあったのです。いわゆる宗教改革です。そのとき、存在してるのは今のカトリック教会しかなかったのです。
もちろんカトリック教会は、「聖書読んではいかん。」と命令しましたし、許されていなかったのです。専門家でなければ、普通の平民だって読んでも当然わかるもんじゃないから。ですから、数えられない多くの人々にとって大切であったのは、聖書の言ってることじゃなくて、教会の言ってることです。悲劇的です。
このカトリック教会は、ある大切な会議、トリエント公会議で何を決めたかと言いますと、カトリック教会の教えですよ。救いの確信はありえない。救いの確信のもっているというものは呪われると、あの会議で決められたことになっちゃったのです。

ですからこのカトリック教会とは、結局私たちこそ本当の教えをもってるというなのは悲劇的そのものです。一番は、ひどい異端は、カトリック教会です。
なぜならば、やはり聖書使います。けども問題になると、聖書は無視されています。大切なのは、ローマの法王の言ってること。教会は何て教えるかということ。これこそ、悲劇的なのではないでしょうか。
何百年前の宗教改革で、ヨーロッパの色々な国々で、人々は、「みことばに戻りましょうよ。」と、叫んだのです。ドイツのマルティン・ルターという男は、もちろんカトリック教会の祭司であり、博士であり、よく聖書を勉強した男でした。
けども彼は、疑問を感ずるようになったのです。教会の教えてることと、聖書の言ってることとはまったく違うなのではないか。

結局彼は、罪滅ぼしのために私たちはどうしたらいいなのでしょうか。もちろん彼は認めざるを得なかったのは、「何もできない。いくら教会行っても、なんにもならない。」
結局彼の教会、すなわちカトリック教会とは、救いの確信はありえないと教えたのです。けど彼は、聖書を読みながら、「やっぱり違うんじゃないの。聖書は違うと言ってるじゃないか。」
例えばローマ人への手紙の5章の1節を見ると次のように書かれてます。

ローマ人への手紙5:1
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

私たちは今、神との平和を持っています。主なる神とは、こわい、恐ろしい方ではない。神との平和を持つことこそが、最も大切なのではないでしょうか。
どうして神との平和を持つようになったかと言いますと、信仰によって、私たちは義と認められた。良い行ないによってではない。教会に属することによってでもない。洗礼を受けることによってでもない。信仰によって、私たちは義と認められた。過去形です。
義と認められることとは、善しとされること。永久的に受け入れられることを意味するのです。

結局パウロは、未来じゃなくて、「現在」神との平和を得ていると読んだとき、書いたのです。そしてルターは、このような文章を読んだときも嬉しくなった。
やっぱり教会の教えとはまったく違ってる。みことばに戻りましょう。

エペソ人への手紙2:8
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。

「いつか救われるかも知れない。」なのではない。救われた。

エペソ人への手紙2:8
8それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

結局主なる神が恵んでくださらなければ、どういう人々がこの主の恵みを体験的に知ることができるなのでしょうか。ヤコブは、

ヤコブの手紙4:6
6神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。

へりくだれば、主は恵んでくださいます。
マーティン・ルターという男は、救いの確信を得るために考えられないほど闘いました。けども最後に彼は、救いの確信を得て、これは自分にとって一番大きな宝物であると、確信しただけではなく、結局この素晴らしい福音を宣べ伝えるようになったのです。
いうまでもなく、カトリック教会は彼を迫害するようになり、彼はもう何年か隠れなければならなかったのです。ローマの法王は、彼を殺す者は大いなる褒美を貰えますと。
この逃げなければならなかったこととは、もちろん主のご計画で、彼は急に暇人になって、聖書を訳したんです。ドイツ語の聖書はなかったんです。

何百年かに亘って、カトリック教会で読まれた聖書は、ラテン語の聖書だった。けど、ラテン語できる人はもういなかったでしょ。そうすればまったくもってのほか。おかしい話なんです。もちろんルターは、ドイツ語という言葉の存在知らなかったよ。方言だけいっぱいあったんです。
ですからまず、標準語のドイツ語を作らなければならなかったのは、たいへんでした。主はやっぱり恵んでくださったのです。もちろん彼は一人だけじゃなくて、非常に親しい友だち、メランヒトンという男も一緒に全部やったんです。
このメランヒトンという男は、新約聖書、全部ギリシャ語で暗記したのです。考えてくださいよ。ちょっと、考えられない。

けども、やっぱり救いの確信こそ、得なくちゃならない。そうでなければ、いくら聖書の知識をもっていても、まったく役に立たないと、宗教改革者は全部わかるようになったのです。
救いを自分のものにしたいという願いがなければ、もちろん始まらない。救いを自分のものにした結果、そのことが結局救いの確信です。ですから、次の事柄がまず、わからなくちゃならない。

第一番目。救いの歴史的事実。
第二番目。救いの提供。
第三番目。救いを自分のものにすること。
そして、第四番目。救いを持つこと。

これらのことが行なわれたのちに、救いの確信がやって来ます。
私たちは、救いの歴史的事実は疑うことができません。神の子として、主イエス様がこの地上に来られ、十字架の上で救いのみわざを成し遂げられたことは、疑うことができません。
聖書では救いの道を教えてます。ですから二番目の救いの提供もあるわけです。この救いの道を自分のものにするかどうかは、結局人間にかかってます。
その人間が手を差し伸べ、つかみ、それを自分のものにする。これがいわゆる信仰です。
その人が空気だけをつかんだか、あるいは聖書の約束だけをつかんだか、それとも永遠に朽ちない救いを自分のものにしたかが、問題なんです。

私たちは、信じていない人が今信じたとしたら、その瞬間に、救いの確信を得ることができるということを疑いません。
もし救いを自分のものとしたならば、救いの確信も得られます。
ちょっと、ここでも書かれてる四つの点について簡単に考えたいと思います。

第一番目。救いの確信の土台とは何でしょうか。
第二番目。救いの確信の成り立ちとは、いったいどういうものなのでしょうか。
第三番目。救いの確信の内容なるものは、どういうものなのでしょうか。
そして、第四番目。救いの確信の結果は、いったい何なのでしょうか。

まず、救いの確信の土台とはいったい何なんでしょうか。もちろん、ここでも書かれてるように、まず聖霊の働きが必要であります。
聖霊とは、もちろんみことばを使います。いわゆる救いの確信の土台なるものは、神のみことばである聖書。それから、主イエス様のなさった救いのみわざです。聖霊が、人の霊に働きかけると、本当の救いの確信があります。
これとともに、悪い救いの確信もあります。悪い救いの確信は、人間の、たましいから出るものですから、結局人間の作ったものです。

もしどなたか、「私は勉強したからわかった、わかった。」と言えば、危ない。わかったから信ずるという土台は間違ってる。「聖書はそう言ってるから、信じます。」
聖書はそう言ってるけど、ちょっとピンと来ない。どういうことかわからないけど、関係ない。聖書は神のみことばであるから、安心して、信ずることができる。
例えば、良いキノコと、毒キノコの見分けはつかないように、本当の救いの確信と、偽の救いの確信も、非常によく似てます。
ですから、救いの確信の土台とはいったい何なのでしょうかと、いつもやっぱり考えていないといけないことではないでしょうか。すなわちまことの救いの確信の土台なるものとは、そのみことばです。

それから、イエス様のなしてくださった救いのみわざです。救いの歴史的事実と、救いの個人的経験については、聖書だけがわれわれにそれを教えてます。
聖書は、救いの事実と救いの確信は、両方とも必要なものであり、この二つは結びついてると言ってます。
新約聖書を大きく分けようと思えば、四つの福音書があり、それから多くの使徒たちの書いた手紙です。福音書の内容とは、大体救いの事実です。イエス様が、どうしようもないわれわれの代わりに犠牲になり、十字架の上で死なれた。
そして書簡とは結局、この成し遂げられた救いとは、どういうものであるか。いわゆる、救いの経験を教える特別な書物です。

もちろん福音書は、救いの事実を言ってるだけじゃなくて、救いの経験についても言ってるのです。
例えば、ヨハネの福音書の20章30節と31節です。

ヨハネの福音書20:30-31
30この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
31しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

信ずる結果とは、永遠のいのちをもつことである。これは、はっきり救いの経験を表わす言葉です。ですから、福音書の中で救いの事実についてだけじゃなくて、救いの経験についても書いてます。
逆のことを言ってもいいでしょう。すなわち、書簡、手紙も救いの経験についてだけじゃなくて、救いの事実について多くのこと言ってます。
例えば、ヨハネの手紙第Iの5章を見ると、次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、5:13、20
13私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。
20しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

と、書かれています。
救いの事実、語ってる言葉は、救いの経験の土台です。ですから何があっても、イエス様の取られた態度を取るべきです。イエス様の態度とは、どういう態度であったかと言いますと、ヨハネの福音書17章17節に書かれています。

ヨハネの福音書17:17
17あなたのみことばは真理です。

わかっても、わからなくても、理解できでも、できなくても関係ない。イエス様は当時の聖書、すなわち、創世記からマラキ書までの聖書を真理として、結局神のみことばとして信じたのです。
確かに聖書は、人間、どうしようもない人間によって書かれたものです。1,600年間にかかって40人の人々が書いたものです。けども彼らは、自分の知識を発表するために書いたのではない。結局彼らは単なる、管、器のような者にすぎなかったので、主は、「ああいうふうに書け。こういうふうに書け。」と言われたから、「あっそか。わかった。」と、書いちゃったんです。

書いた内容、はっきりわからなかったと。ですからやっぱり、神のみことばです。証拠なるものは、時代のほかにならない。聖書の中で間違ったとこ、見いだそうと思って、何十年間も研究した学者たちがいっぱいいます。どこの国でも。成功した人は一人もいない。神の言葉だからです。
この言葉に私たちは信頼することができる。主の言葉。すなわち聖書は完全な権利をもってます。聖書を神のみことばと信じていない人は、救いの確信は決してやって来ません。
いかに道徳的に優れたひとであっても、聖書の言葉の一つを人間の言葉と考えているならば、救いの確信は、いっぺんにダメになります。

救いの確信がなければ救いの喜びもないし、救いの喜びがなければもう悲劇的です。家族の人々、知り合いの人々は決して導かれない。
救いの確信の土台なるものとは、結局人間の中じゃないんです。人間の外です。聖書はそう言ってるから、理解できないけど、わからないけど信じます。この断固たる態度を取ることこそが、要求されています。
イエス様は、幼子のようにならないと天国に入れない。救われない。結局、素直にならないと無理。ですから、わかったから信ずるじゃなくて、書かれてるから信ずるという断固たる態度を取るべきです。

偽の救いの確信は、結局みことばとイエス様のなされた救いにあずかっていない。
偽の救いの確信は、人間の中にその土台を置いています。例えば感情ですか。理解力ですか。または何かある体験や経験。人間のうちにあるものに、その土台を置いてます。この土台は、しっかりしたものではない。揺れ動いているものです。

本当の救いの土台は、イエス様のなされた救い。また、聖書のみことばです。
どうしたら救われたということ、知ることができるなのでしょうか。神のみことばによってです。聖書は書かれてるから、信じます。
イエス様の血潮がわれわれを救い、そしてみことばがわれわれに確信をもたらします。前に読みました、ヨハネの手紙第Iの5章13節、もう一回読みましょうか。

ヨハネの手紙第I、5:13
13私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

原語を見ると、確信するためです。
これはあなたがたが望んだり、予感したり、考えたりするためなのではない。悟らせるため。確信するため。
このいい気持ちを私はあなたがたに贈ったとは書いてない。結局、土台なるものは書かれてる。約束されてることです。何が書かれてるなのでしょうか。約束されてるなのでしょうか。
例えば

ヨハネの福音書6:37
37そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

すごい約束です。
意味は、へりくだれば、頭を下げれば、「あわれんでください、ごめんなさい。」することを信ずると、やっぱり新しい世界が開かれます。

ヨハネの福音書1:12
12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

大切なのは、神の子どもとなることです。確かに、いわゆるヒューマニストたちは、人間はみんな神の子どもだよと言います。これ、ウソ!
イエス様は、当時の聖書学者たちに何と言ったかと言いますと、「あなたがたは、悪魔の子どもです。」
人間は確かに神の被造物です。けども、神の子どもじゃない。救われた人々だけが、神の子どもと呼ばれています。ここで、へりくだれば、信ずれば、神の子どもとされる特権をお与えになる。とあります。

イエス様を受け入れた者はみな、神の子どもです。信じても、信じなくても、認めても、認めなくても。結局すべては、聖書に書かれているのです。
われわれの感情は、毎日変わるかもしれない。今日、救われたと思っても、次の日、やっぱりまだ救われていないじゃないかと思うかもしれない。けども、感情にこだわったら、もうとんでもないとこにいってしまいます。みことばだけに頼りましょう。
主の言ってることを安心して信ずることができる。人間の言ってること、やっぱり疑問符を付けたほうがいい。

そう言ってるけど、本当かな?例えば、聖書の話を聞いてもね、「あ、そうか。ありがたい。」という態度取らない方がいいと思うよ。「ベックの言ってることも疑問符を付けなさい。あいつはそう言ってるけど、本当かな?」
自分で聖書を開きましょう。聖書は何と言ってるか。結局それだけなんです。
この土台から離れれば、悪魔の証人になります。

ローマ人への手紙10:17
17そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

結局、信仰の土台なるものとは、みことばでなくちゃならない。

第二番目。救いの確信の成り立ちとは、どういうものなのでしょうか。
結局救いの確信の成り立ちとは、聖霊による、また信仰によるものであります。この二つが大切です。
聖霊の働きによって、また、みことばの力によって、救いの事実から救いの経験へと移っていくことができます。事実から経験に移ることを大切

(テープ A面 → B面)

救いの事実から、救いの経験へ移ることは大切です。この移ることは、主なる神と人間が会うことです。この変化は上から来る聖霊と、上から与えられた信仰によって行なわれます。
イエス様は、人間のために救いを成し遂げられた。罪滅ぼしのために喜んで犠牲になられたのです。この救いを人間に与えるものが、聖霊です。
パウロは、自分の、いわゆる回心について何と言ったかと言いますと、「私はそれを人間から受けなかったし、教えられもしなかった。ただ主の救いの土台は一つの教えじゃない。人間から受けなかったし、教えられもしなかった。上からの啓示によってです。」
結局御霊が働いた結果として、パウロは導かれ、救われたのです。

信仰とは、提供された救いを受け取ることです。もちろん人間は、「やー、私は信じられない。」と言うかもしれない。けども、イエス様は信仰の創始者と言われてるから、人間の持っていない信仰は、もし求めれば必ず与えられるようになります。
信仰が自分の心を開き、御霊が救いをその心に入れることができます。聖霊が人間の霊に働きかける、これが救いと確信の成り立ちです。偽の救いの確信は、人間の権利によって、また人間の努力によってやって来るもので、これはしばしば人間の狂信に陥れます。
狂信とは、根拠のない目的、達することのできない目的を使ってるものです。

第三番目。救いの確信の内容とはいったい何なのでしょうか。今、行なわれる救いと、将来行なわれる救いの経験です。
私たちは今、どういう救いを経験することができるかと言いますと、精神的な救い。すなわち罪の赦し、神との平和、永遠のいのちを私たちは今現在、体験的に知ることができる。結果として、大いに喜ぶことができる。

けど、こういう救いにあずかった者も、「大変ですけど、嬉しい。」と言えるのです。結局われわれの、今経験できる救いとは、長い目で見ると確かにすごいけども、私たちは半分しか救われていない。なぜならば、相変わらず病気になるでしょ。信仰があっても、夜になるとみんな疲れちゃうでしょ。
結局、体の救いとはまだです。体の贖われることを、私たちは待ち望んでると、初代教会の人々は言ったのです。今の経験できる救いとは、前に話したように、神との平和を得ることです。義と認められることです。

初代教会の人々とは、御子をもつ者は、永遠のいのちを持っている。永遠のいのちとは物ではない、イエス様です。わたしはいのちそのものであると、イエス様は言われたのです。
けども、例えばローマ人への手紙8章11節に、将来経験するようになる救いについて次のように書かれてます。

ローマ人への手紙8:11
11あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

イエス様の救いの中で、からだの救いももちろん含まれています。今の疲れるからだ、病気になるからだは、栄光のからだ、よみがえりのからだに変えられるようになると、聖書ははっきり言っているのです。

ヨハネの手紙第Iを見ても次のように書かれています。

ヨハネの手紙第I、3:2
2愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。

もう決まり。疑おうと思ってもできない。どうしてわかるの?イエス様は約束したからです。イエス様は、「決して捨てない。」と言われたからです。

ヨハネの手紙第I、3:2
2後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。

わかっていると書いているけど、原語は本当は、確信する。

人間的に考えれば、まったく笑い話じゃないですか。キリストに似た者となる。私たちはまったく違うよ。イエス様の考えてることと、私たちの考えてることとは違うし、もう、いくら努力しても、頑張っても無理。けども書いてあるでしょ。私たちはキリストに似た者となる。
いつになるか?空中再臨のとき。イエス様と会う瞬間。完全に変えられるようになります。過去で経験したこと、現在もっていること、未来に経験すること、このいずれも私たちは確信すると、初代教会の人々は言ったのです。
どうしてであるかと言いますと、救いは一つであり、一つの御霊が、そのいずれをも啓示するからです。確かに現在の多くの教会は、違うことを教えてます。
やっぱり、あなたは病気になるとけしからん。風邪を引くと、悪霊に憑かれてる。ですからまず、悪霊を追い出さなくちゃいけない。
癌になってもやっぱり、あなたの不信仰のゆえです。この考え方は、間違ってます。

今、この末の世で、イエス様は何を思ってるかといいますと、病気を癒すよりも、病気を与える。問題を次々と与えてくださる。どうしであるかといいますと、そうしないと真剣に祈ることしない。まったく、無関心になります。
問題をもつことによって、初めて心配するようになり、がっかりするようになり、叫ぶようになる。
全部、祈りの材料となれば、一気になる。確信をもつこととは本当に考えられないほど大切です。初代教会の人々とは、強い、すごい確信をもっていた。
パウロは次のように言ったのです。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私の主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
そうすれば、安心なんではないでしょうか。

私たちはよく知ってる。私たちは確信する。そういう言葉は何回も何回も出てきます。例えば、

ヨハネの手紙第I、3:14
14私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。

確信する。
結局永遠の死から永遠のいのちに移されている。もう、なっちゃったんです。いつかなるかなのではない。私たちが、この死のからだから解放され、からだの本当の救いを得る日が未来に来ます。
われわれの信仰は、目に見えるようになります。本当の救いの確信の内容は、結局イエス様がなされた救いです。これに対して、人間は理性の救いの確信の内容は、人間のなしたことです。
その人は、道徳的、または宗教的なやり方で救いを得ようとするものですけど、それでは決して救いは、まことの救いはやって来ない。

最後に、救いの確信の結果とはいったい何なのでしょうか。救いの確信の結果、新しく解放され、自由な信仰生活が始まります。
これは、その人の新しい生活によく見られます。救いの確信の結果とは、新しい生活、新しい奉仕です。救いの確信を持っていない人間は、いつも問題になると勇気なく、失望してるだけです。
救いの確信から、その救いを表わす勇気が生まれます。もし大金持ちであれば、すこしずつ取られ、施しても、何ともなりません。救いの確信もそのようなものです。
施しても、施しても、限りがない。救いの確信の得た人は、その喜びを周りの人々に与えれば、与えるほど、ますます主イエスから恵まれるようになります。

結局、「主を宣べ伝えたい。」、こういう切なる願いこそが、得られた救いの確信を結果です。

ヘブル人への手紙10:19
19こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

結局喜んで主に近づくことができるんです。これこそがまことの幸せなのではないでしょうか。
救いの確信を得た人は、イエス様が自分のうちに何をやったかを喜んで証しします。イエス様の救いの事実を宣べ伝えるとき、その救いを経験してるから、証しに愛と力が加わります。
この救いの確信がなければ、決して主を紹介することができない。やろうと思っても、まったく意味のないことです。例えば私たちの歌う歌は、救いの確信から出た喜びの歌です。救いの確信をもってる人は、本当に大喜びで歌うことができるのです。
ですから、この救いの確信とは、結局奉仕の原動力でもあります。経験したことをほかの人に伝えることができます。自分で経験しましたから、ほかの人に伝えるために、いかざるを得ません。

偽の救いの確信の結果は、「大丈夫であろう。大丈夫なのではないでしょうか。」という思い。そして傲慢になります。
そのような人々は、何か起こると、自分のことをまたっく絶望してしまいます。
信仰の土台。救いの確信の土台は、いったい何なのでしょうか。信仰を支えようとする、人間の努力の結果は、実際は信仰を強めるんじゃなくて、弱めることになってしまう。
すなわち、信仰の土台は、決して目に見えるもの。人間の理解力、感情ではありません。

正しい信仰の土台は、イエス様ご自身とイエス様のなされた救いのみわざ以外にありません。そのことについて聖書は忠実に告げ知らせています。
主のみことばは、いかなる場合でも絶対に変わることはない、真実そのものであります。信仰の土台、確信の土台が、私たちが理解したことや、感じたことではない、偽りのない真実なみことばです。
ですからパウロは、手紙の中でよく面白い表現を使っているのです。聖書は何と言ってるのですか。結局それなんです。自分は何を考えているか。それはどうでもいい。聖書は何と言ってるか。この態度取ると、やっぱり大いに祝福されるようになります。




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