引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-5節
ヨハネの福音書11:21
ヨハネの福音書11:35-36
ヨハネの福音書11:43-44
ヨハネの福音書12:1-3
ヨハネの福音書12:9-11
この今読んできてくださった箇所は、非常に有名な箇所です。 イエス様とはどういうお方であるかと考えると、この11章は非常に適切なのではないかと思います。 イエス様は、喜んでエルサレムまた宮の中で居なかったようです。できたらベタニヤへ行きたいと望まれたのです。 エルサレムで結局、自分の信じているものは正しい、自分と主なる神との関係は間違いないと思う人々は、非常に多かったんです。結局イエス様の救いだって、別に必要ない。 けれども、ベタニヤとは、エルサレムからそんなに遠く離れている町じゃないんですけども、イエス様は喜んでベタニヤまで行きました。どうしてであるかと言いますと、やっぱりベタニヤの人々は、聞く耳を持っていたんです。「イエス様、話して。聞かせて。」とそういう気持ちでいっぱいだったからです。 イエス様の好んでいた場所とは、エルサレムよりもベタニヤでした。もう一箇所読みます。 ルカの福音書24:50-53
50節の「イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行かれた」というみことばをテーマにして、少し一緒に考えてみたいと思います。 イエス様が弟子たちをベタニヤの近くに導かれたことは、復活なさったイエス様の一番最後になされたことでした。自分でよく考えたことよりも、父なる神に祈ったに違いない。「どこまで行ったらいいの。どうしたらいいの。教えて。」 結果はベタニヤへ導かれたのです。イエス様が弟子たちをベタニヤへ導き、「さあベタニヤに来た。この地を末永く記憶に留めなさい。このベタニヤをいつまでも忘れないでいなさい。」と言いながら弟子たちを祝福されました。 ベタニヤは、どんな意味を持っている地なのでしょうか。ベタニヤには、ご存知のように各々違った特徴を持った3人の兄弟姉妹、またマリヤ、ラザロが住んでいた所でした。 イエス様は、いつも好んでこのベタニヤに来られて、3人の兄弟をお訪ねになりました。イエス様は、このベタニヤに住む3人の兄弟を訪ね、そこでお休みになり、また食事をとったりされました。いつも楽しみにして、ベタニヤを訪れたイエス様でした。 イエス様は、どうしてそんなにベタニヤを愛されたのでしょうか。私たちもその理由を個人的に、また共々に知りたいものなのではないでしょうか。 イエス様がベタニヤを愛された理由は、3つでしょう。 第1番目、主に対する愛です。3人兄弟の一人の姉妹のマリヤは、生涯を通してイエス様を愛しぬきました。イエス様は、彼女にとってすべてでした。 第2番目、主に対する奉仕です。もう一人の姉妹マルタは、イエス様に心から奉仕した人でした。 第3番目、イエス様のよみがえりの力です。一人の兄弟ラザロは、ベタニヤのその家で死よりよみがえらせられました。 この兄弟姉妹3人をもう少し見てみたいと思います。 第1番目、マリヤですね。生涯を通して、彼女はイエス様を愛したのです。このベタニヤの家の雰囲気は、ただ一言で言いあらわすことができます。それは愛です。 3人兄弟の周りに住む人々も、この小さな家族を主イエス様が、どんなに愛しておられたかよく解かるほど、3人を愛しておられました。 マリヤは、イエス様が自分たちを全く欠けた所なく愛しておられることを知っていましたので、イエス様を少しも裏切ることなく愛したのです。 聖書を見ると書いてありますとおり、このマリヤは非常に値の高いナルドの匂い油を、イエス様の御頭に惜しげもなくふり注ぎました。ためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様にふり注ぐことによって、実に高い清い、主に対する愛を示したのです。 「ナルドの匂い油の匂いが家全体に満ちた」と聖書は言っていますが、それと同じように愛の雰囲気が、3人兄弟の家を包んでいました。 ベタニヤは、イエス様に対する愛が満ちあふれていた所です。そしてイエス様が、それを満足された所です。イエス様に対する、このようなマリヤの愛は、イエス様が何にも増して求めておられるところのものです。 イエス様は、私たちが心からすべてを捧げて、主を愛しているかどうかを見ておられます。私たちはどうでしょう。イエス様だけを見て、イエス様だけを愛しているのでしょうか。または、この世のものにも目に入り、イエス様にすべてを捧げることをしないでいるのでしょうか。 イエス様は、「汝、我を愛するか。」とお尋ねになったとしたら、私たちはすぐ「はい、あなたを愛しています。」と答えることができるのでしょうか。 ベタニヤの3人は、イエス様を分裂のない、真実な愛をもって愛しました。だから、イエス様は今、天に行く前に弟子たちを、このベタニヤに導いたのです。 イエス様は、今日もベタニヤを求めておられます。私たちの心は、主を愛するベタニヤとなっているのでしょうか。 我々の心の内には、深いまったく分かたれざる清いイエス様に対する愛があるのでしょうか。私たちの内には、主に対する初めの愛があるのでしょうか。あのベタニアの家を満たした愛が、心の内に漂っているのでしょうか。 主に対する愛だけではなく第2番目、イエス様に忠実に仕えたマルタについて、ちょっと考えたいと思います。 私たちは、この主に対する愛に満ちた家の中で、同時に主に対してなされた、忠実な奉仕を見ることができます。マルタは、イエス様のために、食事を準備しました。私たちも、マルタと同じように主に対して奉仕する者でしょうか。献身をし、できるだけ多くの奉仕をするのが問題ではありません。 私たちが、イエス様ご自身に対して奉仕をしているかどうかが問題です。マルタが、イエス様のために食事を用意した時、または何を考えていたのでしょうか。これを作ったらイエス様はお喜びになるでしょうか。こうやったらイエス様は満足されるのでしょうか。それだけを考えていたに違いない。 私たちは、イエス様の御前に出る時に、イエス様は我々の奉仕を心から喜び、満足しているのでしょうか。そうなったら、私たちは始めて主の喜びたもうベタニヤとなることができます。主の憩いの場所となることができるのです。 私たちがこの二人の姉妹を見ると、イエス様に対する真の愛と、真の奉仕という主の御心にかなった二つの大切なこと柄を見ることができるのではないかと思います。 けれども、この二つのこと、主に対する愛、イエス様に対する奉仕が最後ではありません。我々の主イエス様は、もっと大いなることを望んでおられる方です。ところで、何といってもやはりまず、この愛と奉仕がなければ、主は私たちをもっと先へ導くことができません。 もう一つのことについて、ちょっと考えたいと思います。すなわち、主イエス様のよみがえりの力こそ、我々も経験しなければなりません。 イエス様は、何を願っておられるのでしょうか。イエス様は、今、死の暗やみを通り、その後主のみことばによって、よみがえらされたラザロを、ラザロと食事を共にすること交わりをもちたく願っておられることです。 聖書を読み、イエス様のために働いた人たちを見ると、またいわゆる教会の歴史を見て、主に用いられた人々を見ると、それらの人々は主に対して二つに分かれていない愛を持ち、また忠実な奉仕をした結果、死ぬような苦しい所を通され、後によみがえりの力を持っていたことがわかります。 先ほどの二人の姉妹の弟ラザロを、ちょっと見てみたいと思います。 彼はイエス様に愛されましたと、はっきり書かれています。ラザロについて書かれているヨハネの福音書11章の一番初めは、「一人の病人がいた。それはラザロである。」という文章で始まっています。 どうしてイエス様は、ラザロが病気になることをお許しになったのでしょうか。ラザロは心からイエス様を愛し、またイエス様は心からラザロを愛しておられましたのに、何故ラザロは病気になったのでしょうか。 その時のラザロを想像してみましょう。ラザロは病の床に倒れました。したがって、だんだん衰弱してきます。けどイエス様は来られません。頼まれたのに。 「もしイエス様がここにおられたら、そうしたら何の問題もないのに。」、本当にもしイエス様がおられるなら、問題はないのでしょうか。もちろんラザロにとっては、主がおられれば、何の問題もありません。病もすぐ治ったでしょう。しかし、それはイエス様の御心ではなかったのです。 ですからイエス様は、すぐにラザロのもとに来ませんでした。心の中では、3人の兄弟姉妹をあわれみ、泣いておられましたのに。イエス様は、一刻も早くラザロを助けたかったんですけど、父なる神の御心は違うところでした。ですからすぐにはラザロのもとに、おいでになりませんでした。 ラザロが、イエス様のよみがえりの力を経験するには、まず死を通らなければならなかったからです。我々の信仰生活におきましても、イエス様は同じような導き方をされるのではないでしょうか。恐ろしい自分を愛する愛と、イエス様を愛する愛とは、共にあることはできません。 また自分の名前を人に知ってもらおうというような気持ちと、イエス様に対する真の奉仕は、両立しません。己の考えと計画も、これら一緒に死に渡されなければ、よみがえりの力を自分のものにすることができないのです。 我々の信仰生活には、色々、思いがけないことが起こります。そうすると一体どうしてだろう、なぜでしょうと考えます。しかし、それも乗り越え、見えない所を信仰によって希望を抱く、前進しますが、その結果は思いがけない悲劇に終わることもあるのです。すべてを主に委ねて進んでも、何の変化も起きてこないことが大いにあります。 信仰によって歩み、絶望し、その絶望の中から小さな光を見つけ、それに取りすがり、何とかして浮かび上がろうとしますが、打ちのめされて全く絶望してしまいます。自分はもうダメだ。自分の前には死が待っている、墓が待っているだけだとさえ思うこともあるでしょう。 そこにまで、主が我々をお導きくださる時、そうなって初めて絶望した時初めて、イエス様は我々をしっかりと握ってくださいます。 それは一体どういうわけでしょうか。それはイエス様は、我々を通してよみがえりの力を現したいからです。これは理論でも説教でも、また特別な教えでもなく、主の御心です。私たちの生活は、イエス様の証しのためでなければいけません。よみがえりの力の証しでなければいけません。 しかし、私たちは主の御心は、死ではなくいのちである。しかし、このいのちは死を通して初めてやって来るという所に目を留めなければなりません。 前に読んでもらいましたヨハネの福音書12章2節に「主イエスといっしょに食卓についていた者のうちに、ラザロも加わっていた。」とあります。 結論として、このベタニヤの証しの力を考えてみましょうか。聖書は、よみがえらされたラザロが、何かをしゃべった、証ししたと書いてないのです。このラザロは、別段、説教者ではなかったんです。 けれど、このヨハネの福音書12章9節から11節には、驚くべきラザロの証しが書かれています。ラザロは、口で証しをしなかったようです。よみがえらされた生きたいのちで証ししました。 よみがえりの力で生活するとは、いったいどういうことでしょうか。「主よ。あなたが召してくださったご奉仕に力がありません。私は何一つできません。この奉仕をするのはあなたでなければダメ。私を導き、力を与えてください。」という全く自分の無力を認めた生活がそれなのです。 すなわち、生まれながらの力、人間の知恵で送る生活ではなく、全く主に拠り頼む生活こそ、よみがえりの力による生活への道であります。 多くの人々は、ラザロの証しを通して救われ、信者になったと書いてあります。しかし、それで終わりではありませんでした。ラザロが証しした時、悪魔も当時の宗教家たちを通して、ラザロを殺そうと攻撃してきました。 悪魔にとって、よみがえりの力より嫌なものはありません。私たちは、ラザロと同じように、主と共なる交わりを持っているのでしょうか。 主と共なる交わりを得るには、苦しみも経験しなければいけないでしょう。第1に、死を通らなければなりません。誤解もあり、迫害もあるかもしれません。それでも私たちは、もっと楽な道を選びたいのでしょうか。 私たちは今、末の世に生きています。イエス様は、まもなくお出でになります。どこへ行っても、そこには暗黒と混乱があります。しかし、もし私たちがいつも、主の御心が何であるかをよく知っているなら、大きな喜びをもって信仰生活を前へ進むことができます。 今、大切なことは、いわゆる真理や教えが大切なのではなく、主イエス様ご自身が、また、主の御心が大切であります。今、イエス様は弟子たちをベタニヤへ導かれました。そこは、主に対する分かたれざる愛が満ちている所であり、主に対する忠実な奉仕がなされた所であり、イエス様のよみがえりの力が現された所でもありました。 そして、主は間違いなく今日も、ベタニヤを探し求めておられます。私たちは、深い、清い、分裂のない愛を持ってイエス様を愛し、また主の御心にかなうようにと心を用いて主に奉仕し、暗黒と死と墓を通り過ぎ、よみがえりの力を経験した者として、その力を証しする者となりたいものなのではないでしょうか。 |