どうして病気があるのか。そのことについて学んで3回目になります。 ひとつの答えは、病気は罪の結果であるという考えです。 ローマ人への手紙5:12
アダムは罪を犯してしまいました。そして病気と死が世界にはいりました。 彼はそのとき、私ではなくエバのせいだと言いました。エバも逃げて、いや私ではないヘビによって騙されたと言ったのです。結局、悪魔のせいだ。悪魔によって騙されこのようになった。 確かに、それはそうとも言えます。さらに神様が、もし人間を創る前に悪魔を滅ぼしていたらそう言うことにならなかった。だから、こんどは神のせいだと。 悪魔を滅ぼさないで人間を創れば、もちろんそのような結果になることは神様はわかっていました。当然です。 神様は、悪魔を滅ぼそうと思えば簡単にできました。けれども、神様はそういうお方ではなかった。悪魔の悪が満ちるまでは、悪魔でさえも滅ぼそうとはされなかった。 出エジプト記15:26
主に頼り、みことばを大切にすると病気になりませんという意味を、当時の当時のイスラエルの民に約束されました。 そういう個所を見ると、病気は罪の結果であるという結論は導き出せる。 また旧約聖書の中には、いろいろな実例も書き記されている。たとえば、非難した結果らい病にかかった。つぶやきの罪の結果、日々のわずらい、またほかの人の救いを妨げた結果、視力を失った。主のみからだをわきまえない結果、病人が多くなり、死ぬ者もでた。 なぜ病気があるのでしょうかという答えに、聖書のこれらの個所は、罪の結果であると語っています。そしてこれは、ひとつの答えです。 第二番目の答えは、病気とは悪魔の働きの結果です。 ヨブ記2:7
ここでサタンは「ヨブを打った」と書いてあります。ヨブの病気とは、ヨブの罪の結果ではなく、悪魔の攻撃の結果だったと聖書は、はっきりと言っています。 当時、一番みこころにかなう人間とはヨブでした。このヨブは健康を失い、10人の子供を失い、富、財産を失いました。でも、すべては悪魔の攻撃の結果だったのです。 もちろん、悪魔は自分勝手なことをすることはできません。主なる神が許さないかぎり。 悪魔がヨブから全部奪い取ると、ヨブはあなたを捨てる、もう神に頼ろうとしない。そう悪魔は自信を持って、神の前に行った。 神は、悪魔にその通りして良いが、ヨブはわたしを捨てようとはしないと語りました。 確かに、ヨブはすばらしい態度をとりました。「神は与え、神は取られる。神は完全で、神の導きも完全である。わたしは主の御名をほめたたえます。どうしてかわからないが、必ずわかる日が来る。主がわたしを殺しても、わたしは信頼しつづけます。」 ヨブは告白しました。 またパウロも病気とは、結局悪魔の攻撃であると経験しなければならなかった。 コリント人への手紙第II、12:7-10
パウロは、はじめショックを受けて大いに悩みました。それから祈るようになりました。 自分の病気を通して、主はご栄光を表すと確信するようになったとき、多いに喜ぶことができるようになったのです。 なぜ病気があるのでしょう。それは、罪の結果であり、また悪魔の働きの結果です。 第3番目の理由は、非常に大切なことです。それは、神の栄光が現われるためです。だから主なる神は、病気をお与えになるのです。 神は、どうして病気を与えられるかというと、人間をしあわせにするためです。 まことの神は、人間を罰する神ではありません。人間を罰する神は、人間が作った神です。神の栄光が現われるために神は、人間に病気を与えてくださるのです。 ヨハネの福音書9:1-3
結局弟子たちにとって、いつも病気は例外なく罪の結果であるということでした。けれども弟子たちは間違っていました。 あらゆる時代の人々は不幸があれば、「天罰だ。」、必ず、「人間の過ちの結果である。」と考えたのですけれど、イエス様の答えは、全く違うものでした。 イエス様は、はっきり、「この病いは、神さまの栄光が現われるために、どうしても必要だった。」と語りました。 神がいかに偉大な方であるかが現されるために、この男は、産まれつき盲目で産まれてきました。 パウロの時代にくだって、マルタ島の住民も病気とは罪の結果であると思い込んでいました。 使徒の働き28:3-6
人間はおかしいものです。最初は、「この人は人殺しだ。」と言っていた人達が、次には、「この人は神さまだ。」と言い出した。おそらく10分ちょっとの時間でしょか。急に変わりました。 結局、不幸があればそれは人間のわがままの結果であると、当時の人は考えていました。旧約聖書からも見てみましょう。 列王記第II、18:4
香をたくとは、おがむことを意味でしています。結局イスラエルの民のやったことは、時代遅れのことをしてしまい、それは罪でした。 モーセは、青銅のヘビを見れば助かる、救われると民に語った。たしかに、そうだった。けれども、このモーセの青銅のヘビは、あとでひとつの偶像になってしまいました。これは悲劇的です。 列王記第II、18:5-6
ヒゼキヤは妥協せずに主にだけ頼った。断固たる態度をとると、はじめは誤解され異分子にされるかもしれないけれど、それは決して最後ではありません。 主は、必ず祝福してくださいます。 列王記第II、20:1
この呼びかけは、もちろんわれわれにもあてはまる呼びかけでしょう。いつかわたしたちも召されます。そのために準備すべきです。 列王記第II、20:2-7
死にかかっていたヒゼキヤは、3日のいちに癒された。 彼の病気ももちろん罪の結果ではなかったし、悪魔の攻撃の結果ではなかった。そうすれば残されているのは、やはり主の栄光のためだったのです。ダニエルも病気になりました。 ダニエル書8:27
このダニエルの病気も、もちろん罪の結果でも悪魔の攻撃でもなかった。新約聖書も見てみましょう。 ヨハネの福音書11:1-4
イエス様は、このラザロと姉妹たちをたいへん愛されていました。彼こそ病気になり、死にました。 でも、この病気もラザロの罪の結果でもなかったし、悪魔の攻撃でもありませんでした。この病気は神の栄光のためでした。 必ずラザロもマリヤも、前よりもイエス様を愛するようになり、イエス様に頼るようになり、イエス様のために生きたいと思うようになったのです。 ヨハネの福音書11:45
ラザロの病気を通して、多くの人々は導かれ救われました。使徒の働きの中にも似ている個所があります。 使徒の働き9:36-42
タビダは、どうして病気になったのでしょうか。それはもちろん罪の結果ではなかったのです。 彼女は、ただ単に救われた者だけではなかった。弟子でした。イエス様を信じ受け入れただけではなく本当にまごごろをこめて主に従いました。他の悩んでる人たちのためにも昼夜、祈ったり働いたりしました。 彼女の生活を見て、多くの人が祝福されるようになりました。だから彼女が死んだとき、多くのやもめたちは、考えられないほど悩んだのです。 けれども、彼女の死を通して、病気を通して、多くの人が主を信じました。すなわち、彼女の病気も主の栄光が現われるためのものだったのです。 パウロも決して健康人ではなかった。しかし彼は、自分の病気のために喜ぶようになり、感謝するようになり、主の御名をほめたたえるようになりました。ガラテヤ人への手紙の中で彼は次のように告白しました。 ガラテヤ人への手紙4:13-14
ピリピ人への手紙2:26-29
テモテへの手紙第Iでは、次のようにテモテに書きました。 テモテへの手紙第I、5:23
結局、テモテも健康人ではなかった。たびたび病気になった人であった。胃のためにぶどう酒を用いなさいと書かれています。 結局、どうしてテモテが病気になったのかわかりませんけれども、自分の無力さを覚えると主に頼ります。 いわゆる自信がない。主が守ってくださらなければ、助けてくださらなければおしまいだとわかるからです。 テモテへの手紙第IIをみてみましょう。 テモテへの手紙第II、3:10-12
ここでアンダーラインするとしたら、12節の「みな」です。大部分とは書いていません。「みな」です。 病気になること、いろいろな試練を受けること、おもしろくないことに出会うこと。そのことこそが主の恵みの現われです。 普通だったら恵みとして受け取れません。どうしてと思い悩みます。でもそれは、間違いなく恵みなのです。偶然はありません。 ピリピ人への手紙2:20-22
自分自身のことを求めた人は、病気にならなかったでしょう。元気でしょう。でもほんとの意味で、主のすばらしさを味わい得ないでしょう。 自分のことばかり考える人間は不幸で孤独です。ほんとうの喜びを知りません。 テモテの病気も、間違いなく主の栄光のためで、主の栄光の現われるために必要な手段でした。もう1箇所読んで終わります。 テモテへの手紙第II、4:20
パウロの手紙で気がつくことは、パウロだけではなく、いっしょに労する人々もやっぱり弱くて、よく病気になった人々ばっかりだったようです。だからこそ主は、彼らを用いることができたのではないでしょうか。 病気になると、自分のみじめさを感じます。主に頼るようになります。 主に頼るものは決して失望しません。偉大な恵みを体験するようになります。 なぜ病気があるのでしょう。病気とは罪の結果であるかもしれない、悪魔の働きの結果であるかもしれない、けど、おそらく99%以上は神の栄光が現われるためのものです。 どうしてか、なぜでしょうか。結局、人間が主に頼るためです。主に頼ると主は働くことができ、主は栄光を現すことができるからです。 |