聖書と病気4


ベック兄

(「集会広場」から転載)

引用聖句:ヨハネの福音書9章1節-3節
1またイエスは道の途中で、生まれつきの盲人を見られた。
2弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。

今日4回目になりました。前回まで、「なぜ、病気はあるの?」という質問について考えてきました。
聖書の答えは、第一番目に病気とは罪の結果である。第二番目は、病気は、悪魔の働きの結果であり得る。第3番目の答えは、病気は神の栄光が現われるための手段です。

病気とは、どうして与えられるのでありましょうか。神の栄光が現われるためであると、聖書ははっきり強調しています。
この病いの原因を理解する人は少ないかもしれません。けれども、非常に大切です。これを理解できなければ、なにか問題があれば、病いに侵されると、すぐにヨブの友達のように、罪の結果と考えるようになり訴えるようになる。
この考えは、もちろんイエス様の時代にも、非常に広く伝わっていました。弟子たちでさえそう思ったのです。

ヨハネの福音書9章でも、弟子たちも、「病いとは当然、罪の結果である。」と思っていたのです。
けれどもこの弟子たちにイエス様は、「あなたがたの思っていることは違う。この病いは、罪と関係のないものです。もちろん悪魔の攻撃の結果でもない。神の栄光が現われるためにどうしても必要なものである。」と言われました。
主なる神がいかに偉大な方であるかが現されるために、この男は産まれつき盲目になって産まれてきたのです。

前に読みましたパウロの時代も、結局マルタ島の住民も同じ思いを持っていました。病いとは罪の結果であると。
旧約聖書の中で非常にすぐれたヒゼキヤについて、「彼はすべて父祖ダビデが行った通りに主の目にかなうことを行った。」と書いています。
彼は、主に信頼していた、堅くすがっていた。われわれに対して、おそらく主は、このようには言えない。

ヒゼキヤはこのように大いに恵まれた人だったのです。けれども彼は、病気になってしまったのです。どうして?
罪を犯したからでもありません。悪魔の攻撃にあったとも記されていません。けれども彼は死ぬほどの病いに侵されたのです。
彼は祈りが応えられ癒されましたが、結局、彼の病いは、神の栄光の現われるためであったといえます。

ヨハネの福音書の11章のラザロの病気も、罪の結果ではなかったし、悪魔の攻撃の結果でもなかった。

ヨハネの福音書11:4
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

神の栄光があきらかにされるために、どうしても必要な病気である。イエス様ははっきりと言われました。
ラザロの病いを通し、ラザロの死を通し、神は栄光をお受けになったとはっきり言われました。
使徒たちの時代のときも、同じようなことがありました。

使徒の働き9章のタビタは模範的なキリスト者でした。自分のことを顧みようとしない珍しい人でした。
主に仕え、悩んでいる人々のために仕えようという切なる思いを持っていましたが、彼女は病気になってしまいました。
罪を犯したからではありません。悪魔の攻撃によって病気になったとも言っていません。間違いなく、神の栄光が現われるために病気になったのです。死んだのです。
死んだこのタビタはパウロによって生き返らされました。結果はすばらしい結果でした。

使徒の働き9:42
42このことがヨッパ中に知れ渡り、多くの人々が主を信じた。

多くの人々が主を信じ救いに預かり、結局神の栄光が現われたのです。

パウロ自身も病いに侵されました。そして彼は、病いを除いてくださいと、3回も祈りました。おそらく夜を徹しての祈りが捧げられたのではないでしょうか。
彼の病いは、でも癒されませんでした。でも主は、このパウロの病いによって、驚くべき栄光をお受けになったと聖書ははっきり言っています。

パウロの同労者のエパフラスは死にそうな病いに侵されるようになったのです。
当時の多くの信ずる者は、純真な心からではなく、党派心からイエス様を述べ伝えたと聖書は言っています。結局、自分のことばかり考えて、党派心でキリストを伝えた人々は、非常に元気で病いを知らなかったのではないでしょうか。
けれども、イエス様のために命がけで働いたパウロ、またパウロの同労者たちは、丈夫ではなかった。よく病いに侵され続けました。

テモテも、またすばらしい働き人だったのです。彼も丈夫ではなかったようです。
彼も病いを得て、しばしば苦しい発作に襲われ、弱りはてる状態になりました。またトロピモだったのです。彼も病気になり、パウロといっしょに旅行することができなくなってしまったと聖書は記しています。
彼らが、どうして病気になったかというと、過ちを犯したからではない。結局、主に頼る者になるためです。徹頭徹尾、主に頼ることによって主は働くことができ、主は、ご自分の栄光を現すことがおできになります。ですから、彼らにとって病気になることは、どうしても必要だったのです。

ここまで、なぜ病気があるかについて考えました。次に、病気に対する私たちの態度について、もちろん考えるべきなのではないでしょうか。
もちろん、この問題を考える前に、われわれは主を信じ、聖霊をうちに宿し、御霊がわれわれの全責任をもってくださることを知らなければならないのです。

コリント人への手紙第I、6:19-20
19あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

あなたがたは、もはや自分自身のものではない。イエス様を信じ受け入れた人々とは、神の子と呼ばれ、そして神の子として命も主に捧げ、霊も魂も肉体もすべて主におゆだねし、御霊の導きのままに歩むことが大切です。
けれども、御霊の導きはまったく個人個人に対して別々に行われます。信ずる者が病いを得た場合、ある人に対しては、御霊が医者に行くことを許されない場合があります。
実際には、われわれの病気に対する態度はどうなのでしょう。

聖書は、病気に対するいろいろな態度を段階的に教えてくれます。
第一番目は、この世の治療方法を受けること。たとえば、医者に行ったり、薬を飲んだりすることです。たいていのキリスト者は、どこか痛くなるとすぐに、祈らないで医者に行ったり、薬屋に行って薬を買います。
そうする前に主の前に来て、この病いはなんのために来たのか、この病いを通して主は何のために、また何を教えたいのだろうかと主に尋ねることを致しません。

私達の体はこの個所によると、自分のものではなく、主のものです。ですから何も考えずに、思いのままにすぐに医者に行ったり、薬を飲んだりしても良いものなのでしょうか。
イエス様は、われわれの髪の毛の数までご存知のお方です。ですから、わたしたちの体の痛みもぜーんぶご存知です。心にかけておられます。
私達は、高い値を持って、買い取られた者です。

病いを得たときに、主の前に取るべき道を尋ねないのは、本当に自分勝手なことと言わなければなりません。こういう実例は、もちろん聖書の中に出てきます。
聖書はほんとうに現実的な書物です。たとえば歴代誌第IIの中でアサ王について次のように書かれています。

歴代誌第II、16:12
12それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

もちろん、これは罪であると言わざるを得ません。主を求めようとしないで、医者を求めることです。
「主よ、あなたはこの病いを通して、わたしに何を教えようとされているのでしょうか?」と尋ねる態度は、われわれにどうしても必要なのではないでしょうか。
この尋ねる態度をとると、ゆだねることができるようになります。もっとも大切な態度はそれではないでしょうか。

このように主に尋ねた後に、導かれるままに医者に行き、薬屋に行くと良いでしょう。そうするとき、わたしたちは医者によって癒されるのではなく、また薬によって癒されるのではない。
医者や薬を通して、主によって、癒される喜びを経験するようになります。
狂信的な人々は、医者はすべて神の敵であると言います。もちろん、これは愚かしい話しです。

創世記50:2
2ヨセフは彼のしもべである医者たちに、父をミイラにするように命じたので、医者たちはイスラエルをミイラにした。

結局主を信じ、主を恐れ、主を愛したヨセフのまわりにも医者たちがいました。
医者たちは、ヨセフのしもべたちでした。ですから、医者はダメだと言うことではありません。イエス様は、よく知られているマタイの福音書9章12節にも、医者のことを引用してくださいました。

マタイの福音書9:12
12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。

もし医者が神の敵であるならば、イエス様はこのようには、おっしゃらなかったはずです。

コロサイ人への手紙4:14
14愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。

パウロの同労者ルカについて、このように書いています。このルカは、みなさんご存知のように、お医者さんだったのです。
ルカはお医者さんであり、単なるお医者さんではなかったのです。パウロによって、非常に尊敬され愛された者でした。
ですからパウロは「愛する医者ルカ」と書いたのです。医者のルカはパウロと苦労を共にし、いっしょに旅をし、パウロに忠実に仕えたのです。御霊は、この医者ルカに命じて、ルカの福音書と使徒の働きを書かせられ、ルカは主によって大いに用いられました器だったのです。

歴史の中で、主を信ずる多くの医者が自らの力に頼らず、自分の信じる主に頼って人々を治療し、主のために働いてきました。キリスト者の医者を通して、多くの人々が導かれ救われました。
医者だけでなく、薬もダメだと言う人もいます。でも旧約聖書と新約聖書を読むと、そうではないと言えます。たとえばエレミヤです。

エレミヤ書8:22
22乳香はギルアデにないのか。医者はそこにいないのか。それなのに、なぜ、私の民の娘の傷はいやされなかったのか。

乳香は木を切るとにじみ出る樹液で、自然の薬に用いられたものだったのです。おそらく自然の中で多くの病気を癒す成分がはいってたのではないでしょうか。

エゼキエル書47:12
12川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。

その葉が薬として用いられた。

列王記第II、20:7
7イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい。」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。

新約聖書では、

ルカの福音書10:34
34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。

ここでは、オリーブ油が薬に使われてたことがわかります。

マルコの福音書6:13
13悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

マルコのこの個所でも油が薬として用いられました。

テモテへの手紙第I、5:23
23これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。

パウロはテモテに胃の薬として、ぶどう酒をすすめました。
わたしたちの良く知っているマルコの福音書の長血の女は、多くの医者にかかっても治らず、財産を使い果たし、12年も悩みつづけました。
多くの人々は病気になったとき、この女のように、多くの財産を使い果たしても治らない場合がたくさんあります。このとき、この婦人と同じように、病いをもイエス様にすべて、おゆだねすることができればとても幸いです。

クリスチャンにとっては、この世の肉体は、第一に大切なものではありません。パウロが外なる人が滅んでも、うちなる人は毎日新しくなると語りました。
人間の治療がダメだとは決して言えません。けれども、御霊の導きに示されるままに治療をしたいものです。もし、そうするならば、むやみに薬を飲んだり、注射をしたりする必要もなくなるでしょう。

この問題については、ほかの人の病いのために自分が判断してあげることも、また自分の病いのためにほかの人に判断をそのまま受け入れることももちろんできません。
御霊の導きは個人的にあります。誰かが、個人的に足しげく医者に通い薬をたくさん飲んでも、その人を裁くことはもちろんできません。

たいせつなことは、御霊に導かれることと聖書ははっきり言っています。
わたしたちは御霊に対してどのような態度をとることができるのでしょうか。わたしたちを聖霊を無視することができます。イエス様を信ずるなら誰でも聖霊を持っています。
信ずるなら、誰であっても聖霊の宮です。

でも、人間がみな自分勝手に決めたりすると、人間の体は聖霊の宮であるよりも、聖霊の牢屋であります。聖霊の働きの導きに正しく従うことをしていません。
自分が決定権を持ち、自分は無視されています。これは悲劇的です。
2番目の態度は、聖霊を部分的に受け入れる。聖霊は部分的な支配しかできません。聖霊はお客さまです。そのような生活は、幸福ではなくみじめな生活です。

3番目の態度は、聖霊にすべてを明渡すことです。聖霊がすべての支配権を持ちます、この態度を取る人は次のように証しすることができます。
「生きているのは、もはや私ではなく、キリストです。」
いかにして、こういうふうになれるのでしょうか。それは全く献身し、主が支配権をとってくださることに感謝するときです。そして、主が導きご自身の栄光を現してくださることを心から、期待することによって、聖霊が、われわれを導くことができ、用いることができ、満たすことができるのです。

覚えるべきこととは、聖霊に導かれ、用いられ、満たされることとは、聖霊がすべての支配権を持つことです。つまり、聖霊に満たされることとは、感情の問題ではなく意志の問題です。
すべてを主に明渡したときにはじめて導かれることになります。

第一に献身。第二に主がすべてを支配してくださるという信仰。そしてこれはわれわれの決断にかかっています。
私達は、聖霊に満たされ、用いられるまで、待つ必要はない。
わたしたちが、心を主に明渡しさえすれば、私達が導かれ用いられることを切に待ち望んでおられる聖霊は、ただちに与えてくださるのです。

われわれの取るべき態度とは、「主よ、わたしは、どうしたら良いのでしょう。教えてください。」「従いたい、ゆだねたい。」この態度を取れば主の平安に満たされるようになります。




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