聖書と病気5


ベック兄

(「集会広場」から転載)

引用聖句:ヨハネの福音書11章1節-5節
1さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
2このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
3そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
4イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

ヨハネの福音書11:40-45
40イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
45そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

聖書と病気について、さらに学び続けたいと思います。イエス様は死を克服されたお方で、イエス様にとって不可能なことはありません。
信ずると神の栄光を見ると約束されています。
前に何回も言いましたように、いまの時代の主の導きの目的は、一時的な問題を解決するよりも、永遠なるものを与えようとすることです。
したがって病気を癒すよりも、病気を与える方であり、問題を解決するよりも問題を与えるお方です。

何回にもわたって、なぜ病気があるのか考えてきました。またこの間はわれわれは、病気に対してどういう態度をとるべきか学びました。
このことについて考える前に、いつも私達は、自分のものではなくイエス様のものであることを覚えることが必要です。
私達はいつも、イエス様を信ずる者として、自分は自分のものではなく主のものであるという所に立つべきです。ですから、パウロは当時のキリスト者に次のように語っています。

ローマ人への手紙12:1
1そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

ここでパウロは、あなたがたの体は聖霊のものであり、自分自身のものでないと語っています。これをまず絶えず覚えるべきです。
信じる者として命を主なる神に捧げ、霊も魂も肉体もすべて主におゆだねし、御霊の導きのままに歩むことが大切です。
結局、自分の思っていること、願っていることはそんなに大切ではない。主よ、あなたの導きは完全であり、おゆだねします。最善だけがなります。そういう心構えが大切です。

前回、この世の治療方法を受けることについて少し考えました。たとえば医者にかかること、薬を飲むこと。多くの人は何かあり、どこか痛くなるとすぐに医者に行き、薬屋に行きます。
けれどもイエス様の血潮によって贖い出された者として、そうする前に、この病気はなんのために来たのか、主はこの病いを通してわたしに何を教えたいのかと、尋ねる態度をとるべきです。

なぜなら、自分の体は自分のものではなく主のものだからです。そして偶然に起こることもありません。すべての背後に主は目的を持っていてくださるのです。
ですから、何も考えないで、みこころ尋ねずに思いのままに動くことは、決して主の栄光のためになりません。
私達ひとりひとりは、高い値を持って買い取られた者です。この事実を大切に覚えると、どうして、何のため、どうしたら良いでしょうと主に尋ねる態度を取るようになります。

歴代誌第II、16:12
12それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた。

この間も引用しました。ひとりの王が病気になり、主ではなく医者を求めたという記事がありました。彼は、病いが激しくなっても、病いのときにも主を求めないで医者を求めた。主に尋ねる態度がなかった。
「主よ、この病いを通して、あなたは何をわたしに教えようとされているのでしょうか?」、その態度、尋ねる態度は、私たちにどうしても必要な態度です。

福音書の中で長血の女は多くの医者にかかり12年間悩みました。多くの人は、この女のように多くの財産を使い果たしても治らない場合がたくさんあります。
私達はそのとき、この婦人のように病いをもすべてイエス様にゆだねることができたら、必ず祝福されます。
信ずる者にとって、外なる肉体は、この世の人々のように第一に大切なものではありません。外なる人が滅びても、内なる人は毎日新しいとパウロは記しています。
人間の治療はダメだと決して言えません。でも、御霊の示しを求めつつ治療を受けるべきではないでしょうか。

われわれの病気に対してとり得る第二番目の態度として、聖書は奇蹟による病いの癒しについて書いています。
以前はイエス様と、イエス様によって選ばれた特別な人達が癒しの賜物を持っていました。今の時代にも、癒しの賜物を持つキリスト者もいます。
けれどもコリント人への手紙第Iの12章を見ると、癒しと奇蹟を行う賜物は一番終わりに上げられており、決して高い位置を与えられていない。肉体を癒す賜物より人間の霊を生かす預言の賜物のほうが高い位置をしめています。

コリント人への手紙第I、14:22
22それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。

異言と癒しの賜物は、信者のためではなく不信者のために与えられる。

エペソ人への手紙4:11-13
11こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
12それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
13ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

ここでも、教会内の奉仕について書いていますが、癒しについては書いていません。

ここでイエス様の癒す力に関する御言葉を読んでみます。
マタイの福音書は、ユダヤ人のためにまず書かれました。ユダヤ人は旧約聖書を通して、約束された救い主が来ると病人が癒されるとわかった。
ですから来られたイエス様が、本物であることを明らかにするためにイエス様は病人たちを癒してくださったのです。

マタイの福音書4:23
23イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

マタイの福音書8:14-16
14それから、イエスは、ペテロの家に来られて、ペテロのしゅうとめが熱病で床に着いているのをご覧になった。
15イエスが手にさわられると、熱がひき、彼女は起きてイエスをもてなした。
16夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。

大部分ではなく「みな」お直しになった。当時、信仰があってもなくてもみな癒された。イエス様は同情されたのでも、気の毒だと思われたのでもありません。
自分こそが、本物であることを明らかにするためです。

マタイの福音書9:32-35
32この人たちが出て行くと、見よ、悪霊につかれたおしが、みもとに連れて来られた。
33悪霊が追い出されると、そのおしはものを言った。群衆は驚いて、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない。」と言った。
34しかし、パリサイ人たちは、「彼は悪霊どものかしらを使って、悪霊どもを追い出しているのだ。」と言った。
35それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

マタイの福音書12:13
13それから、イエスはその人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼が手を伸ばすと、手は直って、もう一方の手と同じようになった。

マタイの福音書12:22
22そのとき、悪霊につかれた、目も見えず、口もきけない人が連れて来られた。イエスが彼をいやされたので、そのおしはものを言い、目も見えるようになった。

マタイの福音書14:36
36そして、せめて彼らに、着物のふさにでもさわらせてやってくださいと、イエスにお願いした。そして、さわった人々はみな、いやされた。

マタイの福音書15:30-31
30すると、大ぜいの人の群れが、足なえ、不具者、盲人、おしの人、そのほかたくさんの人をみもとに連れて来た。そして、彼らをイエスの足もとに置いたので、イエスは彼らをおいやしになった。
31それで、群衆は、おしがものを言い、不具者が直り、足なえが歩き、盲人が見えるようになったのを見て、驚いた。そして、彼らはイスラエルの神をあがめた。

マタイの福音書17:18
18そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。

マタイの福音書19:2
2すると、大ぜいの群衆がついて来たので、そこで彼らをおいやしになった。

マタイの福音書21:14
14また、宮の中で、盲人や足なえがみもとに来たので、イエスは彼らをいやされた。

ルカの福音書7:21-22
21ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。
22そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。盲人が見えるようになり、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられています。

これらは、旧約聖書の、来るべき救い主について預言されたことです。
イエス様のみもとに来た人はひとり残らず癒されました。悩み、苦しみ、病いの重荷は、イエス様の御手によって取り除かれたのです。
前に言いましたように、イエス様に癒された人々の中で、本当の救いを得た人はあんまりいなかったのは悲劇的でした。感謝した人でさえあまりいなかった。イエス様は、病気を癒すために来たのではない。イエス様は罪の問題を解決するために来た。

では、どうしてイエス様は奇跡をなしたかというと、ご自分は偽者ではなく、ほんものであるという事実を明らかにするためです。
イエス様の時代、みもとに運ばれた人々は例外なく瞬間的に癒されたのです。イエス様は、一回も手遅れだと言われたことはない。

次に使徒たちの時代について考えてみましょう。
イエス様によって特別に選ばれた人々が癒しを行った個所を見てみましょう。

マタイの福音書10:1
1イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。

この12弟子にはユダもはいっていたでしょう。ユダも病気を癒す力を持っていました。
けれども彼は新しい命を持っていなかったし、悔い改めようとしなかった。そして救われていなかった。悪魔に仕えていた。

マルコの福音書16:18
18蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

これは、もちろん弟子たちに与えられた約束です。われわれに与えられた約束ではない。
多くの人々は、自分の思いが正しいと証明するために、あちこちの聖書の個所を読みます。引用します。それは非常に危険な読み方です。
多くの人々は、イスラエルの民に与えられた約束を、自分勝手に、私に与えられたと言います。それは本当に危険です。

使徒の働き3:7-8
7彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
8おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮にはいって行った。

生まれながらの足なえが踊るようになった。少しずつ良くなったのではなく、いっぺんに良くなった。

使徒の働き5:16
16また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

みな例外なく癒された。

使徒の働き9:34
34ペテロは彼にこう言った。「アイネヤ。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい。」すると彼はただちに立ち上がった。

使徒の働き14:9-10
9この人がパウロの話すことに耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、いやされる信仰があるのを見て、
10大声で、「自分の足で、まっすぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。

この時代で少し変化があった。癒される信仰のあるのを見て癒された。イエス様の時代は、信仰があってもなくても、みな癒された。

使徒の働き16:18
18幾日もこんなことをするので、困り果てたパウロは、振り返ってその霊に、「イエス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。」と言った。すると即座に、霊は出て行った。

使徒の働き19:12
12パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。

使徒の働き28:8
8たまたまポプリオの父が、熱病と下痢とで床に着いていた。そこでパウロは、その人のもとに行き、祈ってから、彼の上に手を置いて直してやった。

この使徒たちは、イエス様とともに歩いた人々でした。3年半ともに歩みました。イエス様の癒しの様も見ました。イエス様の御姿の現されるところ病気も逃げて行きました。そして使徒たちを通しても、多くの病人が癒されました。
パウロは使徒の中では少し例外で、イエス様とともにこの地で歩みませんでしたが、特別に選ばれた人でした。パウロは、次のように書いています。

コリント人への手紙第II、5:16
16ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。

ここでパウロは、今までそうだったけれども、これからは違うと語っています。
この時より、新しい時代が始まりました。すべての者が癒される時代は終わったと宣言しています。
この宣言にはじまり、今にまで至っている時代の特徴は、心の目が開かれる時代です。イエス様を体験的に知ること。イエス様の愛によって、解放され満たされる時代です。

ここまでイエス様と使徒たちの時代について見てきました。次に今日の癒しの賜物を持った人について考えましょう。
今日、癒しの賜物を持った人がいることは確かです。新興宗教にはいって癒される人もいますし、いろいろな教会で癒される可能性もあります。多くの人は、癒しの賜物を持った人をすばらしい賜物の持ち主だと考えます。それは、肉体の命のことを非常に重要視するからです。
けれども、イエス様を紹介すること、イエス様の救いを述べ伝えることは、癒しに勝ると新約聖書の手紙からはっきり分かります。そして、癒しは末の世のしるしです。

マタイの福音書24:24
24にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

見世物として、いろいろなことをする。イエス様と、奇蹟をなした弟子は見世物として奇蹟はしなかった。
人を納得させ、会員を増やし、儲けるためにされたものとは、にせものです。御霊の働きの結果でなく悪霊の働きの結果です。
パウロの手紙のどれを見ても、癒しがまん中にきていません。

末のとき、御国の福音が全世界に述べ伝えられるとき、癒しの奇蹟が現われると聖書は書いています。しかし、この奇蹟とは、主に悪霊の働きの結果です。霊を見分ける洞察力が必要です。
パウロはピリピ人への手紙で、十字架に敵対し、ねたみと党派心から働く働き人たちを、犬どもと呼んでいますが、悪い働き人、預言より低い賜物である癒しを、悪い動機からする者がいても不思議ではありません。
このことについてイエス様はマタイの福音書7章で語っておられます。

マタイの福音書7:20-23
20こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。
21わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
22その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』
23しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

聖霊が働くと、人間はいつも謙遜になります。へりくだった態度を取るようになります。
今日、奇蹟をなす人々は傲慢です。「わたしたちはできる。あなたちはダメなのではないか。」
実を見て判断しなさいと聖書は語ります。

預言することとはみことばを伝えることです。動機が問題です。
自分のことを考えてみことばを述べ伝えても、悪霊を追い出しても、主の名で奇蹟をなしても、それは主の御名からすれば不法をなすことです。そういう人々は、イエス様に拒まれます。
末の世に悪魔は、光の御使いを装い、自分の道具になる人間を用いて、奇蹟を行います。

コリント人への手紙第II、11:13-14
13こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。
14しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。

ルカの福音書17:23
23人々が『こちらだ。』とか、『あちらだ。』とか言っても行ってはなりません。あとを追いかけてはなりません。

マタイの福音書24:23-24
23そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

奇跡や癒しもこの不思議なことに含まれるのでしょう。
現在癒しの賜物を持っているが、主から来たものかどうか疑わしい人々は多くいます。癒しの賜物を上から得たのか、下から得たのか。これを考えてくると、どんなに霊を見分けることが必要かわかります。

信ずる者が重い病いにかかり、魂にも疲れが見え、骨も古び衰えるまでに弱ると、悪魔の働きが激しくなります。
わたしたちに必要なことは、最後まで、主イエス様にだけ頼り続けることです。




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