聖書と病気6


ベック兄

(テープ聞き取り)

引用聖句:コリント人への手紙第II、4章16節-18節
16ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
17今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

聖書と病気のテーマではじまりました。ふたつの問いについて今まで考えてきました。「なぜ、病気があるのか?」答えは、3つでした。罪の結果、悪魔の働きの現われ、神の栄光の現われ。

過ぎ去ったここ数日も、いろいろな人が導かれました。ひとりの47歳の男性は、脳腫瘍を持つようになり、だから心を開くようになり、イエス様の御名を呼び求めるようになりました。病気にならなかったら、決してこのような態度をとらなかったでしょう。
55歳の婦人はガンになり、イエス様に頼り信じるようになり、今喜んでいます。また婦人は、同じようにガンになり、ぺっちゃんこになり、イエス様を受け入れられたから、彼女も家族もイエス様を受け入れました。
ある夫婦は精神的に非常に悩みました。ふたりとも心のよりどころを捜しただけでなく、イエス様を信じ変わりました。薬物中毒の兄弟も来ました。マタイの福音書11章28節を読んでで、まことの解放が与えられたました。アルコール依存の兄弟も来ました。先に、救われたアルコール依存の兄弟に導かれました。希望を持って帰りました。
このように考えれば、病気はすばらしいと、言わざるを得ない。

なぜ病気があるのか?この問い以上に、病気に対するわれわれの態度が大切です。問題は、問題を持つことよりも、「問題に対するわれわれの態度」なのではないでしょうか。
人間は、いつもふたつの態度をとります。ひとつの態度は、「運命だからあきらめなさいよ。」という態度です。「どうしようもないじゃないか。」、この態度をとると、喜びもなく、希望もなく、あきらめの中で、毎日毎日を過ごさなければならない。
もうひとつの態度は、「主が、導いてくださる。病気も偶然に起こったものではなく、与えられたものである。そして主が、人間一人一人の最善だけしか考えられないお方である。」、こういうふうに考えると、見方が変わります。重荷から解放されます。

旧約聖書の中で、一人の王の病気に対する間違った態度について、次のように書かれています。王様とはアサでした。彼は病み、痛みが激しくなたときに、主を求めないで医者を求めた。彼は、意識して主を求めようとせず、人間に頼り医者を求めた。
「主よ。あなたは、この病いを通して何を教えようとされるのですか?」と尋ねる態度はどうしても必要です。前に福音書で読みました、長血を患った女は、多くの医者にかかっても治らず苦しんだ。多くの人々は、この女のように多くの財産を使っても治らないという場合があります。
病いを、イエス様にすべておゆだねすることができたら幸いです。

信じる者にとって、外なる肉体は第一に大切なものではありません。外なる人が滅んでも、内なる人は日々新たにされるとパウロは語りました。人間の治療はダメ、とは言いません。でも御霊の導かれるままに治療したいものです。
聖書の中には奇蹟について多く語っています。イエス様の所に来た人はみな癒されました。病いの重荷をイエス様によって取り除かれた。また、イエス様の弟子たちを通しても多くの病いが取り除かれたと、聖書は確かに書いています。
使徒たちもまた癒す力を持っていました。パウロの持っていた布を誰かの上に置くと癒された。でもこのパウロは急に、少し違う態度をとるようになりました。「私たちは今後、誰も肉によって知ることはすまい。」
この時から新しい時代が始まり、すべての者が癒される時代は終わった。パウロは確かに、多くの人々を癒し、死人をも生き返らせた。けれども自分が病気になったとき、急にやめた。「癒してください。」、と祈る自由がなくなった。なぜなら主は、わたしにとって最善しか考えられないから、だからわたしはすべてゆだねるべきであると彼は知るようになった。

今日、いわゆる癒しの賜物を持つ人がいます。そして多くの人々は、癒しの賜物を持っている人をすばらしい賜物の持ち主であると考えています。それは、肉体の命のことを非常に重要視することです。
イエス様を述べ伝えることは癒しに勝る、と新約聖書の手紙を通してはっきり知ることができます。パウロはピリピ人への手紙で、ねたみと党派心から働く悪い人々を、犬どもと言っています。彼らは悪い動機から福音を述べ伝えたからです。
悪い動機で福音を述べ伝えることができるとすれば、癒しを悪い動機からする者がいても不思議ではない。イエス様はこの事実について、マタイの福音書で次のように言われた。
「人々は、あなたの名によって福音を述べ伝えたとイエス様に言う。あなたの名によって、多くの病人を癒したと言う。イエス様は彼らに、わたしはあなたがたを知らないと言う。」
結局イエス様の名前を使い、聖書を使い、いろいろなことをすることができる。自分の力に頼り、動機が純粋でなければ非常に危ない。悪魔は、光の御使いを用いて奇蹟を行う。現在癒しの賜物を持ち、まことに主の僕かどうか疑わしい人が多くいます。癒しの賜物を、上からでなく下から、悪魔から得た癒し人が多いのです。
今の時代の主のおもな目的は、一時的な解決ではありません。病気を癒すことよりも、むしろ病気を与えることです。それによって人間は、真剣にイエス様にまことの救いを求めるようになる。

ここまで、病気に対する態度について考えました。ひとつは、医者と薬。もうひとつは奇蹟。もうひとつは、ヤコブの手紙の5章です。

ヤコブの手紙5:13-16
13あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
14あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
15信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
16ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

ここでも、御霊の導きが何にもまして大切です。信ずる者が毎日捧げるべき祈りは、「主よ、わたしは、どうしたら良いでしょう。わかりません」という祈りです。そして、「教えてください。すべてをあなたにゆだねます。」
このヤコブの手紙は、あなたがたのうちに病んでいる者がいるか?医者を招けとは書いてありません。長老を招けとあります。今日の秩序はどうでしょうか。少し痛みを覚えるとすぐに医者に飛んでいき、未信者の医者の指図通りにします。
けれどもヤコブは、教会の長老を招けと書きました。この長老は、信頼されている兄弟たちを意味しています。病人のもとに長老を招くのは、どんな意味があるのでしょうか。パウロは別のところで、「わたしたちはみなひとつの御霊を飲んだ。みなひとつである。」と語りました。ひとつの肢体が悩めば、みな悩むと語りました。

まことの教会の特徴は、共に悩み、共に喜び、互いのために祈ることです。ひとつの肢体が悩めば、ほかの肢体も共に悩みを同じくします。もし私達のひとつの肢体に悩みがあれば、互いにうちあけ、主にあって解決することは何とすばらしいことでしょうか。
高ぶり、自分の悩みをひとりで解決しようとすれば、霊的に深い悩みにはいってしまいます。誰にも、私の悩み、私の罪を教えない。この態度は自らを苦しめるから止めたいものです。
ヤコブは、教会の長老を招きなさいと言いました。自分で長老を招き、悩みを分かち、共に祈り問題を解決しなさい。

ヤコブの手紙の癒しを、誤って解釈することはまずいことです。オリーブ油を注いで祈るとありますが、オリーブ油にはなんの効力もありません。ただ、信仰による祈りが、病いにある人を支えます。
来られた長老が油を塗って祈る時、病人と長老の動機が問題です。その動機が、ただその人の健康のためだけであるか、主の栄光のためであるかが問題です。
この世には悪魔の働きもありますから、祈りの動機がはっきりしていなければなりません。もし御霊が、長老を招くように示すならそうしましょう。

ひとりの兄弟は非常に盲腸が痛みました、その兄弟は、主の御心が何かを聞いて、長老を招くように示され長老を招いて祈った。彼の痛みは、消えなかったがさらに彼は主に頼ろうとした。
われわれは、主に信ずる心を持っていても、私達にないのは信仰の忍耐ではないでしょうか。今の時代、悪霊はさらに働いていて、瞬間的な信仰では足りない。信仰の忍耐が必要な時代です。

「神の聖徒たちの忍耐」、末の時代の聖徒に必要なのは、早く癒されることではなく、金が炉の中で精錬されるように、苦しみの炉の中できよめられ、御心にかなう者となることです。これがために時が必要であり、忍耐が必要です。

ローマ人への手紙5:3-4
3そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです

もうひとつの場合は、長老を招き祈りながら医者にかかることです。病いの倒れている信じる者の、主との交わりの中で与えられる導きが大切です。第三者は、決して、「ああすべきだ、こうすべきだ。」とは言えません。大切なのは、個人個人と主との関係です。そして個人個人は、主に頼り全部を主にゆだねることが必要です。
あらゆることをイエス様が導いておられます。イエス様が許さなければ、いかなることも起こりません。イエス様はご自分のみもとにひきよせ、心のふるさとに導き、われわれを創り変え、主のもとに導こうとされています。この導きに信頼する者は祝福されます。
われわれが理解できないことであっても、主が愛であり、完全なお方であることを信じて、主により頼むことを要求しておられます。わたしたちは、しばしば苦しみや、悩みだけを見て絶望します。けれどもその背後に必ずイエス様が立っておられることを知り、100%信頼しなければなりません。

前にも、一人の、主によって祝福された兄弟を紹介したことがあります。彼はハンガリーで生まれたユダヤ人であり、祭司の子孫であった。19歳の時、彼は救世軍に加わって、ブダペストで救われた。
彼は、クリスチャンになったことで両親から捨てられた。彼は救世軍から離れ、イエス様のために働いた。ハンガリーの集会のはじまりでした。彼は徹頭徹尾妥協しなかったのです。
そのことで、当時のハンガリー政府から追放されドイツに住むようになった。ドイツに来てラジオの伝道、ハンガリーのためにたくさん出版した。どうしてこの兄弟は祝福されたか?その秘訣は、多くの悩みと苦しみだったのです。

また、ヒットラーは7回も彼を強制収容所に投げこんだのです。そこでも彼はすばらしい経験をしました。それだけではなく、彼はいつも病気でした。
18歳のとき、事故で腎臓がひとつだめになりました。それから彼は非常に重い糖尿病にかかりました。残りの腎臓も2回手術しました。糖尿病がひどくなり、足を切断する苦しみを負いました。そして肺結核になりました。そして、残った足も切断しました。
でも彼は、いたる所を旅しました。最後の手術のあと彼はつぎのように書きました。

「私は、手術が成功して、私が生きていると知ったとき、ある程度ショックだったのを認めざるを得ません。というのは、私が主のみもとに召されることが許されるだろうということばかり期待していたからです。
私は、ひとつの歌を思い出しました、

向こう岸には、悩みがない。向こう岸には、喜びだけが待っている。
向こう岸には、もはや嘆きも悲しみもない。向こう岸には、主が待っておられる。

私は両足を失った。でも主は私の翼を与えてくださった。
私は鷲のように翼をかって昇ることができる。私の限られた状態を越えていくことができる。
私は塵の中にうずくまる必要がない。上から見ると、すべてが全く別のように見えるのだ。」

いったい彼はどうしてこのように書くことができたのでしょうか。別の手紙の中にヒントがあります。

コリント人への手紙第I、10:13
13あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。

この兄弟は、このみことばが真実であることを確信したのです。試練や苦しみにはどうにか結末がつくというようなものではなく、勝利に満ちたものとなるべきなのです。パウロは、「これらすべての中でも圧倒的な勝利者です。」と語りました。
絶望したり、落胆したり、あきらめたり、うめいたり、嘆いたり、自分で自分を同情することもできます。でもパウロは、なぜ患難をも喜べたのでしょうか。なぜなら彼は、先の先を見とおしたからです。彼は目に見えるもの、表面的なものを見ないで、目に見えないものをしっかりと見たのです。いかなる苦しみも恐れることがなかった。すべてが働いて最善になることを確信した。

つづいて兄弟は、
「わたしは数ヶ月この方、そのようなことをすることが許されているのです。主は私の手からすべてを奪い去りました。わたしは今まで、病床にある時でさえ、いつも非常に積極的でした。
今はすることが非常に少なくなってしまいました。私の召される時が目前に迫ってきたようです。
私はたくさんの天国の歌を思っています。それらを小声で歌い、心からアーメンと言うのです。早くイエス様の所に行きたい。そのことを願いつつ、もう少し辛抱しています。
もう少し忍耐すれば、疲れた旅人は心のふるさとに帰ることが許され、苦しみはそれで十分です。

私は今まで回り道や横道をたくさん通ってきました。わたしにはまだ多くのものが欠け不完全です。
そして、しばしば自分の権利を主張しようとします。
私は今、次のように言うことができます。私は主の御前に持っていけるものを何も持っていません。主よあなただけが、私のすべてです。私はまだ途中にいます。主が私を形作ってくださり、御前にあげてくださるまで。
その時にはすべてが主の聖さと、美しさに輝くでしょう。私が主と顔と顔をあわせてあいまみえる時、古い性質はなにひとつ記憶に残らない。

パウロは、ですから私達は勇気を失わないと語りました。たとえ外なる人が衰えても、内なる人は日々新たにされ、今の時の軽い患難は、私達のうちに働いて栄光に至るからです。
それですから、私は主の御手を賛美します。その手は傷を与えられますが、また癒しもくださいます。ぶどうの木を切る人は、悪い枝を切り捨て、実を結ぶ良い枝を残します。ですから私は多くの試練を本当の喜びと思っています。私にはどんなことがあっても嘆く理由がありません。

私はみなさんに切なる願いを持っています。決して私を同情せず、共に神に感謝して欲しい。主が私を訓練する時、私が主の子供であることの証明です。主の聖さに、私が預かることを望んでおられるのです。
満ち足りた喜びを持って、苦しみの中で感謝を捧げることができるとは、なんという特権でありましょう。私は主がわたしに立てられたすべてのことについて、感謝します。もう一度、次のように請い願わざるを得ません。主よ、必要だったら、もっともっと患難を与えたまえ。ただ感謝だけが、私の心にありますように。

苦しみによって、主との交わりがいっそう深くなりました。私を愛し、私のために御自身をお捧げになった尊い主に賛美が、何千何百回も賛美がなされますように。なにものも、私を主の愛から引き離すことはできません。私の最後の呼吸でもって、わたしの最後の心臓の鼓動でもって、ただ主ひとりだけが賛美されますように。」

ハンガリーの兄弟は、このように何十年もの苦しみをも感謝できました。問題を持つことは問題ではありません。大切なのは、問題に対する態度です。




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