引用聖句:コリント人への手紙第II、12章1節-10節
ヘブル人への手紙2:14-15
前のメッセージ(聖書と病気6)で話したように、病気になることはそんなに大きな問題ではない。病気に対する態度こそが問題です。 心配すると、もちろん肉体的にも精神的にもおかしくなります。だからこそ聖書の中で何回も、思い煩うな、心配してはいけないと書かれています。 病気に対する態度について、今までいろんなことを学んできました。先日はヤコブの手紙5章について学びました。そこには医者を招けとは書いていませんでした。長老を招けと書かれていました。病人のところに長老を招けとは、いったい何を意味していたのでしょうか。 コリント人への手紙第I、12:13-14、26-27
ひとつの肢体が悩めば、みな集まって共に悩みを同じくするはずですとパウロはここで書いたのです。いつでも悩んでいる人々がいます。今日も悩んでいる人がいらっしゃるはずです。ですから今日の集いは楽しむ会ではなく、共に悩む会であるべきなのではないでしょうか。 後でひとりの姉妹も証ししてくださいますが、彼女はたいへんな病気を持っています。今からどうなるかわかりません。共に悩むことこそが大切なのではないでしょうか。 多くの人々は、いろいろなことを見て、聞いて批判するようになります。でもそれはいつも間違っています。共に悩むことこそが大切です。一緒になって苦しむことこそが、聖書の要求されていることです。 もし私達のひとつひとつの肢体に悩みがあるのであれば、お互いにそれを打ち明け、主にあって解決するということはなんとすばらしいことでしょう。高ぶり自分の悩みを自分で解決しようとする時に、さらに深い霊的な悩みの中にはいってしまいます。 誰にも私の悩み、苦しみ、罪は教えない、うまく隠そう、この態度は自らを苦しめてしまいますからやめたいものです。 ヤコブの手紙5:15
この「信仰による祈り」という表現が使われています。単なる祈りでは十分ではない。信仰による祈り。祈りは信仰の現われです。ここで動機が問題です。その動機が、ただ人とその人の健康のためであるのか、あるいはイエス様の栄光のためであるのかが問題です。 この世には神様の助けだけではなく、人間やサタンの働きによるものがあります。ですから癒しの動機が探られなければなりません。私達は、「われわれの神に、何ひとつできないことはない。」、と知っています。 けれどもわれわれに欠けているのは,幼子のような信頼であり、信仰の忍耐ではないでしょうか。末の世の聖徒に必要なのは、早く癒されることではありません。金が炉の中で精錬されるように、苦しみの炉の中で聖められることです。このためには時が必要です。ですから忍耐が必要です。 最終回に、私達は、最後の病気に対する大切な態度を考えたいと思います。すなわち、癒しを求めない態度もありうるのです。私達は目の前で、体験的にこのような実例に多く触れさせて頂いて、多いに祝福されたのではないでしょうか。 何年か前に召された姉妹は、本当に我々にとって大きな祝福だったのです。彼女は死の前に次のように言ったのです。 「私は死を恐れません。心配しません。イエス様は癒し主です。主イエスは、私をも癒す力をお持ちです。私を肉体的に癒すことは確かにひとつの奇蹟でありましょう。しかし主は、私から死を恐れる恐れをとってくださった。私は安心して死に向かうことが今出来るという奇蹟は、もっと大いなる奇蹟です。」 彼女はこのように告白しました。これこそが奇蹟ではないでしょうか。私達はこういう奇跡をこそ期待すべきです。 もう3000年前にすでにダビデは、「たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが、私を共におられますから。」、と告白しました。結局どういうことがあっても、もうあらゆる心配から解放された。あらゆる不安から救い出された。この確信こそが、人間の作るものではない、主の奇蹟です。 2年前に天に召された兄弟も同じ確信を持つようになったのです。大手術の前の晩、「どう?如何ですか?」と聞くと、「全然心配しません。」、と彼は答えたのです。「けど、遺言くらい書いたでしょう?」と尋ねると、「もちろんそうよ。」と、笑いながら遺言の入っていた封筒を見せてもらったのです。 兄弟も、死を恐れる恐れから解放されたのです。手術の前に彼は、「癒してください。元気なりたい。」と祈らないで、「御心であるなら天に召してください。」としか祈らなかったのです。 透析しなければダメだよと言われながら、彼は透析は嫌だという態度をとりました。「どうして?早く天国に行きたいの?」と言うと笑いながらうなずきました。 彼の口から私が聞いた最後の言葉は、「イエス様は私の望みです。」という言葉でした。死んでもイエス様と共に生きるようになると確信できることは、なんという幸いでしょうか。 未信者が死にたくないのは当然でしょう。けれども、イエス様を信じる者が死への恐れから解放されていなければ大問題なのです。恐れがあるなら、結局目に見えるものによって歩んでいるのです。 イエス様はあらゆる災いを抑する偉大な救い主です。イエス様はいかなる罪をも赦すことができる偉大な贖い主です。イエス様はあらゆる束縛から解き放ってくださる偉大な解放者です。 イエス様は死の恐怖につながれ奴隷となっていた人々を解放してくださるために来られ、十字架の上で救いの代価を払ってくださったのです。死の恐怖からの開放こそ、聖書の提供している救いです。 ある人は確かに聞きます。「主は、今日癒せないの?」、そんなことはもちろんありません。主は変わりません。主は、昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。 主は、癒そうと思えばおできになるお方です。そして人間にとって、周りの人間にとって最善であれば、主は今日も癒してくださるお方です。当然です。 けれども、それは多くの人々にとって最善ではないようです。人は、瞬間的に癒されればみんなお祝いするでしょう。良かった。良かった。でもおそらく誰も悔い改めようとしないのではないでしょうか。 先程の姉妹はそれをはっきり解ったのです。「私が癒されれば、おそらく家族の人は導かれ得ないのではないか。だからやっぱり早く召されるのが、御心であろう。」、そう彼女は感じたのです。 彼女の思った通りになったのです。すぐ彼女の妹もお父さんも導かれるようになり、救われたのです。 はじめに読みましたコリント人への手紙第IIを読むと解ります。パウロは自ら確かに癒しの力を持っていた偉大な使徒でした。それだけではなく、彼は死人までも甦らせる力を神から与えられた人だったのです。 けれども、自らが病いに侵された時に、もうこれ以上癒しを求めないというところに立ち至ったということが、聖書にはっきり記されているのです。パウロは、癒しのために祈ることを止めたのです。 はじめは夜中祈り続けたのです。ですけど、癒しのために祈り続けることを止め、病気のままでいることに甘んじました。彼はここで告白しています。 同労者である、主を第一にしたテモテも、胃を患ったままで過ごしました。あまり痛みを感じないように、クスリにぶどう酒を飲んでいたとテモテへの手紙第Iに書いてあります。 なぜパウロはテモテに、「長老達を呼んで、油を塗って祈ってもらいなさい、そうすれば良くなるでしょう。」、と書き送らなかったのでしょうか。またパウロは、そうして自分の同労者トロビモを病気のままミレトに残してきたのでしょうか。 テモテは霊の人であり、今の時代では信仰と忍耐が必要であることを見ぬいていましたので、あえて御心に逆らって癒されることを望まなかったのです。イエス様が地上に歩まれた時には、まだ約束の聖霊が下っていませんでした。本当の意味で霊的な人はいなかった。人々は聖霊の宮になっていなかった。キリスト者が霊的に進歩しているかどうかは、病気と癒しに対する態度によって解ります。 パウロは、なぜ病気だったのでしょうか。そこには3つの理由があります。 第1番目は、パウロには病気であることが自分のために望ましいことだったからです。パウロが高ぶらず、主の御栄えのために歩むには、肉体の刺が必要だったのです。 コリント人への手紙第II、12:7
考えられない苦しみだったのです。けれども、高ぶらないためにどうしても必要であると彼が悟った時、癒してくださいと祈ることを止めたのです。 第2番目に、パウロはどうして病気だったかというと、教会のため、主にある兄弟姉妹のためにそれが必要だったようです。 コロサイ1:24
彼は、苦しみながら喜ぶことができたのです。聖書の喜びとは、うれしくてうれしくて仕方がないという気持ちではありません。泣きながら、悩みながら、苦しみながら平安を持つことです。主にあって喜ぶことです。 「私は、あなたがたが救われるために受ける苦しみを喜びとします。そして、キリストの体のために私の身を持って、キリストの苦しみの欠けたところを満たしている。」、キリストの体とは教会のことです。 第3番目には、パウロから、主の命がほかの人々に溢れ流れるために、病気が必要だったのです。 コリント人への手紙第II、4:12
主は、私達を耐えられないような試みにあわせられません。 (ここで数分録音状態が悪くて,聞き取り不可) この試みは、血肉に相談せず、自分で主の御心はなんであるかをわきまえ知ることができる霊の人にはなるには必要です。手当てが完全だから必ず癒されるというところに望みをおかず、主の御心に拠り頼み、また友を呼んで祈ることに望みを置くでしょう。 病人はみな元気になりたいと思います。病人を見舞うと、「ハレルヤ、私はガンになった。主を誉めよ、わたしはリューマチになった。」と喜ぶ兄弟姉妹はないでしょう。けれどもパウロは、ローマ人への手紙で次のように書くことができたのです。 ローマ人への手紙5:3-5
パウロは、私は患難さえ喜んでいますと言うことができたのです。今日、患難を喜び感謝する信者が少ないのではないでしょうか。それは霊的なキリスト者がきわめて少なく、つぶやきと不平に満ちた、肉に属するキリスト者の多いことを表しています。 患難を喜んで感謝する人々には、癒しの時に与えられる祝福にまさる霊の祝福が注がれます。主が私達を導いてくださり、パウロと同じように叫ばさせてくださったら、本当にすばらしいです。 ピリピ人への手紙1:20-21
非常にすばらしい証しです。ある信者は決してそうは言いません。しかし無意識のうちに、「癒してください。癒してください。」、という祈りの意味は、「やっぱり天国行きたくない。」と言う意味でしょう。 イエス様と一緒になりたくない。ちょっと恐ろしいことなのではないでしょうか。パウロの気持ちは全然違うものでした。多くのこの世の人が死にたくないのは、損だと考えているからです。益だったら違うはずでしょう。パウロは、私にとって死ぬことも益です。しかし、もし肉体の命は続くのだったらと、どちらを選んだら良いかわかりません。 パウロは非常に立派な聖書学者でしたが、よく「解りません」と書いています。かわいい。「わたしは、解りません。」「わたしにとって何が良いか解り ません。」 ピリピ人への手紙1:22-23
この箇所を読むと、いつも軽井沢の外人墓地を思い出します。ひとつの墓石にこの言葉が英語で書いてあります。 もうひとつの別の墓には、「私たちは、軽井沢が好きだった。」、おかしいよ。生きてる間、良かったけど、もうおしまい。軽井沢が好きだった。望みない夫婦の正直な告白だったかもしれない。気の毒です。 パウロの願いは、世を去ってキリストと共にいることです。結局死ぬこととは、世を去ることとは、イエス様とひとつになることです。1秒間もかからない。 死ぬことはキリスト者にとっても、もちろん面白いことではないよ。目も開けられない。口も開けられない。反応する力がない。面白くない。けれども、その後のことが解っているから、生き生きとした希望を持って死に向かうことができるのです。 コリント人への手紙第II、5:8-9
肉体を離れることとは、結局主のみもとに行くことです。死は終わりではない。 もう20年以上前に、あるお医者さんの奥様が召されました。私達が非常に尊敬していたドイツ人の方でした。その奥様はガンになられていました。死ぬ前に二人の娘を呼び、「私が今晩天国へ行けるように祈ってください。」と、告げたのです。そして娘さんたちはそのように祈りました。 その夜、娘さんたちは病室の外に足音をはっきり聞いたのです。ちょうどその時、下の部屋にいたご主人は、奥さんのお父さんの声を聞いたのです。そのお父さんは、キリスト者として歩み、ずっと前に亡くなった人だったのです。ですけど彼は、お父さんの声を聞いてびっくりしたのです。 ご主人が病室へ駆け上がったとき、奥様はちょうど召されました。廊下の足音は、お父さんが主のみもとから迎えに来られたものと思います。奥様の亡くなった病室は、主の臨在に包まれ、ひとりとして悲しむ者はなかったと言うことです。 亡くなられた朝、ご主人は電話で私に次のように話しました。 「妻は御国に帰りました。『死よ、お前の刺は、どこにあるのか。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。』、イエス・キリストによる勝利を与え賜う神の御名を誉めたたえます。」このような言葉でした。 イエス様が、私達に天国への望郷の思いを与えてくださったら幸いに思います。この天国を慕わしく思う人には、必ず天国が備えられているからです。 コリント人への手紙第II、4:16-18
日々新たにされるとは、毎日平安と喜びを持つことができることです。安心して将来に向かうことができることです。 ローマ人への手紙8:18
このみことば雄のくくりの、「考えます」は、原語では、「確信します」という表現です。 比べれば見方が変わります。比べなければぺっちゃんこになります。どうしようもないものになります。 |