イエス様と病人


ベック兄

(春日部家庭集会、2011/05/12)

引用聖句:マルコの福音書7章31節-37節
31それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
33そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
34そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
35すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
36イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

最後の37節です。「この方のなさったことは、みなすばらしい。」、私たちも、今現在このように言えるようになるだけではなくて、いつか、召されてから主の栄光を拝するようになれば、もっともっと、そういうことを言わざるを得ないでしょう。
「イエス様のなさったことは、大部分、素晴らしい。」、ではなくて、「イエス様のなさったことは、みんな素晴らしい。」
2,000年前にイエス様に出会った人々は、それを体験的に知るようになりました。ですからマルコの福音書は、ユダヤ人のためよりも、ローマ人のために書かれているのです。

そしてローマ人にとって大切だったのは、力を得ること、権力を得ることでした。
ですからこのマルコの福音書の中で、イエス様にとって不可能なことはない、イエス様はなんでもできると繰り返し繰り返し書かれています。
「イエス様と病人」と言う題をつけることができるかもしれない。あるいは、「主イエス様との出会いの大切さ」とも言えるでしょう。

イエス様との病人との関係は、ちょうど民衆主義と独裁制、愛と憎しみのように全く正反対の関係にあります。
イエス様は言われたのです。私は命です。命そのものです。イエス様の中には、結局、喜び、平安、力が充ち満ちていました。それとは反対に、病人には苦しみ、悩み、弱さ、絶望、不安、心配、動揺が渦巻いています。
そして病人は、ここに出てくる聾唖者と同じように、人間社会からは閉め出されてしまいました。その意味では、病人とイエス様は、お互いに相容れない関係にあるわけです。

この病人の悩みの種とはなんであったのでしょう。体は病気になったからと言うよりも、孤独になったのです。2,000年前の時代と、今の時代は同じものでしょう。今、一番流行っている病気は、もちろん癌ではなくて、孤独病です。人間はひとりぼっち。
イエス様は、命そのものであり、病人とは結局、なんの希望も喜びもない。けれどもこの二人は、そこから新しい救いの道を作り出すために、どうしても一緒にならなければならない運命に定められていたのではないかな。
イエス様は、病人のために来られたと何回も言われました。だからこそ、イエス様と病人とは、一緒にならなければならない。

イエス様は、はっきり言われました。「健康な者は医者を必要としないが、病人は医者を必要とします。」、医者であるイエス様を必要としない健康人は、ちょっとかわいそう。
イエス様は、はっきりと言われました。「私は、失われた者を見出し探し出すために来た。」、病人、すなわち悩んでいる人、精神的に疲れている人、喜びと希望を失った者はイエス様を必要とします。
そして、イエス様は言われました。「私は、病人のために来ました。病人のために生きている。」

ここに登場する聾唖者は、確かに耳と舌とを持っていたのです。けれども、周りの人々と交わることができなかったのです。結局、耳や舌を持っていても、耳が聞こえず口のきけない人は、平気じゃないと思います。
あきらめたかもしれませんけど、やっぱり苦しみを持っていたに違いない。周囲の人々と交わることができないために、結局いつも寂しかった。孤独でした。
この人は、ただ単に表面的な外側の苦しみだけではなくて、心の奥底に悩みと苦しみを持っていたからです。

彼は、耳と舌を持っていましたが、今話したように、それらを使うことができなかったから、役に立たない価値のないものに過ぎなかったのです。
このようにして、必然的に彼は周囲の世界から切り離され孤独になったのであります。
そのことによって、外側の苦しみだけではなくて心の悩みと悲しみが大きかったのではないでしょうか。

この人に対しては、多くの医者もどうすることもできなかったのです。この病人が、長い間悲しみと苦しみの中に閉ざされていたこともわかります。この苦しみは、非常に深かったから、人間的な同情や慰めではどうすることもできませんでした。
おそらく2,000年前の人々も現代人と同じように、「頑張ろう!」と思ったかもしれません。もう、人間はこういう態度をとると、主は、見向きもできない。結局、助けを求めることこそが、大切なのではないでしょうか。
現代人の多くは「頑張れば、なんとなる」と思い込んでしまっているのです。決して、祝福の道ではありません。

この病いは、単なる空想ではなかった。単なる夢ではなかった。恐るべき現実だったのです。毎朝、目が覚めると、やっぱり「私は、病気です。」と彼は、認めざるを得なかったのです。
この読んでもらった箇所を見ると、イエス様は、この病人を癒したのです。どういうふうに癒しのでしょうか。この箇所を読むと、まずイエス様は、彼ひとりを連れ出したとあります。イエス様は、彼と二人だけになりたかったのです。
この病人にとってイエス様との出会いは、彼の一生を根本から変えてしまう転回点を意味していました。我々も、苦しみ悩む時には、イエス様と二人だけになる時間を作り出さなければなりません。

人間との交わりによっては、問題は解決されないでしょう。だから、イエス様は、「おいで!私の所に!」と、何回も何回も言われました。
ただ、一人になるということは確かに面白くないでしょう。恐ろしいことです。無力の状態に置かれることです。現代人の多くは、一人になることを恐れるために、たとえばテレビを見たりして気を紛らわせざるを得ないのです。
人間は、孤独になりたくない。孤独になることを好む人はいないでしょう。その状態から逃げることをいつも考えています。

イエス様なしに一人で居ることは、最も恐ろしいことなのではないでしょうか。けれども、イエス様と二人で、二人だけで居ることは、最も素晴らしいことです。
いろいろな問題、苦しみ、悩み、不安などに、取り囲まれて一人で居ることはたいへんです。恐ろしいことです。
けれども、そこにイエス様が入ってこられると喜び、力、平安に、満ちた新しい変化が起ります。

普通、イエス様が癒しをなさる時は、99%くらいでしょうかね、御言葉を持って奇蹟を瞬間的に行われました。けれどもこの箇所では、言葉ではなくて、行いによって病人に接近されたのです。
イエス様は、まず病人の両耳に指を差し入れ、それから舌に触れました。それによって病人は、イエス様が何かをなさろうとしていることを感じることができたのです。
イエス様は、話し合いによって病人に近づかれたのではなく、行いによって病人にわからせられたのです。

それから、大切ですね、イエス様は天を仰ぎ見られました。病人も、イエス様のなさることを見て、間違いなく同じように天を見上げたことでしょう。そのことによって病人は、わかったのです。本当の救いは、上から来るのだとわかったのです。
そしてイエス様は、その人にエパタ=開けと命令されたのです。
もちろんこの「開け」と言うイエス様の御言葉は、単なる音ではありませんでした。普通の人間が、同じように言っても一時的なことに終り、すぐに消えてしまいますけど、イエス様の御言葉はそうではなかったのです。

イエス様の御言葉は、決して決して単なる慰めではない。単なる願望の言葉でもない。イエス様の御言葉は、力に満ちた業そのものです。
この男は、聞くことができ、また話すことができるようになっちゃったのです。
群衆は、聾唖者が癒されたのを見て驚きました。

マルコの福音書7:37
37人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。」

この男の人生は、イエス様との出会いによって変わりました。根本から新しく造り変えられたのです。すなわち疑いと絶望は、その瞬間から消えました。
そこには、喜びと感謝と賛美があがったでしょう。それこそ喜びと祝福に満ちた新しい命が生まれました。
このように喜びと祝福に満ちた新しい命は、誰にも提供されているのです。すばらしイエス様の贈り物です。

聖書を見ると生まれつきの人間の霊的な状態は、聾唖者であり、聴覚障害者であります。
ちょうど聾唖で聴覚障害の男が、周囲の人達から引き離されたのと同じように、イエス様によって新しく生まれ変わっていない人も、主なる神との交わりを持っていないし、断絶した状態に置かれています。
耳を持ち舌を持っていても、耳が聞こえず口のきけない人が大勢います。聖書は言っています。耳のある者は聴くが良い。何回も出て来ます。ヨハネの黙示録の2章と3章では七回も出て来ます。

耳のある者は聴くが良い。その意味は、耳があっても聞こえない可能性があると言う意味です。
このような状態について書かれている聖書の箇所を何カ所か見てみましょう。

イザヤ書6:9-10
9すると仰せられた。「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
10この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、立ち返って、いやされることのないために。」

エゼキエル書12:2
2「人の子よ。あなたは反逆の家の中に住んでいる。彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。

もう一箇所、

ゼカリヤ書7:11-12
11それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」
12彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。

新約聖書の中でも、生まれながらの人間について次のように言っています。

コリント人への手紙第I、2:14
14生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

こういう箇所を見ると、誰でも考えなくちゃならないでしょう。私は、主なる神に対して、耳が聞こえないのではないでしょうか。私は、本当に動かない土台を持っているのでしょうか。私は、孤独ではないでしょうか。
主なる神によって、新しく生まれ変わった者だけが、主の御言葉を聞くことができるということ。罪を悔い改めたくない罪人は、御言葉を心の耳で聞くことができない。
それは決して未信者だけではなく、信者であっても、気がつかない罪を犯している場合、御言葉を聞くことができない。呼んでも、結局聞けない。罪という壁が取り除かれない限り、私たちは主の言葉を聞くことができない。旧約聖書で箴言28章13節です。

箴言28:13
13自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

この言葉はいわゆる異邦人、未信者のためだけではなく、信ずる者のためにも書かれているのです。
ダビデはこれをわかっただけではなくて、体験的に知るようになったのです。
詩篇32篇、皆さんのよくご存知のダビデの告白、証しです。

詩篇32:3-5
3私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
4それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。セラ
5私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ

全く新約聖書の中で同じことが書いてあるのです。ヨハネの手紙第Iの1章の9節です。
この言葉も、もちろんすでに救いに預かるようになった救われた人のために書かれたのです。

ヨハネの手紙第I、1:9
9もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

これは福音そのものです。自分の罪、苦しみ、悩み、煩いをイエス様に告白しなさい。そうすれば、新しい命と、新たなる喜びが与えられますとあります。
聞く耳を持つことは大切です。隠す者は成功しない。

箴言20:12
12聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの。

主の働きなしに、人間は聞く耳も、見る目も持ち得ません。
イザヤは、祝福される秘訣について証ししました。イザヤ50章4節です。

イザヤ50:4
4神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。

主は朝ごとに私を呼び覚まし、私の耳を開かせてくださるとあります。やはり詩篇でダビデの告白であり、喜びの根拠です。

詩篇40:1-6
1私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は、私のほうに身を傾け、私の叫びをお聞きになり、
2私を滅びの穴から、泥沼から、引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。
4幸いなことよ。主に信頼し、高ぶる者や、偽りに陥る者たちのほうに向かなかった、その人は。
5わが神、主よ。あなたがなさった奇しいわざと、私たちへの御計りは、数も知れず、あなたに並ぶ者はありません。私が告げても、また語っても、それは多くて述べ尽くせません。
6あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。

ダビデは、「あなたは私の耳を開いてくださった。」ということができました。これは何を意味しているのでしょうか。
これは、新しい命そのものが、受けるものとして与えられているということです。だからダビデはそのことを、今読んだ詩篇40篇1節から4節で言っています。
このダビデと同じようにいうことができる人は幸せです。黙っていることはいけないでしょう。

戻って、この病人は以前は口がきけなかったために、周囲の人々と話をすることができなかったのです。癒された後で、大声で賛美をし、主のなさった御業を覚えて、主の大いなる御業を証しするようになりました。
イエス様と出会って救いの体験をし、意識的に罪の生活から離れようとする者は、ただ主を賛美し、証しする幸いに預かっています。
エレミヤと言う預言者は次のように言ったのです。

エレミヤ書20:9
9私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい。」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。

パウロも同じような心構えで証ししました。コリント人への手紙第I、9章16節です。

コリント人への手紙第I、9:16
16というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいに会います。

主の声を聞くことと、イエス様を証しすることは並行して行われることです。「あなたの罪は赦された。私はあなたを贖った。あなたは私のものだ。」という主の声を聞き、救いの体験を持った者は、必ずそのことを証しせずにはおれない者となります。
そして多くの人は本当の出会い、救いの体験を持っていないため、主の証し人となることが少ないのです。
この病人は癒されました。どうして?なぜ、この病人は癒されたのでしょうか。この耳が聞こえず口のきけない人は、何かの人々によってイエス様の御許に連れてこられたのです。

マルコの福音書7:32
32人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。

したがって、この病人にとっては、それらの人々の手助けがどうしても必要でした。つまり、このように、みじめな憐れむべき病人を助けた人々がそこに居たのです。彼らは、望みなき者をイエス様の御許に連れて行きました。
彼らはまた、この病人のために祈り「イエス様、お願い手を置いてやって頂きたい。」とイエス様に頼んだのです。
彼らは、イエス様がその病人に触ること、そしてそれと同時に病いが癒されることを知っていたし、確信したのです。

イエス様は、前に話したように命そのものです。その命であるイエス様が病人に触りました。そうすると当然です、病気が逃げてしまいます。すなわち病気が癒され、病人は健康になることができます。
このような箇所を見るとやっぱり、いつも考えます。すなわち私たちは、病人をイエス様の御許に連れてきた人達と同じ者であると言えるでしょうか。
私たちも、イエス様が病人を触れるようにと、病人のために手助けをしているのでしょうか。私たちは、自分自身のことで忙しく、悩んでいる者をイエス様の所に連れて行く時間すらないと、いうことがしばしばあるのでないでしょうか。

私たちは、悩んでいる者に対して、心の目を開いて見ているのでしょうか。あるいは目を閉ざしているのでしょうか。もしも心の目を開いているなら、一人でも多くの病人、罪人をイエス様の御許に連れていかなければなりません。
どうしてでしょうか。当たり前です。イエス様にとって、不可能なことはないから。主よどうか、私の両親、主人、子供、友人に、手をおいてやってください。心から主にお願いし、祈らなければならない。祈り続けなければならない。
私たちは罪人に対して、主を知らない人々に対して、無関心であったり、無責任であったりすることは許されない。結局、病める人に対して、主イエス様が私たちを通して、主の大いなる御業を現すための器となり、通り良き管となつことこそ、一番、大切です。

イエス様が、我々をお用いになる秘密はなんでしょうか。
イエス様は我々の模範です。今日の聖書の箇所ではなんと書いてあるかと言いますと、「イエス様は、天を仰いだ。」とあります。
このことは、イエス様が自分自身の力に拠らないで、父なる神にすべてを委ねられたことを意味します。御心だけがなるように。このように、私たちも、全く主に依り頼むならば、いかに苦しい状態であっても、主に対する目が開け、新しい道が開かれるのです。

けれども、主に依り頼まないならば、他の人々の苦しみや悩みに対して目が開かれることがないでしょう。
そして、私たちが悩んでいる人々をイエス様の御許に連れて行き、その人々がイエス様に出会い交わりを持つことができた時に、本当の救いが体験され、豊かに祝福されます。
それは、主の一言によって行われるのです。

私たちは、他の病人、他の苦しんでいる悩んでいる人、ここでは聾唖者ですけど、彼らに向かって癒しの言葉を語ることでできるでしょうか。あるいは、口がきけない者のように黙っているのでしょうか。
イエス様は、幸いに、昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。常に変わることのないお方です。すべての力が、イエス様によって、自由自在に用いられるのです。
我々の周囲にある苦しみや、悩みは、ますます大きなものになりつつあります。私たちは、主の妨げとなることなく、主の器として用いられるように祈れば、本当に幸いと思います。




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