引用聖句:使徒の働き2章1節-4節
使徒の働き2:11
使徒の働き2:22-24
使徒の働き2:32-33
使徒の働き2:36-38
あらゆる宗教にとって大切なのは、人間は何を信じるべきか、人間は何をやるべきかなのではないでしょうか。我々の聖書の中で逆のことが書いています。人間が何を信じるべきか、やるべきかなのではなく、主なる神は、主イエス様を通して、何をしてくださったかということです。 今の11節に「神の大きなみわざ」という表現が出てきます。人間は、2種類のカレンダーを持っているんじゃないでしょうか。一種類のカレンダーは、もちろん人間の作ったもので、人間の習慣、人間の迷信に基づくものです。確かに私は、たまにこのカレンダーも使っている。なぜならば、友引はいつか、葬儀のために、火葬場のために知らないとちょっと計画できないからです。 もう一種類のカレンダーは、人間の習慣、人間の迷信に基づくものではない。永遠の事実に基づいているものです。 新約聖書の中には、7つの大きなお祝いが記されています。 しかもこの7つのお祝い、あるいは主の大いなる7つの御業の中で、私たちにとって一番大切なものは、五旬節なのではないでしょうか。 今度の日曜日、この五旬節の日の記念日であります。今日は、7つのお祝いについて、ちょっと簡単に一緒に考えてみたいと思います。 第1は、誰もがよく知っているクリスマスです。これは、今からあらためて言うまでもなく、イエス様のご降誕ということは、イエス様の始まりではなく、ただイエス様が、この世に姿をお現しになられたということです。イエス様によって、万物が造られ、イエス様は永遠から永遠まで、生きておられるお方です。 第2は、いわゆる受難節です。すなわち、イエス様の十字架を記念するためのものです。イエス様は裸にされ、十字架に釘つけられました。イエス様のこの世でのご生涯は、33年でしたが、その間イエス様は、大工さんとして30歳まで働き、残る3年間は福音を宣べ伝え、病人を癒し、死人を生き返らせました。 30歳になる前に公にしゃべってはいかんという決まりがありました。イエス様は、確かにその最後の3年半、大いなる業をなさいました。当時のパリサイ人たちの妬みによって、死刑の宣告を受けるようになったんです。 イエス様は、次のように言われました。まず、ご自分が神の子であり、約束された救い主であるということです。そしてイエス様が、この世に来られたのは、楽な生活をしたり、富を蓄えたりするためじゃなくて、死ぬために来られたとはっきり言われました。神として死ぬことができなかったから、人間の姿をお取りになりました。 人類は、神から離れたため、死の罰を受け、永遠の滅びに行かなければならなくなりました。けどもイエス様は、復活なさいました。生きておられるからです。 我々は、誇るものがなくても、それだけ誇りとすることができる。我々の主は生きておられます。支配しておられます。偶然はない。 第3は復活祭、すなわちイエス様の復活を記念するお祝いです。 イエス様は、死の状態に長く留まることをなさらず、早3日目によみがえられました。イエス様の復活は、イエス様が本当に神の御子であるという事実の最もよく証明するものです。ただイエス様だけが復活なさったのです。なぜならば、イエス様こそ真の神の御子であり、約束された救い主であるからです。 またイエス様の復活は、全人類の贖いが、実際に有効となり、本当の力を持つことの証明でもあります。 第4番目は、昇天記念日です。すなわちイエス様が、昇天されたことを記念するお祝いです。 この昇天記念日は、復活祭の後40日目に行なわれましたが、その理由はイエス様が復活してから40日間、弟子たちにご自身を現し、共に交わりを持ち、食事をし、そして5〜600人の人たちが、復活したイエス様を見たのです。 そして弟子たちの見ている前で、天に上げられたのです。使徒の働きの1章を見ると、この事実について次のように書いてあります。 使徒の働き1:9-11
第5は、五旬節で、復活の後50日目に行なわれます。 これは、ただ一度だけ聖霊が、この地上に注がれた時のことを記念するものです。イエス様は、弟子たちに次のようにはっきりと約束なさいました。 ルカの福音書24:49
使徒の働き1章4節から見ると、それは現実的になりました。 使徒の働き1:4-5
使徒の働き1:8
五旬節の日に、聖霊が注がれました。使徒の働き2章を見ると、これについての4つの特徴が記されています。 その第1は、風が家全体を満たしたということです。これは聖霊のご臨在を証明するものでした。第2は、皆が聖霊を受けただけでなく、聖霊に満たされたということです。聖霊は、彼らを支配するようになりました。 そして第3は、彼らが聖霊の賜物を受け、今まで聞いたことも習ったこともないような言葉で話したということです。 五旬節は、ちょうど一度だけイエス様がご降誕なさり、十字架につけられて復活なさり、昇天なさったように、これもただ一度だけのことでした。聖霊は、五旬節以来、この地上に住まわれ、真の信者の内に宿っておられます。 ここでは、知識の問題が大切なのではなく、それよりもはるかに大きなことが大切であることに、注意しなければなりません。 我々の人生が、永遠の滅びに終わるか、それとも永遠のいのちに終わるかということこそ、一番大切なことです。 イエス様は、すべての人のために、完全な救いを成就してくださいました。しかし、この救いは、一人ひとりの体験とならなければならない。そしてこのことは、ただ聖霊によってのみ、実現されるのです。 それですから、私たちが聖霊に対して、いったいどのような態度をとるかということが、非常に大切な問題です。 それですから、私たちが聖霊に対して、いったいどのような態度をとるかということについて、考えるべきなのではないでしょうか。 何百年前に、有名なフランス人だったんです、哲学者でもあったし、サルトルという男です。彼は自伝を書きました。その中で彼は次のように書いたのです。 「私の人生は、もうどうすることもできないものとなってしまった。」 これは真に震撼すべき告白なのではないでしょうか。彼は、望みなき人間、喜びなき人間になってしまいました。 どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。彼は、自分で告白しました。すなわち、「私は地下室で、聖霊を捕まえ、それを追い出した。」と書いたのです。その結果は、目的なき人生となってしまいました。 彼は、福音を聞き、聖霊の働きを感じましたが、それに対して意識的に心を頑なにしてしまったのです。悔い改めようとしなかったのです。 彼は、最も憐れむべき人間に成り下がってしまいました。それは彼が、私の人生はもうダメになってしまったと言ったその言葉から、明らかなのではないでしょうか。 また、アメリカの有名な作家であったヘミングウェイという男は、次のように言いました、 「我が人生は、暗黒の道であり、そしてこの道は、いったいどこに続いて行くのか全く解からない。皆目解からない。我が道は、終わりない暗黒の道であり、どこにも行けない道である。」と彼は告白したのであります。最後は、自殺でした。 我々の人生が、目的のないものにならないように、また暗黒の道にならないように、聖霊が遣わされました。 聖霊とは、単に神の影響、力、感謝ではなく、人格そのものです。聖霊は、創造主なる神また主イエス様と同じように、主なる神そのものです。聖霊には、次のような名前が付けられています。 真理の御霊、恵みの御霊、いのちの御霊、約束の御霊、力の御霊、愛の御霊、節制の御霊、清めの御霊、知恵の御霊、啓示の御霊、栄光の御霊、信仰の御霊、主の霊などであります。 そこで聖霊が、救われていない人々に対して、いかなる作用を与えるのかについて、ちょっと考えたいと思います。 ヨハネの福音書16:8
そこでまず聖霊が、罪について目を開かせるということを、みことばから考えてみたいと思います。 人間は、誰でも罪を犯す者です。主なる神の判断は、「義人はいない、善を行なう人はいない、一人もいない。すべての人が迷い出て、皆ともに無益な者となった。」と。このような罪人が、聖霊の働きによって、自分の本当の姿、すなわち罪にまみれた姿を認める以外には、決して何の望みも、いかなる救いもあり得ません。 自分が本当に逃れ道のない者であることを知った者だけが、救いを与えるお方を呼び求めるのです。 第2に、義について目を開かせるものも聖霊です。 すなわち、イエス様によって、救いが提供されているという、この事実に他なりません。 イエス様は、このように私たちを義と認めるのです。短い文章ですけど、考えられない大切な事実。 コリント人への手紙第I、1:30
もう理性でもって、もちろんつかめ得ない。すばらしい事実です。「キリストは、私たちにとって、義になられました。」、このキリストを信頼し受け入れる者は、義とされます。 聖なる主の前に義とされるとは、決して人間の行ない、また人間の努力によるのではなく、ただイエス様を信じることによるのです。 第3に、さばきについて目が開かれるのも、聖霊の働きによるのです。 イエス様を個人的に、また意識的に受け入れない者は、誰でもさばきを受け、愛の泉、いのちの泉であられる主なる神から、永遠に離れた状態に留まらなければならないのです。 人間は皆過ちを犯す者です。そして罪人として、永遠の死に服さなければならない。しかし、イエス様は、人間の身代わりに死んでくださり、聖なる主なる神の罰をお受けになり、犠牲になられた。誰でもイエス様に信頼を置くならば、恵みによって義とされ、このすばらしい贈り物を拒み、自分勝手な道を行く者には望みがなく、救いが全然ないのです。 この真理を明らかにするために、聖霊は一生懸命働いておられます。この真理を素直に肯定する者には、本当の悔い改めと罪の認識があるのです。罪を告白し、罪から離れるという者は、イエス様を信じるようになります。 聖書を見ると、悔い改めて、イエス様を受け入れる者は、賜物として聖霊を受けることが解かります。このように聖霊を受けることは、結局、新しく生まれ変わりを意味しました。 有名なヨハネの福音書3章3節を見ると書かれています。「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。人は、御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」とはっきり書いてあります。パウロは、テトス書の中でまた同じことを書いたのであります。 テトスへの手紙3:5
コリント人への手紙第II、5:17
そこには新しい創造がある。聖霊がなければ、望みもなく救いもあり得ません。 パウロもローマ人への手紙8章9節に「もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」 すなわち、救われていない。本物に欠けているのです。 最後の点について考える前に、今まで述べてきたことを、一つの実例によってまとめてみたいと思います。 昔、ドイツで大きなリバイバルを起こした一人の伝道者、アロイス・ヘンフェーファーといる連中がいました。 主なる神の恵み、また人間の罪にまみれた状態、それから改心の必要性などについて話した時、それを聞いた人々が、その話よりも、「盗んではならない。殺してはならない。」というようなことについて、結局いわゆる道徳について話してほしいと頼まれたそうです。これに対してヘンフェーファーは答えたのです。 庭にある梨の木の実を引いて、解かりやすく言ったのです。 すなわち良い梨を作ろうと思っている人が、毎日、梨の木に向かって、「梨を作れ、梨を作れ」と命令しても何もならない。その木を切って、良い梨をもたらす木、接木すれば良い梨を収穫することができる。 これと同じように、私たち人間も聖霊の働きなしに、新しく生まれ変わることも、良い実を結ぶこともできませんと。 最後に、聖霊が信じる者に対して、いかなる作用を与えるのかということについて、ちょっと考えたいと思います。 言うまでもなく、聖霊は未信者に対してだけでなく、信者に対してもお働きになります。すなわち、御霊の賜物が問題なのではなく、御霊の満たしが大切です。五旬節に聖霊を受けた者は、すべて聖霊によって満たされたと書いてあります。しかし、聖霊の満たしは、過ぎ行くものであり、その後も彼らは、何回も何回も聖霊に満たされるようになりました。 御霊の賜物は、一回限りのものであり、決して失われないものです。しかし、御霊の満たしは、失われるものがゆえに何回も満たされる必要があります。エペソの信者たちは、聖霊の賜物を持ってはいました。しかし、それにもかかわらず、御霊に満たされなさいという警告を受けたのです。そこで次に、御霊の賜物と御霊の満たしの違いを、簡単に見てみましょう。 第1に、御霊の賜物と新しく生まれ変わりは、一回限りのもので、いつまでも続きますが、御霊の満たしは、全く献身の結果として、与えられるものであるから、失われる性質を持っています。 第2に、御霊の賜物によって、人は新しく生まれ変わり、新たに造られた者となりますが、御霊の満たしは、古き人が死に渡されることによって、成されるのです。 第3に、御霊の賜物によって、本当の信者は生まれ、御霊の満たしによって、信者はイエス様に似た者とされるのです。 第4に、御霊の賜物によって、神に対する戦いが終わり、御霊の満たしによって、悪魔に対する戦いが始まるのです。 第5に、御霊の賜物によって、神との平和を与えられ、御霊の満たしによって、主なる神ご自身の平和を与えられるのです。 第6に、御霊の賜物は、罪に対する罰を無にし、御霊の満たしは、罪を犯すことから守ってくれます。 第7に、私たちは、罪にまみれた生活を主に明け渡すことによって、御霊の賜物を受け、全く献身によって、御霊の満たしを受けます。 主を信じることによって、御霊の賜物を受ける人は、大勢いますけど、御霊の支配を受ける人は、本当に少ないのではないでしょうか。 満たされることとは、主に支配されることです。イエス様を受け入れた人は、大勢います。しかし、イエス様と共に歩む人は少ないのではないでしょうか。 パウロは、コロサイにいる人々に書いたのです。 コロサイ人への手紙2:6
光に来ることだけが大切なのではなく、光のうちを歩むことこそ、信じる者にとって大切なことです。 パウロだけではなく、ヨハネも同じことを強調したのです。ヨハネの手紙第Iの1章7節「しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩むべきです。」 イエス様の御許に来るだけでなく、主に留まり、イエス様にあって歩むことが大切です。 ヨハネの手紙第I、2:6
新しいいのちを持つだけではなく、新しいいのちにあって、新しい歩みをすることが必要です。 信仰を持ってイエス様に近づくことだけでなく、毎日の信仰生活において、見るところによってではなく、信仰によって歩むことが大切です。御霊の賜物を持つだけでなく、御霊にあって歩むことが大切です。 また、ガラテヤにいる信じる者にパウロは書いたのです。 ガラテヤ人への手紙5:16
召しを受けることだけでなく、召しにふさわしく歩むことが必要です。イエス様の愛を体験的に知るだけでなく、愛のうちに歩むことが要求されています。そして、いったい自分はどうだろうかという問いを真剣に考えるべきです。 私たちは、御霊によって動かされているのでしょうか。御霊は、我々の考えや行ないに臨んで働いておられるのでしょうか。聖霊よりも人間の方が、我々に影響を及ぼしているのでしょうか。イエス様の愛こそ、我々にとって第一のものとなっているのでしょうか。それとも、他の別の目的でもあるのでしょうか。 パウロは、コリント人への手紙第Iに次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、6:19-20
以上のことから、五旬節については、私たちが聖霊に対して、いかなる態度をとるかが、非常に大切なことであるということが、誰でも解かります。 そこで、次に残った2つのお祝いについて、2、3分で述べて終わります。 第6は、イエス様の再臨です。すなわち、イエス様が、再びこの地上に来られることです。 いつになるかわからないけど、今日かもしれない。待ち望むことこそが、考えられないほど大切です。待ち望む人は、明日のことを考えなくても済むのです。心配しなくてもいいよ。イエス様が来られます。 そして最後に第7のお祝いは、最も偉大なるものです。すなわち、小羊なるイエス様の婚姻です。 ヨハネの黙示録19:9
小羊と婚姻とは、私たち信じる者が、イエス様と完全に永遠に一つになることです。これこそ、想像に絶する出来事です。 パウロは、コリント人への手紙第Iで書いたのです。 コリント人への手紙第I、2:9
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