引用聖句:コロサイ人への手紙3章1節-4節
今日イエス様の再臨について、いっしょに考えたいと思います。もっとも大切なのではないかと思います。 何週間かまえに2,000年問題のことで多くの人といろいろなことを考えたし、その半年前、1年前にいろいろな会社は莫大な金をかけていろいろな準備をしたのです。 まあ振りかえってみるとそんなに心配しなくても良かったと誰でもわかるなのではないかと思います。けども再臨のこと考えると、もっと考えるべき、準備するべきなのではないでしょうか。 再臨に対する態度はイエス様に対する態度でもあります。今、兄弟が言われましたように、自分はほんとうにイエス様を愛しているなのでしょうか?ということこそ大切です。 イエス様を信ずることは、どうしても必要なのですけども、心からイエス様を愛さない人はやっぱりイエス様の再臨を待ち望め得ないなのではないでしょうか。 当時の迫害された信ずる者について、ペテロは次のように言ったのであります。良く知られてる言葉です。われわれにはちょっと言えないなのでしょうか。 ペテロの手紙第I、1:8
信じてるだけじゃなく愛しており、 ペテロの手紙第I、1:8
ここも信じてるじゃなく、信頼してるです。 ペテロの手紙第I、1:8
彼らはもし現実を見たならば、このような態度を取るようなことができなかったに違いない。 前に1度一人の姉妹を紹介したんですけど、この間、水曜日また見舞いに行きまして、来ることわかったから文章作ったんですね。われわれは文章を何か書こうと思えば何秒かの間に書けるんですけど、彼女は実は何時間もかかるんです。日が良ければ指を1ミリぐらい動かすことできる。悪い日だったら全然できない。 もちろん手足全然つかえませんし、話すこともできないし、証言することもできないし、良い日だったんです。ですから1ミリづつ動かすことができたし、だからコンピュータで文章作ることできたんです。今回どう言う文章であったかと言いますと、 「遠い所をありがとうございます。二千年たって再臨が近いものと首を長くして待ってます。どこの戸が開かれるのかと、耳をそばだてるこのごろです。今は耳も目もアウトです。」 前に紹介した彼女の文章は次のようなものでした。 「痛みの塊です。だからいつも祈ってます。耳も聞こえないし食べることもできず、ラッパの音を待つばかりです。」 パウロは、主は号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きのうちにご自身天から下ってこられます。結局彼女はラッパの響きを待つばかり、と書いたのです。 再臨を待ち望むことが最も大切なのではないでしょうか。 次の大きな世界の出来事とはもちろんイエス様の再臨です。イエス様は、「わたしはまた来る」と何回も何回も言われました。テサロニケ人への手紙第Iによると、何が起こるかといいますと、イエス様ご自身が天からおいでになります。その後でイエス様にあって死んだ人々がイエス様にあって よみがえるのです。 よみがえるのはもちろん身体です。灰になった身体の中から、よみがえりの身体栄光のからだが復活するということです。それから生き残ってる、イエス様に属する人々が変えられ、そして雲の中で主に会うということです。空中で会うのですから、空中再臨という言葉がよく使われます。 その日にはまだ多くのことが起こります。私たちがキリストに会った、結局イエス様に属していたということが明らかになります。そしてイエス様における新しく造られた者は、一瞬にして完全にされます。 ヨハネの手紙第Iのよく読む箇所ですけども、ここでヨハネは当時の信じる者を励ますために、希望を与えるために次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、3:2
私たちの身に着いているすべての汚いものは聖め落ち、私たちの内にある主イエス様は、すばらしきかたちの内に姿を現すのです。その時次の言葉が成就されます、完成されます。 すなわち古いものが過ぎ去って見よすべてが新しくなった。ですから再臨とは考えられないほど大切であります。その日がわれわれの生活を明らかにします。すなわち聖い火が、金銀宝石と枯草わら、すなわちイエス様から出たものかまたは自分から出た者かを、初めて明らかにされます。 われわれの生活に何が残るなのでしょうか?私たちがほんとにイエス様から出てイエス様のために生活したか、それとも自分のために自分で生活したか、どちらなのでしょうか?再臨がそれを明らかにするのです。 イエス様に属する者にとって、再臨の日とはすっばらしい日になります。聖書はその素晴らしさを表現するために、いつも栄光という言葉しか使っていないのです。 コリント人への手紙第Iの2章9節を見ると、パウロは次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、2:9
とあります。そしてローマ人への手紙8章18節。パウロは、今の時にある苦しみについて考えたんです。けども結論として、大変ですけど長い目で見るとたいしたことじゃあないという結論に達したのです。 ローマ人への手紙8:18
このパウロとは、考えられないほど苦労した人なんです。けども将来の栄光について考えた時に、やっぱりうれしくなったんです。今のときのいろいろな苦しみ、今のときのわれわれの苦しみ、悩みはいかに重く深いことでしょう。けどこの栄光は、これに比べると限りなく大きいものであり、この世の苦しみ悩みは栄光に比べるというに足りない、とパウロは正しく判断するようになったのです。 イエス様は私たちに見えるようになります。私たちは、イエス様はすべてのすべてであるという目標を持ってます。このイエス様の日は、私たちの生活における最も大切な日ですですから、私達の生活にとってこの日が、イエス様の再臨が力強い原動力となるべきです。 主の再臨はわれわれに道を示してくださいます。この目標の偉大さが、道が真っ直ぐとはっきりと示すのに役立ちます。 イエス様の復活の日よりも、イエス様の再臨の日そのものは啓示の日であります。私たちが、あらゆる認識を信仰の中にはっきりと自分のものとすれば、この認識はわれわれの生活に意味を持ち役に立ちます。 すなわち、将来私たちがイエス様と会う日が信仰によって自分のものとならなければなりません。再臨の日が、自分にとって事実とならなければならない。そして事実がわれわれの日ごとの生活に役割を演じるのです。 もしもイエス様に向って急ぎたいならば、私たちはイエス様のものとならなければならない。なぜならば、イエス様に属する者だけがその日イエス様と会うことが出きるからです。 ローマ人への手紙8:9
と、パウロは書いたのです。 聖霊を持たないものはキリストのものではない、すなわち救われていないということです。 その人はもう何10年間教会に行ったかもしれない、聖書を何回も何回も、繰り返し繰り返し読んだかもしれない。牧師になったかもしれないけど、御霊を持たない人は救われていません。 ローマ人への手紙5章5節に、「私たちに与えられた聖霊」という、ちいちゃい表現が使われています。私たちに与えられた聖霊。 救われることとは、ある真理を認めることではない。もちろん洗礼を受けたことでもないし、ある教会に属することでもない。救われることとは聖霊の宮となることです。 そしてイエス様を受け入れた瞬間、聖霊は今まで主に対して死んでいた霊を生かすのです。聖霊の宮となります。神殿、神さまの住いとなります。 コリント人への手紙第Iの12章3節に、私たちはみな一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を呑む者とされたと書かれています。 教会とは一つの組織ではなく、ひとつの体であり、そして有機体です。かしらはもちろん人間ではなく、イエス様ご自身であり、イエス様に属する者とは身体と呼ばれてます。みな一つです、御霊によって。 イエス様の再臨は、イエス様の死とイエス様の復活と、五旬節と常に密接なつながりがあります。私たちがすべてこれら救いのために、すべての救いのための事実を自分のものとすれば、私たちはイエス様の再臨の日に、燃えることのない金や銀となって耐えとうすことができるのです。 イエス様の十字架において、イエス様とともに変えられた者がイエス様に属するのです。私たちは、イエス様に私たち自身を呼び、私たちの持てるものすべて、すなわち私たちのわがままあやまち、罪、悩み、病、困難などすべてをイエス様にあげます。そうすると、イエス様はそれらすべてを受け取り、われわれのわがままあやまちの結果を荷ってくださるのです。 すなわちその現れは十字架の死です。 けど、私たちがイエス様を、イエス様のいのちを、そしてイエス様が持っておられるすべてのものを、すなわち罪の赦し、イエス様の義、そのご自身のいのちを受け取るのです。いのちのやり取り、それは完全にお互いが与え合うことです。 イエス様はわれわれの罪の罰を十字架で荷い、そしてイエス様のよみがえりのゆえに、イエス様のいのちは私たちの内によみがえってるのです。これが信ずる者の一番始めの経験です。 すなわちキリストがわれわれの救い主となり、私たちがキリストの姿態となることです。 イエス様は、信じるすべてにあたえる聖霊によって、私たちのうちに生きておられるのです。私たちはこの最初の経験を、体験的に知ってるなのでしょうか? イエス様の再臨を考える時最もたいせつなのは、そして個人的な質問がそこにあります。すなわち、私は本当に生まれ変わってるなのでしょうか?私たちは私の救い主として経験したなのでしょうか?このことを確信してるなのでしょうか? もし誰かが若い娘さんに、あなたは婚約していますかと尋ねれば、その娘は「はい」、あるいは「いいえ」と答えることができます。けどもし彼女が、そんなことどうしてわかりましょう?というのでしたら、何かおかしいなのではないかと思います。 これと同じように、イエス様のものであるかどうか、たとえば今日からイエス様の者になりたいのかどうかを、人は確かにはっきりと知ることができるのです。この決定をする者がイエス様に属し、その時からイエス様とともに歩むのであり、その人のいのちは全く違った内容すなわち、イエス様は私のいのちであるということを知るのです。 もし私たちがこの最初の経験をしたのならば、イエス様はわれわれに新しい歩みのため、また奉仕するために必要な力を与えたいのです。 イエス様は、五旬節のときに弟子たちに与えられた力、また装備を私たちにも与えたいのです。使徒の働き2章の中にも、何回も何回も同じことが出てきます。「一同は聖霊に満たされた」とあります。 この装備なしでは、私たちは再臨の日に主の前で耐え得るような生活をすることはできません。御霊の力なしでは、誰も聖霊による生活を送ることができません。すなわちイエス様の光に耐えたいと思う者は、聖霊で満たされなければならない、すなわち聖霊の宮になった人々は、その後も聖霊に満たされつづけなければ、御心にかなう生活をすることはできません。 私たちが、自分の生活に聖霊の通行権をいかに持っているか、また私たちが聖霊に、聖霊は主であるとどれだけ赦しているかは、われわれの意思の決定にかかっています。 もし私たちが御霊にすべてを捧げるならば、聖霊はすべてを受け取り、そして完全に満たしてくださるのです。聖霊こそがわれわれに慰め手として、助け手として与えられているのです。 聖霊が働くとどういうことになるのでしょうか?はっきり言えることは、聖霊は私たちを祈りに追いやります。聖霊は私たちに、主の前にあって正しい道を指し示しています。聖霊はただ一つの願い、私たちがよりよくイエス様を知るという要求を持っています。聖霊に満たされている人は平安を好む人であり、そして間違いなく祈りの人です。 聖霊が信者をイエス様の姿にたちかえらせるという、大きな使命を成し遂げるために、主の前に静まる時間がなんと必要なことでありましょうか。再び来られるイエス様に対する愛は、私たちが過ごす静かな祈りの時の中で養われていかなければなりません。 私たちが過ごす祈りの時ばかりではなく、働いてる時も、実際生活の毎日がイエス様の再臨の備えとしてあります。 イエス様はわれわれのいのちであり、そのいのちは私たちの働きの合言葉であり、毎日の光と力と喜びです。 イエス様の再臨に対する希望から、聖くなるという力が湧き出てきます。実際生活において罪に仕えてる者が、イエス様の再臨を待っているなどということはありえないのです。前に読んでいただきました、 ヨハネの手紙第I、3:3
もちろんこれは、人間の結果ではなく御霊の働きの結果であります。初めに読んだ所に、 コロサイ人への手紙3:3
と書かれています。私たちのいのちであるキリストが顕にされると、キリストが現れます。キリストが現れるとあなたがたも栄光のうちに現れます。イエス様の再臨に対する希望から、力強い力が湧き出てきます。 私たちが、今日もし主を待っているのであれば、罪の中に生活することはできません。もしイエス様の炎のような眼が、われわれの隠された罪で曇るならば、た私たちが主の再臨のときわれわれの罪に驚き心打たれるならば、それは非常に恐ろしいことではないでしょうか。 生き生きとした望みを抱いている者は、毎日毎時間、イエス様の血によって聖められていくに違いない。再臨の日が突然不意に襲いかかってこないように、そしてイエス様が聖くない者としないように。 この世においていちばん大切なのは、いうまでもなく希望を持つことです。希望は絶対に必要なものです。人が希望を持っているかぎり、その人はひどい困難にも耐えることができます。 良く言われます。確かです。たとえば、生き埋めにされた工夫が、助かるという希望を持っていれば超人間的に耐え通すことができる。けどその希望が消えてしまいますと、すぐだめになってしまいます。 私達の生活において、イエス様の再臨に対する希望があらゆる悩みに耐える最も大きな力です。ですからよく聖書の中で、「主は近い!」、「主はすぐ来られる!」 この言葉が、初代教会において口から口へ伝えられ、そしてこの言葉は当時の証人に迫害の最中において絶えざる力を与え、喜んで死に向かうことができ、殉教の死を遂げることができたのです。 この当時の人々は欺かれたなのでしょうか?それとも彼らは虚しく待っていたなのでしょうか?イエス様がわたしは再び来る。 けど、その時とその場合は父が定めておらるると語られたからというもの、この言葉は信仰の生き生きとした本質を成すものであり、イエス様の再臨の事実が目の前に生き生きと認められるのです。 すなわち、多分今日来られるでしょうか。ある信者がこのように聞いて、主イエス様の再臨の日をあたかも彼がその日を肉体で体験するかのように、生き生きと目の前に感じていない限り、その信仰はイエス様の戒めに逆らって苦しむのです。 イエス様はその日は今日かもしれない、という希望の光によって毎日を捧げることを望んでおられます。 再臨の日は、五旬節に始まったことが完成される日です。五旬節はこの世におけるイエス様のからだの始まりであり、そしてイエス様の姿を現されるこの日は、この世における教会の時代の終わりです。 イエス様が再臨され、信ずるものを引き上げるその時、聖霊ももちろん引き上げられます。 信ずるものは聖霊の宮と呼ばれています。この聖霊の宮である信ずる者が引き上げられるとともに、聖霊も引き上げられます。もし聖霊がないならば、悪魔が完全に支配するようになります。この日の新聞ですか、ラジオですか、テレビを観察すると誰でもわかります。悪魔の活躍がよくわかります。 悪魔はその目的を達していないことは確かです。どうしてかといいますと、聖霊の宮となった人々がまだいたからです。祈る人がいるからです。 地上に取り残された人々には何が起こるなのでしょうか?それは恐ろしい時です。非常な苦難の中に生きなければならなくなります。 信ずる者にとっての一秒一秒は、失われていく者を救うために、そして彼らが恐るべき運命を非常な悲しみに入ることがないように利用することができるのです。 イエス様の再臨という希望は、初代教会のときほど生き生きとした時はなかったのではないでしょうか。そして当時のイエス様のお告げが生き生きとした時はなかったでしょう。 主はすぐ来たりたもう、期待してる者は誰でも主の使命をいち早く行なわなければならない、すなわち全世界に出て行ってすべての造られた者に福音を 宣べ伝える。 私たちはなんと多くの無駄な時を過ごして来たことでしょう。私たちは、われわれの主はなかなか来ない、だから私たちの主の使命を怠けるのだと考えたことがありませんか? 私たちは、イエス様と雲の中でお会いになるその偉大な日に、信じない人々に福音を贈ることをしばしば考えません。その日をはっきりと目の前に感じている人は、その者の隣人や知り合いの人々を心から祈ります。 主は私たちに、その日はノアが箱舟に入った日と同じであろうと言われたのです。すなわち人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようになる。そして洪水が襲ってきていっさいのものをさらっていくまで彼らは気がつかなかった。人の現れるのもそのようであるとイエス様は言われました。 そのように恐るべき滅亡が信じない者の上に来る、と福音書に書かれています。 私たちが、まだ救われていない人々に、私たちが何を体験したか話すだけで、なお多くの人々を導くことができるでしょう。たとえば今、汽車が、こわれかかっている橋にさしかかったのを見たとしましょう。そのときどうしましょうか?汽車を止めようとしてあらゆる努力をするか、それともそこに立ったままただ見ているだけなのでしょうか? もしそうだったとしたらそれこそ恐ろしいことです。汽車の中の幾百人の滅亡にもちろん責任を持っているのです。 われわれの近くには、幾千の人々が深い深みに落ち込んでいるのを見るなのでしょうか?そして私たちは、その人たちに注意しないなのでしょうか? 私たちは責任があります。われわれの生活における、生き生きとした希望の力強い原動力に、私たち信者は欠けてるのではないか? 主はみことばのうちに非常にはっきりと語っておられます。イエス様は、今日に時代において世界の出来事を通してはっきりとわかるように語っておられます。その時が近いと主は呼びかけておられます。 イエス様が、われわれの信仰の内容であるばかりではなく、われわれの希望の内容でもあります。今までの話しを簡単にまとめます。 第1番目、キリスト者の希望はどこにあるのでしょうか? テトスへの手紙2:13
キリストの栄光ある現れを待ち望むことは、要求されてます。 それから、 へブル人への手紙9:28
待ち望んでいる人々を迎えるために主は来られます。この二箇所だけ見てもわかります、信ずる者の望みはイエス様の再臨であると言うことです。 第二番目、聖書には誰がこの希望を私たちに語っているのでしょうか?もちろんイエス様ご自身です。 マタイの福音書25:31
人の子とはイエス様ご自身のことを表す言葉です。それからマルコの福音書13章、ここもイエス様ご自身が語っていますけども、語られた言葉とは旧約聖書からの引用された箇所です。 マルコの福音書13:26
それからイエス様が捕まえられる前に、弟子たちに次のように言われました。 ヨハネの福音書14:2-3
わたしはまた来て、あなたがたをわたしのところに迎えると、イエス様ははっきり約束してくださったのです。今の2箇所は、イエス様ご自身がのべておられたのです。そしてこの約束はイエス様が地上で成されたのです。 今度は、イエス様が天から何を言われたのか、ちょっとみて見ましょうかヨハネの黙示録の22章。聖書の一番後ろです。ヨハネの黙示録22章の7節から、イエス様は十字架につけられ、死なれ葬られ復活され、昇天なさった後で言われた約束です。 ヨハネの黙示録22:7-12
ここでイエス様が、天から同じことを約束してくださったのです。 使徒の働きの1章11節、今度はいわゆる御使いたちの約束であります。弟子たちはこのことを聞いたとき掴めなかったでしょうけど、彼らにとってどうしても必要な事実でした。 使徒の働き1:11
イエス様はまたおいでになる。ふたりに天使がこのようにのべたのです。 テモテへの手紙第I、6:14
とパウロは述べたのです。もちろんパウロだけではなく、手紙を書いた使徒たちは同じことを書き記したのです。みんなこの希望について述べたのです。 たとえば、 ヤコブの手紙5:8
主の来られるのが近い。それから、 ペテロの手紙第I、1:13
それから、 ヨハネの手紙第I、2:28
ヨハネもペテロもヤコブもパウロもみんな、主は来られます、ひたすら待ち望みましょうという態度を取ったのです。 主は近い。今日かも知れない!と私たちも毎日覚えるべきなのではないでしょうか。 |