引用聖句:ヨハネの手紙第I、5章9節-13節、20節
今読んでくださいました個所はよく知られている個所です。 おもに20節とは、本当にすばらしい個所です。結局イエス・キリストとはどなたなのでしょうか。これこそが最も大切な質問のひとつではないでしょうか。 福音書の中で、例えば、「するといっしょに食卓にいた人たちが心の中でこう言い始めた。『罪を赦したりするこの人はいったいだれだろう。』このキリストとはいったいだれであろう。」 よく知られているマルコの福音書6章の中で、この人は、この人は、この人は、と何回も出てきます。6章の1節からちょっと読みましょうか。 マルコの福音書6:1-6
とあります。 この人はいったいだれなのでしょうか。いうまでもなく、キリスト教という宗教を作ったお方ではない。まことの主イエス様は宗教と全く関係のないお方です。 このイエス様を信ずることこそが最も大切ではないでしょうか。 ある知恵遅れの子どもは、同級生たちにいじめられ、大いに悩んだのです。あの子は何もできない。全く役に立たない者だとみなに思われました。 知恵遅れだったからみんなからのけ者にされ、話し相手にならないで、完全にクラスの中で無視されたのです。 けれどあるとき、クラスの中のみんなが自分の考えていることについて話すようにと先生に勧められたのです。 子どもたちは気持ちよく色々なことについて喋ったのですけれど、あの知恵遅れの子どもの番になったとき、ほかの子どもは「無理だよ。あの子は何もできない。」と言いはったのです。 けれど先生は、「みんな静かにして。もしかするとひと言葉言えるかもしれない。」、みんな静かになりました。 知恵遅れの子は、口下手よりもなかなか話すことができなかったのです。けれど話し始めました。何分間もかかってひと文章だけ言えたのです。 子どもの中に知恵遅れの者として生まれたから、自分の運命を訴える気持ちがなく、自分をずっと無視した同級生に対する不平不満もなかったのです。 子どものゆっくりゆっくり話された文章は、「私はイエス様がを好き。イエス様も私を大好き。」、それを聞いた同級生たちは、もうびっくりして泣きながら、「悪かった。悪かった。」と言って、知恵遅れの子のところへ行って握手したのです。 あの知恵遅れの子は、やっぱりイエス様を信ずるようになったから、やっぱり嬉しかったようです。 「私はイエス様、大好き。イエス様も私を大好き。」と言える人は幸せではないでしょうか。 今日から2、3回に亘って、「主イエスは神の子、キリストである」という題名についていっしょに考えてみたいと思います。 みなさんもご存知のように、聖書は私たちに理論や教えを伝えようとしているのではありません。事実を伝えようとしています。 そして私たちはこの聖書の事実を頭の中に蓄えている知識として知るだけではダメでして、生活の中にどうしてもその知識が満たされていかなければ日々を生活することができない。それほどに体験に知らなければいけません。 このような生活の中に生きてゆく知識を私たちは必要としています。この知識は頭の知識とは遠くかけ離れた知識であって、われわれの人格から切り離して考えることのできないほど深くに沁み込んだ知識であります。 私たちは今、末の世の暗黒の時代に生きていますが、私たちが日々を生活するには岩のように堅い、しっかりとした土台が必要です。 この土台は先ほど申しましたように、この生活の中に沁み込んだ知識、聖書に書かれて神の永遠に変わらない知識でなければいけないのです。 人間には多くの悩みや苦しみがあるけれど、それに対する主なる神の備えは、ご自身のひとり子である主イエス様です。私たちは色々な願いを持っていますが、主がそれに応えますときにイエス様を私たちにお示しになります。そのほかのどのような方法もお取りになりません。 聖書はひとつの定まった目的をもって書かれたものです。 第一番目。聖書はイエス様の神性を書き記します。 第二番目。人に永遠のいのちの確信を与えます。 第三番目。人にまことの希望を与えるのです。 ヨハネの福音書の20章31節を見ると次のように書かれています。 ヨハネの福音書20:31
もちろんこのいのちとは永遠のいのちであり、主イエス様ご自身です。 聖書を読むと、イエス様は人間的な外形をとった神の御子であったことがよくわかるはずです。おもにヨハネの福音書の中で何回も何回も同じことが書かれています。イエスは神の子キリストである。 例えばヨハネの福音書1章1節。 ヨハネの福音書1:1
続いて読むとわかります。 この、いわゆる「ことば」とは、神の話すことばでもないし、人間の話すことばでもないし、イエス様ご自身です。 ヨハネの福音書17:5
パウロはまた次のように書いたのです。よく引用される個所です。 コロサイ人への手紙1:16-17
世が造られる前に、万物よりも先にイエス様は父なる神のみそばで栄光をおもちになったということを、聖書ははっきり言っています。 ヘブル人への手紙の1章2節、3節も同じようなことが書いています。 ヘブル人への手紙1:2-3
私たちはこのイエス様の偉大さについていくら考えてもちょっと想像できないし、つかめないし、説明することもできません。 パウロはピリピ人への手紙の中で、この主についてまた次のように書いたのです。 ピリピ人への手紙2:6-7
いつ主なる神は御子を万物の相続者と定められたのでしょうか。これは世が造られる前でした。 そのあとで生きておられる主なる神は、御子主イエス様によって全てをお造りになったと聖書は言っています。 ヨハネの福音書1:3
とあります。何というすばらしい主でありましょう。私たちの主イエス様は。一切のものは御子によって造られ、御子のために造られたのです。 創造はイエス様なしに無意味です。多くの人々は、これはよく考えた理論でしかない。だれがこのような理論を証明することができるものか。などと言うのですけれども、主イエス様を信じ、イエス様を愛する者たちはみな、その証明ではないでしょうか。 私たちはイエス様を信じる前にどうして生きているのか。この生活の意味はいったい何なのでしょうか。などとは全然知らなかったのです。 けれど今われわれの生活は無意味ではありません。イエス様は万物よりも先に父なる神のみそばで栄光をもっておられました。イエス様は父の栄光の輝きであり、父なる神の本質の真の姿です。 永遠から永遠に亘るイエス様は、神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿です。すなわちイエス様は生きる神の御子です。 それは永遠の事実です。イエス様の神性について、いくつかの証しとしてちょっと考えてみたいと思います。おもに七つの証しがあります。 第一番目。生ける神ご自身が、父なる神ご自身がイエス様の神性について証しします。ヨハネの福音書の5章の37節を見ると、次のように書かれています。 ヨハネの福音書5:37
ヨハネの福音書8:18
それからマタイの福音書の3章16節、17節を見ると、その父の御声について書き記されています。 マタイの福音書3:16-17
これは父の証しです。「これは、わたしの愛する子。」 似ている個所は17章に出てきます。同じくマタイの福音書の17章の5,6節です。 マタイの福音書17:5-6
とあります。もう一ヶ所。ヨハネの手紙第Iに戻りまして5章9節です。 ヨハネの手紙第I、5:9
父なる神ご自身が何回も何回も、この主イエスは、わたしの愛する子であると言われたのです。 第二番目。イエス様ご自身が証ししてくださったのです。ルカの福音書の22章の69節、70節を見ると次のように書かれています。 ルカの福音書22:69-70
ヨハネの福音書10章の30節。ひと文章だけですけれど。 ヨハネの福音書10:30
今ヨーロッパでちょっとメチャクチャなのです。ニュースを見るとわかるでしょう。イランとデンマークは、もう関係を持ちたくない、云々と、もうメチャクチャです。 結局、イスラム教徒の人々は何と言っているかと言いますと、神は子どもをもっていない。イエス・キリストは神の御子ではない。 ヨーロッパで、イエス様は本当に神の子であると確信をもって証しする人は少ない。だからこういうふうになってしまったのです。 反キリストはもうちょっと出てくるでしょう。今のメチャクチャな世界を一つにするのは反キリストしかできません。 今の政治家たちはみんなダメ。結局、宗教を全部一つにしないと平安になり得ない。これらは反キリストしかできないでしょう。 でもその前にイエス様は迎えに来るから、本当に期待をもって毎日待ちましょう。 イエス・キリストは本当に父と一つであると書かれています。同じく10章の37節、38節です。 ヨハネの福音書10:37-38
とあります。 それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」 ヨハネの福音書12:45
ヨハネの福音書14:7-10
ヨハネの福音書16:5
イエス様は何回も何回も、生ける唯一のまことの神はわたしの父である。この父なる神はイエス様を指して、「これは、わたしの愛する子である。」と言われたのです。 三番目の証しは、バプテスマのヨハネの証しです。同じくヨハネの福音書1章の34節です。次のように書かれています。 ヨハネの福音書1:34
バプテスマのヨハネははっきりわかった。このイエスとは、預言され、旧約時代で約束された救い主である。宗教家ではない。人間の罪の問題を解決するために来られたのであり、神の御子であると。 四番目の証しは、イエス様のなされたわざが証しします。 ヨハネの福音書5:36
とあります。 五番目。旧約聖書が証しします。 ヨハネの福音書5:39
旧約聖書の中心になるのはもちろんひとつの律法、教えよりも救い主なるイエス様です。 六番目。聖霊が証しします。 ヨハネの福音書15:26
結局父なる神は救いのご計画をなしてくださり、イエス様はこの救いを成就してくださり、そしてこのイエス様の成し遂げられた救いを人間個人個人のものにするために聖霊の働きがどうしても必要です。御霊がわたしについて証しする。 七番目。イエス様を信ずる者が証しします。同じくヨハネの福音書15章27節。 ヨハネの福音書15:27
今まで見てきたように、聖書ははっきり言っています。すなわち、イエス様こそが唯一のまことの神の子であるということです。 けれども主なる神の最大の敵である悪魔も悪霊もこの事実を認めざるを得ません。使徒の働きの19章15節。今日は15節だけ読みます。本当は全部読んだらいいかもしれない。 使徒の働き19:15
「我、イエスを知る。」と悪霊は告白したのです。マタイの福音書の8章28節と29節をちょっと見てください。 マタイの福音書8:28-29
悪霊はイエス様を「神の子よ」と呼んだのです。似ている個所はいっぱいあります。例えばマルコの福音書の1章23節、24節です。 マルコの福音書1:23-24
ルカの福音書4:41
悪霊どもはイエス様が神の子であり、神の聖者であり、油注がれたキリストであることを知っていることが、今読みました聖書の個所から明らかです。 イエス様がこの地上に肉体の形をとり、生きている間、悪霊どもは絶えずイエス様を観察し続けていました。イエス様が御霊によって荒野に導かれ、悪魔によって試みられたとき、悪霊もともにそこにいて、主イエス様がいかにそのときを過ごしたかを見ていたことです。 そのときイエス様が石をパンに変えなかったこと、また、悪魔の前にイエス様は決して膝をかがめなかったことを悪霊たちはみな見て、そして、これはいまだかつてわれわれの経験しなかったことだと言い合ったのです。 またイエス様が変貌山で御姿を変えられたとき、そのまま罪無き者として栄光のうちにはいることのできたお方にも関わらず、自ら選んで喜びを捨て、十字架を背負われた。そのことがらも悪霊どもは全部見て知っていることでしょう。 悪霊どもは絶えずイエス様を見守り、主の目的が達成されないようにとあらゆる画策を巡らしたことでしょう。 イエス様がゲッセマネの園で苦しい祈りをささげられたとき、無数の悪霊どもがその場をおおっていたに違いない。 聖書はイエス様の苦しみの祈りの時を表現しています。すなわち、暗黒の時と言っております。 この世の君になる悪魔はゲッセマネの園でイエス様に対して最後の戦いとばかり、戦いを挑みました。 けれどイエス様は自らの力では決して行動されずに、「わが心ではなく、父よ。あなたのみこころをなしたまえ。」と祈り続けたのです。そのとき悪霊どもは仕方がなく、退散せざるを得ませんでした。 加えて悪霊どもはそののちにイエス様が十字架で叫ばれた、「全てが終わった。」というみことばを聞き、確かにイエスは全ての者に勝ち給うた勝利者なることを悟りました。 悪霊たちはイエス様を非常によく知っています。「我、イエスを知る。我、イエスを知る。」と叫んだのではないでしょうか。「我は彼の神の子なること、油注がれたキリストであること、永遠なる神なることを知る。」と悪霊は叫ばざるを得なかったのです。 悪霊は、「主イエスを知っています。主イエス様が生ける神の子であるということを知っています。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」主イエスの一番の敵でさえ、イエス様を「神の子」「神の聖者」と告白せざるを得ませんでした。 続いてイエス様の神性に対するいくつかのしるしを見てみたいと思います。 第一番目。イエス様の先在についてちょっと考えたいと思います。 ヨハネの福音書1:30
ヨハネの福音書8:58
アブラハムはイエス様よりもだいたい2,000年前に生まれた者でした。けれどイエス様は、アブラハムが生まれる前から、「わたしはいる。」と言われたのです。 そしてイエス様の祈り、ヨハネの福音書17章に出てくる祈りの中でイエス様はまた次のように告白したのです。結局、イエス様の先在についての一ヶ所です。 ヨハネの福音書17:5
ヨハネの福音書17:24
二番目。イエス様の権威について、ちょっと一ヶ所読みましょうか。マタイの福音書の7章の29節。 当時の国民の判断とは正しかったのです。イエス様が現われたとき、彼らはもうびっくりしたのです。今までの聖書学者の話と、この主イエスの話では全く違う。逆なのではないか。 マタイの福音書7:29
とあります。 マルコの福音書1:21-28
とあります。 当時のパリサイ人、律法学者たち、聖書学者たちはみな立派な学校教育を受けていました。彼らはみな聖書を勉強し、疑わずに信じたのです。彼らは安息日ごとに聖書について話しました。 彼らが聖書の中心なるお方を受け入れようとしなかったのは悲劇です。結局、イエス様とこの学者たちの間には大変大きな差がありました。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからであるとここであります。 人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」 イエス様の権威ある教えによって人々は目覚めさせられたのです。 パリサイ人たちは人間的な知恵による古い教えを持っていました。権威を持っていない者はいつも人間の知恵を必要とする。人間的な知恵は人を目覚めさせることはできません。それは覚せい剤ではなく、睡眠剤ではないでしょうか。 今まで私たちはイエス様の先在について、そしてイエス様の権威について考えて、見て来たのですけれども、もう一つ三番目ですけれど、イエス様の先見についてちょっと考えたいと思います。 すなわちイエス様は何でも前もって知っておられるお方です。ヨハネの福音書に戻りまして、 ヨハネの福音書6:64
イエス様は弟子たちを選ぶ前の夜、全然寝ないで夜じゅう祈られたのです。ひとつの戦いだったでしょう。 父は、あのユダを選びなさい。彼はなぜ裏切る者となる。イエス様は彼について、彼は生まれなかったほうがよかったと言われたのです。 三年半、裏切る者といっしょに生活するのは考えられないことです。普通の人間だったらできるものではありません。 はからずもイエス様に向かって、「主よ。主よ。」と言ったのです。一秒も思ったことがない。正直になり、主に従おうとしなかったのはユダでした。 けれどもイエス様ははっきりわかったのです。彼はわたしを裏切るようになる。 ヨハネの福音書13:1
もうちょっとで十字架につけられるイエス様は発見しておられたのです。 ヨハネの福音書13:11
ヨハネの福音書18:4
イエス様は全てのことを知っておられた。 ヨハネの福音書19:28
もちろんイエス様は自分の苦しみも預言してくださいました。ルカの福音書からちょっと見てみましょうか。 ルカの福音書9:22
殺されても三日目に復活する。 ルカの福音書12:50
ルカの福音書22:37
またヨハネの福音書に戻りまして、ヨハネの福音書の3章の14節。 イエス様とニコデモという聖書学者の会話の中で、イエス様は次のように言われたのです。 ヨハネの福音書3:14-16
またイエス様は自分が取り去られることをも知っておられ、預言しました。 ヨハネの福音書7:33
ヨハネの福音書14:28
ヨハネの福音書17:11
主イエス様は神の御子です。それは事実です。私たちがそれを信じようが信じまいが、事実は事実です。たとえ私たちが、イエス様は神の御子であるという事実を信じなくても、この事実は事実として残ります。 ただ、信じなければこの事実が私たちにとって役に立たないだけです。 結局大切なのはわかること、理解すること、説明することではなくて信ずることです。けれど信仰は事実を現実としません。事実は現実です。けれども信仰は私たちの経験によって事実を現実とします。 主イエス様はいったいどういうお方なのでしょうか。 イエス様は透き通った人格の持ち主でした。極みまでご真実な方であり、また偽善を知らなかった方です。 またふた心を持たなかった方です。向こうあのように言い、こっちに行って都合の良いことを言うといった方では決してありませんでした。 イエス様は祈りの方でした。勇気のお方でした。柔和にして心へりくだった方でした。平和、平安、喜びのお方でした。イエス様は天の香りを身に漂わせておられた方でした。 地上に来ておられたときでさえ、イエス様は自ら、「わたしは天にいる。」天にあったのではない。「わたしは天にいる人の子である。」「わたしの国は天国である。」と言われたのです。 イエス様は地上のあらゆる悩みや欠乏の上におられたのです。 四福音書を読んでみますと、イエス様はほかの人々とは根本的に違っておられましたことがわかります。イエス様の母親や弟子たちでさえイエス様を理解できないことが度々ありました。 イエス様は人から少しも誉れを受けなかったのです。主イエス様は神の子であられました。けれどもイエス様は叩かれ、鞭打たれ、つばきせられ、侮られました。 もしイエス様がそうしようと思われたならば、それらの人々はイエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずですけれど、イエス様は耐え忍んで、全てをあわれみ、自ら悩むことをよしとされ、両手両足に釘打たれ、十字架の上で「お前は人を救ったのに自分を救うことができないのか。」と罵られたのです。 もしそうしようと思ったならば、イエス様のために十二の天の軍勢が控えていましたから、イエス様の一言でイエス様を救うためにやって来たことでしょうけれど、イエス様はそうされませんでした。 またイエス様の勝利の望みについて考えるとイエス様は、普通の人間ではなく、神の子であったということを認めざるを得ません。 イエス様がこの地上で過ごされた最後の頃のことを思い浮かべてください。イエス様がそのご生涯を通してなされた奉仕は、目に見えた結果が表われたのでしょうか。決してそうではない。全てが絶望的に見えました。全てが無駄であったかのように見えたのです。 イエス様は父のみこころを成就するために遣わされて、この世において祈り、三年のご生涯を終わられました。そのご生涯の終わりのとき、全てがむなしく、本当に絶望的に見えたのです。 イエス様はエルサレムに向かい、涙を流されたと聖書は言っています。イエス様は救うために、癒すために、立ち上がらせるためにこの世に来られたのですけれど人々はイエス様を侮り、冷たくあしらいました。 ご生涯の最後は十字架でした。 十字架に架けられるとき、ご自分を取り巻く愛していた弟子たちでさえみんな逃げ去り、全くの孤独でした。けれどそのようなイエス様でありましたが、なお且つあふれる望みに満ちていたのです。 家へ帰ってからヨハネの福音書14章から17章、是非お読みになってください。この14章から17章を見ると、イエス様が将来を望み見て、限りなく深い平安と静かをお持ちになっていたことがよくわかります。 このヨハネの福音書14章から17章までは、イエス様の別れのことばです。弟子たちはこのことばを聞いたとき、聞き見ようと思ったに違いない。 主イエスはこの別れのことばの中で弟子たちに、今後わたしの名によって願い求めることはすべてかなえられると言われましたが、それまで願い求めたことがみんな失敗に終わっている弟子たちにとってイエス様のことばは不思議に響いたに違いない。 イエス様は後ほど御霊を送り、あなたがたは多くの実を結ぶようになるということを弟子たちにお約束になりました。けれど弟子たちはそのとき自らを顧みて、それは不可能なことであると考えたでしょう。 御霊の力によって望みに満ちあふれている。これこそが主イエス様のお姿でした。神の子としてイエス様はひとつも罪を犯さなかったお方です。 イエス様は罪の問題を解決してくださったし、死を克服してくださったお方である事実について考えると、本当に希望を持つようになり、安心して将来に向かうことができる。 このイエス様を紹介することとは、本当にすばらしい特権ではないでしょうか。もう時間ですからやめます。 |