引用聖句:ヨハネの手紙第I、5章20節
ヨハネの福音書20:31
兄弟が言われたように、バンコクの喜びの集いは本当に祝福された集会でした。 昔はいつも家内といっしょに二人だけで出かけたのですけれど、最近はどこへ行ってもだいたい何十人かといっしょに出かけられるからやっぱりありがたい。 今回も三十何人でしたか、いっしょに行くことができ、ともにみことばを宣べ伝えたり、証したり、主イエス様を紹介することとは本当に大きな恵みです。三人も洗礼を受けるようになり、そしてゆっくり話し合うことができたのは七人だったのです。 彼らは一同、主の御名を呼び求めたのです。「主の御名を呼び求める者は救われる。」と書いてあります。 そのとき救われたかどうか、いつになるかわからないけれども、私たちは種だけ蒔けば、主はわかります。責任を取って導いてくださいます。 イエス様を紹介することこそが信じる者の使命であります。 先週始まったテーマは、「主イエスは神の子キリストである」、すなわち約束された救い主であり、罪の問題を解決してくださったお方であり、そして将来、この世界を根本的に新しくするお方です。 確かに人間は色々なことで悩みます。苦しみます。けれどもそれに対する父なる神の答えはいつも同じです。すなわちイエス様です。 色々な願いがありますけれども、父はそれに応える時、いつもイエス様をお示しになります。そのほかのどのような方法もお取りになりません。 聖書はひとつの定まった目的をもって書かれたものです。この間言いましたように、 第一番目。聖書はイエス様の神性を書き記します。 第二番目。人に永遠のいのちの確信を与えます。 第三番目。人にまことの希望を与えるものです。 ヨハネの福音書20:31
とあります。聖書を読むと、イエス様は確かに人間的な外形をとった神の御子であったことがよくわかります。世が造られる前に、万物より前にイエス様は父なる神のそばで栄光をおもちになったと聖書ははっきり言っているのです。 イエス様は生ける神の御子である。それは永遠なる事実です。 イエス様の神性について、先週私たちはいくつかの証しとしるしを考えてまいりました。おもに七つの証しがあります。一番大切な証しとは、もちろん生きるまことの神ご自身の証しです。 マタイの福音書3:16-17
父の証しとはそれなのです。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」 次の大切な証しとは、いうまでもなくイエス様ご自身の証しです。聖書は言っています。 ルカの福音書22:69-70
三番目の証しとは、バプテスマのヨハネの証しです。 ヨハネの福音書1:34
と書かれています。 四番目の証しとは、イエス様のなされたみわざです。神の子でなければ、こういうみわざを行なうことができなかった。 それから旧約聖書も証ししています。イエス様は次のように言われました。 ヨハネの福音書5:39
聖書の内容とは預言された救い主、この世に実際に来られた救い主、救いのみわざをなさった救い主であります。 それから、聖霊も証ししますし、それからいうまでもなく、イエス様を信ずる者たちはやっぱりイエス様を証しして紹介したのであります。 けれどもそれだけではなく、イエス様の最大の敵である悪魔も悪霊もイエス様は神の子であることを認めざるを得なかったのです。 使徒の働き19:15
とさえ答えたのです。 イエス様。神の子であるイエス様はひとつの罪も犯したことがないと聖書は言っています。イエス様といっしょに3年間生活した弟子たちの証しはやっぱり大切でしょう。 どなたかといっしょに住むと、何ヶ月間、何年間、やっぱりわかります。ヨハネは何と言ったかと言いますと、「彼には何ら罪がない。」と言いましたし、ペテロは、「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」と言っています。 けれどイエス様の弟子だけではなく、イエス様の敵も同じことを言わざるを得なかったのです。 当時のピラトはイエス様にひとつの罪も認めることができなかった。ピラトの妻はイエス様を義人、正しいお方であると呼んだのです。 それだけではなく、イエス様を裏切ったユダは、「私は罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯した。」と叫んだのです。ヘロデ王はイエス様について。「この人は何ら死に当たるようなことはしていないのである。」と言ったのです。 ともに十字架に架かった強盗の一人は、犯罪人ですけれど、「この方は何も悪いことをしたのではない。」と言ったのです。イエス様を十字架につけたローマ軍の百率長は、「まことにこの人は神の子であった。」と告白したのであります。 イエス様の亡くなられた翌日、主の二人の弟子がエマオという村へ向かって歩いて行きました。今までそばにいてくださったイエス様が十字架で死んでしまったので、二人はもう悲しそうでした。なぜイエス様が亡くなったか。どこへ行かれたのかさっぱりわからず、今まで愛し、頼っていたイエスのことを悲しく思い出しながら歩いています。 この二人の弟子はこれまでイエス様といっしょに生活してきましたから、イエス様が奇蹟を行い、病人をいやし、死人をよみがえらせ、あらゆる良いわざを行なったのち十字架につけられて亡くなったことを一部始終よく知っていました。 ですけれどイエス様を亡くした二人は、今望みを全部失くし、喜びもなく絶望しています。けれどもイエス様は十字架に架かって死んだままではありません。三日目に神のひとり子の力を持って生き返りました。 イエス様は神の子である証拠とはいったいどういうものなのでしょうか。 今まで私たちはイエス様の神性についていくつかの証しとしるしを考えてまいりましたけれど、この証しとしるしは、イエス様の神性の証拠ではありません。 イエス様の神性の証拠は二つです。すなわち、第一番目、イエス様のよみがえりと、二番目、全く変えられた、イエス様の御姿に変えられた人々です。ちょっとローマ人への手紙を見てみましょう。 ローマ人への手紙1:1-6
云々と書いてあります。 主イエス様のよみがえりは、自分は神の子である事実の証明です。一番大きな奇蹟はイエス様のよみがえりの奇蹟です。 イエス様のよみがえりは世界歴史の中で一番大きな出来事です。主イエス様のよみがえりは、イエス様だけが救いに至る道であるという、一番大きな証拠です。 マホメッドは人類を救おうと思ったでしょう。孔子も人類を救おうと願ったでしょう。ブッダ、仏も人類を救い、解放しようと努力したかもしれないけれど、彼らは人間であり、罪人でした。 聖書は言っています。「すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」と。 マホメッド、孔子、釈迦、この人たちが罪人だったから死んだのです。すなわち彼らは自分の罪のために死んだのです。けれど自分の罪のために死んだ者が人を救いに導けるはずがありません。 マホメッドはよみがえりませんでした。孔子もよみがえらなかった。釈迦も死んだまま。イエス様だけがよみがえりました。イエス様は生きておられます。 もしイエス様がよみがえられなかったならばイエス様は神の御子ではなく、単なる人間に過ぎなかったのです。主イエス様こそが生きておられるお方です。 この地上に生きておられたときはっきりと、「わたしは神の子である。」と言われました。 主イエス様は神の御子としてまことの神だけが成しうるわざを、力をなされたのです。けれどもパリサイ人たちはイエス様が神の御子であることを断固として信じようとしなかった。 当時の聖書学者たちは、イエス様が本当に神の子であるというしるしを求めたのです。 イエス様の答えは次のようなものでした。 マタイの福音書12:39-40
主イエス様は、「もしわたしがよみがえったならば、わたしは神の子である。」と言われました。この意味は、わたしのよみがえりは、わたしが神の子であることの証拠です。 そしてイエス様は実際に復活なさいました。なぜならば、神の御子だったからです。 よみがえりには12の事実があります。すなわちよみがえった、よみがえられたイエス様に出会った人々です。 まず第一番目。エルサレムで復活なさったイエス様は、マグダラのマリヤに姿を現わしたのです。マルコの福音書の16章の9節に次のように書かれています。 マルコの福音書16:9
ペテロ、ヨハネ、ヤコブたちではなく、まずこのマグダラのマリヤにイエス様は姿を現わしたのです。 次に第二番目。同じくエルサレムにいるほかの婦人にイエス様はご自身を現わされたのです。マタイの福音書の28章の9節です。 マタイの福音書28:9
三番目。ペテロが主イエスを見ました。のよみがえりの書の中で。コリント人への手紙第Iの15章5節に一ことばだけなのです。 コリント人への手紙第I、15:5
このケパとは、もちろんペテロでした。 それから前に話した、四番目になりますけれど、ふたりの弟子がエマオで主に出会いました。ルカの福音書の24章から何節かちょっとお読みします。 あのふたりはもちろんイエス様をよく知っていたし、よく交わったし、けれども復活なさったイエス様に出会ったとき、結局わからなかったのです。 ルカの福音書24:15-27
それは旧約聖書全体のことなのです。モーセおよびすべての預言者、 ルカの福音書24:27-31
暗い顔つきであったふたりは、必ず喜びに満たされたのです。イエス様は生きている。 五番目。イエス様はトマスを除いた十人の弟子にエルサレムでご自身を現わしました。 ヨハネの福音書20:19-20
言い表わせないほどの喜びだった。主は生きている。 六番目。トマスを加えた11人の弟子たちに、イエス様は姿を現わされました。 ヨハネの福音書20:26-27
この出会いによってトマスは完全に変えられるようになったのです。主は生きている。これこそが彼の喜びの源になったのです。 七番目。ガリラヤの海辺で魚をとっている7人の弟子たちに、イエス様は現われたのです。同じくヨハネの福音書の21章、ちょっと見てみましょうか。 ヨハネの福音書21:1-24
八番目に、ガリラヤの山の上にいる11人の弟子に、イエス様はご自身を現わしたのであります。 マタイの福音書28:16-17
そして九番目に、イエス様は五百人以上の兄弟たちに現われたのです。 コリント人への手紙第I、15:6
結局、大部分はまだ生きていたから、確かめようと思ったならばもちろん出来たのです。 十番目。イエス様はヤコブに、肉体の弟であるヤコブに会いました。 コリント人への手紙第I、15:7
云々とあります。 十一番目。イエス様は昇天される前に、まだ11人の弟子とともにおられたのです。 使徒の働き1:2-9
とあります。 それから十二番目に、のちにイエス様はパウロにもご自身を現わされました。このコリント人への手紙第Iの15章の8節に、 コリント人への手紙第I、15:8
使徒の働きの中で、パウロは3回も証ししたのです。使徒の働きの9章の1節から見るとわかります。 使徒の働き9:1-5
パウロのショックとはどういうものであったか。確かに想像することができない。けれども彼は瞬間的にわかった。 イエスは生きておられる。私の聖書の勉強は、まったく役に立たなかった。聖書の神を信じたつもりだったけれど、私は目くらにされた者で、神の敵だったと認めざるを得なかったのです。 このような人々は、結局イエス様のよみがえりの確かな証拠ではないでしょうか。 けれども力強いことに、今日の人々もイエス様のよみがえりの力を経験することができます。自分のわがまま、過ち、罪をイエス様のところへ持って行き、イエス様から罪の赦しをいただいた人々はみな、イエス様は神の子であると確信しています。 もちろん理解できない。理解できないから説明することもできない。けれど確信しています。 結局イエス様を信じることによって自由になり、まことの喜びを得るようになり、生ける希望を持つようになったからです。信ずる者の中に住んでおられる、生きておられるイエス様ご自身が、イエス様のよみがえりの一番大きな証拠ではないでしょうか。 今日はここまでにして・・・。 |