引用聖句:テトスへの手紙2章13節
ヨハネの手紙第I、5:20
人間は解放され、大いに喜ぶことができればイエス様はいつまでも何でもします。天国へ行ってイエス様は給仕すると書いているのです。もう恥ずかしくて、恥ずかしくてしょうがない。 天国でもイエス様は自分のことを考えようとしない。ですから私たちはいくら考えてもイエス様のことはピンと来ない。イエス様に会うようになれば、もう、もう圧倒されてしまいます。 聖書とは書かれているみことばです。イエス様は肉体をもつようになったみことばです。われわれの最近のテーマは、「主イエスは神の子、キリストである」というテーマです。 この間アメリカのオクラホマに行って、飛行場からすぐのある店に行って、このステッカーを買いました。「JESUS」そして下に「is the answer.」 あらゆる問題に対する主なる神の答えとはイエス様である。聖書の全体の言わんとしていることはそれなのです。 人間は色々な悩みを、色々な苦しみをもっています。けれどそれに対する主の備えはいつも主イエス様です。イエス様しかない。 今、兄弟のお読みになりました個所の中で、結局二ヶ所を見てもはっきり書かれている。「イエス・キリストは神であり、また救い主である。」 最後に読んだヨハネの手紙第Iの5章20節、「神の御子イエス・キリスト」と書いてあります。「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」と書かれています。 イエス・キリストは本当に神だったけれど、まことの神であるイエス様は人間になることによって初めて「神の子」と呼ばれるようになったのです。 聖書は言っています。 マタイの福音書3:16-17
人間になることによってイエス様は神の子となったのです。神の子とは結局、約束された救い主であり、救いの神であるという意味です。 今まで私たちはこの復活なさったイエス様に出会った人々について考えました。イエス様のよみがえりこそが、自分は約束された救いの神であるという事実の証明そのものです。 一番大きな奇蹟は間違いなくイエス様のよみがえりの奇蹟でした。イエス様のよみがえりは世界歴史の中で一番大切な出来事です。イエス様のよみがえりはイエス様だけが救いに至る道そのものであるという一番大きな証拠です。 マホメッドは人類を救おうと思ったけれど死んだのです。死んだままです。孔子も同じく、人類を救おうと願ったかもしれないけれど死にました。死んだまま。 ブッダ仏も救いを成し得ようと思って人類を救おうと思ったかも知れないけれど死にました。死んだまま。 今度オクラホマで祈ってもらいたい姉妹がいまして、歳は38歳。 ご主人はアメリカ人で、兵隊たちの牧師として現在イラクにいます。彼女もご主人も大いに悩んでいる。なぜならば、アメリカの最高裁判官は命令したのです。「イエス・キリストの名によって祈ってはいけません。」 本当です。考えられない。結局イエス・キリストの名によって祈ると、やっぱりイスラム教徒たちはあんまり喜ばないでしょう。 結局人間を喜ばせるために人間はそういう態度を取るようになった時代です。 イエス様は、「わたしを通してでなければだれも父のみもとに行くことはできない。」、この兵隊の牧師さんたちはどうしてイラクまで遣わされているかと言いますと、ノイローゼになった兵隊がいっぱいいるのですって。 やってはいけないことをしなくてはならない。彼らを励ますために、力づけるために行かされていて、けれどイエス様の名前によって祈ってはいけないという話はいったいどういうものでしょうか。自分でノイローゼになる。 人間的に考えれば一番最後にダメになる国はアメリカかもしれない。比較的多くの人々はイエス様に出会ったし、イエス様をまた恐れているのです。けれどアメリカも段々おかしくなっている。 イエス様の名によって祈ることができるのはすごい特権です。イエス様の名によって祈ると、何でもできるお方は自分自身を明らかにしてくださり、奇蹟を成してくださるのです。 イエス様は救いの神、まことの救い主であられることの証拠とは何なのでしょうか。もちろん信ずる者の中に住んでおられるイエス様ではないでしょうか。よみがえったイエス様に出会った人々、またイエス様の御姿に変えられている人々は、イエス様の神性の証拠です。 パウロはいったいどうして、イエス様は救いの神であり、神の子であり、まことの救い主であることを信ずるようになったのでしょうか。 理屈に責められ、納得させられたからではない。また脅かされて強制されたからでもありません。パウロはよみがえりの主を愛したために、「このナザレのイエスは確かに約束された神の子であり、救いの神である。」という確信を持つようになったのです。 パウロはよみがえりの主にお会いしたことによって根本的に変えられました。 彼のように、最後によみがえりの主は私に現われたと言える人は幸せではないでしょうか。よみがえりの主にお会いしたら生活は根底から変えられます。 イエス様の肉体の弟のひとりはヤコブでした。このヤコブはやっぱりよみがえりの主にお会いするようになったのです。 いわゆるよみがえりの書であるコリント人への手紙第I、15章の7節を見ると書かれています。 コリント人への手紙第I、15:7
ひと文章だけです。このヤコブとは肉体的にイエス様の弟であり、のちにこのヤコブは義人ヤコブと言われるようになったのです。 彼は初代教会の中の中心的な人物にもなりましたし、そして彼は短い5章だけの手紙も書いたのです。ヤコブの手紙。 このヤコブの手紙を読むと、彼の中心テーマはまことの正しさ、まことの義とはどういうものであるかということです。 このヤコブという男が長い間心に持っていた悩みは、本当の義を自分は持っていないで、自分の持っている義は掟の義、自分の義だけだということでした。結局、聖書の掟を守ればOK。けれど守るものではない。どうしたらいいか彼は全くわからなかったのです。 確かに彼は生れ落ちるなり、神の御子であるイエス様を兄として一緒に暮らしていながら、イエス様を批判し、最後にはイエス様を拒んだのです。 たぶんイエス様は罪人と一緒に食事をして、いわゆる人間によって作られた掟を守らず、例えば、安息日を守らないでいたところから当時の聖書学者たちと同じようにイエス様を拒んでしまったのです。 もちろん、この兄ちゃんは変わっている。喧嘩相手にならない。喧嘩しようと思えばできる。どういう人間であれ。 イエス様は喧嘩相手にならなかった。もう不思議で不思議でしょうがなかった。 ヨハネの福音書7:5
と、ひと文章があります。ヤコブはイエス様の生きている間、イエス様を信じようとしなかったのです。このイエス様を受け入れなかったヤコブはついにイエス様を受け入れる時がやって来ます。 イエス様は十字架の上で考えられないほど苦しんでいたのです。苦しみの中からイエス様は、ある意味で自分のことを忘れ、ヨハネという弟子に向かって、「ヨハネよ、見よ。これはあなたの母である。」と言って、ご自分の肉体の母マリヤを弟子のヨハネに、ヤコブではなくヨハネに託されました。 続いてお母さんのマリヤに向かい、「女よ。これは汝の子です。」と言ってヨハネに生涯の面倒を見てもらうように話されたのです。 イエス様はなぜご自分の母を実の弟であるヤコブに託さないで、本当は関係のないヨハネに託したのでしょうか。 たぶんヤコブは始めからイエス様を信じていたお母さんのマリヤと仲が合わず、離れていたからではないでしょうか。 自分を生んでくれた自分の母を自分に任せられず、他人の手にゆだねなければならないとは、ひどい悲しいことではないでしょうか。 これは己を正しいとする罪の結果です。自分を義とする結果はいつも悲劇です。当たり前のこの世の人でさえ、信仰のゆえに自分の母を見捨てるなどということはちょっと違うのではないでしょうか。 けれど自分を義としたヤコブは母を見捨てました。彼はこのように己を正しいとする人間でした。 ヤコブは自分を正しいとすることは何の役にも立たない。むしろ妨げになることを悟り、イエス様の前に砕かれ、全く新しい義をいただいたのです。 よみがえりの主イエス様だけが自分の義とするところからこのヤコブを解放することができた。こういうふうに、いっぺんに変えられた人々こそがイエス様は救いの神であり、約束された救い主である証拠ではないでしょうか。 弟子たちの中のひとり、トマスについてちょっと読みましょう。ヨハネの福音書20章。このトマスという男はもともと疑問に満ちた、疑い深い性質の持ち主でした。 ヨハネの福音書20:24-25
ほかの弟子たちは主のよみがえりを知って喜び、これを仲間のトマスに伝えましたけれど彼は頑として信じようとしない。個人的な疑いはイエス様に親しくお目にかかるまで解けない。 聖書を読んでいきますと、よみがえりの主は疑い深いトマスのためにわざわざもう一度現われてくださったことがわかります。何という恵み深い主でありましょうか。 自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷に接してみないうちは、イエス様のよみがえりを信ずることができないと言っていたトマスは、目の前に現われたイエス様の御姿を拝したとき、指を傷に当てるどころか、ただその場にひれ伏して、主を拝したと聖書は言っています。 「わが神。」と彼は言ったのです。イエスは断って、「いや私は神ではない、神の子にすぎない。」と言わなかったのです。神だからです。 疑い深いトマスがこんなに変えられたのは驚くべきことです。彼はまことの礼拝者になったのです。 彼は疑惑に満ちた者でしたけれど、新しい光が与えられたらこの疑惑がとけるのだが、と絶えず光を求めていました。けれどイエス様はなぜもっと早くトマスに現われてくださらなかったのでしょうか。もちろんこれはイエス様のせいではなかった。トマスが悪かった。ほかの兄弟、弟子たちといっしょにいなかったからです。 もしトマスが兄弟たちのところに帰って来ないで、そのまま自分の道を歩んだなら、イエス様に会うことができなかったばかりか、悲しい結果になったかもしれない。 イエス様は救われた者のひとりひとりのかしらであるばかりではなく、信ずる者の群れ、すなわちご自分のからだなる教会のかしらです。 ですからイエス様は兄弟姉妹がともに集まり、御名を賛美しているところにご自分を現わされる場合が多いのです。 確かにある人は、「もういいよ。集会に出なくても。もう面倒くさい。変な人ばっかりいるじゃない。」、「一人で聖書を読めば一人で祈ればいいだろう。」 確かにそうすると喧嘩相手はいないし、けれども危ない。成長がない。聖書を正しく読むことができるのが非常に難しくなる。結局、色々な変わった兄弟姉妹を通して、主に帰るようになればすごいのではないでしょうか。 あんまり会いたくない人のために祈れば、主は奇蹟をなしてくださるのです。みんな違う。みんな同じようにならなくてはならないのではない。けれどもやっぱりイエス様の再臨のことを考えれば、やっぱり何があっても正しい態度を取るべきです。 正しい態度を取れば、私の気持ち、感情はどうでもいい。「イエス様。さばき主はあなたです。お任せいたします。恵んで導いてください。」 トマスは疑い深い男でした。けれど疑うこととは別にそんなに悪いことではない。トマスは確かに疑った。けれどずるい人ではなかった。正直な男でした。 彼はイエス様のよみがえりを信ずることができなかったから、自分を偽らずにはっきり「信じられない。」と言ったのです。 多くの人は信じられないのに、あたかも信じたかのように自分を偽って進みます。トマスはこれらの人たちよりもマシではないでしょうか。信じられなくても結構。持っていない信仰のために祈れば必ず与えられます。 人間はみんなそれぞれ問題を持っています。またこれから持つでしょう。その中にはよみがえりの主が現われてくださらなければ、どうしても解決できない問題にぶつかることが必ずあります。 そのようなときはトマスのように、心から新しい光を求めましょう。そうすれば必ずよみがえりの主が問題に解決を与えてくださいます。 トマスは新しい光を求めてそれを受け入れる備えをしていました。彼は主を信ずる仲間に入って、いっしょに先へ進むことを拒まなかったのです。 伝説によるとこのトマスとは、中国まで行ってイエス様のことを紹介した。あとで最後に殉教の死を遂げるようになったのです。 結局彼は完全に変えられた男になったのです。彼は疑いながらも交わりに加わっていました。そしてイエス様がトマスに現われたとき、彼はイエス様の御前にひざまずきました。 私たちの過去を降り返ってみると、本当に主に対して不信仰者であり、イエス様を悲しませた者であることがわかります。 私たちが今日、今、一番必要としているもののひとつは主、よみがえりの主に新しくお会いして、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。 マルコの福音書の16章9節を見ると次のように書かれています。 マルコの福音書16:9
とあります。よみがえりの主に出会われた彼女はやっぱり変えられたのです。何を新しく持つようになったかと言いますと、もちろん今まで知らなかった愛ではないでしょうか。 確かに彼女は墓から復活なさったイエス様に最初にお目にかかった者です。弟子たちではなくて彼女が先でした。 なぜこの特権にあずかったかと言いますと、イエス様を一番愛し、イエス様に一番全てをささげ尽くしていたのではないでしょうか。 なぜ一番初めにマリヤに主は現われたか。もうひとつの考えられることがあります。一刻も早く必要だったからです。彼女は考えられないほどもう、イエス様が殺された時、もうがっかりして、絶望して沈んでしまったからです。 この節によると、彼女はかつてイエス様に七つの悪霊を追い出していただいたことが書かれています。 彼女は悪霊につかれて恐ろしい生活をしていたに違いない。ですからイエス様に霊を追い出していただいたとき、彼女は体験した解放は、もう考えられないものでした。彼女は結局もうイエス様に従いたい。イエス様の母でもあるマリヤとひとつになって、いつも従うようになったのです。 イエス様に、マリヤが持っている愛の全てをささげ尽くしたのは無理もない。イエス様はマリヤの本当に全てでした。 イエス様が十字架で亡くなられた時、彼女の悲しみは、もう想像できない。もうおしまい。 もしイエス様がよみがえらなかったなら、このマリヤのイエス様に対する愛はなおさらマリヤを絶望に追いやり、悲しみに落とし込んだに違いない。 彼女の愛の対象はもちろん決して間違っていなかった。神の御子イエス様を愛していたのです。けれどこの愛がよみがえりの力に基づかず、人間的な愛なら絶望に終わってしまいます。 現われたイエス様を見たとき彼女は、喜びのあまりイエス様に抱きつこうとしました。聖書を読むと、そのときイエス様はマリヤに「わたしにさわってはいけない。」と御声を掛けられたことが書かれています。 イエス様はなぜそのように言われたのでしょうか。彼女のご自分に対する、きよくはあるが、肉による愛を霊による愛に変えなければならないことを教えたかったからです。のちにイエス様は昇天され、マリヤは霊によってイエス様を愛するようになる備えをなさしめたのです。 もし私たちのイエス様に対する愛や献身が、よみがえりの土台の上に立っていないなら、やがてそれらは崩れて絶望に終わるでしょう。 よみがえりは主イエスに対する新しい愛を与えてくれます。よみがえりの前の土台に立っている者は、イエス様とともに十字架につけられ、主とともに葬られていない人です。マリヤがそうでした。 彼女の愛は本当にきれいな、きよい愛でした。けれど人間の愛でした。マリヤのこの愛を少し考えてみましょうか。 まずマリヤの愛はイエス様が自分に成してくださった恵みのみわざに応える愛だった。感謝の気持ちの表われでした。七つの悪霊を追い出していただいたから、もう感謝の思いから彼女は主イエス様を愛しました。 二番目。彼女が愛したイエス様は肉体をとっておられたので、目に見えるお方としてのイエス様を愛していたわけです。マリヤは目に見えるイエス様を愛したのです。 最後に、このマリヤの愛は人間的だったがゆえに、絶望に終わってしまった。これに対し、よみがえりの主にあずかり、よみがえりの土台としてその上に立っている人は、苦しみを通し、悩みを通し、主とともに十字架につけられて死に、ともによみがえらされ、天上の座につかしめられた人であり、まことの主なる神の愛をいただいた人です。 よみがえりの主にあずかり、主の愛を持つ者は、まずイエス様が成してくださったわざのために主を愛するのではなく、イエス様ご自身を愛します。 それらの人々はイエス様を知っています。イエス様との親しい交わりを持って、イエス様の御旨を知って、主イエス様だけを喜びにしています。 二番目。よみがえりに基づいた人々は、目に見えないイエス様を愛しています。すなわち信仰によって歩んでいます。コリント人への手紙第II、よく知られている個所なのですけれども、 コリント人への手紙第II、4:16-18
最後に、この主なる神の愛は、たとい訳がわからないことがあっても、理解に苦しむようなところに置かされても、愛して愛し抜く愛です。 これらの人々はパウロと同じように次のように言うことができる人々です。有名なローマ人への手紙8章の最後に次のように書かれています。初代教会の迫害された兄弟姉妹の証しです。 ローマ人への手紙8:35-39
喜びと確信に満ちている証しです。主の愛はすべてのものに勝ち得て余りある愛です。この主の愛はパウロがコリント人への手紙第Iの13章で言っている愛です。よく読まれる愛です。 ここで、まことの愛について色々なことが書いていますけれど、まことの愛とはこの世に来られたイエス様です。ですから愛の代わりに「主イエス」と読んだほうがいいのではないでしょうか。そうすると、ああ、なるほど、とわかります。自分の愛ではない。 コリント人への手紙第I、13:4-7
これだって、できると思う人はいないでしょう。できると思うなら頑張ってもらいたいけれど、すぐあきらめます。無理。イエス様しかできない。 私たちは主のためにあれをやり、これをやり、奉仕するけれど、イエス様と親しい交わりを持っている方はどれだけいるのでしょうか。 祈りはそのまま主イエス様との交わりであるということはできません。イエス様も私たちに語りかけることができなければ、交わりになり得ない。 前にスイスの神学校の出した雑誌があったのです。題名は非常にいい題名です。「聖書と祈り」。そして、その雑誌の印刷された会社の名前は「大いなる喜び」。 もちろん神学校の中の印刷会社なのですけれども、結局、聖書と祈りをともにすれば、大いなる喜びが湧いてきます。聖書だけでは十分ではない。 聖書を通して主に私たちに語ってくださいます。そして答えとして私たちは祈る。一方通行はダメ。 イエス様の時代の聖書学者たちは、聖書を徹底的に勉強したのです。疑わずに信じたのです。けれど心から祈らなかった。一方通行によって何にもならない。 多くの救われた兄弟姉妹は罪の赦しを確信し、主との平和をいただいています。そして人間的な愛でイエス様を愛しています。生まれながらの賜物と力をもってイエス様に仕えようとしています。 けれど信仰生活はとめどもなく上がったり下がったりする。イエス様との交わりがない。イエス様とひとつになることができない。それはよみがえりの前の土台に立っているからです。 よみがえりの土台に立つ者は、自らの力で主に仕えようとしない。自分の力に頼ることをやめ、人間の誉れを望まず、よみがえりの主に任せ、おゆだねするということは本当の自由ではないでしょうか。 自分を愛する愛は本当に大したものではない。傷つきやすいものです。主の愛は違う。主の愛はしるしを求めない。主の愛は信仰によりて目に見えないものを望み見て歩む。 初代教会の人々とはどうして大いに喜ぶことができたかと言いますと、結局信仰によって歩んだからです。目に見える現実はどうであれ、関係ない。 私たちが差し迫って必要としている愛は、この新しい主イエス様に対する愛なのではないでしょうか。 もしイエス様がよみがえられなかったら、果たしてマリヤは七つの悪霊に立ち向かうことができたのでしょうか。 よみがえりの土台に立っていないコリントの兄弟姉妹たちはどうだったでしょう。 憎しみと、ねたみと、傲慢と、汚れの霊に打ち負かされ、全然証しが立っていなかったのです。 彼らはパウロを通して福音を聞いて導かれたのです。けれども彼らはパウロの悩みの種になってしまいました。だから彼はこのまことの愛についての書、また、よみがえりの書を書いたのです。 まとめてみると、主イエス様の御姿に変えられている兄弟姉妹こそイエス様の神性の証拠そのものです。 人殺しであるモーセは、世界で一番柔和な人に変えられたと聖書は言っています。 裏切り者であるペテロは、もっとも大胆な証し人となりました。 教会の迫害者パウロは、もっともすぐれた教会の建築士に変えられたのです。 イエス様しかできないことです。 |