主イエスは神の子、キリストである4


ベック兄

(吉祥寺学び会、2006/03/07)

引用聖句:ローマ人への手紙1章4節-5節
4聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

ヨハネの手紙第I、5:20
20しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。

コリント人への手紙第II、I:9-10
9ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
10ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

今日、続いて、主イエス様は神の御子であり、まことの神そのものであるという事実についてもう少し考えてみたいと思います。
今、兄弟のお読みになりました個所の始めに読んだ個所は、使徒の務めということばが出てきます。

ローマ人への手紙1:4-5
4聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。
5このキリストによって、私たちは恵みと使徒の務めを受けました。それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。

信ずることとはもちろん大切です。けれどそれだけでは十分ではないらしい。ですからここで、信仰の従順と書かれています。従順無しの信仰は本物ではないのではないでしょうか。
パウロはここで使徒の務めということばを使ったのですけれど、使徒の務めとはいったい何なのでしょうか。使徒の働きを見るとわかりますけれど、かの人たちはイエス様を単なる助け手として、単なる救いを与えるお方として宣べ伝えなかったのです。
彼らはイエス様を主として、神の御子として、永遠に変わらない神として宣べ伝えたのです。「イエス様は全てのものの主である。」、これが使徒たちの証しでした。

もしイエス様が主であるならば、救い主でもあるはずです。同じくローマ人への手紙の10章9節を見ると次のように書かれています。

ローマ人への手紙10:9
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主

救い主ではなくて、主、

ローマ人への手紙10:9-10
9告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

ローマ人への手紙14:8-9
8もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
9キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。

四回も「主」という表現が出てきます。「救い主」ではない。「助け手」ではない。「贖い主」でもない。「主」です。
そして前に読んでもらいましたコリント人への手紙第IIの中でも何回も、何回も同じ表現が出てきます。コリント人への手紙第Iにしましょうか。

コリント人への手紙第I、8:6
6私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。

何回も「主」となっているのです。そしてコリント人への手紙第IIの4章の5節です。

コリント人への手紙第II、4:5
5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。

使徒たちの務めとは、主を宣べ伝えることでした。
イエス様の犠牲になり、代わりに死なれた目的のひとつとは、結局イエス様は私の主となり、私たちを用いるためではないでしょうか。

コリント人への手紙第II、5:15
15また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

イエス様は私たちの罪滅ぼしのために犠牲になっただけではない。私たちの主となるためです。
使徒の働きの2章36節を見ても同じことが強調されています。五旬節のときのペテロのメッセージの中のものです。

使徒の働き2:36
36ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。

イエス様とは主です。使徒たちはどうしてイエス様を紹介したのか。どうして色々な手紙を書いたかと言いますと、結局イエス様が主となるためです。
コロサイ人への手紙の1章18節を見てもわかります。

コロサイ人への手紙1:18
18また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。

イエス様は第一になるべきです。礼拝の中心となるべきです。
今読みました聖書を見ると、どうしても主イエス様はすべてのものの主であられることを認めないわけにはまいりません。
イエス様のご支配こそがもっとも大切です。イエス様はすべてのものの主であられる。これは初代教会の人々が宣べ伝えられたことがらであり、初代教会の真ん中にこのイエス様はすべてのものの主であるという精神は、強く貫き通されたのです。

初代教会の信者たちは上からのいのちに満たされていたのです。集会を持つたびに会衆も満たされていました。集会を持つたびに会衆は溢れいれ、またそこでなされる信ずる者の証しは泉が溢れいずるが如く豊かで力に満ちていたものでした。
銘々の信者ひとりひとり、また集会全体のうちにイエス様の満たし、イエス様の豊かないのちを見ることができたのです。
この秘密はすべてのものの主なるイエス様である、すなわちイエス様の絶対的なご支配でした。もしイエス様がわれわれの心の内を全く支配すると、私たちを支配するほかのものは何一つなくなるはずです。

私たちはありとあらゆる偶像から全く縁を切っているのでしょうか。大きな偶像のひとつは、自分の意思です。
私たちの心の王座にはだれが座って、支配しているのでしょうか。イエス様でしょうか。私たちの自分の意思なのでしょうか。自分の性質なのでしょうか。好き嫌いなのでしょうか。
私たちは本当にしばしば自分の考えを正しいものとし、自分の考え方だけが正しいとしてしまうのではないでしょうか。己が正しいのであるとあんまり強く主張するので、イエス様はその人の主となることができない。

使徒たちはみなこのことを体験的に知り、味わわなければならなかったのです。
使徒たちのおもな人物とは、疑いもなくペテロという男でした。けれどもイエス様がこのペテロの支配者となられるまでには大変だったのです。大変な戦いでした。
このペテロとは、三年半イエス様といっしょに生活し、イエス様の愛を受け、ともに生活し、主のなされた数々の奇蹟を目の当たりに見て、イエス様はまことの神の子であると信じたのです。疑おうと思ってもできなかったのです。

イエス様はあるとき、大群衆がイエス様から離れたとき、すなわちイエス様が十字架について話されたとき、大部分の人々はもう離れた。
そのときイエス様は、「どう、あなたたち?」、イエス様はみんなに聞いたけれど答えたのはやっぱりペテロだけなのです。
「行くところがない、イエス様。あなたは生けるまことの神の御子であり、あなたはいのちのことばを持っておられる。」と彼は証ししたのです。

このいわゆる立派な証し人であるペテロは、イエス様は捕われ、自分の身に危険が及んだ時、何と言ったのでしょうか。イエス様を指して、「私はあの人を知らない。」と三度も否んでしまったのです。
そのときのペテロの心は、もう暗やみでした。そのあとイエス様がペテロの心の内に光となり、支配者となるまでに多くの戦いがあったのです。

そのうちのひとつの戦いが聖書に書かれています。
ペテロはあるとき祈りました。そのとき一生を見た。夢のようなものなのです。結局ペテロが祈っていると、天から大きな布に包まれた色々な種類のきよくない、汚れた動物が天から吊り下ろされるのを見たのです。
それだけではなくて、天からの声があり、「ペテロよ。これを食べなさい。」という声でした。ペテロは「私はきよくないものを食べるわけにはいきません。」と上からの声に逆らいました。これは信仰の従順ではなかった。

ペテロに与えられたこの幻は、一回だけではなくて、二回だけではなくて、三回起こりました。そして布に包まれた動物が天に引き上げられたとき、コルネリオというローマ人、いわゆる異邦人、という人の御使いたちがペテロを訪れ、「お願い。ペテロ。コルネリオのところに来て。」と頼みました。
そこでペテロはきよくないとされた異邦人のもとに行くことになってしまったのですけれど、その決心が固まるまでには並々ならぬ戦いがありました。
ペテロはまず言ったのは、「主よ。嫌です。行きたくない。」、結局、私はまだ一度もきよくないものや汚れたものを食べたことはない。このようにペテロは「主」ということばを使ったのです。「主よ。」ということばを使いながら、実際は主に従おうとしなかったのです。

確かにペテロは主を理解することができなかったために、信じられないと思ってしまったのです。彼は自分の理性に動かされてしまったために、このような否定的な態度を取ってしまいました。
けれどペテロは戦いに勝ち、主に全く従って、行きたくないところに行ったのです。コルネリオのところに参りましたときに、主の偉大なる、想像できない栄光が見えるようになり、彼は考えられないほど祝福されたのです。

けれどもペテロのそのコルネリオのところでのメッセージとは人間的に表わすと、適当ではなかった。的外れではなかったか。
すなわちペテロはイエス様の流された血の力について、救いの確信について、いかに天国にはいることについて何も話さないのです。ただ、「イエス・キリストはすべてのものの主である。」、これがペテロのメッセージでした。
そしてこの宣べ伝えられたメッセージの結果とは、結局すごいものでした。この家の家族だけではなく、そこにいた親族みんな救われただけではない。聖霊に満たされたと聖書は言っています。

五旬節のとき、聖霊に満たされた人々とは確かに3,000人でしたけれど、ユダヤ人だけでした。異邦人はひとりもいなかった。それだけだったらユダヤ人は前よりも傲慢になるのではないか。
われわれは経験したでしょう。「あなたたちはいったい何?」、けれど今度コルネリオの家に集まった人とは、異邦人だけでした。そして彼らは同じことを経験しました。
そこでのすばらしいできごとはどこから起こってきたかと言いますと、それはペテロが新しく主のご支配をいただいたところから起こってきたと言えるのです。

それまでのペテロはイエス様をほんの少ししか経験していなかった。けれどそのとき主がどんなに偉大なるお方であるかと、自分のものにすることができたのです。
この使徒の働きの11章の中で全部詳しく書いているのですけれども、11章の17節にペテロは彼を攻撃するほかの弟子たち、ヨハネもそうでしょう、ヤコブもそうでしょう、マタイもそうでしょう、みんな彼を脅迫したのです。
「あなた何をしたの。異邦人と親しくするのは。」、けれどもペテロは、

使徒の働き11:17
17どうして私などが神のなさることを妨げることができましょう。

と彼は言ったのですけれど、これは自分の考えは本当に制限されたものであり、イエス様に心の目を開くならば主はどんなにか偉大なるお方であり、すべてであられるかがわかるということを私たちに教えていると思うのです。
私たちもペテロと同じく、新しく心の目を開く、イエス様はすべてのものの主であることを知るならその結果、主の豊かなる満たしにあずかることができると確信するものです。
もちろんペテロだけではなく、パウロも全く同じことを経験するようになりました。

このパウロという男は非常に早く内面的、霊的に成長した男です。霊的に満たされている男でした。主の用いられる器でした。どうしてでしょうか。彼は当時、秀才が集まったガマリエルの門下生となり、当時の最高の教育を受けたためなのでしょうか。
決してそうではない。パウロはイエス様を信ずる者を迫害するためにダマスコに向かって急いでいるその道すがら、主の光に照らされ、回心してから数日の間、ダマスコの兄弟姉妹とともに過ごし、そのあとで、「イエス・キリストは万民の救い主であり、すべてのものの主である。」と宣べ伝え始めました。
使徒の働きの9章をちょっと見てみましょうか。

使徒の働き9:19-22
19食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。
20そしてただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた。
21これを聞いた人々はみな、驚いてこう言った。「この人はエルサレムで、この御名を呼ぶ者たちを滅ぼした者ではありませんか。ここへやって来たのも、彼らを縛って、祭司長たちのところへ引いて行くためではないのですか。」
22しかしサウロはますます力を増し、イエスがキリストであることを証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせた。

とあります。なぜパウロは霊的に早く成長したのでしょうか。主に用いられたのでしょうか。
彼は回心したときにすぐ、「主」ということばを使ったのです。「主よ。あなたはどなたですか。」、それから、「主よ。私はいったいどうしたらいいのでしょうか。」と二回、イエス様を「主」と呼んだのです。
初めからパウロにとってイエス様は、限りなく主でした。これが満たされた、祝福された生活の秘訣です。

使徒の働きを見ると、ほかの使徒たちはイエス様を救い主として宣べ伝えなかったのです。イエス様を主として宣べ伝えました。なぜなら使徒たちは主の永遠からのご計画は、イエス様が、イエス様こそが、すべてのものの主であるということを知っていたからです。
イエス様はすべてのものの主となられるために救い主となられたのです。もし全人類が悪魔の支配のもとにあるならば、イエス様は支配者となることができません。ですからイエス様は十字架に架かり、全人類を悪魔の支配から解き放ち、救い出し、そして支配者となられました。
イエス様はすべてのものの主である。これこそが当時の使徒たちの務めであり、証しであり、また特権でした。

もしイエス様が主であるならば、救い主でもあるはずです。イエス様は私たちの生活において救い主であられるばかりでなく、主として崇められていなければいけない。
私たちは新しく生まれ変わっただけでは不十分です。霊的に育って、満たしに至らなければいけません。ですから使徒たちはイエス様を主として宣べ伝えたのであり、それが父なる神のみこころであると宣べ伝えたのです。
イエス様のご支配はイエス様の豊かな満たしに至る秘訣です。もし使徒たちが、「イエス様は救い主だよ。贖い主だよ。罪を赦すお方であるのだよ。」と宣べ伝えたならば、当時の世界の中で異分子にならなかったのです。

ユダヤ教もローマ帝国の中で許されていました。だれも抵抗しなかった。問題は、彼らが頑固で、「イエス様こそが主です。ローマの皇帝ではない。」
当時の皇帝たちはだいたい例外なく「おれは神です。おれを拝まなければ。」、使徒たちは、「われわれの主とはローマの皇帝ではない。十字架の上で犠牲になり、復活なさり、今も生きておられる主イエス様です。」
だから彼らは憎まれ迫害され、考えられない多くの人々は殉教の死を遂げるようになりました。

われわれひとりひとりに対する主のみこころとはいったい何なのでしょうか。
主のみこころは私たちが救われるばかりでなく、救われて後、御子イエス様によって完全に生活が支配される。これが主のご目的です。
主はどんな価を払ってもこの目的を達しようとしておられます。

信者であるわれわれの生涯には偶然がありません。すべてが導きです。私たちが、主はすべてのものの支配者であるということを認めるまで、主は色々な理解しがたいことがらを通して導いてくださいます。
主はわれわれの信者をひとりひとり個人的にご自身がすべてのものの主であられることを知らせる、その目的に導いておられます。

主はパウロの場合そうされたように、私たちをも個人的に導いてくださいます。
パウロは回心したとき、ともにいた人々はみなパウロと全く同じように、地に倒れてしまった。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」とパウロだけ、母国語ヘブライ語で聞いたのです。
使徒の働きの26章を見ると次のように書かれています。

使徒の働き26:14
14私たちはみな地に倒れましたが、そのとき声があって、ヘブル語で私にこう言うのが聞こえました。『サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。

私たちはパウロと同じような経験をもっていないでしょう。けれど主は信ずる者を個人的に導いておられます。
われわれの生活において、主が絶対的な支配の権をお取りになるかどうかが問題です。多くのイエス様を信ずる者は、イエス様を主として考えていないようです。イエス様を奴隷以上のものに取り扱っていないのではないでしょうか。
例えば悩みに沈んでいる場合、彼らはイエス様の助けを求めます。弱いとき、彼らはイエス様から力を得たいのです。彼らは自分ひとりで、もはや出来ないとき、イエス様が飛び込んでもらいたい、助けてもらいたい。イエス様は彼らに仕えるべきしもべのようなものです。

けれどもイエス様は確かに人間ひとりひとりのために何でもするお方です。けれども、「困ったから、おい、助けてくれ。」という態度を取ると問題です。主は絶対的な支配者です。
多くの人々は確かにイエス様を信じているけれど、主の支配をほしくない。聖書は、そういう人々とは肉のキリスト者と呼ばれているのです。なぜなら、肉、肉、すなわち自己は支配を持っているからです。そこには大きな心の悩みがないのではないでしょうか。
自分のための生活が本当の信仰生活にとって障害となっていることをしばしば感じます。もしイエス様が私たちの生活の主でなければ、私たちの人生はまことに価値のないもの。的外れのものではないでしょうか。

悔い改め、イエス様を信じ、新しく生まれ変わることは、主のご目的の第一歩にすぎません。
実に多くのキリスト者は主のご目的であり、イエス様の豊かな満たしに達していないのではないでしょうか。
イエス様の支配に従う支配の結果はイエス様の豊かな満たしです。

私たちの目的と私たちの願いはいったい何なのでしょうか。私たちは主のみこころにかなった者になりたいと心から思うのでしょうか。
イエス様がわれわれの心の内に、心の王座に主として崇められ、限りなく支配を成したもう、そのとき初めて主のみこころは満足させるのです。
イエス様のご支配によって私たちは決してあわれな奴隷となることはありません。むしろ非常に富める者となることができます。

エペソ人への手紙の1章の最後の節は、はっきり理解できない個所なのです。すごいことが書いてあるからです。エペソ人への手紙1章の23節です。まことの教会について。
まことの教会とは建物でもないし、ある組織でもないし、団体でもないし、まことの教会とは、有機体です。

エペソ人への手紙1:23
23教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

この節を見てもわかります。主のご目的は欠けたところのない完全なる満ちたイエス様です。
けれど天におられるイエス様は救われた兄弟姉妹のかしらにすぎない。もし肢体である私たちひとりひとりが満たされなければ、イエス様は完全なお方とはなり得ないはずです。
ですから私たち信ずる者がイエス様にとってどんなに大切であるかがよくわかるのです。

パウロは勝利の秘訣を明らかにして、次のように告白したのです。有名なガラテヤ人への手紙2章20節。「私はキリストとともに十字架につけられた。もう私はアウトです。生きているのはもはや私ではない。キリストが私のうちに生きておられるのである。」
こういうふうに心から言える人は、もう解放され、見方も変わり、楽になる。信仰によって心からこのみことばを言い表わすことができ、また喜んでこういうことができるようにしましょう。

これは全く実際的なことがらです。決して宙に浮いた抽象的なものではない。
日常生活で色々なことが起こって来ますけれど、何かをしようとする場合、自分でことを決心することはできません。
「イエス様とともに十字架につけられ、自分がもはや生きていないから。自分はできることをしよう。私には何もできない。ただあなたのみこころを成してください。自分の思いではなく、みこころだけがなるように。私のなすべき行動を教えてください。」と言えるだけではないでしょうか。これこそがイエス様のご支配です。

もしそうなったら私たちは一言も語らずに、イエス様はすべてのものの主であることを証しすることができます。
そうなったなら私たちは自分の計画を遂行することをやめ、自分の目的を追い求めることをやめ、すべての兄弟姉妹と一つになることができることを確信しています。
この一致はまた取りも直さずイエス様はすべてのものの主であるという証しになるのです。そうして初めてイエス様の御栄えをお取りになり、このエペソ人への手紙1章23節のように、満ち満ちた形になることができるようになります。

もし私たちもパウロのように、「私はキリストとともに十字架につけられた。生きているのはもはや私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」と言うことができるならば、これこそまことの教会です。
イエス様はすべてのものの主です。私たちの生活の支配を今日、新しく意識して、イエス様の御手にあげましょう。イエス様の意思を無条件に受け入れましょう。自分自身をイエス様に完全に、100%、無条件に余すところなく明け渡しましょう。
そうすれば完全に満たされた生活、イエス様の支配している生活、実を結ぶ生活が与えられるのです。そうすると私たちもパウロのように告白するようになるのではないでしょうか。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

パウロはこのことばのうちに主を知ることがいかにすぐれているか、またいかに価値あることであるか、それから主を知るためにいかに多くの価を払わなければいけないかをのべています。
パウロにとってはイエス様を知ることが何ものにも勝って尊いものに思えたのです。パウロはこれらのものをあくたの如く思うと言っていますが、パウロがちりあくたと言ったこれらのものは、決して小さなものではなかったのです。
それはパウロの立場、能力、そのときにもうすでにパウロが得ていた地位や名誉や目的を意味していました。回心する前のあのタルソのサウロは、ユダヤ教の将来を背負って立つ者と目され、期待されていましたけれど、一旦イエス様にとらわれたサウロにとっては地位や名誉や学士は問題ではなくなり、イエス様を知ることがこれのすべてとなったのです。

私の主である。彼がいかに喜んでいたのかわかります。私の主。私の主であるキリストを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。
私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
他面、主を知るためにパウロは多くの価を払わなければいけなかったことも私たちのよく知るところです。
パウロは多くの人々にかつては誉めそやされ、敬われていましたが、一旦イエス様を主として宣べ伝えることによって大部分の人々はパウロから離れたばかりではなく、彼を迫害するようになったのです。

信仰を同じくする多くの人々でさえ、パウロに100%の信頼をおきませんでした。パウロを理解したのは、ごく少数の人々にすぎなかったのです。価を払わなければなりませんでした。
パウロは主とほかの自ら身につけたものとを、よく比較検討した結果、主のほうを選び取りました。この事実は私たちに何を物語っているのでしょうか。
これは救いを得たということが終わりではなく、取るべき道がまだまだ多くあることを私たちに教えているのではないでしょうか。

イエス様を知ることは、ただ単に新しく生まれ変わることを意味しているのではない。もうすでにパウロはそのとき、とうの昔に救われており、多くの働きをなし、彼は主の御手に握られた道具でした。福音を多くの国々に宣べ伝えておりました。
それにもかかわらずパウロは、私はもっともっと主を知りたいと心から願ったのです。

私たちはただ一つのことをなさねばならないと思うのです。それはただ一つ。イエス様をよりよく知りたいと祈りをもつことです。主を知るところにすべてのものが加えて与えられてまいります。
イエス様のためにたくさん働くことや、時間を多く費やすことはどうでもいい。大切ではない。イエス様をよりよく知ることが一番大切なことです。
多くの人々は心からイエス様に仕えようと思っている。けれどそれらの兄弟姉妹は主に仕えるということが何であるかを知らないようです。主に仕えることとは、聖書の真理をほかの人々に伝えるのではありません。多くの人は、ご奉仕は説教し、宣べ伝え、聖書の教えをほかの人に教えることだと思っていますけれど、それはみこころにかなう奉仕ではない。主をよりよく知ることこそがすべてとならなければなりません。

毎週日曜日になると、数千、数万の教会では福音が宣べ伝えられています。それだけではなくラジオ、テレビ、そのほか色々な書物によってみことばが広められてまいります。
福音を宣べ伝え、イエス様についての真理を宣べ伝えることが奉仕であるとは言えません。
まことの奉仕は、主イエス様を持ち運び、イエス様を分け与え、ひとりひとりがイエス様に触れ、個人的に主イエス様を知るようにする。これがまことの奉仕です。

もし、学びによって聴くひとりひとりが主イエス様を知ることができなかったならば、それは決してみこころにかなう奉仕であると言えない。聞く耳が知的に満足したにとどまっては何の役にも立たない。結局ひとりひとりが、私は新たに主を見、主を知ったと言えなければならない。
かかる奉仕には多くの価を払わなければいけません。この奉仕は特定の信者に課せられた仕事ではない。信ずる者すべてがイエス様を伝えなければなりません。
私はあの兄弟によって主をよりよく知った。あの姉妹によってイエス様に対して目が開かれたと、私たちひとりひとりが言えるようになるまでになりたいものです。




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