クリスマスは私たちに何を語られるのか


ベック兄

(吉祥寺学び会、2011/12/13)

引用聖句:マタイの福音書2章1節-12節
1イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
3それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
4そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
5彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
6『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
7そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
8そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
9彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
10その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
11そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
12それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

ルカの福音書2:8-20
8さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」
13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
15御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」
16そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。
17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。
18それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。
19しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
20羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

ルカの福音書2:25-35
25そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
26また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
27彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
30私の目があなたの御救いを見たからです。
31御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
32異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
33父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。
34また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。
35剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」

今日の題名は、「クリスマスは私たちに何を語っているのか」ということです。3つの側面から見てみたいと思います。
第1番目、主は語っておられるお方です。語っただけではなく、今日も語っておられるお方です。もちろん人によって違いますし、いろいろな方法で語ってくださるのです。
博士たちに、主は星を通して語ったし、羊飼いたちには、天使を通して語られたのです。そして、シメオンという老人に、聖霊を通して主は語りました。主は、生きておられるお方です。語ってくださるお方です。

答えとして、2番目、真理は真剣に求められなければなりません。博士たちは真剣でした。犠牲を費やしたのであり、羊飼いたちは、大切なものを捨てたのであり、そしてシメオンは、信仰を持って待ち望んだ男でした。
そして、3番目、求められた結果として、主は、礼拝されるようになります。博士たちは、どういうふうに礼拝したかと言いますと、大切なもの黄金、乳香、没薬を持って捧げました。羊飼いたちは、喜ぶようになり、証しするようになり本当に心から崇拝するようになったのです。
そして求めた結果として、彼らはやっぱり嬉しくなって心配から解放され、心から主を拝んだのです。この3つの点について、ちょっとだけ一緒に考えてみたいと思います。

第1番目、主なる神は、生きておられるから語ってくださるお方です。博士たちに対しては、主は一つの星を通して、ご自分の約束を示されました。この博士たちは、どういう学者たちか解からないけど、間違いなく天文学者たちでしょう。祭司でもあったかもしれないし、学者であったことは間違いなく、けど詳しいことは聖書は言っていませんから解かりません。
けど、この博士たちは、少なくとも真理を知りたい、真理を熱心に求めた人々だったに違いない。彼らは、主なる神に対して心を開いておりましたから、主は彼らに対して働くことができ、語ることができたのです。つまり彼らは、生けるまことの神、偽者じゃなくて本物を慕い求めたのです。
詩篇の作者ダビデと同じ気持ちを持っていたんじゃないでしょうか。

詩篇42:2
2私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

と言ったのであります。イエス様がお生まれになるだいたい200年前に、旧約聖書は初めて、ヘブライ語からギリシャ語へと翻訳されました。
この聖書は70人訳聖書と言いますが、この博士たちは間違いなくこの聖書を読むようになったでしょう。結果として主なる神の救い主についての約束を知るようになったのです。
民数記24章17節に一つの約束が書きしるされています。

民数記24:17
17私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。

博士たちが、約束の星が天に上がるのを見た時、彼らは「行こうよ。」イスラエルへと向かいました。どうしてかと言いますと、聖書の中で救いは、イスラエルから出るということが約束されたからです。
彼らは、救い主はユダヤ人として生まれるということを知っていたので、この救い主をユダヤの王と名づけました。彼らは、イエス様がお生まれになる、もちろん何ヶ月か前にこの約束の星を見、それからイスラエルへ向かって、旅立ったのです。
そしてイエス様がお生まれになった時、エルサレムに着きました。メサイヤがお生まれになったという約束を彼らは知っていました。真理を切に求めていましたから、主は聖書を通して、また星を通してその御心を語られたのです。

主は語るお方です。当時、博士たちは星を通して導かれました。そして博士たちに語っただけでなく、羊飼いたちに対しても、主は語っておられたのです。主は御使いを通して語りました。
主なる神は、天使をヘロデ王のもとに送ったのではない。あんまり知られていない、名も無い羊飼いたちのもとに送りました。天が彼らに「あなたがたのため、救い主がお生まれになった。あなたがたのために王がお生まれになった。あなたがたのために主がお生まれになった。」と語られました。これはすばらしい喜びの知らせでした。
天の軍勢も共に現れて、主を賛美したとあります。

ルカの福音書2:13-14
13すると、たちまち、その御使いといっしょに、多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。
14「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

イエス様によって、主なる神との間に断絶していた平和が継ぎ合わされたのであります。イエス様なしには、人は誰でも神と敵対する関係にありますけど、イエス様によって、この敵対関係が克服されました。
父なる神が、この地上に送ってくださった賜物であるイエス様を、自分自身の心で受け入れる人々は、もはや神に対して敵対する関係にあるのではなく、主の御心にかなう者となります。
主なる神の御心にかなう者となろうと思わない人は、言うまでもなくそうなることが不可能です。けれどもそれを求める人は、主によって本当の平和を得、主の御心にかなう者であるという確信を持つことができるのです。

罪によって、確かに人間は悪魔の奴隷となりました。このことを主は心から悲しんでおられます。けれどもイエス様は、父の御心にかなうひとり子です。
父なる神は何度もイエス様に向かって「これはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」と語っておられます。
イエス様を受け入れる人は、もちろん義と認められ、イエス様のゆえに、神の御心にかなう者となります。

主は、今話したように星を通して博士たちに語ったのです。そして天使を通して羊飼いたちに語っておられました。
シメオンに向かって主は、どういうふうに語ったかと言いますと、ルカの福音書で書かれているように、聖霊を通して彼は導かれたのです。
シメオンという名前の意味は、なかなか良い意味です。「聞きとどけられる。」主は聞いてくださるだけではなく、聞きとどけてくださる、約束を守るお方であるということです。主は、シメオンの願いを聞きとどけられました。

彼は、主の自分自身に語られたこと、また主の御力を自ら体験することができた人です。シメオンについて聖書は何と言っているかといいますと、「この人は正しい人であった。」と語ってます。
言うまでもなく、生まれつき正しい人は一人もいません。自分の罪を認め、告白し、罪から離れ、イエス様を受け入れる者は誰でも、聖なる神の前に正しい者とされます。こうしてイエス様の正しさが、その人の内に宿ります。
シメオンは、自分自身の罪を認め、自分自身を神に明け渡しました。また聖書は彼について何と言っているかといいますと、「彼は、神を恐れる人だった。」主を恐れることこそが、考えられないほど大切です。

昔の茨城県の水海道だったんですね。一人の兄弟、忠実に主に仕える兄弟だったんですけど、彼はね、人を大切にしようとしない男でした。人を絶対に求めなかった兄弟でした。彼は、人を褒めようと思ったならば、いつも言ったんです。「向こうの兄弟を見て。あの姉妹を見て。彼らは主を恐れている。」
考えられないほど大切です。シメオンは、主を恐れた男でした。私たちは、日々の生活の中で、義理人情に縛られ、行動しているのでしょうか。あるいは、主のみを恐れて歩んでいるのでしょうか。
罪を赦され義とされることは、我々の生涯において最も大切な事柄です。またそのことを体験していない方がもしありましたら、そのことを今日でもご自分のものとすることがお出来になります。イエス様のすばらしい呼びかけは変わらない。時代遅れにならない。

マタイの福音書11:28
28すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

イエス様は、わたしのもとに来なさいと呼び続けておられる方です。このように我々に対して語っておられ、我々を招いておられるお方とは、この主イエス様です。
イエス様は、我々の助け主であり、救い主であられ、罪を赦す力をお持ちであり、全く新しい人生を我々にお与えになることが出来る愛の救い主です。
誰が招かれているかと言いますと、もちろん疲れた人々だけ。いろいろなことで悩んでいる人々だけ。他の人々はどうせ来ようとしない。助けを求めようとしないからです。

イエス様が招待してくださる根拠とは、いったい何なのでしょうか。それは我々の側にあるのではなく、主が私たちのような者を愛してくださっているからです。
主は、私たちを罪のなわめから解き放ち、私たちがしもべとして仕え、主のご栄光にあずかる者となることを心から望んでおられます。主は、いつその招待にあずかることが出来るのでしょうか。
聖書で言っていることは、確かにすばらしいものです。よく引用されるコリント第2の手紙6章2節です。「今は恵みの時、今は救いの日です。」

ヘブル人への手紙の著者の書いたのです。「今日、もし御声を聞くなら心をかたくなにしてはならない。」、ヘブル人への手紙3章7節ですね。イエス様の御許に行くとは、罪を告白し、意識して主を受け入れ、イエス様に従って行きたい、従っていこうというという決意を意味しています。
シメオンは、救い主がお生まれになることによって、人々は一つの決断を迫られるということを知っていました。つまり、ある人々はイエス様を受け入れて、救いにあずかるような人々であり、そうでない人々は、イエス様を拒否することによって、倒れ滅びるということをシメオンは知っていたのです。主なる神は、死んでおられるお方ではなく、おしでもない。

かつて主は、星を通して、天使を通して、また聖霊を通して語られました。今日、主はもちろんおもに聖書を通して、家族の中の救われた人を通して、あるいは病気を通して、苦難を通して、死を通して、地震や公害の問題などを通して主は語っておられるのです。
偶然はありません。主は他ならぬ人間一人ひとりに対して語り、私たちの心に何事かをお語りになりたく思っておられます。
だから「今日、御声を聞くなら心をかたくなにしてはならない。」とあります。クリスマスは、私たちに何を語るか、すなわち主は語ってくださるのです。いろいろな方法を通して。

第2番目、答えとして、我々人間は求めなければならない。適当ではなく、真剣に求めなければならない。博士たちも羊飼いたちもシメオンも真剣に求めました。
生けるまことの神は、ただ一人しかおられません。また救いに至る道もただ一つであり、真理もただ一つです。
生けるまことの神は、イエス様を通して、ご自身をお現しになり、救いに至る道は、イエス様によってのみ開かれ、真理とは何かの事柄ではなく、イエス様です。主イエス様ご自身です。

生けるまことの神を求める者は、主に出会うことができ、まことの救いを求める者はそれを体験し、真理を求める者はそれを自分のものにすることができるのです。私たちは博士たち、羊飼いたち、シメオン、この3つの場合を通して、どのように彼らが真理を求めたかを、聖書を通してはっきり知ることができるのです。
たとえば博士たちは、遠い東の地からやって来た。隣の町からじゃない。隣の国からじゃない。遠い国からやって来ました。結局、犠牲を払い時間を費やして、イスラエルという国にやって来たのです。
彼らは、暇をもてあまして退屈であったから、暇つぶしのために旅に出たのではない。彼らは、生けるまことの神を求めたから、まことの救いを求めたから、真理を知りたかったから、長い困難な旅に出発したのです。

今日の我々のとっている態度はどうでしょうか。集会に集うのは、何か自分に問題がある時、あるいは他に何も仕事がない時に集ってはいないでしょうか。自分の問題を解決されたなら、もはや集会に集わなくてもいいと思う人々もいます。彼らにとっては、まことの真理よりもイエス様によるよりも、自分自身の日常生活の方が大切なものとなります。
これらの人々の思いは、目に見えるもの、時とともに過ぎ去るものに対してのみ受け入れられている。まことの神真理そのものであるイエス様に対して向けられていない。これらの人々は、真剣な求め方をしていない人々ではないでしょうか。けどもこれは危険なことでしょう。
パウロは、ガラテヤ地方に住んでいる兄弟姉妹に、次のように忠告したのであります。

ガラテヤ人への手紙6:7
7神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

主を、主なる神のみを真剣に求めようと願っていない人は、結局、主から裁きを受けることになると聖書は言っています。今日、多くの人々が抱えている最大の問題、つまり神が我々の上に下しておられる裁きは、第一の問題が第一とされないこと、つまり最も大切なことが大切にされないことです。
博士たちは、遠路はるばると旅をしてきました。それは彼らが、人間にとって最も大切な事柄を求めていたからです。真剣に求められるところには必ず幼子のような信仰が伴います。
羊飼いたちもまた真理を真剣に求めたのです。それゆえ彼らは、自分たちの羊の群れをそのままにして、ベツレヘムへ行きました。このことは、一見軽はずみな行動なのではないでしょうか。狼がやって来て、羊を引き裂くかもしれないし、あるいは盗人がやって来て羊を盗んでいってしまうかもしれない。離れることとはちょっと。

けれども彼らは、最も大切なことを求めるために、大切なことを大切にしなくなったんです。また最も必要なことを得るために、必要なことを捨てました。真剣に真理を求める者はみな、このようでなければならないのではないでしょうか。
彼らは羊飼いという自分たちの職業があったにもかかわらず、また昼間の疲れで、疲れていたにもかかわらず、真夜中にベツレヘムへ向かいました。
ヨハネの福音書3章の中で、一人の真剣に求めた学者ニコデモについて書かれています。彼も真理を求めて、真夜中にイエス様のもとに行きました。

前に読みましたマタイの福音書2章9節には、博士たちの見た星が彼らを先導したと書いてあります。星は夜にしか見えません。だから博士たちもまた、真夜中にイエス様のお生まれになった所へ行ったことが解かります。
私たちは、一人ひとり職場において、学校において、家庭において自分の課せられた使命を持っていますけど、そのことのゆえに最も大切なものをおざなりにすることは、残念なのではないでしょうか。会社や仕事が偶像になっている場合がありうることです。
私たちが、生けるまことの神に仕えるために、妨げとなっているものがあるとしたら大変です。博士たちや羊飼いたちも真剣な求め方をしましたが、シメオンという老人もまた真剣に求めた。真理を求めた人です。

聖書は彼について、前に話したように正しい人であっただけじゃなくて、神を恐れる男でした。さらにイスラエルの慰められることを待ち望んだと聖書は言っているのです。
待ち望みということは、現在の状態に何かが欠けていることを知っているということです。シメオンは、人間が主なる神から遠く離れていることを悩んでいましたから、救い主の到来を待ち焦がれていました。
彼は、信仰を持って待ち望む男でした。この待ち望みの根拠は、もちろん神のみことば、主の約束でした。言われているから、約束されているから彼は素直に信じました。

ルカの福音書2章29節から35節までのシメオンの言葉の大部分は、イザヤ書からの引用です。
だから言えることとは、彼は熱心に聖書を紐解きました。
今日もまた、真理を真剣に求める者は、シメオンのように熱心に聖書を親しまなければなりませんし、そのために時間を作ることは大切です。

シメオンは熱心に求めましたから、主は聖霊をもってこのシメオンに語りました。つまり彼は、死ぬ前に必ず救い主を見るという約束を受けていましたが、そのことが成就したのです。
イエス様がヨセフとマリヤに連れられて、エルサレムの神殿に行かれた時、シメオンはそこにいたんですけど、聖霊は彼に言ったから、彼に言うことができたでしょう。「この幼子こそ救い主だよ。」と。シメオンは聖霊の語る事柄に対して、心かたくなにしなかった。だから彼は、道であり、真理であり、いのちである主イエス様を知るようになりました。
今日、御声を聞くならば心をかたくなにしてはいけません。目に見えるこの世の事柄に目を留める者は、信仰を持つことができないのではないでしょうか。

ローマ人への手紙14:23
23信仰から出ていないことは、みな罪です。

博士たちや羊飼いたちやシメオンに見られるものは、幼子のような信仰です。彼らは、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」というみことばを聞いた時に、疑いを差し挟むことなく、ただちに主のもとに向かいました。幼子のような信仰は、必ず主によって報いを受けます。
彼らは初めは真理を求める者、耳を傾ける者でしたが、見いだしたもの、また目で見るものとなり、さらにはその事柄を人々に対して証しする者、また主を賛美する者に変えられたのです。
真理は、私たちは真剣に求めなければならないものです。博士たちは、遠くからやって来ましたが、それは今話したように、退屈を紛らわすための旅行でもなければ、ピクニックするためでも見物するためでもなかった。彼らは、真理を心から求めたからです。

羊飼いたちも自分の群れを捨てたのは、真夜中に遊びに行くためではなく、イエス様に出会いたいという切なる願いがあったからです。シメオンが宮に入ったのも、他にすることがなかったからじゃなくて、救い主に会いたいという切なる願いがあったからです。
彼らはみな多くの犠牲を払い、大切なものを捨て、自分自身を捨てた人々でした。彼らは、自分の満足や楽しみや快楽を求めることをやめ、みことばに聞き従いました。
彼らはみな、解かったんです。

すなわちイエス様のない所、自分の願いも満たされることはなく、イエス様なしに罪の重荷から解放されることもなく、イエス様なしに確信を持って人生を送ることもなく、苦しみの時、慰めを与えられることも力を与えることも、死を前にして光も希望も見いだすことはできないのだということを、私たちも知るべきだけでなく、この事実を回りの人々にも伝えるべきです。
主なる神はおしではない。語っておられるお方です。主は我々の答えを求めておられます。そして私たちが真剣に求めることを、主は切に望んでおられます。結果としてもちろん本物を見いだすようになり、礼拝せざるを得なくなる。

博士たちは、ただ単に求めただけではなく、求めて見いだし、幼子を礼拝したと聖書は言っています。彼らは、金、没薬、乳香を携えてきました。
金は最も高価な貴金属です。それゆえこれを捧げたということは、彼らは心からの感謝を現したことを示しています。乳香は本当の礼拝を現しています。また没薬とは、まことの愛を指しています。
ヨセフとマリヤは、あまり金を持っていなかった。貧しかったんです。普通は一歳の羊を捧げることになっていましたが、マリヤとヨセフはその金がなかったんです。はとを捧げただけと聖書は言っているのです。黄金は大変高価なものです。それらはヨセフとマリヤが幼子を連れて、エジプトに逃れる時、かけがえのない財産となったのです。

博士たちは、幼子の足元にひれ伏しました。この時に、カソリック教会がしているように、マリヤに対して礼拝が捧げられたのではなく、イエス様のみが礼拝されたのです。その時のイエス様、赤ちゃんとしてのイエス様は、解からなかった。
けれどもマリヤが礼拝されれば、もちろんマリヤは解かる。けども彼女は礼拝されてもらいたい気持ちだったでしょう。生まれた子供は結局、自分の所有物ではない。世の造り主である、世の救い主であると確信したからです。
没薬が砕かれると良い香りがします。自分自身を無にして、イエス様に対する愛のゆえに仕えていこうという態度は、イエス様にとって、ちょうどこの没薬の立ち上る香りのように喜ばれることです。

博士たちは、主を礼拝しました。私たちが礼拝しているものは、いったい何なのでしょうか。我々の感謝は、誰に捧げられ、我々の愛は、誰に捧げられているのでしょうか。
羊飼いたちもまた本当の礼拝者でした。彼らは、求めましたから主のみことばを聞くことができたんです。彼らは、みことばを聞き、それが事実であることを自分の目で確かめることができました。
彼らは、自分自身の目で世の救い主を見ました。

ルカの福音書2:17
17それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせた。

ルカの福音書2:10-11
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
11きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

羊飼いたちは、ユダヤの全地にわたって、預言者ミカによって告げられたみことばが成就したことを証しして周りました。羊飼いたちの心は、大きな喜びに満たされたのです。主の使いは、ルカの福音書2章14節に書いてあるように「いと高き所に、栄光が、神にあるように。」と賛美しました。
羊飼いたちは、同じように主を崇め、賛美したとルカの福音書2章20節に書きしるされています。彼らは、真剣に真理を求めましたから、救い主に出会うことができた。救い主に出会った人々は、その結果、3つの態度をとります。

第1番目、その心は喜びに満たされます。
第2番目、他の人々に対して自分の証しを告げざるを得なくなります。
第3番目、主を崇め、賛美するようになります。

最後にシメオンについてちょっと考えたいと思います。彼は、礼拝者になりました。

ルカの福音書2:28-30
28すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
29「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
30私の目があなたの御救いを見たからです。

ソロモン王は、昔次のように書いたのです。

箴言10:28
28正しい者の望みは喜びであり、

と書いてあります。これは、正しい者は待ち望みの信仰を持ち、さらにそれは喜びに変えられるという意味です。このことをシメオンは身をもって、体験することができました。「私の目があなたの御救いを見た」これが彼の証しでした。シメオンの願いは成就し、彼の心に平安が与えられました。待ち望む者は、それを得るようになりました。
シメオンは主を褒め称えたと聖書は簡潔に述べています。彼の心を表現する言葉はありませんでしたから、聖書はただ彼の心に起こった事実だけ、このように述べたのです。
シメオンはもはや死に対して恐れをいだくことがないばかりか、喜びと安らぎのうちに死に臨むことができたのです。シメオンは、この世の救い主に出会うことができたから、安らかに死を迎えることができました。彼は、主なる神のまことの礼拝者となりました。

我々のテーマは「クリスマスは我々に対して何を語っているのか」、答えは、主なる神はいろいろな方法を通して語ってくださいます。今日もなお我々に対してもちろん語っておられるお方です。主は他ならぬ人間一人ひとりに対して語っておられるお方です。
主の御声を聞きたいと願う者は、御声を聞くことができます。そしてその人は、真理を真剣に求めるようになります。真理を求める者は、その努力が空しく終わることがない。またその人は真理を見いだすことによって、主のまことの礼拝者となります。
最後に主なる神が語られた時、人々はどのような態度をとるか。このことを3つの実例を通してちょっと見たいと思います。

第1番目、イエス様がお生まれになった時
第2番目、カルメル山におけるエリヤの例によって
第3番目、初代教会の信者たちについて

第1番目、イエス様がお生まれになった時にも真剣に主を求めた人々がおりました。今日学んだ博士たち、羊飼いたち、シメオンはその例でしょう。
エルサレムの住民たちや聖書学者、宗教家たちは、心から救い主を求めたいという気持ちがなかったんです。彼らは日々の生活に追われ、自分自身の事柄で心がいっっぱいでした。そしてまことの神を求めようと気持ちがなかった。
彼らは、自分の病気や悩みなどの一時的な問題を解決してほしいという気持ちがあったんですけど、彼らの根本的な問題である罪の債務を解決してほしいという気持ちはなかったのです。

聖書学者たちは、聖書についてよく知っていましたが、聖書の語っている生けるまことの神に対しては、全くめくらでした。
彼らの求めていることは、人から認められることであり、自分自身の力で道徳的に高い生活をすることでしたが、この世に来られた救い主に対しては全く背を向けていました。当時の王であるヘロデ王は、意識的にイエス様に対して敵対しましたが、主イエス様を即座に殺そうとしました。彼の求めていたことは、自分の魂の救いじゃなくて、自分の名誉であり、自分の力であり、快楽でした。

2番目の例は、エリヤの時代です。このような3種類の人々は、このエリヤの時代にカルメル山において存在しました。エリヤは、ちょうど博士たち、羊飼いたち、またシメオンのように、ただ主なる救い主だけを求めたのです。
イスラエルの民は、イエス様がお生まれになった時も、エリヤの時代のどっちつかずの立場によろめいていました。彼らは、生けるまことの主に仕えることも、偶像に仕えることも決断することが出来なかったのです。
エリヤの時代のイスラエルの王であるアハブは、ちょうどヘロデ王のように、神の事柄を拒否し、その結果、憎しみを駆り立てて、エリヤを殺そうとしました。

3番目は初代教会の人々の中にも、私たちはこのような3種類の人々を見いだすことができます。それは、熱い、生ぬるい、冷たいという言葉で表されています。
エリヤも博士たちも羊飼いたちもシメオンも、言うまでもなく熱い人々に属しています。
彼らの心は主に対して燃えていました。詩篇の作者であるアサフは、次のように書いたのです。

詩篇73:25
25地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません。

すごい告白です。
パウロの心も同じものだったでしょう。イエス様のゆえに刑務所に入れられた時、彼は書いたのです。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

イスラエルの民は、イエス様がお生まれになった時も、エリヤの時代にも、熱くも冷たくもないぬるま湯のような状態でした。今日も同じようなことが言えます。
聖書に対して反対する気持ちを持たない人々は、決して少なくないけど、聖書を真剣に求めて読む、食べる人々は、わずかなのではないでしょうか。
言うまでもなく、ヘロデ王やアハブ王のように、自分自身の利益だけを求めて、主に対して心を全く冷たく閉ざしている人もいるのではないでしょうか。けど私たちは、いったいこの中のどれに属しているのでしょうか。

イエス様は、私たちを救うために、救い主としてこの地上に来られました。このことは、主なる神が我々に対して、悔い改めと信仰を求めておられることを示しています。
悔い改めと信仰は、我々の自分自身から出るものではありません。主なる神を切に求める人、主のみことばを聞きたいと思う人に、主から与えられます。
イエス様は、王としてこの世に来られ、私たちに従順と自分を無にして仕えることを求めておられます。けどもこれも、私たちが自分の力によって行なえることではなく、恵みとして主から与えられる生活態度です。これは必ず主に従って行きたいと思う人に、間違いなく与えられます。

イエス様は、主としてこの世に来られ、私たちに真実と愛とを求めておられるのです。
けどもこれも私たちの内から出るものではなく、ただ主のみに栄光を帰したいと思う人々にのみ、主から与えられるものです。
イエス様が我々の心の内に住んでくださることは大切です。けど、それに留まらず、イエス様が我々の全生活の支配者となってくださらなければいけません。

多くの人々は、困った時、必要な時だけ主に求めようとしますが、自分自身の支配権を主に明け渡すことは望んでいない。
我々の生活のうち、ほんのわずかでも主に捧げられていない部分があるならば、それは悪魔のつけ入る格好の口実となります。
もし、イエス様が、我々を支配し、導き、満たすことができるならば、我々の生活は本当に祝福され、実を結ぶ者となることができます。




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