引用聖句:ルカの福音書1章24節-56節
生けるまことの神が人間になられた。これこそがクリスマスです。 ちょうど12年前に、ある奥さんは非常に悩むようになっただけではなく、死んだほうがいいと思って、11階の建物から飛び降りてしまいました。死ぬことができなかったのです。奇跡的に助かった。 飛んできた医者は、死ななくてもやっぱり車椅子の生活でさえも全く不可能と判断してしまったのですけども、幸いに嘘でした。自分の足でまた歩くようになったんです。もちろん夫婦の間に問題があったから、何の希望もなかったし、もう絶望的でした。けれども二人の姉妹たちが重病人のために心配して、見舞いに行ったし、イエス様のことを紹介しました。 すぐ後でクリスマスだったんです。その時、病院のコーヒーショップに入って、小さなクリスマス会をもつようになりました。その時、その人は何と言ったかといいますと「死ななかったから良かった。イエス様は来られたから良かった。イエス様は代わりに罰せられ、死なれたから良かった。イエス様は近いうちにまた再び来られる。嬉しい。」と言ったのです。 ヘブル人への手紙9:28
パウロは喜んで証ししました。「言葉に言いあらわせないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。」これこそがクリスマスなのではないでしょうか。 もちろんクリスマスの本当の意味を解かるために、人間の観察、すなわち罪人を観察すべきなのではないかと思うのです。 なぜならイエス様は、罪人のために来られたから。罪人を招くために、失われた人々を訪ね出して救うために来られたからです。 マタイの福音書1:18-21
主なる神の言い尽くせない賜物のお名前は「インマヌエル」という名前です。「インマヌエル」とは「神我らと共にいる」ということを意味します。けども人間は、主なる神との交わりを少しも持っていません。これこそが恐ろしい事実です。 生きておられる唯一の主なる神は、人間をご自分の代表者として、自分の利益を代表するものとしてお造りになりました。この人間は言うまでもなく完全でした。この人間の環境も完全でした。それだけではなく、この人間は、主なる神との完全な交わりを持っていたのです。 造られた目的とは何でしょうか。造られた目的とは、父なる神の性質にあずかるため、また父なる神の愛に応えるため。それから父なる神の命すなわち永遠のいのちを宿すために造られたのです。 けれども創世記を見ると解かります。人間は、この大きな恵みの提供を受け入れなかったのです。退け、悪魔の誘惑に負けてしまったのです。悪魔の誘惑によって災いとなった選択をしてしまいました。 その結果とはいったいどういうものだったでしょうか。人間と主なる神との交わりは断ち切られました。人間といのちの泉である主の結びつきが、断ち切られました。 以前は、信仰と愛の交わりがあったけど、今は恐怖と恥辱の交わりになってしまいました。人間のわがままによって、悪魔との結びつきが生まれました。人間は悪魔の権力の下に入れられました。悪魔は今や人間を合法的に支配するに至りました。 悪魔の気持ちを解かるでしょう。「勝った。神の御心はダメになった。人間は自分のもの。自分の奴隷になった。」と喜んでいたでしょう。自分勝手な行動によって、人間は主なる神から離れ、暗やみに入りました。人間の精神は、主なる神に対して盲目となり、死んだものとなったのです。 もちろん体は死にませんでした。気持ちも意思も死ななかったのです。アダムは霊的に死にました。けれども霊的な死とはいったいどういうものでしょうかね。人間のわがままによって、人間の霊と主なる神の霊が分かれたのです。ですから人間の霊は、主なる神の導きにもはや応じようとしなくなってしまいました。 人間の霊は、主なる神に対して死んだものとなりました。この事実について、パウロもエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのであります。 エペソ人への手紙2:1-3
創造主から離れるということは、霊的な死を意味しています。 人間の断罪の一番大きな結果は、霊的死です。なぜならば、もし新しく生まれ変わらなければ永遠に滅んで死んでしまうことですから。 創世記2:17
と主は注意したのであります。ご存知ですけれど、最初から見ると解かります。人間は禁じられた実を取って食べました。主は、取って食べると死ぬと言ったんです。 けどもアダムとエバは、食べた後でも、もちろん肉体的には生きていました。元気でした。風邪をひいたと書いてないのです。ガンになったと書いてないのです。生きていました。 欲しがること、志すこともできたんです。ですから人間の魂もまた相変わらず生きていたのです。けども霊的に死んでしまいました。 ところがこの霊的死とはどんなことを言うのでしょうか。人間の目は、目の前にあるものを見るために備えられていますけど、目の視神経を断ち切るならば、もちろんいっぺんに目があっても見えなくなります。天気が良く景色がすばらしくても、それらを見ることができません。目は死んだものになったからです。 聴覚障害者の耳も同じでしょう。人がしゃべっても、鳥が美しい声でさえずっても、またすばらしいオーケストラの演奏を聴いても無駄であります。聴覚障害者の耳は、あらゆる音に対して死んでいるから。人間は、主なる神に頼らないで行動した時、霊的に死んでしまいました。 人間は霊によって主なる神を認め、主との交わりを持っていましたけれど、霊的に死にました。結局、主なる神に対して応えなくなってしまいました。人間はなおも霊は持ち続けましたけど、主なる神の霊、いのちの泉から離れてしまいましたから、その人間の霊はいのちを持っていません。 盲人は目を持っていますけど、その目は見えません。同様に死んだ人間の霊は、神を認めることができません。それは霊的な死です。 人間の霊は、主なる神から離れると死んでしまいます。これが霊的な死です。 もし私たちは、聖書の事実について主なる神のすばらしい賜物であるイエス様について、生まれながらの人と話すと、もちろんピンとこないし、彼らは私たちを睨んで、少しも解からない。 多分その人はとてもいい教育を受けて、信心深い人であるかもしれないけど、聖書の話なんて彼らにとって馬鹿げたことです。 屍に一生懸命はなしても、もちろん応えられません。同じように生まれながらの人は、主なる神の御霊の賜物を受け入れられないと聖書は言っています。 パウロはコリントにいる兄弟姉妹に、この事実について次のように書いたのです。 コリント人への手紙第I、2:14
主なる神は、ご自分の御子であるイエス様を遣わすことによって、救いの道を開いてくださいました。 イエス様の人間となることは、もちろん何千年前から預言されたのです。イエス様は、天地創造の前に神の小羊として死ぬと承諾されました。聖なる神の、人間のわがままに対する答えは、イエス様の犠牲の死でした。 けど死ぬために、イエス様はまず人間にならなければならなかったのです。イエス様は人間となることは、初めて創世記の3章15節に預言されています。 創世記3:15
こういうふうに主は、蛇すなわち悪魔に言ったのです。この女から生まれる人は、特に力強い方であり、そしてこの方は女の末であることもはっきりと書いてあります。これは注意すべきことなのではないでしょうか。普通、子供が生まれた時、いつも男の末から生まれると言います。 けれども御子イエス様の場合、ご自分の誕生のために人間的なお父さんは必要ありませんでした。だから女のすえと聖書は言ってます。女のすえは、悪魔のかしらを砕くと預言されました。 この超人は悪魔に打ち勝つとも約束されたのです。この創世記3章15節には、救い主が女から来る。救い主は悪魔に打ち勝つ。救いの代価は苦しみであろうということがはっきりと預言されたのです。 イエス様は、処女から生まれました。そして十字架で悪魔に打ち勝ちました。救いの代価は、救い主の命でした。 イエス様の人間となることは、次のように預言されたのです。来るべき救い主に対する預言のことばです。 イザヤ書7:14
『インマヌエル』とは、「救いの神は、我らと共にいる」ということを意味しています。 ここで一人の人、すなわちイエス様のうちに2種類のいのちがあります。主なる神、すなわち我ら人間と共にいます主なる神は、人間的な外見をとるようになると預言されたのです。 次の9章ですね。 イザヤ書9:6-7
もし、イエス様が普通の人間だったら、決してこのような名前を持っていなかったはずです。 もちろんこの約束された救い主は、どこにお生まれになるのか、もちろん何百年前からも預言されました。 ミカ書5:2
イエス様の生まれる場所について、こういうふうにはっきり預言されたのです。この預言は、今話したようにイエス様は、人間的な外見をとった父なる神の御一子であったことがよく解かるはずです。 堕落した人類を救うためにイエス様は、人間となりました。自由意志を持って、イエス様はどうしようもない人間を救うために、この地上に来られたのです。 ご自分が人間になることは、考えられない犠牲でした。 クリスマスの時、多くの人々はイエス様の誕生について話しますけど、クリスマスはイエス様の始まりじゃない。この地上に来られたことにすぎなかったのです。 その前に、結局この大宇宙が造られる前に、イエス様は父なる神と共にあったと聖書は言っています。 聖書の中で真珠のような書であります。イエス様の祈りです。この祈りの中でイエス様は、昔々のことを言われました。 ヨハネの福音書17:5
またパウロは、コロサイ人への手紙1章16節に世が造られる前に、万物よりも先にイエス様は、父なる神の御そばで栄光をお持ちになったことを書いたのです。 コロサイ人への手紙1:16
イエス様によって、すべてが造られました。何と言うすばらしい主でありましょう。 このすばらしい主イエス様は、自由意志を持って、堕落した人類を救うためにこの地上に来られました。パウロはこの犠牲について書いたのです。 ピリピ人への手紙2:6-8
何という主でしょう。私たちのイエス様は、私たちを救うために天国のすべての栄光を捨てました。イエス様にとって、人間になることは、ものすごい犠牲でした。 聖書は言っています。パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第II、8:9
天国の栄光をお持ちになったイエス様は、人間と共にすなわち悪魔の奴隷と共に生活しなければならなかったのです。だからこの人間から離れるのに、イエス様はよく夜じゅう山を登って、父なる神と話し合ったのです。 もしイエス様が十字架の上に亡くなられなくても、ご自分が人間になることとは考えられない犠牲でした。イエス様は、我々のために人間になりました。どうして人間になったかと言いますと、もちろん死ぬことができるためです。神としてのイエス様は、死にません。永遠のいのちそのものだからです。 マタイの福音書20章28節を見ると、この事実についてはっきり書かれています。 マタイの福音書20:28
私たちの主イエス様は、人間になっただけでなく、奴隷の仕事をするようになったと聖書は言っています。 ヨハネの福音書13:4-5
お客様が来ると、お客様の足を洗うのはもちろん当時の習慣だったんです。けれどもこれは、家の主人がやったことがない。奴隷でした。お客様の足を洗うのは奴隷の仕事でした。 天国のすべての栄光をお持ちになったイエス様は、我々のために人間となり、奴隷の仕事をしてくださいました。 マタイの福音書15章を見ると、よく知られている箇所です。初めて読むといったいどういう話か、どうしてイエス様はこの態度をとったのかと思う人もいるでしょう。 マタイの福音書15:21-28
26節、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」とあります。この女はユダヤ人ではなく、カナンの女でした。すなわち異邦人でした。そしてイエス様の話によると、ユダヤ人は子供であり、異邦人は犬のような汚れたものです。 イスラエルの民は、主なる神によって選ばれた民であり、他の国々は異邦人であり、犬と同じようなものです。 原語を見ると、もっと強い言葉が使われています。すなわち、「捨てられた犬、追い出した犬」です。 もちろん聖書は、イエス様が異邦人のためにも亡くなられた、すなわち捨てられた、追い出された犬のようなもののためにも、亡くなられたと書いてあります。追い出した、捨てられた犬は、誰にも属していない、自分の家を持っていません。イエス様の生活とはそういうものだったでしょう。 イエス様ご自身で言われました。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子には枕するところもない。」文字通り、イエス様は、ホームレスでした。殴られ、虐待され、最後に十字架につけられました。我々ひとり一人のために、イエス様は十字架につけられたのです。 イエス様は、我々のために人間となって、奴隷の仕事をしてくださり、捨てられた犬のように取り扱われ、罪の塊とされたと聖書は言っています。これももちろん想像できないし、考えられません。パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。 コリント人への手紙第II、5:21
イエス様は、はっきり言われました。「わたしは、必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして3日目によみがえる」と言われたのです。 悪魔は、イエス様にこの世のすべての国々とその栄光を提供したことがあります。イエス様は、断ったんです。私たちのために死ぬことこそが、イエス様の心からの願いでした。 テモテへの手紙第I、3:16
パウロは喜んでまた書いたのです。 ローマ人への手紙8:32
イエス様は、犠牲になられただけじゃなく、救いの代価を支払っていてくださっただけではなく、このイエス様は近いうちに迎えてくださるお方です。結局、来られたお方がまた来る。 |