引用聖句:マタイの福音書1章18節-21節
ヨハネの黙示録を見ると、人間の堕落について書き記されています。悪魔は、ヘビを通して人間になんと言ったかと言いますと、「あなたがたは、神のようになる。」 もちろん、クリスマスの時、私たちは逆のことを喜んでいます。神は、人間になった。 たとえば、学校であんまり勉強できない子供も、後で、立派な学者になる可能性はあります。死にそうな人も、元気になる可能性があります。乞食がね、金持ちになる可能性もありますし、刑務所から出た人が、立派な人格者になる可能性もある。けれども、全く、考えられないことが起こった。生けるまことの神が、人間になった。 本当は、想像できませんし、理解することもできません。けれども、これこそがクリスマスです。 パウロは、言葉に言い表せないほどの賜物のゆえに感謝しますということができたのです。 言葉に言い表せないほどの賜物のゆえに感謝する。これこそが、クリスマスなのではないでしょうか。 前に、知り合いになった二人が結婚したのですけど、生き地獄でした。会話のない結婚生活でした。奥さんは、結局あきらめて、どうせだめだから、11階から飛び降りてしまったのです。11階だったら、間違いなく死ぬ。 けれども死ねなかったのです。医者は、死ななかったの奇跡だ。でも、一生、車椅子だよと言ったのです。けれども、医者の言ったことはうそになりました。杖なしに歩けるようになりました。 その時、彼女を知っていた人々は、ちょうどクリスマスの前だったからお祝いしましょう。その時、本人は、なんと言ったかと言いますと、「イエス様は、代わりに罰せられ、死んでくださったから良かった。」 「イエス様は、代わりに犠牲になっただけではなく、生きておられるお方として、私のことを心配してくださる。そして、イエス様は近いうちにまた来てくださるから、うれしい。」そう言うようになりました。 人間が、神になるのではない。逆です。生けるまことの神が、人間になったのです。主なる神の言い尽くせない賜物の名前は、「インマヌエル」。インマヌエルとは、「神、我らと共に居る。」ということを意味します。 もちろん、生まれながらの人は、主なる神との交わりを少しも持っていない。これこそが、恐ろしい事実です。だから、悩む者です。生きておられる唯一の主なる神は、人間を、ご自分の代表者として、主の利益を代表するものとして、お造りなりました。 この人間とは、どう言うものであったか、ちょっと想像できないけど、間違いなく完全でした。完全なる神は、不完全な人間を造ることができない。 人間は、完全だっただけではなくて、人間の環境も完全でした。それだけではなく、この人間は、主なる神との完全な交わりを持っていました。この地上の上だったけれども、天国みたいだったのに違いない。 人間が造られた目的は、いったいなんだったのでしょうか。父なる神の性質に預かるために、また、父なる神の愛に応えるために、また、父なる神の命を、永遠の命を持つために造られたのです。 ところが人間は、この大きな恵みの提供を退けました。悪魔の誘惑によって、災いなる選択をしてしまいました。その結果とは、いったい何だったでしょうか。人間と主なる神との交わりは、完全に断ち切られました。人間と、命の泉である主との結びつきが、断ち切られたのです。 以前は、信仰と愛の交わりがあったのですが、今は、恐怖と恥辱の交わりになってしまいました。人間のわがままによって、悪魔との結びつきが生まれたのです。人間は、悪魔の権力の下に入れられてしまいました。 悪魔は、今は、合法的に支配するようになったのです。悪魔は、私は勝った。主なる神の御心はだめになった。人間は、悪魔の奴隷になったと喜んだことでしょう。自分勝手な行動によって、人間は、主なる神から離れ、暗闇にはいりました。人間の精神は、主なる神に対して盲目となり死んだものになってしまったのです。 人間は、主なる神に頼らないで行動したときに、霊的に、死んでしまったのです。人間は、霊によって主なる神を認めることができたし、交わりを持つことができました。けれども、人間は、霊的に死んでしまったのです。 しかし、主なる神は、ご自分の御子である主イエス様を遣わすことによって、救いの道を開いてくださいました。人間が罪を犯してしまったから創造主は困った、困ったどうしよう。イエス様を遣わそうと思ったのではない。 人間は、ひとりもいなかったし、その時、イエス様ご自身が自発的に、どうしようもない人間のために死にたい、結局、イエス様が人間となることは、何千年も前から預言されたのです。 聖書を見ると、イエス様は、天地創造の前に、もちろん、いろいろな名前を持っていました。ひとつの名前は、「神の小羊」だったのです。イエス様は、神の小羊、すなわち人間の代わりに死ぬことを承諾されたのです。 聖なる神の人間のわがままに対する答えは、イエス様の犠牲の死でした。けれども、死ぬためにイエス様は、まず、人間にならなければならなかったのです。 神として死ねないから。我々は、生きるために生まれた。イエス様は、死ぬことができるために生まれた。 イエス様が人間となることは、はじめて創世記の3章15節に、預言されました。 創世記3:15
こういうふうに、主なる神は、へび、すなわち悪魔に言ったのです。この女から生まれる人は、特に力強いお方であることが預言されました。そして、この方は、女の末であることもはっきりと書かれています。これも、ちょっと注意すべき事実なのではないでしょうか。 普通、子供が生まれる時、いつも、男の末から生まれると言います。けれども、御子イエス様の場合、ご自分の誕生のために人間的なお父さんは、全く必要なかったのです。だから女の末と呼ばれ、その方は悪魔の頭を砕く。この超人は悪魔に打ち勝つと約束されました。 この3章15節は、救い主が女から来る。救い主は、悪魔に打ち勝つ。救いの代価は苦しみであろう。ということがはっきりと預言されたのです。 イエス様は処女から生まれました。そして、十字架で悪魔に打ち勝ちました。救いの代価は、救い主の命でした。イエス様が人間となることは次のように預言されました。 イザヤ書を二カ所読みます。 イザヤ書とはご存知のように、旧約聖書の福音書と呼ばれています。 イザヤ書7:14
インマヌエルとは、いま話したように、「救いの神、我らと共にいる」と言うことを意味します。 ここで、ひとりの人、すなわちイエス様のうちに二種類の命があります。主なる神は、すなわち、我ら人間と共に居ます。主なる神は、人間的な外形をとるようになると預言されたのです。 イザヤ書9:6-7
もし、イエス様が普通の人間だったら、決してこのような名前を持っていないはずです。 救い主がどう言うお方であるかちゃんと預言されただけではなく、イエス様の生まれる場所も預言されたのです。 ミカ書の5章2節に、ベツレヘムで生まれると預言されました。 ミカ書5:2
もちろん、このベツレヘムで生まれると言う預言は、イエス様の誕生の何百年も前でした。聖書を読むと、イエス様は、人間的な外形をとった父なる神の御ひとり子であったことが、よくわかるはずです。 堕落した人間を救うために、イエス様は人間になりました。自由意思をもってイエス様は、堕落した人間を救うために、この世に来られたのです。ご自分が人間になることとは、考えられない大きな犠牲でした。 確かに、クリスマスの時、多くの人々はイエス様の誕生について話しますけど、クリスマスは、イエス様の始まりではなく、この地上に来られただけでした。その前に、結局、この大宇宙が造られる前にイエス様は、父なる神と共にあった。考えられない栄光を持っていたとあります。この事実について、イエス様は、祈りの中で告白してくださいました。 ヨハネの福音書17:5
祈りの中でイエス様は、告白されました。また、パウロも、同じ事実について、違う言葉で言ったのです。 「世が造られる前に、万物よりも先に、イエス様は、父なる神の御そばで栄光をお持ちになった。」と。 コロサイ人への手紙1:16
イエス様によって、すべてが造られました。なんと言う素晴らしい主でありましょう。 この素晴らしい主イエス様は、自由意思を持って堕落した人類を救うために、この世に、来られました。 パウロは、ピリピ人の手紙の中で、つぎの言葉でこの事実を証ししたのです。 ピリピ人への手紙2:6-7
想像できない考えられない事実です。考えられない犠牲です。自分を卑しくして、十字架の死まで従われたとあります。なんと言う主でありましょう。我々のイエス様は。 人類を救うために天国のすべての栄光をイエス様は捨てました。イエス様にとって、人間になることとは、考えられない、ものすごい難しかったのです。聖書が言っています。 コリント人への手紙第II、8:9
天国の栄光をお持ちになったイエス様は、人間と共に、すなわち悪魔の奴隷と共に生活をしなければならなかったのです。だから人間から離れたいと言う気持ちになり、たびたび夜中、山に上って、朝まで父なる神と話し合い、祈ったのです。 もし、イエス様が十字架の上で亡くなられなくても、ご自分が人間になると言うのは考えられない犠牲でした。 イエス様は、我々、ひとりひとりのために人間になった。どうして人間になったかと言うと、死ぬことができるためです。 マタイの福音書20:28
イエス様は、死ぬことができるために、この世に来られました。けれども、イエス様は、人間になっただけではない。奴隷のように、取り扱われたとあります。 ヨハネの福音書13:4-5
これは、当時の奴隷の仕事でした。時代によって、国によって習慣はもちろん違うでしょうね。日本で、家に入ると、必ず靴を脱いで入るのです。ドイツでは、そう言う習慣がない。靴、そのままで入る。我々が、ドイツに帰るとね、日本の習慣の方が良いと思う。ちゃんと靴を脱ぐんです。けれども、ドイツ人は絶対にしない。違う習慣です。 昔、2,000年も前に舗装された道はなかった。だから、やっぱり、歩くと足は汚くなる。当時の習慣で、お客さんの足を洗うのは、当然の話でした。けれども、それはいつも奴隷の仕事で、その家の主人のすることではありませんでした。 けれども、イエス様はやったのです。考えられない。ペテロが反発したのは当然です。 ヨハネの福音書13:8
イエス様は洗いました。天国のすべての栄光をお持ちになっていたイエス様が、我々のために人間になり、奴隷の仕事をしてくださいました。 もう一カ所、読みましょう。 マタイの福音書15:21-28
ちょっとぴんと来ない箇所かもしれない。 「主よ、その通りです。」、いい答えですね。「小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」、イエス様はうれしくなったでしょうね。 この女は、特別に選ばれた民、ユダヤ人ではなくて、カナンの女でした。異邦人でした。そして、イエス様の話しによると、ユダヤ人は子供のような者であり、異邦人は、犬のように汚れたものです。イスラエル人は、神のよって選ばれた民であり、ほかの国々は異邦人であり、犬と同じようなものであるとイエス様は言われました。 原語を見ると、もっと強い言葉が使われています。すなわち、捨てられた犬、追い出した犬。 もちろん聖書は、イエス様が異邦人のためにも亡くなられた、すなわち捨てられた犬のような者、追い出された犬のような者のためにも亡くなられたと書いています。 追い出した、捨てられた犬は、誰にも属していない。自分の家を持っていない。イエス様の生活も同じでした。イエス様は、ご自分でこう言われました。 ルカの福音書9:58
イエス様は、文字通り、ホームレスでした。殴られ、虐待され最後に十字架につけられました。我々のために、十字架につけられたのです。 イエス様は、私たちのために人間となり、奴隷の仕事をしてくださり、捨てられた犬のように取り扱われ、罪のかたまりとされたと聖書は言っています。 コリント人への手紙第II、5:21
イエス様は、はっきり言われました。私は、必ず罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に甦ると言われたのであります。もちろん、これを信じた人は、ひとりもいなかったのです。けれども、イエス様の預言されたようになりました。 悪魔は、イエス様のこの世のすべての国々とその栄光を提供しようとしたことがある。一回だけ、私を拝めば、すべてをあなたにあげます。イエス様は、断ったのです。私たちのために死ぬことこそが、イエス様の心から願いだったのです。 私たちのすべてのためにご自分の御子をさえ、おしまずに死に渡された方が、どうして御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。 結局、イエス様が来られたから良かった。イエス様が代わりに罰せられ死なれたから良かった。 イエス様は、近いうちに再び来られるからうれしい。 心から言うことができれば、本当に、幸せだと思います。 |