喜びのコンサート2006年元旦


ベック兄

(喜びのコンサート、2006/01/01)

今話されたように、聖書とは本当にすごいすばらしい生き物です。
フランスのナポレオンはめちゃくちゃな男でしたが、彼でさえ、聖書は死んだものではなく生きたものですと言ったそうです。
聖書とは、古いものでも、新しいものもなく永遠なるものです。

聖書に頼る者は絶対に後悔しません。この聖書から2箇所お読みします。この音楽の結果、ひとりひとりが同じ態度をとれば非常に有難いと思います。

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

もう一箇所、もっと古い箇所です。3,000年前、おそらく世界一の賢い男の告白です。

箴言3:5
5心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

人間の理性は、そういうものを否定するでしょう。けども、上から与えられる信仰はその態度を取らざるを得ないのではないでしょうか。

昔、2人の学生がうちまで参りました。どうしてというと「理性と信仰」という題で論文を書かなければならなかったからです。
ふたりは信仰についてどのように考えたらよいかわからなかったから困っていました。そのために、信仰のことについて何かを知りたいと思ってうちまで来ました。
もちろん私たちも、「理性と信仰」について考えるべきなのではないでしょうか。なぜならば、イエス様に出会った者の取るべき態度が、理性的なものではなく信仰的なものであるからです。

理性とはなんなのでしょうか。??を作る能力、??、判断を下す能力であります。もちろんこれも悪いものではない。上から与えられている宝物です。
けど、それにもかかわらず、皆さんご存知でしょう。多くの見当違いや、計算違い、意味のないことをしてしまっているのではないでしょうか。
この理由から聖書は、「心を尽くして、主により頼め。自分の悟りに頼るな。」とあります。なぜ、自分の悟りに頼るなと聖書は言っているのでしょうか。人間は、神の敵である悪魔によって騙されて以来、我侭なものとして闇の中に置かれるようになったからです。

パウロは、エペソ人への手紙の中で次のように書いたのです。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。その可能性がもちろんあります。
その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知とかたくな心のゆえに、神の命から遠く離れています。神の命、すなわち主イエス様を持っていない人は、その知性において暗くなっていると聖書は言っています。

ローマ人への手紙1:28
28また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

人間が主なる神を知ろうとしないゆえに、主は、人間をなすがままにさせておかれるのです。知ろうとしないのは、すなわち求めたくないのは意思の決断です。知ろうと思えば知るようになります。
また、テモテへの手紙第IIの中で書いたのです。彼らは真理に逆らうのです。いつまでも学んでも真理を知ることができない者です。
真理に逆らう者は、主を体験的に知ることができない。これらの聖句を通してわかるように、自分の理性に頼ることは破滅と悲劇に終わります。あらゆる人間の知識は、たいしたものではない。限られたものです。不完全です。

コリント人への手紙第I、13:9
9というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。

結局、たいしたもんではない。
多くの人は、知識によって傲慢になり、自己目的に終わる危険性に直面しているのです。人間の知識が限られているということをよくわきまえている者は、信仰を必要とします。
信仰を持つ、すなわち主イエス様のもとに来る者は経験します。

コロサイ人への手紙2:3
3このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。

それですから人生において、体験的にイエス様を知ることが一番大切なことです。しかしこのように正しい知識と認識は、上からの光によって、聖書の啓示によって明らかにされるのです。イエス様を体験的に知るとは、上からの啓示を前提としているのです。
パウロは、この啓示によって変えられました。彼の証しは、次のようなものです。

ガラテヤ人への手紙1:12
12私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

神は、御子をパウロに啓示してくださいました。ただ啓示によってのみ、自分の本当の状態、すなわち罪の状態を知ることができ、それを通して、イエス様を体験的に知ることができるようになります。そうしてイエス様を認識することこそ、実際の信仰です。
この信仰によって、すなわちイエス様を体験的に知ることによってはじめて、私たちは恵みに預かることができ、永遠の命を自分のものにすることができるのです。ペテロは書いたのです。

ペテロの手紙第II、1:2
2神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。

またイエス様は言われました。すなわち永遠の命とは、彼が唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
イエス様を体験的に知ることによって、滅ぶべき罪人として主の恵みを得、本当の平安をもち、永遠の命を持つことができる人は本当に幸いなのではないでしょうか。

今まで話したことをまとめてみると、人間の理性だけに集中することはこの世的なことであり、必ず限界にぶつかってしまうのです。
人間の理解力は確かに論理的かもしれないが、つきつめていくと内面的なむなしさに決着してしまうのです。
それに対してイエス様の与えられる信仰は、あらゆる人間の認識や理性にまさっています。それゆえパウロは言えたのです。

ピリピ人への手紙3:8
8それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

なぜ、パウロが、このような出来事に遭遇したかというと、彼はイエス様の愛を体験的に知ることによって、その愛に満たされ、主の平安を味わい知ることができたからです。
キリストの愛は、人知をはるかに越えたものです。神の平安は人のすべての考えにまさると、彼は言ったのです。

信仰とは、主に対する絶対的な信頼です。これに対して人間の理性は自分の体や、命を心配しますが、その結果は不信仰に終わります。
パウロはある人々について、大部分の人々について、厳しいことを書いたのです。誰も、みな自分自身のことを求めるだけで、キリストのことを求めてはいません。これは私たちにも当てはまる言葉なのではないでしょうか。

人はいろいろな願いを持っています。これによって、人は自分のことを思ってるかどうかがわかるのではないでしょうか。
ひとつの求めてる願いは、いわゆる安全です。身の安全です。もちろん誰でもが、あらゆる面で安全でありたいと願っているのではないでしょうか。
お金を銀行に預金して、将来子供の教育費に当てようとしますし、、また老後のことを考えて生命保険に入ったりします。これは、安全を計る策にほかならないのではないでしょうか。

イエス様はそういう気持ちを理解できなかったようです。だから言われました。地に宝を蓄えるな、思い煩ってはならない。まず、神の国と神の義を求めよ、そうすれば、これらのものはすべて、みな添えて与えられるものです。
またお金だけではなく教育のことを考えても、人々はそこに安全を求めていることがわかります。福音を述べ伝える場合、神学校を出てはじめて、一人前になり、人の前で話すことができるのだと多くの人々は思っています。
これもひとつの身の安全を考えている態度にほかならない。

パウロは証ししました。

コリント人への手紙第I、2:2
2なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

もし私たちが自分の身をイエス様にまかせ、イエス様にゆだねきるなら、私たちは、まことに不安定なものになるでしょう。
パウロも人々に語ったとき、弱く不安であったことを正直に言ったのです。彼は、危険にさらされ、不安を身に感じ、死ぬのではないかと思ったことがあったことも聖書は教えています。
パウロは、私は圧迫されている、私には逃れ道がない。迫害され、地に倒されていると言いました。これは、安全とはおおよそかけ離れた状態ではないでしょうか。

それから人間の求めているのは、安楽です。安楽な生活を送りたい。この身をいたわっていきたいという思いを持つのは人間です。
イエス様はそういう気持ちも全く知らなかったのです。ですから、イエス様は次のように証しします。

マタイの福音書20:28
28人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

仕えるために、かわりに死ぬために、イエス様が来られたのはそれだけでした。
確かに福音書を読むとわかります。イエス様は、この地上にひとつの持ち物も持たれず、またこの世に故郷を持っておられなかったのです。
イエス様は辱められて黙り、誤解されて、自らを弁護せす、黙々として歩まれたのです。イエス様については、私は、虫であって人ではない。

詩篇22:6
6しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。

詩篇22篇の作者の言葉がぴったり当てはまります。

人間は自らを弁護することができますが、虫はそのようなことができません。へびと虫の違いは、大きさと力が違うだけではなく、蛇は身の危険を感ずると鎌首をもたげて向ってくるけど、虫は何もしないという所に違いがあります。
私たちは、あたかも蛇に似ているのではないでしょうか。虫はどんなにされても逆らうことをしません。なすがままにされています。
イエス様は、私は虫であると言えたのです。イエス様は、辱められ、殺されました。イエス様は、私のために、虫となってくださったと考えると本当に主を礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。

そして、このイエス様は父が私を遣わしてくださったように、私もあなたがたを遣わすと言われます。
主イエス様は、われわれの自我が打ち砕かれ、ヤコブが主と相撲をとって自我が砕かれたように、私たちも己に死んで主に仕えることを望んでおられます。
私たちが簡単な安楽な生活ではなく、ただ、イエス様のなされた生活を思いそれを行うなら本当に幸せです。けども、その前に、私たちは自分自身の心の状態を考えることが必要なのではないでしょうか。

私たちは例外なく、自らいたわり、また打たれたとき逆らっている蛇のような性質を持つ者です。
人はみな、身の安全を願います。安楽な生活を送りたいと願っています。けど、結果として幸せではない。

もうひとつ、悲しむことです。私たちが、疲れるとよく休むと言います。この休みが御言葉を学ぶことを怠り、祈ることを休み、集会に集うことをやめることを意味しているなら、それは霊的な命を殺してしまうことを意味しています。
臨在の主は、私たちの心の状態をよく知り、私たちが、自分の時、自分の計画、自分の楽しみを持っているかどうか。あるいは、「イエス様、わたしの持っているものは、みんなあなたのものです。あなたの御心を明らかにしてください。」と願っているかどうか。すべてご存知です。
イエス様は、「わたしは、自分の命を与えるために来た。仕えるために来た。」と言われ、「私は自分の願いを持ちません、自分の立場を、とりません。どうか、私の思いではなく父よ、あなたの御心をなしてください。」という態度を取り続けると、主の溢れるばかりの主の祝福が与えられるようになります。

信仰とは、主に対する絶対的な信頼です。そして理性とは自分の体や命を心配しますが、その結果は不信仰に終わります。信仰から出ないものは、すべて罪ですと聖書は言っています。
さらに信仰とは、全知全能なる神のすべてを確信することです。これに対して人間の理性は、主の全知全能なることを疑います。これもまた不信仰の現れです。

また信仰は、目に見えないお方を見ます。これに対して人間の理性は、心配そうに目に見えるものを見るのです。これも、また不信仰の現れにほかならない。
イエス様を信じるということは、徹頭徹尾、自らを主にゆだねることです。初代教会の人々とは、この態度をとったから大いに祝福されました。

コリント人への手紙第II、4:18
18私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

そして、ソロモンの証しも我々に当てはまるのです。

箴言3:5
5心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。

主により頼むと今日も奇跡を経験します。すなわち、どういう状況におかれていても喜ぶことができる。賛美することができる。主の御名をほめたたえることができる。間違いなくすべての不安から完全に解放されます。
今からこそ、主のために生きたいと望むようになるに違いない。




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