引用聖句:使徒の働き1章9節-11節
ルカの福音書24:50-53
過ぎ去った木曜日だったんです。ドイツで非常に大切にされた日。会社も学校も全部休み。日本のカレンダーには何も書いてない。ドイツでは、イエス様の昇天の記念日でした。 吉祥寺のある兄弟は、わたしにとって毎日がクリマスですと言いました。同じ思いで私にとって、毎日が昇天記念日ですと、思えばいいじゃないかと思います。 けども、非常に大切なのではないでしょうか。もしイエス様が昇天しなかったなら、イエス様が何のために死なれたか、結局わからない。もしイエス様が、昇天しなかったら、再臨もあり得ない。だから非常に大切なのではないかと思います。 イエス様は昇天され、高く引き上げられるようになったのです。 十字架の上で犠牲になられたイエス様、復活なされたイエス様、昇天なされたイエス様。近いうちに来られるイエス様を紹介することが、一番大切なのではないでしょうか。 なぜなら、イエス様だけが、あらゆる問題を簡単に解決することができるからです。 今の世で、安全なところがないでしょう。ある人々は、健康食品のための宣伝します。けど全部、単なる商売にすぎないのではないでしょうか。 今の世界はめちゃくちゃです。どうしてかと言いますと、平和の君であるイエス様は無視されています。そうなら、平和のために話し合いしても、全く意味のないことです。将来、とんでもない戦争が起こる。その時、人類の3分の1、20億人以上が殺されます。それを考えると、人間のそれまでの戦争の歴史もこども遊びでした。 20億人がいっぺんに殺されること、考えられない。でもそうなる。ですから、平和についての話はひとつの芝居です。けども、そのことが起こる前に、小羊の婚宴に招かれている者です。イエス様は迎えに来るのです。このイエス様を紹介するのは、大いなる特権なのではないでしょうか。 わたしたちは、どういうふうにイエス様を紹介すべきなのでしょうか。聖書は、ああだよ、こうだよと話しても、多くの人々をつまずかせます。 人間は、いろいろな悩みや苦しみによって、備えられた道にいなければ、黙って祈ったほうが良いのではないでしょうか。 中学の先生をしている兄弟がいます。今の先生にとって、頭の良い子は良い子になります。頭の良くない子は、良くない子。扱いやすい子が好き。そういう先生はやめるべきではないでしょうか。もしお医者さんが、病気だけ大切にして、病人を無視するとやめたほうが良い。 この中学の先生の兄は、自殺願望の子のために、無視された子のために労しました。彼の家で家庭集会すると、教え子も来る。彼はある先生にE-Mailを送ったのです。「疲れてたら、いらっしゃい。」その先生も、来ました。 教え子たちは、ミニ証しした。でも彼は言った、「何の苦しみもなければ、もう来なくて良いよ。」そうすればどう?来ました。 悩みを持たない人はいないからです。そういう意味で、イエス様を紹介することとは非常に大切です。イエス様は比類ないお方です。 この間、御代田で、どなたかに司会してもらいましょうと思ったら、ある兄弟が座ってた。ああ、いいなと思って司会を頼んだのです。彼は、ひと言葉だけ言ったのです。「みなさん、すばらしいプレゼントもらった。脳溢血で倒れて、体が不自由になった。ちょっと考えられないのではないか。けど本当にそう思った。だから証ししました。」 別の兄弟も、何年か前に会社をやめて、別の会社の社長になったんです。そして働いたのは4日間。4日目、葬儀があって、聖書を読んで祈った。その後倒れたのです。体が不自由になった。 けど、この間、彼は、今のままの状態で幸せです。喜びに満たされています。普通の人間は、「ちょっっと。おかしくなったかな。」と思うか、うらやましいと思うか、どっちか。 結局イエス様が働くと、人間はこういうふうになります。喜ぶことができるようになります。 イエス様のひとつの与えられている名前は、インマヌエルです。 最近、絵描きの兄弟に、新しい絵を描いてもらいました。イエス様に出会ってからは、彼はやっぱり、イエス様についてしか書けなくなった。ある専門家には、ちょと面白くないけど。 最近の絵は、最後の晩餐もはいってるのですが、これは、罪のための血の話しをしている。弟子達はピンとこなかったと思います。「何をしゃべっているの?」、それで一番大きく描かれているのは、ひとりの女性。マリヤなのです。高いナルドの<壺を持ってくる。 結局イエス様とは、どういう人を求めて来られるのでしょうか。イエス様を、心から愛している人々なのではないでしょうか。 使徒の働き1:11
イエス様の再臨について、新約聖書に240回書かれています。だから、考えられないほど大切なことです。 イエス様の再臨のときに、歓迎は大いなるものではないかと思います。イエス様は、ご自身の血でもって贖われた人々と一緒に、天にはいるようになります。 イエス様は天にあげられる一番最後になされたことは、イエス様はベタニアまで連れていき、祝福した。ベタニアに導かれたことは、昇天なさる前に最後になされたことです。 エルサレムから昇天なされたくなかったようです。エルサレムとは、もちろんイエス様にとって、悩みのたねでした。わたしは呼んだけど、誰も聞く耳を持たなかった。わたしが言ったけど、誰も悔い改めようとしなかった。 このエルサレムとは、宗教の町でした、聖書学者の住んでた所でした。イエス様はエルサレムを見て、がっかりしたのです。ベタニアのほうが、良かったみたいです。 イエス様はエルサレムを出て、ベタニアに行き、そこで夜をすごされた。ベタニアとは、イエス様にとって本当に大切な場所でした。ですからイエス様は、昇天なさるときも、その前に、ベタニアまで連れて行ったのです。 さあ、この地を末永く覚え、忘れてはいけないよと言ったに違いない。弟子達も、イエス様と一緒に何回も何回もベタニアまで行きまして、そしてある兄弟姉妹、またマリヤとラザロの家で、ゆっくり交わったのです。 ベタニアがどうして大切かと言いますと、この3人の兄弟のためだったのです。 ヨハネの福音書11章。この11章だけで、すばらしい。この11章で強調されているのは、イエス様は、この3人の兄弟姉妹を心から愛された。愛されていることわかれば、もういいよ。最も大切なのは、それなのではないでしょうか。 いろいろな話しを聞かせても、ときどき言うのです、「きょうの話し、忘れてもいいよ。」わかったと思ったら、悲劇的だからです。わかるものじゃないよ。けども、どうしても、確信すべきことは、私でさえも大いに心配され、愛されていると言うことです。 この3人の兄弟の特徴。マリヤは、イエス様を心から愛した。自分のことを忘れ、イエス様を心から愛した。結局、純粋な愛とはどういうものかと考えると、このマリヤを思い浮かべます。 マルタという女性は、まことの奉仕がどういうものであるかを明らかにしているのではと思います。 ラザロという男は、甦りの力を経験した者です。死は終わりではない。イエス様にとって、不可能なことはないことを証しするようになったのです。 この3人は、もちろん普通の人間と同じ者でした。これ欲しい、あれ欲しい。宗教の影響も受けたでしょ。ああしないと、こうしないとダメ。けどもやっぱり、心が満たされていなかった。イエス様にに出会うまで。 イエス様に出会ったとき、すべてが、変わった。もう価値観も人生観も、結局彼らは、喜ぶようになったのです。 結局、イエス様のない人生とは本当に無意味です。価値のないものです。マリヤは、主の足元に座ってみことばに耳を傾けた。イエス様との交わりが、彼女にとってすべてでした。イエス様の話しを聞いたとき、全部忘れて夢中になった。主よ、語って!。結果として彼女は元気になったのです。みことばこそが元気ももとなのではないでしょうか。 もちろんマリヤは、イエス様に聞き続けた。これは祈りです。ただ聖書だけ読めば、意味のないことです。なぜなら聖書は、祈るための材料にしかすぎないからです。 最近多くの兄弟姉妹は、「日々の光」を読むようになったでしょう。本当に良い。全国の兄弟姉妹が、今日同じ聖書を読む。それだけ考えても、うれしくなっちゃうじゃないの。 ひとつの箇所がわからなくても、何もわからなくても、「今日の、一日の戦いのために必要な力が欲しいから、よろしく。」、そういう飢え渇きを持って読めば、必ず祝福してくださいます。 読みながら祈ること。両方でなければダメ。マリヤは聞く耳を持ち、同時に祈り人でした。イエス様の足元に座ることなしに、祈りの生活はあり得ない。 彼女は、集会で祈っただけじゃない。もちろん自分の家で、静かになって、主よ語ってと祈ったのです。けどそれだけでなく、結果として、イエス様をよりよく知るようになり、心から、イエス様を愛するようになったのです。 それで、自分の全財産をイエス様に捧げるようになったのです。非常に高い油を彼女は、持っていたのです。親からもらったか、自分で買ったのかちょっとわからない。けども、考えられないほど高いものでした。 ひとりの人間が、1年間働いてもうけたお金で買うことができたのです。そうすれば、800万円くらいのものです。ちょっと考えられない。まともな人間は使たくない。ましてや、他人のため。 でもイエス様のためなら、ちょうど良いではないか。彼女は、もったいないとは思わなかったよ。 イエス様のひとりの弟子は、黙ることができなかった。「もったいない。高く売って貧乏の人に食べさせれば良いじゃないか。」、けども、マリヤはそういう気持ちを持たなかった。ためらうことなく、香油をイエス様の頭に注いだのです。 良い香りが家全体に満ちたと書いています。結局愛の香りが包んだのです。ベタニアは、イエス様にとって愛の香りが満ちたところです。そして、イエス様がそれを満足されたところです。 向こうの地方で、死んだ人、そういう人のために、そういう高いものを使うことがありました。イエス様は、彼女はわたしの葬りのために、前もってしたのだよとおっしゃったのです。結局、3人の兄弟たちは、弟子達よりもイエス様を知っていた。イエス様の来られた目的もわかったようです。 すなわちイエス様は、犠牲を払うために、身代わりに死ぬために来たことがわかったようでした。弟子達は全然ダメでした。マリヤは本当に、イエス様を心から愛したのです。 ヨハネの黙示録2:4
はじめてこのような言葉を読むと、ショックなのではないでしょうか。なぜなら、エペソの人々はそれを夢にも思わなかった。「いったい、どうして?」 彼らは、必ずみことばを忠実に受け入れたし、イエス様のために生きたいと心から望んだのです。けども主は、「違う、あなたがたは、離れた。」と言ったのです。 昨日もある病室で、ちょっと家内から話を伝えた。 イギリスで、知恵遅れの子どもがいじめられ大いに悩んだのです。何もできない、役に立たないものだと思われました。親にとっても悩みのタネであったに違いない。 知恵遅れであったからこそ、のけものにされ、いじめられ、話し相手にされなかった。完全にクラスの中で無視された。けどある時、クラスの中で、自分の考えてることについて話すようにクラスの中で勧められたのです。 子ども達は、みんないろいろなことについて話したのです。けども、知恵遅れの子どもの番になったときみんな、「無理だよ。話せないよ。」と言ったのです。先生は、静かにと言いました。もしかすると、一言、言えるかもしれない。もちろん、みんな静かになったのです。 その知恵遅れの子は、なかなか言葉が出てこない。ゆっくり話した。5分間かったのです。その子は... 「わたし.....は、イエス様が、大好き........イエス様も、私のこと、大好き........」 ちょっと考えられないことになっちゃったのです。ほかの子ども達、泣き始めました。そして謝ったのです。 「ごめんなさい。悪かった。」、結局そう言えることは、すごいなのではないでしょうか。エペソにいる人々は、そういう気持ちを失ってしまったのです。 エペソにいる人々は、はじめの愛から離れてしまったのです。だから主は彼らの側に立つことができなくなった。上辺だけ、彼らは一生懸命伝道しました。でも、主の目から見るとダメ。 はじめの愛とは、もちろんイエス様との交わり。飢え渇きをもって、「主よ語って。あなたから離れたら、もう終わり。憐れんでください。」、この態度をとることこそが、最も大切なのではないでしょうか。 「イエス様から離れたらもうおしまい。」そのことを、本当の意味で知っている人はまだ、はじめの愛を保たれていると思います。多くの人は、この主の足元に静まることをきれいに忘れているのではないでしょうか。 結果は、イエス様はもはや、「わたしはあなたと共にいることができない。わたしはあなたに対して対立する。」 昔、イエス様はよくイスラエルの民に対立する形になったのです。結果として、敵は勝利を得た。もちろんそれは主のせいじゃない。主は、ご自分の民を守ることができなくなってしまった。はじめの愛は、イエス様だけを中心に置かせます。そしてこのことは、過去に起こる一時的なことであってはならず、私達の全生涯をつらぬくことでなければならない。 ペテロは、はじめてイエス様に出会ったとき、やっぱり喜びに満たされたでしょう。イエス様の聖さを知るようになった時、自分のみじめさもわかったのです。その時「主よ。わたしから離れて。罪深いから。」と言ったのです。けどイエス様は、「わたしは、罪人の友です。」、イエス様はペテロを捨てようとはされなかった。 ある時ペテロは、「あなたは救い主です。あなたから離れられません。」と言いました。イエス様は、「あなたは、今晩、2-3時間後、わたしを知らないと言うよになります。」と言ったのです。 半年あとならわかるけど、2-3時間あとですよ。ペテロは、口答えしたのです。 「ちがうよ、イエス様。そんなことあり得ない。」けど、なっちゃたのです。悪魔は許可を得なければ、なにもできない。悪魔は、」ペテロをめちゃくちゃにしたいけど良いのですか?」とイエス様に聞きました。「けっこうです。」イエス様が許可したから、ペテロは、こうなっちゃったのです。 3回もイエス様を知らないと言ったのです。彼は外へ出て、激しく泣いた。「もうおしまい。」、彼ははじめの愛から離れただけじゃないよ。イエス様を裏切ったのです。彼は、どうして、3日間のあいだに、自殺しなかったのか。イエス様は、彼のために祈ったからです。 あなたをめちゃくちゃにすると言った悪魔に、OKと言ったよ。でも、わたしはあなたのために祈ります。回復されたら、弟子達を励まして。 このペテロの失敗を、イエス様が許さなかったのなら、おそらくすぐダメになったでしょう。五殉節に3千人が救われて、洗礼を受けたのです。イエス様は3年間苦労して、結果は、みんな十字架の夜逃げたのです。ペテロは違うでしょう。1日三千人。エルサレムで福音を聞かない人がいないほど、用いられた。 けど、ペテロは傲慢にならなかった。普通の人だったら、成功すると傲慢になるよ。ペテロは傲慢にならなかった。自分の失敗を忘れられなかったからです。 3回、イエス様を知らないと言ったペテロに、イエス様は「あなたは、わたしを愛しますか?」と尋ねました。「あなた、近いうちに、また私を裏切るつもりですか?」と言われなかった。 イエス様はそういう変なこと聞かなかったよ。ただ「あなたは、私を愛しますか?」と聞きました。3回も聞きました。ペテロは、心から言えたのです。「わたしは、あなたを愛します。」、 どうして言えたかと言うと、自分の失敗は赦されたと心から言えるようになったからです。 ベタニアのマリヤも、わたしはどうしようもない我が儘な者だと知っていた。けど、イエス様は赦してくださった。話し相手になった。愛してくださると確信するようになった。 第二番目の姉妹とは、マルタという女性でした。聖書の中で、彼女について1回だけ、ちょっと面白くないこと言っているのです。結局彼女は、イエス様を招いたのです。彼女は、自分の家に迎えた。イエス様ひとりだけあったら、たいしたことないかもしれないけど、12人の弟子がいっしょ。みんな若者ですよ。13人の若い男、食べますよ。 そうすると、「イエス様、ゆっくりしててね。」と言って、台所にいった。それから自分勝手に行動した。ちょっとイエス様に聞いたらいいでしょう。「イエス様、何がいいですか?」、「お腹すいてるでしょう。それとも先に交わりましょうか?」とか言ったら良かったよ。でも忘れちゃった。それから、うまくいかなくなちゃった。 あの妹はけしからん。怠け者で、「イエス様、イエス様、妹に手伝うように言って。」 イエス様は、「今回あなたは、間違ってる。わたしは、食べても食べなくても良いよ。あなたがたとの交わりは、ずっと大切だよ。」と。 彼女は、この1回だけ失敗したと思うのです。あとで彼女は、何回も彼女の家に行きました。毎回、聞いたに違いない。でも、必死になって彼女は働いたのです。自分の名誉のためじゃないよ。誉められるためじゃないよ。これを作れば、あれを作ればイエス様喜ぶかなと。 これも、やっぱり愛のあらわれです。結局、目見える世界のためにいくら頑張っても、面白くない。感謝されれば良いけど、批判されれば、いっぺんに面白くなくなる。イエス様のためだたっら、やっぱり違うよ。感謝されてもされなくても関係ない。わたしの代わりに死なれたイエス様のために、何かしたい。そういう心構えがあると、やっぱり違う。 マルタという女性は、これこそまことの奉仕者です。 第三番目はラザロです。このラザロは、主の甦りの力を経験したものでした。 死の暗闇を通り、そのあとでみことばによって甦られたラザロとは、結局イエス様と共に食事をするようになり、イエス様のほかの兄弟姉妹と、親しく交わりを持つようになったのです。 ご存知のように、ラサロはイエス様によって愛されたと、3回も書かれているのです。そして、このイエス様によって愛されたラザロは、病気になった。多くの宗教の影響を受けた人々はみんな考えます。 主を第一にすれば、主を愛すれば全部うまくいくはずです。けども、聖書の言ってることは違う。ラザロはイエス様を心から愛したし、イエス様のために生きたいと思ったけど、病気になって死にそうになったのです。もうおしまい。ラザロのところに残って遣いを送った。 「イエス様、あなたの愛してる者が病気です。危篤状態です。」、「来てください。」立派な祈りです。家族のために祈る人も、この祈りを自分のものにすれば良いのじゃないか。 「イエス様、あなたの愛してる、主人、子どもが病気です。」と祈るべきではないでしょうか。 イエス様はこの祈り、伝言を聞いたのです。イエス様は、自分で考える前に祈った。「お父さま、行きたい。行っても良いの。」でも、父は止められた。主の栄光のために。 イエス様は、「この病気は、死で終わるものでなく神の栄光のために必要です。」と語った。弟子達は、「イエス様、どうして早く行かないの?」と思ったのです。2日後で、イエス様は出発を告げた。弟子達、どういうことかわからない。葬儀も間に合わない。イエス様は、どうして来てくれなかったの。ふたりは、「あなたがいてくれたら...」と語った。 イエス様は墓の前に、「命です甦りです。死は終わりではない。」と宣言された。それからイエス様は涙を流された。おかしいじゃないよ。どうして? マリヤの涙を見たからです。結局、わたしたちのイエス様とはそういうお方です。命令する方じゃないよ、共に悩むお方です。共に苦しむお方です。ラザロに「出て来なさい。」、ラザロは、出てきました。 ヨハネの福音書12:2
大勢の人々が、イエス様を信じ救われたのです。どうして?ラザロを見たからです。 ラザロも、きっと口べたで、生まれてから死ぬまで、1回も説教したことがないでしょう。もしかすると、証ししたこともないかもしれなけど。必要ないよ。もう数えられない人々が葬儀に出たのです。屍を見たのです。そして、急に元気になったのです。イエス様によって甦った。 ラザロは本当の意味で、イエス様を紹介する道しるべでした。多くの人々は、道そのものであるイエス様を、体験的に知るようになったのです。結局、この甦りを体験することこそ大切です。 けど、よほどの悩みがなければ無理でしょう。ラザロは、もう危篤になって、もうおしまいと感じました。亡くなりました。イエス様の甦りの力で健康な人となった。前に、聖餐式の時読んだ箇所、コリントの人への手紙第IIでした。 コリント人への手紙4:10-12
絶えず死に渡されることとは、面白くない。いやなんです。でも、主の命が明らかにされる唯一の道です。結局、みなさんベタニア忘れないで。 大切なのは、わたしに対する純粋な愛であり、心からの私に対する奉仕であり、わたしの命が、あなたを通して、明らかにされるためです。 主の足元に静まる者は、大いに祝福されます。主の愛を体験的に知るようになり、「わたしはイエス様大好き。イエス様もわたし大好き」と語れます。パウロは、ローマ人への手紙8章31節から、もっと上手な言葉でそれを表現しました。 ローマ人への手紙8:31-34
イエス様は、1秒1秒、瞬間瞬間、わたしたちひとりひとりを愛し、心からとりなしていてくださるのです。 |