引用聖句:ダニエル書6章1節-23節
このダニエルとは本当に模範的な証し人だったと言えます。この世が一番必要としてるのは、イエス様を証しする人々ではないでしょうか。 信ずる者は主のがわに立つと、周りの人々は必ず、「どうしてなのでしょうか。」と思うようになり、心開きます。 心配から解放されてるからやっぱり、「どういうもんか。」と、だれでももちろん考えざるを得ないなのではないでしょうか。 ある兄弟の勤めてる病院で、別のお医者さんの奥さんも、「信じます。イエス様を受け入れます。」という態度を取るようになったのです。 どうしてであるかと言いますと、その兄姉の歓迎会らしいものがあったんですね。そのとき姉妹ははっきり、「私たちはイエス様のものです。イエス様を証しするために来たのです。」と。 それはやっぱり別のお医者さんの奥さんには結局、ちょっと考えられないことだったんです。 彼女は十年間教会に行ってるんですけど、「救いとは何であるかさっぱり分からなかったし、単なる形式的なこのことにすぎないし、全然自由がないし、喜びがないし、平安がない。」と言われた。 けど、姉妹のちょっとだけの証しを聞いて、やっぱり心を開いて、「今から兄姉と一緒に主に従いたい。」と言われたのです。 このダニエルという人も、まったく同じような人だったのです。彼はだいたい2,600年前に生きた人で、本当に主のがわに立つ人だったのです。 結局、「私はまことは神に仕えてる。」と彼はどこへ行っても証ししたのです。結局主は私のものです。 先週召されまし兄弟の一番好きな箇所とは、詩篇の23篇だったそうです。 「主は私の牧者です。私には乏しいことがない。私は満たされてます。心配から解放されてます。安心して死に向かうことができる。」 これこそが愛する兄弟の証しだったのです。証しを通して主は働きます。 もちろん今日の集いとは決して、キリスト教の宣伝のためではないし、聖書の勉強会でもないし、ただ福音を聞く会にすぎません。 けども聖書の話を別に分からなくてもいいんです。あとで証しする姉妹の証しは必ずだれでも分かります。 イエス様は、「あなたがたは私の証人となる。」と言われたのです。証人はやっぱり自分で経験したことを証しします。自分で経験していなければ、証ししてもとんでもない偽善者になります。 ダニエルは本当の意味での主の証人でした。どうしてでしょうか。 彼は主のご栄光を体験的に知るようになり、拝することができたからです。私たちはどのような状態にいるとき、もっともすばらしく主のご栄光を拝することができるなのでありましょうか。 ダニエルのように獅子の穴にいるとき、真っ暗な、悪魔が勝利を握ってるかのように思われるどん底に落ちたとき、一番すばらしく主を知ることができ、主のご栄光を拝することができるのです。 主は、私たちを少しの妥協することなく、ひたすらに主にだけ仕え、ダニエルのように奇跡を経験する人にしたいのであります。 この間、ダニエルが生きていた頃の歴史的背景をちょっと見てみましたが、ちょうどその頃は、それまで世界歴史の中心に位していたユダヤ人たちが主から離れてしまって、わがままになり、主に従おうと思わなくなったときでした。 彼らは主から目を離してしまったから、いわゆる歴史の中心がユダヤ人から異邦人に移っていくという、非常に大切なときでした。神の民とはのけ者にされ、神を知らない国々は大切にされるようになったのです。 いわゆる異邦人の時は、紀元前606年。バビロンの世界制覇によって始められました。ある意味でこの異邦人の時は今日まで続いているのです。ユダヤ人はまだ中心になっていない。 だいたい世界中の人々はユダヤ人を批判してるし。それは99%、根拠のない批判です。テレビを観たり、ラジオを聴いたり、新聞を読んだりすると「やっぱりイスラエルは悪い、悪い。」とみんな判断しますけど、とんでもない嘘。根拠なし。 ユダヤ人はあらゆる国々からねたまれるようになり、攻撃されているのです。 もちろんイスラエルこそが将来の世界の中心になります。将来性を持つ国とはイスラエルだけです。 ほかの国々とはどういうふうになるかだれも分かりませんけども、言えることは、「イスラエルは世界の中心になります。」 考えられないけど間違いなくそういうふうになります。 異邦人の時は、2,600年前に始められた時です。そのときのバビロンの王さまであるネブカデネザル王はイスラエルを占領しまして、そしてイスラエルの一番優秀な人々を虜にしてしまったのです。 そして自分の国、バビロンに連れ帰りました。その中にダニエルという青年もいたわけです。 ダニエルは王さまの王宮に取り上げられ、そこで教育を受け、王さまに非常に愛されるようになったのです。だからあとで非常に高い政治的地位を与えられるようになりました。 次の王さまはベルシャツァルだったんです。この王によってダニエルは、国の三番目の位に就かせられたのです。 そしてこのベルシャツァルの跡継ぎ、ダリヨスという王さまは、ダニエルをも用いるようになり、国の最高の司に任命したのです。外人としてこういうふうに成功するのはちょっと考えられないことです。 けどもこのダニエルがそんなに用いられるならば、当然多くの人々にねたまれる結果になってしまったのです。 「あの外人を何とかして失脚させよう。」と思う人々が次々と出て来たのです。もちろんねたむ人々は手段を選ばず、ダニエルを落とそうとしましたが、けど、ダニエルには隙がなかったとこの6章に書かれています。 彼は熱心に、真面目に、怠ることなく務めを全うしていたのです。神の前だけではなく、人間の前に透き通っている性格の持ち主であり、彼は本当に主の光のうちに歩んだ者だったからです。 だからいくら疑おうと思っても、ちょっと無理だったのです。 悪魔はダニエルに敵対する人たちを用いて、一つの計画を廻らしました。あのダニエルという者はユダヤ人です。われわれの国の者ではない。 彼は唯一の神を拝する者で、われわれの神を無視する。宮や寺を訪ねない。偶像には見向きもしない。 けど彼は毎日、いわゆる生きる神と言われる唯一の神を拝んでる。彼を落とすために私たちは一つの法律を設けようとしたのです。 けどもこれに対してダニエルは、どんな反応を示したなのでありましょうか。 ダニエル書6:10
と書かれてます。 ダニエルはこの新しい、設けた法律のことを聞いたとき、不安に思ったのでしょうか。絶望してしまったのでありましょうか。 慌てて友だちを呼んで、「相談しよう!」と思ったのでありましょうか。あるいは、逃げて姿を消そうと思ったのでありましょうか。 決してそうではない。彼は人間と相談せず、いつものように、彼の神の前に祈り、感謝した。感謝した。 ちょっと考えられないすばらしい態度です。結局主の前に静まると、今の目に見える世界とは、大したものではない。主は支配しておられます。 この法律の設けられたことも主は許してくださった。最後の最後は必ず主の栄光の現われである、自分にとっても最善であると、ダニエルは祈りながら確信することができたからこそ、感謝することができ、主の御名をほめたたえることができ、真心からの礼拝をささげることができたのです。 彼はいつものように祈り続けたのです。祈ることは確かに大切ですけども、もっともっと大切なのは祈り続けることです。 多くの人々は、「もうどうせダメじゃないか。」と諦めてやめます。ダニエルは祈り続けました。 ダニエルをねたむ人たちは、ダニエルが神に祈ることを知っていたから、王以外の者を拝んではならないという定めを作ったんです。 ダニエルが主の御前に祈ってるところを、結局法律を、人間の作った法律を破っているところを彼らは見つけました。 ダニエルは結局隠れた信者でいるよりは、死んだほうがマシだと思ったからです。 結局人間を恐れると、もう証しすることができません。 人間は人間を恐れるか、あるいはまことの神を恐れるかのどちらかです。主を恐れることによって人間を恐れる恐れから完全に解放されます。 これこそがダニエルの経験でした。 彼は身の危険を覚えて、自分の高い地位を捨てて逃げることももちろん出来たはずです。 けどもそうすると彼は全能者なる神の証し人でないでしょ?彼は窓を全部閉めて、誰も見ていないところで、ちいちゃな声でこっそりと祈ることもできたでしょ?けども彼はそうしませんでした。 彼は、「自分は決して隠れた信者にはならない。」と堅く心に決めていたからです。 ともにバビロンに囚われて来た同胞にとって、彼は何というすばらしい証しだったのでありましょうか。 大部分はおそらく妥協したでしょう。自分の身の危険を感じたとき、曖昧な態度を取ったのでありましょう。けどもダニエルは、主だけを見て、すべてを主にゆだねることができたのです。 結局彼は王さまの権威の前に小さくなっていませんでした。平気で自分の仕える神の名を口にしたのです。 「私は生きるまことの神のしもべである。」と彼は話したのです。 彼はいったいどうしてこういうふうに喜びに満ちた証しをすることができたのでありましょうか。言えることは彼は結局、若いときから自分を主にゆだねていたと言えます。 ダニエル書6:16
これは王さまの切なる願いでした。 ダニエル書6:20
ここで二回、16節にも20節にも、「いつも」ということばが出て来ます。たまにではない、時々でもない。ダニエルは「いつも」、主に仕えていた者でした。 仕える者の特徴とは、「わたしの思いではなく、あなたのみこころだけがなるように。」、「どうしたらいいか分からないけど、よろしくお願いします。教えてください。」 この王さまのダニエルについての証しとは、本当にすばらしい証しですね。 「あなたがいつも仕えている神。」、「生ける神のしもべダニエルよ。」 ダリヨス王は今までのダニエルをよく知っていたから、ダニエルの神は常に生き、生きる神であると分かったのであり、この生きる神はダニエルを守ってることも、王さまは認めざるを得なかったのです。 だからこのようなことばを言うことができたのです。 また王さまはダニエルが常にいつも生きる神に仕えていたことも認めざるを得なかったのです。 王の前にいい子になろう。そういう気持ちが無かったのです。忠実に、真心から主に仕えること、これこそが彼の願いであり、切なる祈りでした。 このダニエルは幼いときから主に心から仕え、いつも主のみこころを尋ねたのです。結局それは彼の性格になってしまった。 自分で考えたり、計画を立てたり、人と相談したりするのではなく、主の前に静まること。 「主よ。教えてください。導いてください。」、こういう性格の持ち主になったのです。 若いときから彼は主に仕えたのです。彼の心には幼いときから主を恐れる恐れがあったのです。 主を恐れる必要性について聖書はたくさん言ってるんです。主を恐れる者は導かれます。守られます。用いられます。 主に仕えることとは、もちろんダニエルにとっても決して簡単ではなかったんです。ダニエルの環境は、異邦の国でした。 イスラエルではなかったのです。イスラエルから連れて来られ、異邦の教育を受け、文学も異邦のものを学ばなければならなかったのです。 けど、まことの神を恐れる恐れは、ダニエルから異邦のものと妥協することを避ける勇気と力を与えました。1章を読むとそれがはっきり分かります。 「王さまと同じ食べ物を食べなさい。」と一度命令されました。けども、「偶像にささげたものを私は食べない。絶対に食べない。」と彼は言って、はっきりとした態度を取ったのです。 すなわち彼は王さまに喜ばれようとは全然思いませんでした。ただ主なる神を喜ばせよう。主なる神にだけ仕えようと彼は切に望んだのです。 私たちはダニエルが食べたり飲んだりすることは、そんなに大切なことではないと考えるかもしれないけど、ダニエルにとって、主のことばを一つ残らず守るということは、かけがえのない大切なことでした。 結局主なる神を恐れる恐れから、彼は神のみことばを破ることを恐れたのです。 主のみことばの中には、いわゆる外面的なことが確かにたくさん書かれてます。パウロの時代はそうだったし、今は時代が違う。 だからこれは当てはまらないなどと、みことばを曲げて取るなら大変です。 この間ひとりの男とちょっと話したんですけど、彼は何と言ったかと言いますと、「神と悪魔とは友だちですよ。」と。「親しい関係があるよ。」と言ったんです。 けど聖書は「悪魔は神の敵だ。」と言ってるんです。 彼は「聖書だってそんなに大切じゃない。」と言ったんです。彼の顔ももちろん喜びのない、平安のない顔だったんです。かわいそう! 結局みことばをそのままで理解できなくても、ピンと来なくても、信じなければ確信がなくなる。救いの喜びもなくなる。 ダニエルは、「主のみことばは事実である。主ご自身も忠実なるお方である。主を信ずることとは、みことばに頼ることである。」と確信したから、あらゆる心配から、恐れから解放されたのです。 主なる神に対するまったく服従には、すばらしい豊かな神の恵みが伴います。 1章の15節に次のように書かれてます。 ダニエル書1:15
ダニエル書1:20
結局ダニエルは、またダニエルの友だちもそうなんですけども、すべてのほかの若者よりも健康にまさり、ほかの人々よりも知恵と理解において十倍まさっていたと書かれてます。 これは確かに理解できないことです。主のなさった奇蹟であり、主の祝福です。 (テープ A面 → B面) ・・・必要であることが分かる。 この勇気はいったいどこから出て来るなのでありましょうか。これは生まれつき持つものではない。祈りによって生まれるものです。 主と一つになることによってのみ、このような勇気が出て来るのです。 今日ちょっと学ぶことができないんですけども、2章を見ると次のようなことが書かれてます。すなわち知恵と理解力、主なる神の奥義を知る力も祈りによってのみ与えられるということです。 呪法師、また魔術師は王さまの夢の解き明かしができなかったんです。ダニエルはできたんです。 どうして?祈ったからです。主に尋ねたからです。 |