ダニエル生ける神のしもべ10


ベック兄

(テープ聞き取り、ダニエル生ける神のしもべシリーズ、1997/04/01)

引用聖句:ヨハネの黙示録2章10節
10あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。見よ。悪魔はあなたがたをためすために、あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。あなたがたは十日の間苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。

今読まれました10節の後半は、ある兄弟の証しの一文にもなります。

『主が備えられた時は最上の時です。イエス様は今も私たちを愛してくださって、導いてくださっているから感謝です。
これからは、すべてを主イエス様に委ねて、みことばに従っていきたいと思います。そんな自分を、本当に幸せだと思います。』

私は感謝します。私は幸せです。こういうふうに証しされれば、現代人も聞く耳をもつようになるなのではないでしょうか。
昨日と一昨日、次のことを経験しました。
ひとりの男は、二回も自殺しようと思ったけど、会社の人々に発見されて死ぬことができなかった。「今からやっぱり真剣にならないとダメだ。」と。「どうすればいいの。」

もうひとりの人は、同じように二回、自殺しようと思ったけど、成功しませんでした。「生きる目的について考えてもいいだろうか。どうすればいいの。」
もうひとりの姉妹の娘は、「三回も自殺しようと思ったけど、うまくいかなかった。」と話されたのです。

結局人生の目的をつかんでいないと、まことの希望をもたないと、人間は本当に悩みます。
結局生きたくないから死にたいという人々います。もっと多くの人々は死にたくない、生きたいと思ってるなのではないでしょうか。けど、結局同じことになります。
生きる人生の目的を知らなければ、本当の意味で生きることができないからです。存在するかもしれないけど、これはちょっとかわいそうなのではないでしょうか。「生きたくない。死にたい。」

死にたくない、生きたい人もいる。あるいは、病気になりたくない人も非常に多いなのではないでしょうか。
健康こそすべてであると考えてる人は本当に多いなのです。けど、本当にそうなのでしょうか。
司会の兄弟、証しを書かれた兄弟は、病気を通してこそ、本物を得たのです。癌にならなかったならば絶対に見向きもしなかったと、二人ともは証ししたのであります。

あるいは、「悲しみたくない。」、悲しむこととは不幸せだと考える人も多いなのではないでしょうか。
イエス様は、「悲しむ者こそが幸いである。」と言われました。「なぜならばそういう人々だけが慰められるからです。」
慰めの神、望みの神、生きておられるまことの神に出会うようになるからです。

また、ゆっくりと考えたくない人々は一番多いなのではないでしょうか。
問題からの逃げ道とは仕事であるとか、酒であるとか、薬であるとか、いわゆる楽しみでありましょう。けどもこれはもちろん解決になりません。
生きたくない、死にたくない、病気になりたくない、悲しみたくない、ゆっくりと考えたくない考えをもつ人々とは、本当に気の毒です。結局何をやってもすべては虚しいからです。

イエス様は生きたくない人々に向かって、「わたしはいのちを得させるために、豊かなるいのちを与えさせるために来たのだ。」よと。
あるいは死にたくない人々にイエス様は、「わたしは栄光に満ちた場所を備えるために、天国に帰ったよ。」と約束しておられます。

また病気になりたくない人々の知るべきことは、病気を通してこそが、主は大いに祝福してくださるお方である。
病気とは決して天罰ではありません。幸せになるため、傲慢にならないため、用いられるために、主は理解しがたい試練を与えてくださるのであります。
イエス様は、「わたしは悲しみの人である。」と言われました。この悲しみの人であられるイエス様を知ることこそが、幸せを得る道なのではないでしょうか。

もちろんゆっくり考えることもどうしても要求されています。

イザヤ書30:15
15神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」

と約束されています。去年の秋ずっと、ダニエルという、主に用いられたしもべについて考えてまいりました。
ダニエル書全体の言わんとしてることは、どんなに暗い環境、暗い世にあっても、信仰をもって主を証しする人々は用いられます。そういう人々こそが捜し求められています。
歴代誌第IIの中で、

歴代誌第II、16:9
9主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

と書かれてます。主はダニエルのような人々を今日も捜しておられるのです。

確かにダニエル書を読みながら考えるようになります。主に忠実に従った、主のことだけを考えたダニエル、またその三人の友だちは、なぜそんなにねたまれるようになったのでありましょうか。
どうしてそんなに嘲られ、圧迫され、誤解されてしまったなのでありましょうか。
ダニエル書1章から6章までの、あの激しい戦いがどうして必要であったか。7章を見るとよく分かります。

ダニエル書7:13-14(口語聖書)
13見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日に老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
14彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

ここに、「見よ、人の子のような者の主権と光栄と国とを与える。」、と書かれてますけど、ここで言ってる人の子のような者とは、言う間でもなく再臨される主イエス様のことを意味します。

なぜ私たちの毎日の生活には、隠れた悩み、また苦しみがあるなのでありましょうか。
それはイエス様のご支配があらわれるためです。イエス様のいのちが明らかになるためです。
初代教会の人々は次のように証ししました。

コリント人への手紙第II、4:8-10
8私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。
9迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
10いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

主のいのちが、主の勝利が、主の支配が明らかになることこそが、主の導きの目的です。
ダニエル書7章の中でも書かれていますが、「信ずる者も主ととともに支配すべきである。」と書かれてます。

もちろん将来にも色々なことが起こります。戦いがあり、悩みがあり、苦しみもあります。
それは全部私たちが主とともになること、主とともに支配することのためです。イエス様とともに支配するにふさわしい者のためです。
これは私たちがどんな悩みの中にあっても、喜ぶことのできる大きな望みなのではないでしょうか。

将来私たちは何を望んでるなのでしょうか。待ち望んでるものは不確かなものではない。不安と滅びでもない。
主とともに支配するというすばらしい事実を待ち望んでます。
けど、どういう人々が主に召された召しを全うするなのでありましょうか。どういう人々が主とともに支配するようになるなのでありましょうか。

ダニエル書の7章に、「人の子主イエス様が永遠の主権と光栄と国をもつようになり、そしてご自身に属する聖徒たちとともにその御国を支配する。」と書かれています。
1章から6章までには、この永遠の御国を主とともに支配するにふさわしい人たちとは、どんな人々であるかと書かれています。前に学びましたように、

第一番目。1章には、聖きについて書かれています。
主とともに永遠の国を支配する人々とはまず、霊の聖さをもつべきである。
霊が聖いということは、もっとも根本的なことであり、霊の聖きをもつことは、だれにも可能なことであり、霊の聖きは、恵みをもたらすものであると第1章に書かれています。

第2章には、見分ける力が必要であると書かれてます。
主の支配する世界と悪魔の支配する世界があります。これは主に属し、これは悪魔に属すると見分ける力をもつ必要があります。
この二つの世界の真ん中に立って妥協するとき、霊的ないのちがなくなります。もちろん力もなくなりますし、平安も、主を証しする勇気も、喜びもなくなります。
けどこの二つの世界を見分ける力はどんなに頭で考えても、議論しても、われわれのうちに生まれてこない。これは祈りのうちに与えられます。

第2章の中心テーマとは、「祈ると、心の目が開かれる。祈ると、主は必要な光を与えてくださる。」ということです。
この見分ける力がなければ、イエス様とともに永遠の御国を治めることはできません。
毎日の生活において主に全く従順に従い、どんな小さな事がらにおいても従って行くなら、この霊的な感覚が養われて来ます。

第3章の中心テーマとは、「忠実に主にだけ仕えること」です。
真実が必要であると書かれています。霊的な判別力をもった人がどんな人であるか、この3章に書かれています。その人は真実な人です。光のうちに歩む者です。

今朝、電話があって、ひとりの姉妹はほかの姉妹のことで非常に悩んでます。
結局、あの姉妹は嘘つくばかりです。彼女は何を喋っても、多くても8割ぐらい嘘だと。考えのためだと。
別の姉妹のご主人でさえも、未信者のご主人でさえも言ってます。もう嘘ばっかり。病的かもしれない。

13歳から、もう二十年間嘘ついてるばかりですと。いや、本人は一番かわいそうなのではないでしょうか。
結局光のうちに歩まなければ人間は不幸になる。結局同情してもらいたい。そのために、もう何でもいい。そういう気持ちの虜になってるようです。
そうするともちろん、いつも隠さなくちゃいけない。隠す者は成功しません。不幸になるばかりです。

ダニエル書の3章に書かれてる三人の友だちとは、真実な人々だったのです。
18節を見ると分かりますが、彼らの証しにもなります。

ダニエル書3:18
18しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

三人は激しい試みの中で、この態度を取ったのです。少しも動揺しませんでした。たとえ火に焼かれようとも、主に真実を尽くして従っていこうと彼らは決心したのです。
結局この三人は、この世のものはみな虚しく、神の国のみ、永遠に続くことを確信したのです。
どんなことが起ころうとも、真実を尽くして主に従っていこう。絶対に損しないと三人は確信したのであります。

妥協していきますと、主のために苦しむことが少ないでしょ?全部スムースにいくかもしれないけど、喜びがないし、ほかの人々も導かれ得ないのです。

第4章に書かれている中心テーマとは、「謙遜」です。
主イエス様とともに支配するには、謙遜が必要であると強調されています。

ダニエル書4:37
37今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。

すばらしい告白であり、証しなのではないでしょうか。
ここではダニエルではなく、ネブカデネザル王さまが謙遜の学科を学ばせられているのですけどダニエルは、いつも王と一緒にいたからダニエルもまたこの学科を王さまとともに学んだに違いない。

ここには驚くべき主の忍耐が書かれています。「われわれの主とは本当に忍耐深いお方です。」
主はネブカデネザル王を一撃のもとにこの地上から抹殺することもできたはずですけど、主はそうなさいませんでした。
初めにまず厳しく忠告し、王がそれを受け入れないと知るや、忍耐をもってもう一年間、主は待ちました。そのとき王は、もちろん主の導きのもとに気が狂ったと聖書は言ってます。動物といっしょに草を食べるようになり、気ちがいになってしまったのです。

けどその王を、主なる神は見捨てないで、もう一度王の位にお返しになりました。考えられない主の忍耐の現われなのではないでしょうか。
なぜ主は王さまにそんなに厳しく忠告されたか私たちは分かりません。王はどんな悪いことをしたのかも聖書は言っていませんから分かりません。
サムエル記第Iの中で主なる神は次のように言われます。「人は外のかたちを見、わたしは心を見る。」とあります。

主なる神はネブカデネザルの心を見たのです。そしてそこにいけないことを見られたのであります。
たぶん王は自分が全世界の支配者であるところから、心に誇るところがあったなのではないかと考えられます。
主は傲慢な王を、傲慢な支配者を求めていません。主は傲慢な人間を祝福することができません。へりくだる者だけが恵まれます。ネブカデネザルを打って、砕いて、37節のように、王を言わしめるまでになさったのです。

ダニエル書4:37
37今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。

その前に彼は中心になろうと思ったし、みんなによって崇拝されてもらいたいと思ったのです。けども今度は彼はちいちゃくなって、やっぱりほむべきお方とは万物の造り主、万物なるお方だけであると。

ダニエル書4:37
37そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。

これこそが当時のネブカデネザルの経験でした。初めて彼にとって面白くなかったんです。
けど彼は主を大事にすることによって、損しなかったのです。本当の意味でまことの神を礼拝する者となったから、大いに祝福されました。

主なる神は私たちがイエス様とともに、この世のみならず、全宇宙を支配するようにしたいと望んでおられます。
けど、支配する支配者として高ぶる者を主は必要とされません。もし主が忍耐をもってネブカデネザルに接しられたと同じように、私たちに対しても忍耐をもって取り扱ってくださらなければ、私たちは決して決して主とともに御国を支配することとならないでしょう。
私たちは何と高ぶる心に満ちた者でありましょうか。

主は何にもまして一番高ぶりの心を憎みます。
ですから主は私たちがネブカデネザルのようにへりくだって、主をあがめるようになるまで、色々な困難や苦しみを通して練り聖めてくださいます。
パウロでさえも同じ取り扱いを知るようになったのです。同じ取り扱いにあったのであります。

コリント人への手紙第II、12:7
7また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを

一つの病気を

コリント人への手紙第II、12:7
7与えられました。

罰としてじゃなくて、愛の現われとして。

コリント人への手紙第II、12:7
7それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。

これは彼にとって面白くなかったんです。辛くて辛くてしょうがなかった。
けどもこのパウロとは、結局高ぶることのないように、続いて用いられるために必要であると分かったとき、私は患難さえも喜ぶと言うようになったのです。
ダニエル書4章の言わんとしてることはそれです。ですからこの4章はわれわれにとって大きな慰めを与えてくれます。

もう自分の上には主の恵みがない、主の愛は私から離れ去ってしまったと思うようになるまで、霊的に試みられるときがあるでしょう。
逃げようと思っても逃げ道が無くなってしまったような状態にはいるときがあります。
これは主が愛をもってわれわれの心を試され、ネブカデネザルと同じように導こうと望んでおられるからです。

次のダニエル書の第5章には、主の主権をうちにもった者のみが、主とともに永遠の御国を治めることについて書かれているのです。

ダニエル書5:12
12王がベルテシャツァルと名づけたダニエルのうちに、すぐれた霊と、知識と、夢を解き明かし、なぞを解き、難問を解く理解力のあることがわかりましたから、今、ダニエルを召してください。そうすれば、彼がその解き明かしをいたしましょう。

とあります。ダニエルのうちには、ほかの者に見られないすぐれた霊が宿っていたとあります。
この書は、主が主権をもつお方であることを述べています。そのときのダニエルは、王ベルシャツァルの目に留まっていませんでした。
ただ王妃の記憶にダニエルのことが残っていたに過ぎませんでした。ダニエルは結局、忘れられた存在になってしまったのです。

ベルシャツァル王の前にダニエルが立ったとき、王さまはダニエルに、「あなたがダニエルですか?」と聞いたのです。
結局彼のこと知らなかったのです。以前にはダニエルは主の恵みによって国の三番目の司になったのです。
けど今ダニエルは、まったく忘れられた存在になってしまったのです。

けど主はそのご主権をもって、最善のときにダニエルを再び世に現わし給いました。王さまが死ぬ前にダニエルを王の前に導き出されたのです。
主はときどきそのような導き方をなさると聖書を通してはっきり分かります。主のしもべがどこにいるのか分からないまでに世より隠してしまうときがあります。
例えばヨセフの場合はそうだったんです。エジプトに売られ、牢屋に入れられ、彼はまったく忘れられた存在でした。

モーセもそうだったのです。40年の間モーセは荒野に住み、人の目につきませんでした。忘れられた存在でした。
エリヤは三年半山の中に置かれ、まったく忘れられた存在になってしまったのです。

(テープ A面 → B面)

一度隠され、己に死に、よみがえりの主にあずかる体験をもつ必要があります。主に仕えるまことのしもべは、自分の計画を持ちません。
しもべらは荒野に置かれ、また台所の隅に捨てられた瀬戸物のように用いられずに、何年も過ごさなければならないといった経験もすることでありましょう。

喪主にされた人であって、自分がその務めをやらなければ、ほかにやる者がいない。けど自分はできない。そのような立場に置かされた人は、実に大きな苦しみの中にあると言わなければならない。ダニエルの場合はそうだったんです。
そのようなときには、何とかして自分でやろうとする誘惑が来るものです。このようなときにも肉の力、自分の力によらないで、ただ主のみこころにゆだねて一歩一歩、歩むなら祝福されます。

ダニエルはそうしたのです。ダニエルは自分が高い地位に上がるか上がらないかは、主のみこころにあるのであって、主にすべてを任せていたのです。
ダニエルに課せられていた責任は、ただ主を仰ぎ、ただ主に従うことだけでした。

ダニエルは決して自らの力を、立場を高めようとしなかったのですけど、ベルシャツァル王はダニエルに紫の衣を着せ、国の第三の司に任命したと書いてあります。
これは主が全能の神であられる証拠です。これは主は自分の子たちを見捨てないで、絶えずみこころに留め、御思いのままにあしらう証拠です。

最後の第6章には、勝利の祈りについて書かれています。
ダニエルはその後ももちろん青年ではなかったのです。70歳、80歳の歳だったのでありましょう。長い間祈り続けて来たダニエルの祈りは身についた祈りでした。6章の10節ですか。次のように書かれています。

ダニエル書6:10
10ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。

不平不満を言ったのではない。彼は感謝した。主を礼拝したのであります。
悪魔はダニエルの口か、または部屋の窓を閉めさせようとしたのです。ダニエルに敵対する者を悪魔は用い、掟を定め、まことの神に礼拝するダニエルの祈りを留めようと試みました。その計画は失敗に終わりました。ダニエルは殺されないで、ついにクロス王のときまで栄えたと聖書は言ってます。

ダニエルはなぜ色々な試みに打ち勝っていたのでありましょうか。それは彼がバビロンの国の影響力のある大臣だったからではありません。
彼は祈りによって天と結び付き、主の権威をうちに宿していたからだけです。

ダニエルは幼いときから主を信じ、若くして神に反するものをもって、その身を汚すまいと心に思い定め、堅く立って年老いた今に至りました。
このダニエルを主は豊かに守り、導いてくださらないはずがありません。
メディヤと他者の法律の前に身をかがめないで、年老いたダニエルは堅く主の前に立ち続けました。ダニエルはこの国のメディヤとペルシヤの掟のそのまた上にある掟を知っていたのです。

主の御名によって祈る祈りは、この世の掟を支配することをよく知っていたのです。
ダニエルはエルサレムに向かって窓を開かなかったことは、一日もありませんでした。いつも窓を開け放して、祈りました。
世界帝国バビロンとメディヤ、ペルシヤは滅んでいきました。獅子の口はダニエルを殺すことができなかったのです。ダニエルの敵は一人としてダニエルを傷つけられませんでした。ダニエルは祈りによって勝ち進んで行ったのです。

身を低くし、ひざまずき、絶えず主に祈りをささげる者だけが、常に堅く立つことができるのです。
ダニエルは主のみこころからひとときも目を離したことのない祈りの人でした。彼は主の御名によって祈る祈りの力を信じたからです。
ダニエルのような人々が今日も必要とされます。私たちもダニエルのように祈る人にならなければ、主の前に何の役にも立たない存在です。

今日ではダニエルの時代のように本当の獅子が吠えてる穴の中に投げ込まれるといったことはないでしょう。
けど、悪魔は吠えたける獅子のように食い尽くすべきものを捜し求め、われわれの祈りを妨げようとしてるのです。
私たちはダニエルと違って、窓を閉めてしまっているのでありましょうか。それとも主の御前に心をいつも注ぎ出して祈ってるなのでありましょうか。私たちが主とともに栄えにある永遠の御国を支配するか否かは、この祈りによってかかってるのです。

最後にもう一回、兄弟の証しの文章を読みます。

『主が備えられた時は最上の時です。イエス様は今も私を愛してくださって、導いてくださっているから感謝です。
これからは、すべてを主にゆだねて、みことばに従っていきたいと思います。そんな自分を、本当に幸せだと思います。

ヨハネの黙示録2:10
10死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。


このイエス様の約束を体験的に知るようになったのは、愛する兄弟であります。彼らの生活の結末をよく見て、彼らの信仰に倣いなさいと命令されています。




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