引用聖句:ダニエル書6章1節-20節
今日は続いてダニエル書を見てみたいと思いますけれども、ダニエルの信仰は確かに立派ですばらしいものです。 聖書はダニエルについて良いことしか言ってないんです。ダニエルの欠点について、ダニエルの弱さについて一ことばも聖書の中に書かれていません。 彼の根拠なるものとは、間違いなく主の約束であり、主のみことばでした。今ちょっと思い出した箇所は115篇なんです。非常にすばらしい箇所です。 ダニエルもこの箇所をもちろん知っていたし、この箇所は3,000年前に書かれたものであり、ダニエルという者はだいたい2,600年前に生きていた人だったから、結局、彼の時代よりも400年前に書かれた箇所です。 非常にみなさんもよくご存知の箇所であり、すばらしい箇所です。 詩篇115:1-8
偶像とは聾であり、唖であり、いくら祈っても答えられません。われわれの神は生きておられるお方です。この方に信頼すると守られます。導かれます。祝福されます。 ダニエルは間違いなくこの箇所を知っていて、毎日思い出したでしょう。私の神は生きておられるお方です。 彼は小さいときから老人になるまでいつも、忠実に主なる神に仕えていたのです。6章を見ると分かります。 ダニエル書6:4
われわれについて言えないことばです。本当に彼の信仰は模範的で、彼は忠実に主に従ったのです。 だからと言って主なる神はダニエルを守ったと聖書は言っていません。ダニエルは獅子の穴に投げ入れられたのです。 ダニエルは主の栄光だけを求めたからこそ、このような辛いことを経験しなければならなかったのです。 詩篇の作者は77篇の13節と14節に次のように書いてます。 詩篇77:13-14
詩篇77:19
普通、海の中に道はない。あり得ない。けども詩篇の作者は体験的に知るようになった。こういうふうに告白しています。 詩篇77:19-20
ダニエルは忠実に主にだけ仕えましたけど、それにしても獅子の穴に投げ込まれたのです。 その夜ぐっすり寝たのはダニエルであり、王ではなかったのです。王さまは恐ろしい夜を過ごしたのです。彼は不安と心配の奴隷であり、一秒も寝られなかったのです。 彼の次の朝の質問は心から出た叫びでした。「生きる神のしもべダニエ。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」 ダニエルの答えは本当にすばらしい証しでしたね。 ダニエル書6:22-23
結局ダニエルは、「今まで神に忠実に仕えたのに、獅子の穴に投げ込まれることとはとんでもない。もう信頼することをやめる。」、そういう気持ちにならなかった。 「今こそ、信頼します。今こそ、主に頼ります。」 詩篇の97篇に次のような箇所が書かれています。ダニエルもこのことばを知っていたのであり、主にだけ従おうと決心んしたに違いない。 詩篇97:10
これこそダニエルの経験でした。 詩篇97:11-12
コリント人への手紙第IIの中でパウロは次のようにこう書き記したのであります。よく知られてるすばらしい箇所です。 パウロも主に忠実に従った者でした。だからと言って全部スムースにいったのではない。 コリント人への手紙第II、1:8-9
考えられない、面白くない経験でした。 コリント人への手紙第II、1:9
苦しむ目的とはこれでした。 コリント人への手紙第II、1:9-10
当時の王さまはあらゆる心配と不安、また恐れから解放され、結局次のように告白せざるを得なくなったのです。 6章の25節にダリヨス王は次のように命令したのであります。 ダニエル書6:25-27
王さまは結局この主の力を体験的に知るようになったのです。 イエス様は当時の弟子たちに次のように言われたことがある。 ルカの福音書21:12-13
結局、「わたしを信ずるとうまくいく。問題がない。」とイエス様は言われなかった。 「忠実にわたしに仕えると、とんでもなくことになる。けどもわたしはそのことが起こることを許す。」 どうして許すかと言いますと、それはあなたがたの証しをする機会となるからです。 理解できない苦しみや悩みこそ、証しするチャンスなのではないでしょうか。 苦しみながら、悩みながら主を仰ぎ見て、主にすべてをゆだねると、安心して将来に向かうことができるのです。これこそがわれわれの言葉よりもずっと効果的な証しです。 ずっと迫害を受け続けた初代教会の信者たちに、ペテロは次のように書いたことがあるんです。 ペテロの手紙第I、2:11-12
「主は偉大なるお方であり、主は万物を支配するお方である。」、これこそがダニエルの確信でした。 彼は自分をまったく主にゆだねていた。これこそが彼の祝福された生活の秘訣だったのです。 当時の王さまは、今までのダニエルをよく観察してみたのです。だから彼は、「ダニエルの神は生きておられるお方です。奇蹟をなすお方です。失望させられないお方です。」と知っていたのです。 王さまはダニエルがいつも生ける神に仕えていた者であるとよく知っていたのです。 ダニエルの心には幼いときから主なる神を恐れる恐れに満ちていたのです。 主を恐れる恐れがなければ、人間は目くらにされます。結局人間を恐れるようになり、人間によって束縛されるようになります。 まことの神を恐れる恐れは、ダニエルから異邦のものと妥協することを避ける勇気と力を与えたのです。 「王さまの食べ物を食べなさい。」と命令されたのです。ダニエルは従おうとしなかった。「偶像にささげたから、食べる王の食べ物を絶対に食べない。」、結局ダニエルは王さまを喜ばせようとしなかった。 主なる神の前に歩んだのであり、主だけを喜ばせようと切に望んでいたのです。 主に対する服従にはすばらしい豊かな主の恵みが伴うのであります。この間も学びましたように、 ダニエル書1:15
ダニエル書1:20
証明された。主に信頼する者は大いに祝福されるということです。これこそ考えられないことです。主の祝福であります。 ダニエルの経験したことを見ていきますと、私たちは主にいつも仕えるには確かに勇気が必要です。 この勇気はどこから来るのでありましょうか。この勇気は祈りによってのみ、生まれます。主と一つになることによってのみ、本当の勇気が生まれてくる。これこそがダニエルの経験でした。 世界の支配者たちは次々と変わったのです。ダニエルだけは変わらなかったんです。 今日はこう、明日はそのようにと、環境によって行く先を変えるようなことはダニエルにはできなかったんです。 彼はいつも主に仕えようと望んでいたからです。神の栄光を現わしていくことが、ダニエルの持っていただ一つの目的でした。 まことの神を礼拝するか、獅子の穴に投げ込まれるかというところに彼は立たされたのですけど、彼は少しの妥協も見せませんでした。 多くの迫害者に取り巻かれ、危険の真ん中にありながら彼はまことの神に祈り続けたのです。 「結局がどういうことになるか、それは私の責任ではない。私はただ従えば、主は責任を取ってくださる。」とダニエルは分かったのです。 私たちも結果を見る必要はない。日々主の声を聞き、それに従って行くことだけが大切です。 結果がどうあろうと、たとえ悪くても主が必ず責任を取ってくださいます。ダニエルは絶えず主に従ったのです。ですから結果を少しも恐れなかったのです。 ダニエルは自分自身を主にゆだねた。これこそがまことの幸せを得る秘訣です。 そしていのちを懸けてすべてをささげる、仕えていく価値のある神が私たちの神でもあるということを覚えるべきなのではないでしょうか。 ダニエルはそんなに深く心から主を崇めていましたから、主を裏切るよりは獅子の穴に投げ込まれたほうがマシだと思ったのです。 主は、常に仕え、自分のいのちをささげても惜しくない尊い方だと信じて仕えていた、ダニエルの心がよく分かります。 彼の願いは絶えず主との交わりを持つこと、主と一つになることだけだったのです。 われわれにとっても、主はいのちをささげても、悔いのないほど価値あるお方となってるなのでありましょうか。 信ずる者はみな例外なく次のように証しすることができます。 「私が罪人であったとき、主はまず私を愛してくださった。大いなる恵みとあわれみにより、私のわがままを赦された。主は私を絶望の穴から堅い岩の上に救い出してくださった。」 獅子の穴とは絶望の穴と言ってもいいでしょう。 イエス様はわれわれにとってどのような価値があるなのでしょうか。旧約聖書の中で主は次のように言わざるを得なかったのです。 ホセア書5:12
イエス様がわれわれのいのちとなってるかどうかが問題です。 私たちはダニエルのように、ひたすら主を愛し、主に仕えようと思ってるなのでありましょうか。 私たちは自分の名誉や立場を考え、妥協してうまく通り抜けようとするなのでありましょうか。それともひたすらに主に仕えようとしてるなのでありましょうか。 イエス様のゆえに苦しみにあうなら、それを喜びとするなのでありましょうか。 主に絶えず仕えることは、われわれの喜びであり、と心から言い表わすのを主は待っておられます。 ダニエルの神は結局救う神です。解放するお方です。あらゆる心配から完全に解放することができるお方です。 初代教会の人々もこの励ましを必要だったのではないでしょうか。結局ダニエルのことはどうして書かれてるかと言いますと、結局初代教会の人のために励ましを与えるためなのではないでしょうか。 ペテロの手紙第I、5:7-11
と。こういうふうにペテロは当時の信者たちを励ますことができたのです。ダニエルの神はダニエルを獅子の穴から救いうる神です。ダニエルの神はあなたをもあらゆる思い煩いから救うことができるお方です。 結局ダニエルの神はこんにちでもなお、私たちひとりひとりを獅子の穴から、絶望の穴から救うことができるお方です。 目に見える獅子はあまり私たちを襲いません。けども目に見えない悪魔は、ほえたける獅子である悪魔は、われわれを取り巻き、襲って来ます。 ダニエルが一緒に寝た獅子は、張子の獅子ではなかったのです。生きたものでした。猛獣でした。 われわれが話してる、このわれわれを取り巻く悪魔の攻撃、試み、戦いは架空のものではありません。 単なる夢だったらいいんですけど、恐るべき現実です。 もし主が守ってくださらなかったならダニエルは獅子に掻き裂かれて死んでしまったでしょう。あとで獅子の穴に投げ込まれた彼の敵たちは、いっぺんに殺されてしまったのです。 同じように私たちがわれわれを守ってくださらなければ、私たちは恐るべき悪霊の攻撃に遭い、絶望し、また、間違った方向に導かれて行くことでしょう。 ダビデの経験は次のようなものでした。詩篇の57篇の中で彼は次のように書いたのであります。 詩篇57:4
このダビデもダニエルと同じように、獅子の穴に投げ込まれてしまったのです。けども7節を見るとすばらしいことが書かれています。 詩篇57:7
結局ダビデは憎しみの真っ只中、むさぼり食らう獅子の中に横たわれました。けど、7節のように勝利の叫びを上げることができたのです。 たぶんあなたにとってあなたの家族は獅子の穴のようかもしれません。あなたは家にいるとイエス様の名のゆえに、一度平和がなく、居にくいかもしれません。 イエス様はそういうことをはっきり預言してくださいました。 マタイの福音書10:34-39
あるいはあなたの職場は、獅子の穴のようかもしれない。あなたがダニエルのように妥協せず、常に職場にあっても主に仕えて行くなら大いに祝福されます。 主は生きておられるお方であり、この主に頼ると、主の栄光を知ることができ、拝することができるのです。 ダニエルはわれわれに何を物語っているなのでありましょうか。 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 ゆだねると奇蹟を経験するようになる。心配することによって得るものはひとつもない。悪魔だけ喜びます。 だからペテロは、「堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」 立ち向かうこととは、もう疲れちゃった。イエス様。よろしくお願いします。ゆだねます。いくら心配しても何もならない。 「あなたは心配すると約束してくださったから、期待を持って待ってます。」、この態度を取ると、ダニエルの神は生きておられ、自分の神であることを体験的に知るようになります。 |