引用聖句:ペテロの手紙第I、5章7節-11節
今読まれましたペテロの祈りと切なる願いとは、非常にすばらしいものなのではないでしょうか。 「神のご支配が世々限りなくありますように。アーメン。」と。 神のご支配が明らかになると悪魔は逃げざるを得なくなります。ここで、「悪魔に立ち向かいなさい。」と書かれています。 どういうふうに悪魔に立ち向かうことができるなのでありましょうか。自分の思い煩いをいっさい主にゆだねることによってです。 ここで神が、神ご自身があなたがたのことを心配してくださると約束されています。考えられないすばらしい約束です。 神が心配するとわれわれは心配しなくてもいいなのではないでしょうか。 ダニエルはどういうふうに悪魔に立ち向かったなのでありましょうか。彼はあらゆる心配事を主にゆだねたのです。 このダニエルとは前に言いましたように、主を信ずる模範だったのです。 人間の欠点について聖書は色々なこと言ってますし、ヨブの欠点について聖書はあんまり語っていないし、ヨセフの欠点について聖書は一ことばも言ってないし、ダニエルの欠点について聖書は何も言ってません。 ダニエル書6:4
彼らはがっかりしたなのではないでしょうか。欠点を見つけようと思えばそんなに難しいもんじゃないはずですけど、彼は一生懸命努力したんですけど、成功しなかったのです。 彼は主に徹頭徹尾従ったからであるからです。 聖書の中でひとりの女性について次のように書かれています。 エステル記4:16
非常にすばらしい信仰の告白です。エステルという女性は、「私は、死ななければならないのでしたら、主のために、主に属する民族のために私は、死んでも結構です。」と。 理性はそのようなことを否定するとしても、信仰はこの態度を取らざるを得ないなのではないでしょうか。 人間に与えられてる理性とは、いわゆる概念を作る能力のようなものです。結論を出す能力です。判断を下す能力のようなものです。 なかなかすばらしいものなのではないでしょうか。主によって与えられているからです。 けどそれにも関わらず、人間は何と多くの見当違いや計算違い、あるいは多くの意味のないことをして頭を抱え込むことでありましょうか。だから聖書は次のように言ってます。 箴言3:5
なぜ「自分の悟りにたよるな。」と聖書は言ってるなのでありましょうか。 人間は悪魔によって騙されて以来、やみの中に置かれるようになってしまったからです。「神のいのちを持っていない者はその知性において暗くなってる。」と聖書ははっきり言ってるのであります。 ダニエルの特徴とは、主に頼ることでした。小さい時から彼は自分自身の主にまったくゆだねたのです。また彼は生きるまことの神を恐れた人でした。 もしわれわれについて同じことを言うことができればすばらしいと思う。 「あの兄弟は主を恐れてる。」、「あの姉妹は主を恐れてる。」と言うことができれば周りの人々はびっくりするようになります。 ダニエルは主を恐れた者でした。それは彼にとってもちろん決して簡単ではなかったのです。 なぜならば、彼は自分の国から連れ出された者であり、異邦の教育を受ける者となり、文学も異邦のものを学ばなければならなかったのです。 けども主に対するまったくの服従にはすばらしい豊かなる神の恵みがともなう者となったのです。 前に話したように、ダニエルはすべての若者よりも健康にまさり、ほかの人々より知恵と理解において十倍まさっていたとダニエル書1章の15節、また20節に書き記されています。 ダニエルのことを考えると、われわれは主に常に仕えるには勇気が必要だと分かります。この勇気はどこから来るなのでありましょうか。 祈りによってのみ、与えられます。主とひとつになることによってのみ、このような勇気が生まれて来るのです。 ダニエルはダリヨス王さまのもとで総理大臣を務めていたのですけど、彼はまわりの偶像礼拝をしようとしなかったのです。 いわゆる妥協は霊的な死を意味すると分かったからです。 妥協によって祝福は出て来ない。妥協すると周りの人々、絶対に救われようと思わない。 高い地位に就いていながらいつも主に仕えるということは、確かに非常に難しいことでありましょう。何と多くの人々が高い地位を求め、また名誉のために主から捨てられていたことでありましょう。 人気、栄誉、地位、富、これらは悪魔が用いるもっとも鋭い試みの武器です。ダニエルはこれらには目もくれず、ただまことの神にだけ仕えたのです。 もしダニエルがこのまま続いてどこまでも主にだけ従って行くなら、彼は王の愛を失うばかりではなく、一番あわれな死に方をしなければならない羽目に立ち至りました。 結局、生きるまことの神を礼拝するか、獅子の穴に投げ込まれるかというところに立たされたのです。 けどダニエルは少しの妥協も見せなかったんです。 多くの迫害者に取り巻かれ、危険の真ん中にありながら、「彼はまことの神に祈り続けた。」とあります。 ダニエル書6:6-9
ダニエルを嫌った人々は、彼を滅茶苦茶にするためにこの法律を設けたのです。ダニエルは絶対に妥協しないと分かったんです。 だからもう成功する。彼は間違いなく獅子の穴に投げ込まれるようになる。 結局、一人の人間を滅茶苦茶にするために彼らは一つの法律を設けたのです。 ダニエル書6:10
ひとりぼっちであるならば、やっぱり心配するようになるでしょうし、変なこと考えるから、やっぱり早く主に返って祈ろうと思ったんです。 ダニエル書6:10
この、いつもということば、大切です。 ダニエル書6:10
祈った。心から叫んだだけではなく、感謝した。礼拝したということです。 われわれにとって主はいのちをささげても悔いのないほど、価値あるお方なのでしょうか。 私たちは自分の名誉や立場を考え、妥協してうまく通り抜けようとするなのでしょうか。あるいはひたすらに主に仕えようとしてるなのでありましょうか。 もし主の御名のゆえに苦しみに会うなら、それを喜びとするなのでしょうか。 ダニエルは、ある意味でがっかりしたかもしれない。彼を憎むようになった人々は、必ず彼の祈りの対象でもあったからです。 ですから彼は悲しくなったのでありましょうけども、それだけではなく彼は感謝した。主をほめたたえたのです。 結果として確かに彼は妥協せず、獅子の穴に投げ込まれるようになったのです。 目に見える獅子はわれわれをもちろん襲いません。われわれを攻撃するのは目に見えない悪魔です。そして前に読まれましたように、悪魔とはほえたける獅子と呼ばれています。 悪魔は、ほえたける獅子として、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回ってる。昼、夜われわれを滅茶苦茶にしようと努力する。 言えることは、ダニエルが一緒に寝た獅子は、張子の獅子ではなかった。生きてる猛獣でした。われわれを取り巻く悪魔の攻撃も恐るべき現実です。 夢だったらいいんですけど、そうではありません。もし主が守ってくださらなければ、ダニエルは獅子に引き裂かれて死んでしまったのです。同じように主がわれわれを守ってくださらなければおしまいです。 主が守ってくださらなければ、われわれは恐るべき悪霊の攻撃に会い、絶望し、また間違った方向に行ってしまいます。 たぶんあなたにとってあなたの家族は獅子の穴のようかもしれない。職場は獅子の穴のようかもしれない。けどあなたがダニエルのように妥協せず、常に主に仕えて行くと守られます。大いに祝福されます。そしてダニエルのように用いられるようになります。 聖書は獅子の穴について色々なことを言っています。確かに違う表現を使うかもしれません。 例えば、ヘブル人への手紙の11章から、 ヘブル人への手紙11:33
ここで、獅子も出て来るんですね。 ヘブル人への手紙11:34-39
この箇所を見ると、今まで、主の御名のゆえに殺された多くの何千、何万人という人々について書かれています。 このような獅子の穴もあります。結局彼らの獅子の穴とは、拷問の苦しみでした。多くの人々は、拷問の苦しみに我慢し、少しの妥協もせず、常に主に仕えて来ました。 これらの人々に、ダニエル書6章20節に書かれているように尋ねると、何と答えるなのでありましょうか。 ダニエル書6:20
拷問の苦しみを受けた人々に同じように聞けば、彼らは何と答えるなのでしょうか。おそらくパウロは、ローマ人への手紙8章37節に書かれてるように、 ローマ人への手紙8:37
と答えるに違いない。 私たちを愛してくださった方によって、私たちはすべてのことにおいて勝ち得て余りがあると言うに違いない。 拷問の苦しみは確かに獅子の穴でありましょう。あるいは病気もひとつの獅子の穴でもあります。 多くの人々は病に倒れ、数週間、数ヶ月、数年間と床の上に寝たきりに、良くなる望みのない闘病生活を続けています。 こういう人々にはこの世の望みは何もない。このような人々は孤独です。 けど主はそれらのひとびとの喜びでありまた、拠りどころとなってるのです。 そういう人々に同じように聞けば、「生きる神があなたがたを獅子から救うことができたのでありましょうか。」と尋ねると、何と答えるなのでありましょうか。 ダビデは詩篇の103篇の中で次のように答えたのです。非常にすばらしい箇所です。 詩篇103:1-4
獅子の穴から 詩篇103:4-5
と。病気を通してのみ、主のすばらしさを知るようになった人々は数え切れないほどいます。 病気は決して天罰ではありません。主の愛の表われです。 自分の無力さを感じると助けを叫ばざるを得なくなる。結果として主の語らいを体験的に知るようになり、大いに祝福されます。 それから死という獅子の穴もあります。何と多くの信者はもうすでにこの穴を通って行ったことでありましょう。 信ずる者が死ぬ寸前、その枕火に立ってその心をうかがうなら、彼らは何と答えるなのでありましょうか。初代教会の答えとは次のものでした。 コリント人への手紙第I、15:54-57
この確信を持つ人は間違いなく安心して将来に向かうことができる。希望をもって死に向かうことができるのです。 私の曾おばあさんが死ぬとき、その部屋は、夜中だったし、そのときもちろん電気も無かったし、部屋は真っ暗でした。 けど死ぬ寸前、曾おばあちゃんの顔は昼の日のように明るくなり、「主の栄光が見える。」と言って死んだそうです。 私の母は、そのすばらしい死に際を見て打たれ、イエス様を信ずる者となりました。 私の出た神学校の校長先生が召されたときも、すばらしい情景だったそうです。 召されるとき彼は、「私はイエス様の声を聞きます。主を見てます。罪の赦しは栄光の冠だ。」と言って息を引き取って逝かれたそうです。 いわゆるキリスト教の国で生まれた人々がそういう死に方をするだけではありません。 前に話したように、あるお婆ちゃんは十年間寝たきりでした。一回も教会に行ったことがない人なんです。 けども近所の奥さんを通してイエス様のこと知るようになり、単純にイエス様を受け入れたんです。 訪ねたとき彼女は本当に喜びに満たされた顔で、「もうちょっとで天国です。」と言ったんです。 ちょうど5週間あとで召されました。 最近、別に心を開こうとしなかった娘もやっぱりイエス様を信じ、受け入れるようになったのです。 今朝もちょっと一つの話を聞いたんです。ひとりのこの集会の姉妹のお母さんは今入院されています。癌だそうですね。 けどあの姉妹の一番下の娘は、「もう絶対に言ってはいかん!病名を言ってはいかん!言えばもう自殺する。」と。 結局、言えばもう大変なことになるから。けどももうちょっとで天国だと分かれば、全然違う話になるでしょ?未信者は本当にかわいそう。 結局人間を二種類に分けようと思えば、次のことが言えるでしょう。 ある人々はやっぱり、「死について考えたくない。」、結局死にたくない気持ちに支配され、ほかの人々は、「一秒でも早く逝きたい。もう十分だよ。」 ある兄弟は大手術の前に、「みこころであるならば、医者が失敗するように。私を召してください。」と祈ったそうです。 ちょっと、普通の人は考えられないけどそうなんです。結局、生きる希望をもつ人は安心して死に向かうことができるのです。 やがてイエス様が来られると、すべての召された人々がよみがえられるようになります。 そのとき主の御名のゆえに殺された人々、病で死んだ人々、迫害されて死んだ人々、これらの主にある人々はみな、獅子の穴から引き上げられ、よみがえらされます。主のみもとに引き上げられるようになります。 コリント人への手紙第I、15:51-52
確信に満ちたことばです。死を恐れる恐れから解放された人々の告白です。 テサロニケ人への手紙第Iの中で、この事実についてまた次のように書かれています。よく知られてる箇所です。 テサロニケ人への手紙第I、4:13-14
いつも眠ってる。眠ってるのはもちろんからだだけなんですね。霊とたましいは死んだ瞬間にイエス様と一緒になるからです。 けども灰になった、土になるからだとは眠ってるもんだ。その中から栄光のからだがよみがえるようになります。 テサロニケ人への手紙第I、4:15-18
私たちはいつまでも主とともにいることになる。これは決まってます。すばらしい約束です。 けども主にある人々の中で、まだ一度もイエス様の御名のために苦しめられた経験を持たず、困難を避け、妥協して歩む、常に主に仕えて行くことをしない人々も、もちろんたくさんいます。 こういう人々があとでダニエルのように獅子の穴の中に投げ入れられ、神に祈ったが、祈りが聞き届けられなかったなどということがあれば、本当にかわいそうなのではないでしょうか。 ダニエル書6:24
とあります。 もし常に主に仕えることをしていない人々がこのようなみことばを読むと、恐れを抱くはずです。 ダニエルをねたんで、迫害した人々が穴に投げ入れられたとき、その人々だけではなく、妻も子もかみ裂かれて死んだとここで書かれてます。これは歴史的な事実です。 私たちは新しく主の愛を見、ダニエルのように常に主に仕える者になりたいものです。あえてダニエルのような者になりたいものです。 私たちは若いときから大胆に常にいつも主に仕えていくことが必要です。そうしないと歳とってから獅子の穴に入って行く勇気がないかもしれない。 ダニエルのように信仰の強い勇敢な主に仕える性格になるまでには、成熟の長い時間が必要でしょう。 もし成熟するなら、少しの恐れもなく、悪魔に立ち向かうことができるのです。ダニエルの特徴とはいったい何だったでしょうか。幼子のような信仰、定まった心、目の前に一つの目標を持っていたことです。 ダニエル書6:20
少しも妥協することをしないダニエルの証しは、すばらしい影響を周囲に及ぼしました。 異邦人の王でさえも、生きる神とはダニエルの神であると認めざるを得なくなり、また今まで神と関係を持ちたくない王さまでさえも、生きるまことの神を恐れるようになりました。 彼は自らダニエルの神を知りたいという飢え渇きをもつようになっただけではなく、この神の偉大さを知るようになった結果として、次のように書いたのです。 全国に、結局当時の全世界に詔を書き送ったのです。そして結局ダニエルの神を恐れるようにと命令したのです。 ダニエル書6:25-27
運命だった、偶然だったのではない。神が支配しておられるお方です。神は生きておられるお方です。 神は頼る者を守ってくださり、導いてくださるということです。 もし今日、われわれが新しく主にすべてをささげ、特にわれわれの意思を主にささげて仕えるならば、われわれの家族も救いにはいるようになります。 ダニエルを憎んだ人々とは、もちろん正直になろうとしなかった人々だったのです。 まことの救いを得ようとしたくなかった人々だったのです。生きるまことの神の前に頭を下げたくなかった人々だったのです。 だから彼らはダメになった。彼らだけではなく家族もともどもにダメになってしまったのです。妥協して主に仕えることを拒むなら、夫も子も家族諸とも獅子に裂かれるという結果になったのです。これは厳粛な事実なのではないでしょうか。 ダニエルは祈ることを禁じられていたにも関わらず、ひと時も祈ることをやめなかったから、いのちを奪われる危険に瀕していました。 ダニエル書6:10
のです。ダニエルは窓を閉めて、だれにも気付かれないように祈るという賢い方法を取ることもできたでしょう。 けどダニエルは窓を開けて祈るという、普通の人には理解できない、一見愚かと思われる方法を取ったのです。 彼はその当時、随一の知恵者でした。けどこのような愚かと思われる態度を取りました。彼は非常に危険をともなう、このようなやり方を意識して行なったのです。 けど彼は自分自身のためを考えてそうしたのではない。主の名誉のためにそうしたのです。 「私は、死ななければならないのでしたら、結構です。死にます。」 私たちは自分たちの生活を振り返ってみると、あんまりにもダニエルの祈りの生活とかけ離れてることを思い、恥らざるを得ないなのではないでしょうか。 ダニエルは自分のいのちを失う備えをもっていましたが、異邦の王は書き送りました。 ダニエル書6:25-26
です。と告白するようになりました。 心から主に仕える者は、主の偉大さを経験するようになり、用いられるようになります。 |