引用聖句:ダニエル書2章31節-45節
今日は引き続いて、ダニエルについて学んで行きたいと思います。 真っ暗な夜のような恵まれない環境で、なお信仰を持って証ししたダニエルとその友だちについて、少し考えたいと思います。 私たちの住んでる世界は将来、どうなっていくなのでしょうか。 私たちの信仰生活を確かなものとし、動かないようにしっかりと歩むには、世界の将来を知っておく必要があります。 世界の将来をわれわれに教えてくれる人間はだれでしょうか。星占いが教えてくれるなのでありましょうか。宗教が教えてくれるなのでしょうか。 ある人が、あの有名なアインシュタイン博士に、第三次世界戦争はどのような戦争になるだろうかと尋ねたのです。 博士は、第三次世界戦争のことはよく分からないけど、第四次世界戦争は原始時代の戦争みたいに、人間は石を投げ合って戦うだろうと答えたそうです。 それは次に起こる第三次世界戦争がそんなにひどく、ほとんど世界を破滅に近づける可能性があるからだと言ったのです。アインシュタイン博士は正しいなのでしょうか。 このように色々、次の戦争のことを考えてる人々がありますけど、いったいだれが正確に将来を告げてくれるなのでしょうか。 われわれに将来、何が起こるか詳しく教えてくださるのは、もちろん万物の支配者なる神だけです。 ダニエル書2:28
とあります。 アモス書3:7
とあります。結局、いわゆる預言者たちは神の口であり、主は彼らに将来のことを告げたのです。 主なる神は、ダニエル書2章を通して将来何が起こるかをはっきりと教えてくださったのです。 主はご自身が世界歴史の支配者であり、王を立て、王を拝するのも、すべてご自身の御手のうちにあることを教えるために当時の王である、世界を支配したネブカデネザルにひとつの夢を見させました。 初めに王はこの夢を、人間的な知恵で解き、将来を知ることができると思っていましたが、それは決してできないことであることを終わりに悟るようになりました。 主は示してくださらなければ、明らかにしてくださらなければ、人間はいくら考えても何もならないと、王さまも知るようになりました。 主なる神がネブカデネザル王にこの夢を見させたのは、彼だけでなく、われわれも世界の将来がどのようになっていくか、はっきり知るために夢を与えてくださったのです。 聖書の預言は将来世界に何が起こるかをはっきりと告げております。主なる神の与えられた預言を学び、それが預言されてから数百年あと、また千年もあとにその預言どおりに歴史が成就されてるのを見ると、主の御前に膝をかがめ、礼拝せざるを得ないなのではないでしょうか。 ネブカデネザルが見た夢は、紀元前六百年から、結局今日になるまでの四つの世界帝国について預言しています。まず2章の32節に、 ダニエル書2:32
と書かれてます。そして37節、 ダニエル書2:37-39
夢の中で一番初めに出て来るのが結局金の頭です。これは当時の世界帝国バビロンを表わしています。 そして夢の中で次に出て来るのは、銀の胸と腕です。これは次に続くメディヤとペルシヤの国を表わしています。 ダニエル書2:39
三番目の夢の中に出て来るのが青銅の腹とももです。これはギリシヤ帝国を表わしています。 次に鉄でできたすねの夢を見ました。統一されたローマ帝国を表わしています。 ダニエル書2:33
そして40節。 ダニエル書2:40
とあります。次に見た、一部は鉄、一部は粘土の足は、分裂したローマ帝国を示しています。 ダニエル書2:33
ダニエル書2:41
その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強い、一部はもろいでしょうとここで書かれています。 紀元後476年、ローマ帝国はドイツ、フランス、イタリア、イギリスその他多くの国々に分裂しました。 それ以来今日までこの分かたれた国々は粘土と鉄がよく混じらないように、分裂したまま、また対立したまま続いて来てます。 ネブカデネザルは当時、自分の国とその勢力の強さを考え、この自分の国、バビロン帝国は永遠に残るもんだ、永遠に滅びないで続くののであると確信したのです。 バビロンの周りには高さ100m、ちょっと考えられないんです。高さは100m、厚さは27m、地下11mの二重の塀で囲まれ、その周りは96kmという、今でもちょっと想像もつかないような城壁で囲まれていたのです。 しかも城壁の間には深いお堀が掘られていて、水が満たされ、外敵から完全に守られるような仕組みになっていました。もう100%安全だとネブカデネザルは思ったのです。 今、このバビロンの王にネブカデネザルは、自分は世界の支配者ではなく、自分の上に主の主、王の王がおられ、やがてバビロンは滅びるという夢を見たのです。事実その通りになってきました。 ある夜、巨大な塀の下を突き抜けて流れてるユーフラテス川の水が涸れ、ペルシヤとメディヤの軍隊が城壁の中に忍び込み、陥落するとは到底考えられなかったバビロンの町は滅ぼされ、聖書の預言は見事に成就しました。 けど、この第二の世界帝国メディヤ、ペルシヤもそんなに長くは続かなかったのです。 ギリシヤのあの有名なアレキサンダー大王は怒り、メディヤ、ペルシヤを5年の間に占領してしまいました。ここでも聖書の預言は確実に成就したのです。 このアレキサンダー大王によって打ち建てられたギリシヤ帝国も、預言の通りにやがて滅んでゆく運命にありました。 鉄のように強大なローマ帝国が興り、まもなく全世界を支配するようになったのです。イエス様の時代のときも、結局全世界はローマによって支配されたのです。 ネブカデネザル王はこの世界歴史の遷り変わりをみんな、一つの夢の中に見ました。 主なる神は夜を徹して、夢の解き明かしのために神の御前に祈ったダニエルとその友だちのゆえに、ダニエルにネブカデネザルの夢とその解き明かしを示してくださったのです。 紀元前600年前に見たネブカデネザルの夢が、今日まで世界歴史の上に、文字通り実現されてきたということは実に驚くべき事実です。 ネブカデネザルの見た夢の中には、やがて滅んでゆく四つの世界帝国ばかりでなく、そのあとに永遠に続く神の国もはいっていました。 人手によらず切り出された石が像の足を打ち砕いたとき、像の全部が砕けて、崩れ落ちたという夢も見たのであります。 ダニエル書2:34-35
とあります。また ダニエル書2:44
とあります。ちょっと、ヨハネの黙示録から一ヶ所見てみましょうか。 ヨハネの黙示録11:15-17
とあります。 夢を考えていきますと、世界歴史は段々よい方に向かって行ってはいません。段々世界の状態は悪くなってきます。 初めは金であり、終わりは粘土となり、やがて滅んでしまうことがこの夢を通してよく分かります。 この世をよくしようと思う人々はたくさんいます。無駄な努力です。うまくいきません。分裂して弱くなってしまいます。 頭、胸、両手、両足、胴、みなバラバラになってしまいます。自分の足の指もバラバラになっていってます。 ヨハネの黙示録には、王の角について書かれています。これはみな同じ意味です。例えば、 ヨハネの黙示録17:8
ヨハネの黙示録17:12-13
この獣とは、もちろん将来出て来る反キリストを意味するものです。 ダニエル2章に書かれてる、人の手によらずに切り出された石はやがて、雲に乗って来られるご自身の御国をお造りになるイエス様を現わしているのです。 今の世界の情勢が段々良くなって神の国になるとは、聖書は言っていません。一回破壊され、上から新しい神の国が地上に置かれると聖書は言ってます。 ダニエル書に戻りまして、 ダニエル書7:13-14
とあります。 マタイの福音書中でも、イエス様は自分のことについて次のように言われたのです。よく知られてる24章。 終わりの世について色んなこと知ろうと思えば、マタイの福音書24章は非常に大切な書であります。 マタイの福音書24:30
イエス様の公の再臨についての預言です。世界が将来どうなっていくか予言できる人間はだれもいません。 ほかの宗教と名の付くどれを見ても、世界の将来を予言してる宗教はありません。けど、まことの神は聖書を通して世界の将来をはっきりと預言されました。 それまで聖書とまことの神を信ずることのできなかった多くの人々は、このダニエルの預言とその成就を聞かされ、砕かれ、主を信じ、受け入れるようになったという実例があります。 バビロンにおける時代とはいったいどういう時代だったのでありましょうか。また、われわれの今の時代とはいったいどういうものなのでありましょうか。比較することができるなのではないかと思います。 ダニエルとその友だちは信仰の人々だったのです。彼らは目に見える現実に縛られないで、みことばに頼った人々でした。 ヘブル人への手紙の11章に、いわゆる信仰の人たちがたくさん書かれていますが、その中に彼らの名前は確かに知らせれていませんけど、33節と34節を見ると、ダニエルとその友だちも信仰の人の書に含まれてることが分かります。 ヘブル人への手紙11:33-34
とあります。 ここで獅子の穴に投げ込まれたダニエルも出て来ますし、また、火の勢いを消したダニエルの三人の友だちも出て来るのです。 ダニエル書で一番言わんとしてることは、暗やみの中での信仰ということです。 私たちは今、もうすぐイエス様がおいでになろうとしてる末の世に、最暗黒の世に行ってることは疑いもない事実です。 ですから私たちの生きてるこの世は、ダニエルの生きた頃に比べることができると思います。 霊的な原則はどの時代においてもまったく同じです。 御霊がお働きになって、われわれがダニエルやその友だちと同じ信仰の人となることができたら、本当に幸いと思います。 多くの人々は、世界はだんだん良くなるのだろうか、だんだん悪くなっていくだろうかと考えます。その両方だと聖書は言っています。いいところは段々良くなり、悪いところは段々悪くなってきます。 イエス様はご自分の教会を建て上げるために働いておられます。「わたしはわたしの教会を建てる。」、ある人々は、「自分の教会を建てる。」と考えてますけど、それは決してうまくいきません。 教会とは主のものです。主しか建てられないものです。「わたしはわたしの教会を建てる。」とイエス様は約束してくださったのです。 そして主はご自分に属するからだの主体を完全なものとするために、色々な苦しみや悲しみ、困難を通して練り聖め・・・ (テープ A面 → B面) ・・・は、ご自身に属する者、信ずる者に傾け尽くされています。 ダニエル書の7章の中を見ると、この中に聖徒、信者たち、主に属する者たちということばが何回も何回も出てきます。 すなわち主なる神がどんなにご自分に属する者を・・・ (テープ中断) ・・・主は信ずるひとりひとりのことを思っておられ配慮していてくださり、祝福しようと切に望んでおられます。 良いところはますます良くなり、全きに向かっています。 主に属する人々は成長し、神の国は成熟していきます。悪い面もますます悪くなり、悪の慣性に向かって行きます。 悪いものも良い面もすべての出来事の中心にイエス様のからだなる教会があります。そして悪い面も良い面も、あらゆる出来事は神の子たちが御子イエス様の御形に似る助けをしてくださるのです。 主のご栄光と主の目的はすべて、まことの教会に任せられています。 全天全地、地獄までは救われた者が御子の御姿に変えられる助けをしなければならないと、聖書ははっきり言ってるのです。 われわれはどのようなことを経験しようとも、まず主を尋ね求め、主が配慮してご栄光を現わしてくださることがお出来になるようにすべてを主にゆだねるべきです。 預言者サムエルの母は、非常に悩んでいた者でした。聖書は次のように言ってます。 サムエル記第I、1:10
確かに彼女は苦しみましたけど、諦めませんでした。「どうせダメだ。」と思ったのではない。彼女はすべてを主にゆだねました。祈りました。 これこそ勝利の秘訣です。主のみもとに行く者は捨てられないからです。必ず偉大なる解放を経験するからです。 ひとりのやもめは、預言者エリシャに「私の息子は亡くなりました。」と言ったのです。 彼女がいかに苦しんだか想像できるでしょう。預言者はこの苦しみ、悩んでるやもめをもはや見ることができないほどでした。 そのとき預言者は色々な慰めの言葉をかけようとはしなかったのです。聖書は次のように言ってます。 列王記第II、4:33
心から叫んだ。その結果、主は死んだ子どもを生き返らせ、栄光を現わしてくださったのです。 私たちが苦しい状態に置かれ、試練にあるとき、祈ることこそ、勝利の秘訣です。 ダニエルとダニエルの友だちとはどうして勝利を得たかと言いますと、色々な人々と相談したからではない。頑張ろうと思ったからではない。祈ったからです。 この間ちょっと電話があったんです。 「実は、ちょっとひどい手紙もらったから、内容はこうだ、ああだ。どうしようか。」と。 そのときちょっとイザヤ書の37章の14節のことばを引用したのであります。 イザヤ書37:14
と書いてあります。 このヒゼキヤはひとつの、本当にひどい手紙を受け取ったんです。けど彼はそのことを怒ったり、不満を言ったりしませんでした。 またその手紙を公に見せたり、苦情を言ったりしなかったのです。 彼はその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前に広げたとあります。 主に至る戸はいつも開かれています。主は私たちが私たちの問題と悩みを持って主のみもとに行き、主に信頼することを心から待っておられます。 主は奇蹟を行なうお方です。主にとって不可能なことは一つもありません。 主なる神に非常に忠実に仕えたダニエルは、確かに絶望的な状態に置かれたことがありました。 ダニエルの敵対者は王に懇願し、一ヶ月以内に王ではなく、神に願い求める者はみな、獅子の穴に投げ込まれるべきであるという変えることのできない法律を発令するように迫りました。 ダニエルはそのとき何をしたのでしょうか。怒って、王のところに行ったのでありましょうか。敵の卑劣なやり方に対して怒ったなのでありましょうか。 友だちを呼び集め、逃れ道を求めたなのでありましょうか。決してそうではない。 ダニエル書6の章の11節に次のように書かれていますね。 ダニエル書6:11
ダニエル書6:10
ダニエルは法律によって許されていないことをしたわけです。そのとき彼は主に叫び、祈り、すべてを主にゆだねたのです。 ダニエルは意識的にすべての事柄を主の前に申し述べました。彼は主なる神が必ずみわざを成し遂げてくださると確信したのです。 このような信頼は決して絶望させられません。不可能と思われたことが起こりました。 すなわち獅子はダニエルにあえて触れようとはしなかったのです。信じられないようなことですけど、本当だったのです。 結局われわれの主はダニエルの神とは生きておられると、当時の王さまも認めざるを得なかったのです。 主なる神は主に避け所を求める人たちの人生において、主が全能者であられることを明らかにしてくださるのです。 使徒の働きの16章の中で、無実の罪で牢獄に入れられたパウロとシラスについて書いてあります。 彼らはダニエルと同じ態度を取ったのです。彼らはむち打たれ、犯罪者のように取り扱われましたけど、決して反抗的な態度を取らなかったのです。 なぜ神はそんなことを許したのかと彼らは考えようとしなかったのです。 私たちは主に仕えただけなのに許しがたい暴挙ではないかとは言いませんでした。 使徒の働き16:25
そのような状況に置かれていても賛美の歌を歌うなのはちょっと考えられません。 彼らはなぜそのように導かれたのかもちろん分からなかったし、理解できなかったし、けど神は決して間違いをなさらない。 このような導きもわれわれにとって最善の益となるに違いないということを二人は確信したのです。ですから彼らは祈りつつ、賛美の歌を歌うことができたのです。 ダニエルもダニエルの三人の友だちも、パウロ、またシラスもどういう状況に置かれていても主のがわに立つようになり、また奇蹟を経験したのです。 イスラエルの民の使命とはそういう使命だったのです。本来主の御栄えを現わし、主の権威を証ししていかなければならなかったんです。けど、ダニエルの時代のイスラエルの民そのものは、それからおよそかけ離れた状態に陥っていました。 当時のイスラエルの民は主のご支配を証しするどころか、敵の手に渡り、捕われの身となってバビロンに遷されて行ったのです。 かつてのイスラエルは主に従順であったとき、世界歴史の中心に位し、ほかの民々はみなイスラエルの神の前にひざをかがめたものでした。 しかしダニエルの頃のイスラエルの民は力がなく、喜びがなく、権威もありませんでした。あわれにも捕われ、バビロンに遷されて行ったのです。 神の支配から外されたイスラエルの民はこの世の国バビロンによらなければ食べることも着ることも住むこともできない捕われの身となってしまったのです。 今日においても同じではないでしょうか。主に属する者は国々の中で権威をもってるのでしょうか。権威をもって信ずる者の意見を押し通すことができるなのでありましょうか。 主のご支配がわれわれの真ん中に密かに現われてるなのでありましょうか。これこそが教会の使命です。 エペソ人への手紙から2ヶ所読んで終わりましょうか。 エペソ人への手紙6:12
われわれ主に属する者たち エペソ人への手紙6:12
すなわち人間 エペソ人への手紙6:12
われわれの戦いはこういうものになるかもしれないのではない。結局信ずる者はみなこのような戦いに投げ込まれているのです。 エペソ人への手紙3章の9節から。ここで主のからだなる教会の使命について次のように書かれてます。 エペソ人への手紙3:9-11
結局信ずる者を通して主は働こうと望んでおられます。信ずる者を通して主は自分のご栄光を明らかにしようと望んでおられるのです。 主はどういうふうに人間を用いることができるなのでありましょうか。人間はダニエルのように、またダニエルの友だちのように、パウロ、シラスのようにすべてを主の御手から受け取るときです。 この目に見える世界に束縛されずに、主だけを仰ぎ見るとき、主は今日も自分の偉大なる力を明らかにしていてくださるのです。 |