引用聖句:ダニエル書2章47節
ダニエル書3:28-29
ダニエル書6:26-27
今読まれました箇所は、本当にすばらしい証しなのではないでしょうか。 今まで神との関係を持っていない王たち、すなわちネブカデネザルとダリヨス王は主を知るようになり、そして次のように告白せざるを得なかったのです。 ネブカデネザルは、 ダニエル書2:47
結局、ダニエルの神とは比類なきお方であり、比べられないお方であり、唯一の神であるとネブカデネザルは告白したのです。 また、 ダニエル書2:28-29
本当にすばらしい告白であり、証しです。ダニエル、またダニエルの友だちとは本当の意味での信仰の人々だったのです。 彼らは自分たちのからだを差し出しても、神に信頼した。まことの信仰とはそういうものなんです。 ある人々は例えば葬儀のとき、「線香を上げながら心の中でイエス様に祈ればいいじゃないか。」と言います。牧師さんたちもそうですし、カトリック教会の中の信徒さんたちもよくそう言います。 けどもこれは信仰じゃない。妥協そのものです。もし本人は信仰を持っていても必ずおかしくなるし、周りの人々も決して救われ得ません。 ダニエルとダニエルの友だちは、自分たちのからだを差し出しても神に信頼したからこそ、王たちまで揺れ動かれるようになり、求めるようになり、まことの神を見いだしたのです。 ダリヨス王の場合もそうだったのですね。彼は6章の26節に、ダニエルの神の前に震え、おののけ。当時の支配者の命令です。 ダニエル書6:26
この方は人を救って解放するお方だ。本当にすばらしい証しなのではないでしょうか。 ネブカデネザルはどうして主を知るようになったかと言いますと、ダニエルの神とは秘密をあらわす方であるからだと。 結局将来を見ておられ、将来のことを全部支配しておられるお方であるからです。 前にちょっとだけ2章について考えたんですけど、このネブカデネザルという王さまは一つの夢を見たのです。 紀元前600年から今日に至るまでの四つのいわゆる世界帝国を見たのです。 第一番目は、夢の中で一番初めに出て来るのが、金の頭です。この金の頭とは当時の世界帝国バビロンを表わすものです。 第二番目は、夢の中で出て来たのは、銀の腕と胸でした。これは次に続くメディヤとペルシヤの国を表わしていました。 第三番目に夢の中に出て来るのは、青銅の腹とももです。これは第三番目の帝国、いわゆるギリシヤ帝国を表わしています。 そしてその次に、鉄でできたすねの夢を見ました。統一されたローマ帝国を表わしています。 次に見た、一部は鉄一部は粘土の足は、分裂したローマ帝国を示してます。 ネブカデネザルは当時、自分の国とその勢力の強さを考え、この国とは、結局バビロン帝国は永遠に滅びないで、必ず続くものであると確信したのです。 今、このバビロンの王は、自分は世界の支配者ではなく、自分の上に主の主、王の王がおられ、やがてバビロンは滅びるという夢を見たのです。事実その通りになりました。 ネブカデネザル王はこの世界歴史の遷り変わりをみな一つの夢の中に見ることができたのです。 夢の解き明かしのために世を徹して神の御前に祈ったダニエルとその友だちのゆえに、神は、ダニエルにネブカデネザルの夢とその解き明かしをお示しになりました。 ダニエルしかできなかったのです。 普通、解き明かしをする人々は、もちろんいっぱいいました。けども彼らはあなたの夢を言って、そうすればわれわはどういう意味か必ず解き明かしますと言ったんですけど、王は、「イヤ、夢を忘れちゃった。」 そうすればお手上げです。夢でさえも分からなければ解き明かすこともできない。当然の話です。 けどダニエルは夢も上から示されただけじゃなくて、本当の解き明かしも明らかにされてもらったのです。 紀元前600年前に見たネブカデネザルの夢、今日まで世界歴史の上に文字通り実現されてきたということは、本当に驚くべき事実です。 ネブカデネザルの見た夢の中には、やがて滅んでゆく四つの世界帝国ばかりではなく、そのあとに永遠に続く国も見ることができたのです。 人手によらず切り出された石が王の足を打ち砕いたとき、像の全部が砕けて崩れ落ちたという夢も見たのです。 夢を考えていくと、この間も話したように、世界歴史はだんだん良いほうに向かって行ってはいないとはっきり言えます。 だんだん世界の状態は悪くなってきてます。初めは金であり、終わりに粘土となる。やがて滅んでしまうことがよく分かります。 ダニエル書2章に書かれてる、人の手によらずに切り出された石は、やがて雲に乗って来られるご自身の御国を、いわゆる千年王国をお造りになるイエス様を表わしているのです。 今の世界の情勢がだんだん良くなって、神の国になるとは聖書は言っていません。一回破壊され、上から新しい神の国が地上に置かれると聖書は言ってます。平和の君であられるイエス様を通してのみ、この国が実現されるようになります。 前に言いましたように、ダニエルとその友だちとは本当に信仰の人々でした。 ダニエル書全体の言わんとしてることは何であるかと言いますと、暗やみの中での信仰。 ダニエル、またその友だちの置かれてる状況は本当に大変だったんです。そのときイスラエルの民も生きるまことの神から離れてしまったと聖書は言ってます。 イスラエルの民は本来主の栄光を現わし、主の偉大さを証しすべき民だったのです。 けどダニエルの時代のイスラエルの民は証しではなかったのです。主に用いられる器ではなかったのです。 イスラエルは主のご支配を証しするところから敵、神の敵の手に渡されたものとなったのです。 主の自由を喜ぶべきイスラエルの民は、捕われの身となってしまって、自分の国からバビロンに移されてしまったのです。 イスラエルの民は本当に主を大事にしたとき、いつも中心だったのです。世界歴史の中心に位していたのはむかしのイスラエルだったのです。 けども彼らは妥協することによって用いられなくなってしまいましたし、祝福される者ではなくなってしまったのです。 のろわれた者となったと聖書ははっきり言ってるのです。ですからダニエルの時代のイスラエルには、力がなく喜びがなく権威もなかったのです。あわれにも捕われ、バビロンに遷されて行ったのです。 結局神の支配から外されたイスラエルの民は、この世の国、バビロンによらなければ生きることができなくなってしまったのです。悲劇そのものなのではないでしょうか。 ダニエルとその友だちは信仰の人々だったのです。ダニエル書に記されている一番大切なことは、真っ暗な夜のような恵まれない環境でなお信仰をもって証しすると、奇蹟を経験する、神が働いていてくださり自分のご栄光を現わしていてくださるということです。 ですから、私たちはダニエルとその友だちを通して多くのことを学ぶことができるなのではないでしょうか。 主は今日、どういう人々を用いることができるなのでありましょうか。 御霊によって、妥協することのない主の支配のもとにある人々を通して証しすることができたのです。 そうなるためにはまず、主のみこころがわれわれの心とならなければいけないと言えます。 ダニエルとその友は、神のみこころを己が心と知っていた人々だったのです。そしてそういう人々こそが今の時代にも一番必要とされてるなのではないでしょうか。 これらの人々は、主との交わりをなくした人々と主との間を結ぶ帯のような役目をしてる人々です。 これらの人々は日々、上から主の新しい力をいただいてる人々です。ダニエルとその友だちは、当時神から離れ、霊的に貧しくなり、落ちてしまったイスラエルの民のためにどこにも妥協することなく、常にとりなし続けたのです。 眠っているイスラエルの民、信者と神とを結ぶ帯の役目をしていたわけです。ダニエルやその友だちのような人々を主はもちろん今日も捜し求めておられます。必要であるからです。 ダニエル書を読むと、ダニエルとその友だちは同胞イスラエルの民が霊的に貧しくなり、ダメになっていることをよく知っていた人々だったのです。 けども彼らは無関心ではなかったのです。考えられない重荷になったのです。だから彼らは祈り続けざるを得なくなったのです。 もちろん彼らはどうしてそういうことを知っていたかと言いますと、みことばに頼ったからです。聖書をよく知っていたからです。 ダニエルとその友は聖書をよく学んで知っていたから、みこころをわきまえることができたのです。 そして神のみこころを成就するために自らを主にささげていったのです。 もちろん彼らはどうして聖書を学んだかと言いますと、頭の知識を得るためではない。みこころは何であるかとどうしても知る必要があると分かったからです。 主なる神の思いが彼らのうちに宿り、彼らは主によって変えられたのです。多くの信者はみことばを読んでも人格が変えられていきません。みことばはお客さんのように出たり入ったりしています。 ダニエルとその友だちの場合は違いました。みことばが彼らの心のうちに主人となり、彼らを支配し、彼らはみことばによってみこころのままに変えられていきました。 彼らはみこころを知るや、少しも妥協することなく、みこころを成し遂げるためにおのれをささげたのです。その結果がどのようになろうと恐れなかったのです。 火の牢も獅子の穴も彼らは問題ではなかったのです。各時代にあたって主なる神はかかる人々を捜し求めておられます。 彼らは主のご目的に心の目が開かれた人々だったのです。そして彼らは眠ってる信者と主なる神との間を取り持つとりなし人となりました。 聖書の真理をただ学び、ただ聞き、ただ宣べ伝えるだけでは何にもならない。聖書の真理がもうわれわれから切り離すことのできないわれわれのいのちそのものとならなければいけないのです。 私たちは信ずる者に対する神のみこころを知ってるなのでしょうか。またこのみこころにそってみこころのままに造り変えられていってるなのでしょうか。 ダニエルまた、ダニエルの友だちとはみこころを知りたかったから、みことばを読みながら、「主よ。どうかわれわれの心の目を開いてください。みこころを明らかにしてください。どうしたらいいの。教えてください。」という態度を取ったのです。 結果として彼らは主のみこころを知るようになったのです。結局、主のみこころが彼らの心となったのです。 次に言えることは、二番目になりますけど、神のみこころを行なっていく人は必ず悪魔の攻撃の真っ只中に置かれるようになる。 主の支配を受けてるキリスト者は必ず悪魔の攻撃を知るようになります。 ダニエルとその友だちはどれぐらい責められたでしょう。彼らの証しに対する報いは決して生やさしいものではなかったんです。 ねたみと憎しみと死が彼らを襲ってきたのです。 けど彼らは少しの動揺も見せないで、堅く立って動かず、次々とやって来た六つの戦いに勝利者として勝ち進んで行ったのです。この六つの戦いはダニエル書1章から6章までの間に記されています。 1章に出て来る戦いは、いわゆる異邦的な習慣や風習に対する神の節制の戦いです。 神のがわにつくダニエルとその友だちは異邦の若者より健康にまさり、知恵も十倍まさり、異邦の習慣と風習に対して勝ちました。 ダニエル書1:15
ダニエル書1:20
すばらしい勝利であり、神の栄光の現われなのではないでしょうか。 結局ダニエル、また彼の友だちとは何があっても妥協しません。誤解されても、無視されても、殺されても構わない。 第二章に出て来る戦いは、異邦の迷信と魔術に対する神の知恵の戦いです。異邦の博士、魔術師たちは自分たちの無力さを告白し、ダニエルは全能なる神の力によって勝って神を賛美してます。2章の20節からダニエルは次のように告白しています。 ダニエル書2:20-23
ダニエル書2:47
と告白せざるを得なかったのです。 ダニエルたちはこの勝利を経験したか、神の栄光を拝することができたかと言いますと、一緒になって相談したからではない。一緒になって祈り続けたからです。 「王の要求は無駄だ。夢でさえも分からなければどうして解き明かすことができるのか。」 けども彼らは主にとって不可能なことはないと、確信して祈り続けた結果としてすべてを知らせてもらいました。 第三番目の戦いは、3章に出て来ます。この戦いは、偶像礼拝とまことの礼拝の間の戦いです。異邦の王さえ次のように告白せざるを得ない結果になりました。 ダニエル書3:27-29
もしダニエルの友だちは、形式的にだけ頭を下げて、心の中で主に向かって祈ったならば、そんな問題にならなかったんです。 けども彼らは信仰的にダメになり、証しする力も無くなってしまったし、もちろん王は相変わらず、「支配者なのは俺だ。みんな俺の前に頭を下げなければならない。」という態度を取り続けたに違いない。 ちっぽけな三人の妥協のない態度を通して、全世界に福音が宣べ伝えられるようになったのです。まことの礼拝をささげる者は大いなる影響を及ぼします。周りの人々は必ず動かされます。 四番目の戦いは、4章に書かれてるのであります。すなわち異邦の王の傲慢に対する神の支配の戦いです。 異邦の王は気が狂い、神の御手によってそれがいやされたとき、次のように告白しています。 ダニエル書4:34-37
これは王の学んだ結果ではなく、ひとつの教えではなく、彼の経験でした。 (テープ A面 → B面) 王さま、ベルシャツァルは壁に書かれた文字の意味を知り、驚いてその晩死んでしまいました。5章の1節からちょっとお読みいたします。 ダニエル書5:1-4
金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美した。礼拝した。 ダニエル書5:22-23
ダニエル書5:30
とあります。6章にある六番目の戦いは、悪意に対する神の守りの戦いです。 獅子の口は神の力により閉ざされ、ダニエルは奇蹟的に救い出されたのです。6章の26節、27節に次のように書かれてます。 ダニエル書6:26-27
とあります。これらの戦いは血肉に対する戦いではなかったとダニエル書を通してはっきり知ることができます。 ダニエルとその友だちは祈ったとき、天国も地獄も揺り動かされたのです。ダニエルが祈りを始めたとき、空中を司る悪の霊がダニエルの祈りを潰してしまおうとしてダニエルの祈りを妨げたのです。10章の中で次のように書かれています。 ダニエル10:13
3週間 ダニエル10:13
云々と書いてあります。そして ダニエル書10:20
とあります。ここで出て来るペルシヤの君、ギリシヤの君とは悪霊のかしらを意味します。 しかしダニエルの祈りは地獄だけでなく、天国にも届きました。天は天使の長ミカエルを送り、ダニエルを助け、勝利を与えたと書かれています。 主のご目的が成就されないように、激しい悪霊の働きがあります。この恐ろしい悪霊の働きを身近に感ずる今日この頃、この恐るべき現実を見つめ、主の御前に立ち続け、祈り続け、やがて天の窓が開かれ、奇蹟を見るまで祈りたいものです。 もし主の栄光をこの目で拝し、主ご自身がご自分の教会を建て上げられるようにと望む者は、どんなに何倍も熱くされた試みの牢に投げ入れられても驚きません。獅子の穴に投げ入れられても驚きません。 今まで二つの点についてちょっとだけ触れました。 第一番目は、主の支配を受けた証し人は、主のみこころを自分のものにする人々です。 第二番目は、主の支配を受けた証し人は、悪魔の攻撃の真っ只中に置かれてる人々です。 最後に第三番目は、主の支配を受けてる証し人とは、この世より選び別たれた人々であるということです。この世より選び別たれた人々は、主の支配を受けてる証し人です。 1章を見ると、ダニエルとその友だちは、王さまの食物を食べることによって自分を汚すまいと、心に思い定めたのです。 王さまにこのように申し述べ、王の機嫌を損ねてまで、王の食べる食べ物を食べないということは、きわめて要領の悪い、駆け引きの下手なやり方です。 「その食べ物は食べ慣れていないから。」と言って、言い訳もできたはずでしょう。けど彼らは主の光のうちに歩んだから、妥協することとは自分の信仰生活の妨げとなり、周りの人々も決して導かれ得ないと分かったから、まったく違う態度を取ったのです。 なぜダニエルとその友だちがそのように心に思い定め、王に申し述べたかと言いますと、彼らは少し妥協しても、自分の証しの力が薄れてしまうことを分かったからです。 もし彼らがこの世と妥協して、周りの人々と同じように見られたいと思ったならば、全能なる神が自らを支配しておられるという証しの力がすぐになくなってしまったことは明らかです。 彼らは妥協せず、主の道を歩むなら、主の栄光が現われていく。もし妥協するなら、栄光は決して現われないということを分かったのです。 結果はどうでしょう。主はダニエルとその友だちにすばらしいご自身の力をお示しになりました。ダニエルと友は人の憎しみ、悪魔の憎しみに打ち勝ち、輝かしい勝利を収めたのです。 多くのクリスチャンは世と妥協して優柔不断になり、証しの力をなくしてしまってます。この世と妥協してしまった信者を通して神がご自身の栄光を現わすことはできません。 ダニエルの時代の神に選ばれた民イスラエルはこの世に例えられる異邦の国バビロンにたましいを売ってしまったんです。 けどダニエルとその友だちはそうではなかったのです。彼らはパウロのような態度を取ったんです。 パウロはガラテヤ人への手紙の6章14節に次のように証ししたのであります。 ガラテヤ人への手紙6:14
本当にすばらしい証しです。ダニエル、またダニエルの友も同じ心構えを持つ人々だったのです。彼らは絶えず主のご愛、主のご支配のうちにとどまり続けましたから、主の栄光は彼らを通して現われていったのです。 妥協せずに常に主に仕える彼らは、ほかの人々にまさること、十倍ということが明らかになりました。 世より選ばれ、聖め別たれるということは、主とひとつになり、主の恵みと力を絶えず経験する結果をもたらします。 この世と妥協してたましいをどっちつかずになってしまう者には、証しの力がなくなります。主を新しく御奉ることができなくなってしまいます。 妥協するある人々は、言い訳にパウロのことばを自分勝手に解釈しています。例えば、 コリント人への手紙第I、9:22
と。けどもパウロは決して妥協しなかったよ。 ペテロは曖昧な態度を取ったとき、彼はペテロに向かって、「あなたは間違ってる。悪魔の虜になってしまった。悔い改めないとおしまいだ。」とはっきり言ったのです。 この世に妥協し、軟弱な生活に慣れてしまってるキリスト者は、ひとつのたましいも獲得することはできません。妥協はのろわれます。 不義と不法は祝福をしめ出します。ダニエルの時代も今の時代ももちろん同じです。 どの時代でも悪魔が目指してることは信ずる者を妥協させ、罪に引きずり込み、霊の力をなくし、証しの力をなくししようとすることです。ダニエルとその友だちは汚れから身を避けました。 悪魔は自分が彼らの心を脅かすことができないことを知ると、今度は外から攻撃して来ます。彼らを火の牢に、獅子の穴に投げ入れました。 主なる神は今日、からだなる教会に対する神のみこころをわきまえ知り、悪魔の攻撃が激しくても妥協せず、自らをささげきる人々を求めておられます。 これらの人々はいつも主の臨在を覚え、その祈りはいつも聞き届けられます。 どんなに悪魔の攻撃にあってもダニエルは勇敢に証しし続けました。主が彼にともなっておられたからです。 もし私たちが主のまったくのご支配のうちに自らをゆだね、主の栄光をのみ目指して歩むならば、ダニエルの神はわれわれとともに歩んでおられることを新たに体験することができるのです。 |