引用聖句:ダニエル書9章1節-9節
ダニエル書9:20-23
ダニエル書10:9-12
ダニエル書10:19
今、読まれました箇所の中で三回同じことばが出て来たのです。すなわち、「神に愛されている人」 3,000年前に世界を支配したソロモンの名前はこういう名前だったんですね。「主に愛されている者」、最高のすばらしい名前です。 主によって愛されている者、愛されていない者はないから、だからだれであっても、「ソロモンよ。」と呼んでもいいなのではないでしょうか。 ダニエル書9:23
ダニエル書10:11
ダニエル書10:19
このことばは、もちろんわれわれ一人一人にも与えられてるみことばです。このような呼びかけは、われわれ一人一人も必要としてるなのではないでしょうか。 「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」 ダニエルは与えられたみことばによって元気になりました。 結局人間の心の奥底を理解できる人間はいません。結果として人間は寂しくなります。どうしたらいいかと分からなくなります。 人間の心を理解できる方、人間そのものを心から愛しておられるお方とは人間の心の造り主しかない。 したがって人間の心を励ますことができ、力づけることができるのは、神のみことばである聖書しかない。これこそがダニエルの経験だったのです。 この読みました箇所を通して言えることは、神は人間とともに働きたいということを知ることができます。 まことの神は三回も、「神に愛されている人よ。」と呼びかけたのです。 このことばは主なる神ご自身の口から出た実に驚くべき、恵みに満ちたことばなのではないでしょうか。 主なる神は決して嘘をつきません。ちいちゃなことをいかにも大きなものであるかのように誇張して話すことをいたしません。 神は真心からそう思ったのです。「あなたは愛されていますよ。」 神が語られるなら、真実をもってご自分のみこころにあるものをそのままお語りになります。 神はダニエルに、わが愛されている人よ。と御声をおかけになりましたが、そうお語りになるには何か理由があるはずです。 全知全能なる神がそう言われるには、その後ろに何か理由があるはずです。「わが愛されてる者。」 これはダニエルに対する天の判断でした。もし私たちにも同じみことばがかけられるならば、どんなに幸いなことでしょうか。 ダニエルは大いに愛された者でした。けど聖書を読んでいくと、われわれ一人一人も愛されてる者であることを知ることができます。 一番よく知られている聖書の箇所とはおそらく、ヨハネの福音書3章の16節なのではないでしょうか。なぜならば、福音そのものはこの一ヶ所の中で全部含まれてるからです。 ヨハネの福音書3:16
神は、そのひとり子であられるイエス様を犠牲にした。死に与えたと。 ローマ人への手紙5章の8節にもこの大いなる愛について次のように書かれています。 ローマ人への手紙5:8
私たちが罪人であったときよりも、まだ生まれていなかったとき、イエス様は私たちのために死なれたのです。 結局神の愛とは人間の考えられないほどすばらしいものです。エレミヤ書の中で、永遠の愛という表現が使われています。 エレミヤ書31:3
永遠とは何であるか、だれももちろん分かりません。初めのない、終わりのない愛です。 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」、聖書の中でイエス様はこの世界が創造される前に、創造される人間はいつか堕落する、わがままになり、神に対して無関心になるとお分かりになっただけではなく、この人間の代わりに死ぬ、代わりに犠牲になると決心してくださった。 結局罪の問題は起こる前に、罪の問題の解決をされたのであるとあります。考えられないすばらしい事実です。 ここで、「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」 「あなたたち」、ではない。「あなた」を愛した。人間一人一人は神の愛の対象です。それを分かるようになれば喜ぶことができるようになります。 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。」、結局、主イエス様が過去において一人一人を愛した。愛しただけではなく今日もなお愛していてくださる。そして永遠に亘って愛し続けてくださる。 主の愛は決して動かされない、決して変わらない、決してダメにならない愛です。 イエス様の愛についてわれわれに疑いをもたらそうとしてる悪魔に、決して惑わされてはなりません。 イエス様の愛はダメになりません。ヨハネの手紙第Iの4章にヨハネは次のように書いたのです。 ヨハネの手紙第I、4:9-10
愛を知ろうと思えば十字架につけられたキリストを見るべきです。十字架につけられたキリストこそ、神の明らかにされた愛そのものです。 人間はどうして愛されているかもちろん分かりません。いくら考えても理解できません。けども、愛されてることは動かすことのできないすばらしい事実です。 主は汚れた、わがままな罪人を愛し、この世すら愛していてくださるということを思うとき、主の愛に関して賛美と感謝が湧き上がってまいります。 全宇宙をお造りになり、限りない栄光のうちに住まれたイエス様はその御位を捨てて、罪を犯し、汚れ、神に逆らう人々を救うために人間の形をとり、地上に来られたということは、人間の頭によっては理解できない驚くべき神の愛です。 けど主はダニエルに向かってなぜ、「大いに愛されている人よ。」と言われたのでしょうか。 ダニエルが罪人だったからでしょうか。主に逆らう者だったから、神はダニエルを愛したのでしょうか。 もちろんダニエルは愛されたのです。生まれる前から。けどもここでちょっと違う理由があったなのではないでしょうか。 すなわちダニエルは主なる神とともに働く者、すなわち祈りにおいて主とともに働く者であったから、神に「大いに愛される人よ。」と呼ばれるようになったのです。 ダニエルの祝福された生活の秘訣とは、彼の祈りだったなのではないでしょうか。 ダニエルがした祈りとは天にまで届く祈りでした。天に届く祈りは、まず主のみことばに基づいた祈りであるべきです。 ダニエル書に戻りまして、9章の2節に次のように書かれています。 ダニエル書9:2
とあります。これを見るとダニエルは聖書を、すなわちエレミヤ書を読んでいたことが分かります。 主のみことばはダニエルの第一の場所を占めていたのです。彼は習慣的に暇のあるとき読んだだけではない。みことばとは彼にとってどうしても必要な心の糧だったのです。 彼は別に聖書の知識を得るために読んだのではないでしょう。 精神的に疲れないために。毎日の面白くない戦いのために必要な喜びを得るために読んだに違いない。 言えることは、このダニエルとは自分の考えを交えず、祈りながらみことばを読んだのです。 「主よ。語ってください。」という姿勢でもって読んだのです。彼はただ聖書の知識を蓄えるだけじゃなくて、主のみこころを知りたかったから、みこころを行なおうとして、みことばを熱心に読んだのです。 われわれはどのような態度でみことばを読むなのでしょうか。どういう理由でみことばを読むなのでしょうか。 天に届く祈りをする前には、まず私たちはみこころを知るべきです。今の時代におけるわれわれに対する主のみこころを知るべきなのではないでしょうか。 主の目的とはいったい何なのでしょうかと知る必要があります。 ダニエルが祈ったとき、その祈りは天に届きました。それは彼が神のみこころを知るようになったからです。 もしダニエルが主のみこころを知っていなかったなら、どんなに熱心に祈っても何も起こらなかったでしょう。 私たちは主の永遠のご目的を知って、われわれの祈りはそれに基づいてそれに集中されているでしょうか。 または、祈るとき、あれこれと取り止めもなく祈るでしょうか。多くの人々は求めを祈りを求め、色々な願いを主に申し述べますが、聞き届けられません。それは主の目的を知らないで、むやみに祈るからです。 例えばもしどなたか、「みこころであるならば主人を救ってください。」と祈れば何にもならないよ。 みこころであるかどうか聖書を読むとすぐ分かる。みこころです。 ですから「みこころであるならば、」じゃない、「みこころですから、あなたは主人を救ってくださるから、もう決まってるからありがたい。感謝して待ち望んで待ってます。」このような態度で祈らないと何にもなりません。 ダニエル書には将来何が起こるか色々預言されていますが、この預言を研究してその知識を蓄えても、もしわれわれの実際生活が主によって変えられて行かなければ何の役にも立ちません。 したがってダニエル書の中から預言的なことよりも、むしろダニエルの人格を学び、それを自分のものとしていきたいものです。 とりわけダニエルの祈りを学び、われわれもダニエルのように祈る人となりたいと思います。 私たちは何よりもまず、今の時代における主のご目的を知るべきです。そのほかのことは第二次的なものでしょう。 ダニエルは主に属する人々に対して、神のみこころをよく知っていました。 もし私たちが、「愛されている人よ。」と主に呼ばれたいならば、われわれもダニエルと同じように主の目的を知る必要があります。 新約聖書の時代、あのパウロは全世界に伝道旅行をし、全世界の信者と連絡を取り、各地でご奉仕しましたが、主はそのパウロを突然牢屋に入れるように、よしとしてくださったのです。 どうしてでしょうか。それはパウロに今の時代における主のみこころは何であるかを教えるために、それを考えるときをお与えになったのです。 彼の刑務所で書いた手紙を見ると、確かにこの牢獄での時は、彼にとってもっとも祝福された時なのではないかと認めざるを得ないなのです。 パウロの書いたエペソ人への手紙、コロサイ人への手紙、ピリピ人への手紙を見ると、その書簡に主の永遠の秘密がパウロに現わされたことがよく分かります。 すなわち信ずる者はイエス様のからだであり、まったく天的なものであり、かしらにイエス様をいただいている者であることが書かれています。 多くの人々はエペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙の三書簡を読んで、主のご目的は達成されるに難しい、不可能だと言います。 したがって多くの信ずる者は救われて、あるところまで成長すると、それ以上求めず、低いところで満足してしまってます。 多くの人々は信ずる者の群れがまったく天的なものであり、霊的なものであり、世界的なものであることを知らないからです。 ダニエルは当時の時代における主のご目的をよく知っていたばかりではなく、主はこの目的をひとつの狂いもなく成就されるお方であることを確信したのです。 これこそダニエルの祈りが天を動かした原因だったのです。 それが必ず実現されないことだったら、熱心に祈る人はいないでしょう。 それは必ず実現するという確信があって初めて、熱烈な祈りをささげることができます。ダニエルは、主はご目的を変えないことを知り、ご目的を必ず・・・ (テープ A面 → B面) エペソ人への手紙6:18
とパウロは書き記したのであります。「絶えず祈り、どんなときにも御霊によって祈り、すべての信ずる者ために祈りなさい。」と。 私たちはこの標準からなんと遠ざかってることでありましょうか。 ダニエルは神のみこころを知るとともに、今自分が置かれている周囲の状態をもよく知っていた人だったと言えます。 ダニエルは神の敵バビロンに捕われの身となっていました。バビロンという国に神の民イスラエルが捕われているということは、神の最善のみこころではないとダニエルは確信したのです。 どうしてイスラエルは負けたか、神の敵の虜になってしまったかと言いますと、信ずる者は聞く耳を持っていなかったからです。 自分、自分、自分のために生活したからです。だから回復されるために真心から叫ぶために、彼らはバビロンに渡されるようになったのです。 結局イスラエルの民は、主の救いにあずかった人々はバビロンに捕われ、霊的に落ちてしまい、自分たちが神に選ばれたまったく天に属する霊的な民族であることすら分からなくなってしまったのです。 多くの人々はそのときバビロンに捕われ、「今は仕方がないじゃないか。ここで出来るだけいい暮らしをしよう。妥協しても仕方がないじゃないか。」と思い、霊の力はなくしていってしまいました。 ダニエルの場合は違ったんです。彼の運命は確かに同じものでした。彼も同じように悩んだし、苦しんだんです。 けども彼はバビロンに捕われていたにも関わらず、あらゆる周りの環境に打ち勝ち、天に属する民であるとの誇りと確信を失わないで、何とかしてイスラエルの民の霊的な状態を回復させ、エルサレムに導き戻そうと主に祈り求め続けたのです。 聖書を読むと、ダニエルは毎日、三回窓を開け放ち、エルサレムを臨み見て、祈りをささげたと書いてあります。 エルサレムは聖書ではいつも教会を象徴してるものです。 私たちは神のご目的をよく知るときにのみ、周りの状態もよくわきまえ知ることができる者です。 私たちは自分の状態をよく知ってるなのでしょうか。われわれの群れはエペソ人への手紙に書いてあるような、すばらしい教会でしょうか。 エペソ人への手紙1:22-23
エペソ人への手紙2:21-22
エペソ人への手紙3:9-11
エペソ人への手紙3:20-21
とあります。また、 エペソ人への手紙4:12-13
もう一ヶ所、 エペソ人への手紙5:27
エペソ人への手紙5:30
とあります。 私たちはまだまだ主のみこころからほど遠い所にいます。 ある兄弟姉妹は来なくなりました。ある兄弟姉妹は霊的に押し潰されて、立ち上がれなくなっています。 このようなとき、ダニエルのように霊の燃え上がりを待ち望み、主の働きのために主に心を注ぎ出だす祈りをささげる者は、どこにあるなのでしょうか。 天に届く祈りをする前には、まず私たちは今の時代におけるわれわれに対する主のみこころは何であるかを知る必要がある。 そして周囲の状態を知ることの必要性についても、このダニエル書を通して知ることができます。 次に私たちが悩み、苦しみの目的を知る必要があります。 主はご自分のご目的を達成するために、ありとあらゆることがらを用いられます。これを本当に深く心に留めておくことが大切です。ダニエルは今、イスラエルの民がバビロンで苦しんでる苦しみも、主が用いて、エルサレムに連れ戻すために役立たせてくださると確信したのです。 おそらく今、イエス様のために一番燃えてる信者たちは、中国にいるのではないかと考えられます。彼らは何十年間、迫害されたからです。信者の数はもう、何百倍も増えたのです。 彼らは迫害され、多くの人たちが殉教の死を遂げたとき結局、第三者として、「いやー、悪魔の勝利じゃないか。」と思ってたでしょうけど、決してそうではない。 苦しむことによって彼らは本当の意味で主に頼るようになり、結果として喜びに満たされたのです。 同じ苦しみを持っていた人々はもちろん必ず聞くようになったでしょう。「どうして喜んでるの?どうして絶望していないの?」 「イエス様は生きる希望を与えるお方であるからです。」と、こういう証しを聞くと周りの人々ももちろん、心開くようになります。 主はご自分のご目的が何であるかに心の目が開かれるようにご自分に属する者を試みられます。 その試みは、病、死、色々な苦しみなどがあります。これは私たちにどうしても説明のできないことがたくさんある理由でありましょう。 私たちの主はわれわれの霊性を高め、動かないものにするために、あらゆる出来事を用いられます。 主は全世界に対してどのようなご目的を持って働いておられるか。また、教会やわれわれ個人の生活に対して何を望んで、働いておられるか。私たちはそれを知るべきなのです。 言いたいことは、主は人間を用いようと望んでおられます。 マルコの福音書16:20
勝利者なるイエス様を紹介した。 マルコの福音書16:20
主は彼らとともに働いた。主は人間を用いようと望んでおられるということです。 コリント人への手紙第IIの6章の1節に、同じ事実が強調されています。 コリント人への手紙第II、6:1
結局人間は用いられるために救われる、主の器のために救いにあずかる者であると書いてあります。 イエス様は、「わたしはわたしの教会を建てる。」と約束してくださいました。けどもそのために主は人間をも用いようと望んでおられます。信ずる者、一人一人を同労者として用いたいと思っておられます。 聖書全体は、生きるまことの神は人間を器として用いたいと思っておられると書いてあります。 人間のうちに人間を通してご自身のご臨在を明らかにしたいと望んでおられるのです。 ダニエルは結局、私は主とともに働きたい。主は私を用いようと望んでおられると分かったのです。 結局私たちも次のふたつのうちどちらを選び取って、日々を生活するでしょう。 イスラエルの民のようにバビロンに捕われ、仕方がないと諦め、この世を友として妥協し、毎日を過ごすでしょうか。 あるいは、ダニエル、またダニエルの友だちのように主のご目的は必ず成ると信じ、主のみこころにかなった聖い歩みを成していくでしょうか。ダニエルとその友だちは自らを主にささげることにより、神とともに働く者となったのです。 ダニエルが祈ったとき、祈りは天に届きました。低い天にいる悪魔にも届きましたが、いと高きところにおられる主なる神にも祈りは達したのです。 もう一回、ダニエル書に戻りまして、 ダニエル書10:12-14
云々と書いてあります。ダニエルの祈りは聞かれたのです。 心の目が開かれ、主の永遠のご目的が何であるか、またわれわれは今どんな状態に置かされているか。また、私たちに与えられる悩みの目的はいったい何であるか知るならば、祈りの力が加わります。 これらをよく知っている人はダニエルと同じように、天を揺り動かす祈りをすることができるのです。もう一回10章19節を読んで終わります。 ダニエル書10:19
このことばはわれわれにも当てはまることばです。 この主に頼ると、この主にすべてをゆだねると、主の大いなる愛をよりよく知ることができるようになります。 |