引用聖句:ダニエル書10章12節-14節
テサロニケ人への手紙第I、2:18
主は働くと、結局、いろいろな問題も知らないうちに解決されるようになります。すべては結局、人々の救いも祈りの結果です。 人間のすべきこと、一番大切なこととはやっぱり祈ることです。 ダニエル書の言わんとしてることは、「祈れば、主は生きておられる、必ず聞いてくださり、奇蹟を成してくださる。」ということです。 天に届く祈り、これはダニエル書の内容としてまとめることができると思います。 われわれに与えられてる一番大切な使命とは、期待を持って、みことばに基づいて感謝することなのではないでしょうか。 先週も言いましたように、人間はみんな例外なく神の愛の対象です。主は人間に対して無関心ではない。 一人一人は神の愛の対象そのものです。けどもダニエルの場合はちょっと特別な理由でもって、神に「愛されている人よ。」と呼びかけられるようになったのです。 前に読みましたように、ダニエル書の9章の23節と10章の11節と19節に、三回、「神に愛されている人」という表現が出てきます。 このことばは主ご自身の言われたことばであり、驚くべき恵みに満ちたことばなのではないかと思います。 人間はそういうこと言うと大したもんじゃないでしょ?その人は目くらにされてるかもしれないし、うわべだけを見てるかもしれない。 けどもすべてを知り給もう神は、「あなたは大いに愛されている。」と言われたのです。 神は決して嘘を言いません。ちいちゃなことをいかにも大きいものであるかのように、誇張して話すことをいたしません。 主なる神が語られるなら、真実をもってご自分のみこころをそのままお語りになります。 主は、「わが愛せられた人よ。」とダニエルに言うことができたのです。 これこそが天のダニエルに対する判断でした。もしわれわれにも同じみことばがかけられるならば、どんなに幸いなことでありましょうか。 主はどうしてこのようなみことばをおかけになったのでありましょうか。 ダニエルは祈ったからです。祈りの人となったからです。ダニエルは主とともに働く者となったからです。 だから彼の祈りは天にまで届く祈りだったのです。 この間もちょっと話したように、天に届く祈りとは、みことばに基づく祈りでなければならない。 9章の2節を見ると、ダニエルは聖書を読んでいたことが分かる。みことばはダニエルの第一の場所を占めていたのです。 ダニエルは自分の考えを交えないで、祈りながら主のみことばを読んだのです。 読みながら、「その内容を理解しなければならない。ピンと来ないとダメなのではないか。」と彼は思わなかったのです。 ただ、「主よ。しもべは聞いてます。従いたいからどうすればいいの?」と。 例えば、内容知りたいと思えば、主は働こうとしないでしょう。従いたいという心構えがあれば主は必ず光を与えてくださり、みこころを明らかにしてくださるのです。 結局、みことばは知識を蓄えるために読むべきものではない。精神的に疲れないため、毎日、喜びと平安を持つことができるために、読むべきなのではないでしょうか。 私たちはどういう理由で、どのような態度でみことばを読むなのでありましょうか。これは非常に大切なことです。 知識を得るために、理解しようという目的でもって読むと、得るものはあまりないでしょう。知識を得るかもしれないけど、単なる頭の知識を得ることによって、人間はみんな傲慢になります。そうすれば役に立たないものになります。 天に届く祈りをする前には、この間話したように、私たちは、今の時代における主のみこころは何かを知る必要があります。 ダニエルが祈ったときその祈りは間違いなく天に届きました。9章の20節から23節までを見ると分かります。 どうして天に届かれたかと言いますと、ダニエルがみこころを知りたかっただけではなく、主に従おうと切に望んだからです。そして主のみこころをわきまえることができたからです。彼は信ずる者の大いに愛されてる事実を知ることができたのです。 ダニエルは当時の時代における主のご目的を知るようになっただけではなく、主はこの目的をひとつの狂いもなく成就されるお方であることを確信しました。 これこそダニエルの祈りが天を動かした理由なのではないでしょうか。 必ず実現されないことだったら、熱心に期待を持って祈る人はいないでしょう。必ず実現するという確信があって初めて、真心から祈るようになり、期待を持って叫ぶようになります。 ダニエルは主はご目的を変えないことを知り、目的を必ず成し遂げられると確信して祈ったから、彼の祈りは聞かれたのです。 そしてダニエルはもうひとつの大切なことを知るようになったのです。 すなわち、今自分が置かれている周囲の状態も分かるようになったのです。すなわちダニエルは、神の敵バビロンに捕われの身となっていたのです。 バビロンに神の民、イスラエルが捕われているということは、決して神の最善のみこころではないと彼は分かったのです。 イスラエルはどうして負けたか、敵の手に渡されるようになったかと言いますと、自分の力に頼ったからです。徹頭徹尾、主に頼ろうとしなかったからです。 多くの人はバビロンに捕われたとき、今は仕方がないじゃないか。運命だろう。我慢しなくちゃいけないでしょう。そういう気持ちを持っていたでしょう。結果としてもちろん、妥協しても仕方がないじゃないか。 何とかしてイスラエルの民の霊的な状態を回復させ、エルサレムに導き戻そうと主に祈り求めるようになったのは、ダニエルと彼の三人の友だちです。 聖書を読むと、ダニエルは毎日三回、窓を開け放ち、エルサレムを臨み見て、祈りをささげたとあります。 天に届く祈りをする前にまず、われわれは今の時代における自分に対する主のみこころは何であるかを知る必要がある。それから周囲の状態を知る必要もある。 三番目は、悩み、苦しみの目的をも知るべきです。 悩み、苦しみとは、決していわゆる天罰ではなく、主の愛の現われです。 ダニエルは今、イスラエルの民が主の救いにあずかった人々がバビロンで苦しんでる苦しみも、主が必ず用いてくださり、エルサレムに連れ戻すために役に立つものであると分かったのです。 今の苦しみも決して終わりではない、損ではない、益になると彼は確信したのです。 ダニエルが祈ったとき、祈りは天に届きました。心の目が開かれ、主のご目的が何であるか、また、われわれは今どんな状態に置かれているか、また、与えられる悩みの目的はいったい何であるかと知れば祈りに力が加わります。 天に届く祈りとは、今話したように、みことばに基づいたものでなければならない。 ある人はよく、「聖書はこう言ってるから、示されたから。」と言いますけど、結局、へりくだって、しもべは聞いておりますという態度がなければ非常に危ない態度です。 結局人は、示された、示されたと言うと相手の人はもうお手上げなんです。なにも言えなくなる。 けど多くの場合は、それはみこころよりも自分のわがままの現われにすぎない。非常に危ない。 ダニエルはそういう祈り方をしなかったのです。「私は分かりません。自分の気持ち、考え方は正しいかどうか分かりません。教えてください。従います。」 この気持ちでもって、みことばを読むと、祈ると、祈りは必ず聞き届けられます。 第二番目は、天に届く祈りは生活のうちに生きた証しをもつ人の祈りであると、ダニエル書を通してはっきり知ることができるのです。 天に届く祈りは、生活のうちに生きた証しを持ってる人でなければできません。これは何を意味してるなのでしょうか。生活のうちに生きた証しを持つということは、いったい何なのでしょうか。 まず第一番目は、ダニエルはあらゆる点において、主に反するものからまったく離れて生活していたということです。 例えば、自分を喜ばせることから離れました。もし私たちが主の目的を思わないで、自らの願いだけで祈るなら、祈りは天に届かないでしょう。 自分の目的はまことの祈りを妨げます。ダニエルは自分を喜ばせようとする、何ものも持っていなかったから、主は、愛されている者よ。とダニエルに呼びかけることができたのです。 パウロはむかしの信者たちのことについても考えて悩むようになり、次のように書いたのです。 ピリピ人への手紙2:21
どちらかです。 人間は自分、自分、自分のこと考えるか、あるいは、イエス様が中心に回ってもらいたい、イエス様の栄光が明らかになってもらいたいと願うかのどちらかでしょう。 パウロは、 ピリピ人への手紙1:21
結局、生きることとはイエス様のために生きることです。主に喜ばれることこそが、パウロの切なる願いだったのです。 コロサイ人への手紙の中で、ちょっと見てみましょうか。パウロの心の現われにもなります。 コロサイ人への手紙1:10
主に喜ばれる。これこそがパウロの切なる願いだったのです。彼は自分を喜ばせることから離れたのです。 ダニエルについてもまったく同じことを言えるのです。次にダニエルはこの世のやり方からまったく離れていたと言えます。 異邦の民が願い目指してる主なる神に反する目的、やり方には、少しも妥協しなかったのです。 ダニエル書に戻りまして、3章から二、三節お読みいたしたいと思います。 ダニエル書3:16-18
彼らはここで、「われわれの仕える神」と言いました。そして、「王の神々に仕えません。あなたの立てた像を拝むこともしない。」 多くの信ずる者はどうでしょうかね。この世と同じ生き方をしたいと願う人は非常に多いなのではないでしょうか。 ダニエル、また彼の友だちはまったく違う態度を取ったのです。 この世によって認められ、称賛されようと務める人は、もちろんいくら祈っても何も起こりません。 われわれは上にある朽ちないものを求めるべきなのではないでしょうか。この世の流行を追い、この世と同じ生き方をして、どうして証しができましょうか。 もうひとつの大切な点は、ダニエル、またダニエルの友だちは人間を恐れなかったのです。 当時の世界を治めたネブカデネザルでさえも、頭を下げようとしなかったのです。人間の前に頭を下げる人は結局主の前に頭を下げられなくなる。どちらかです。 ダニエルは当時、最も権力を持っていた王の前に大胆に証ししたのです。王を決して恐れようとはしなかったのです。ダニエル書の1章の8節もひとつの実例でありましょう。 ダニエル書1:8
王の食べるものはその前に全部偶像にささげられたものだったす。「われわは偶像にささげられてるものを食べません。証しにならないからです。」 美味しいだったかもしれない。食べたい気持ちもあったかもしれないけど、やっぱりわれわれは主を証しする者、主を紹介する者であるべきですから、はっきりとした態度を取ったのです。 もし私たちが人間を恐れ、人間にへつらうなら、ダニエルのように力ある祈りは決してできません。 ダニエルも友だちも、この世のいかなる関係にも心を奪われなかったのです。この世と関係を持たないことは、ダニエルとその友にとって決して簡単、生やさしいことではなかったのです。 結局妥協しなかったらダニエルは獅子の穴に投げ込まれてしまったのです。妥協しなかったから、ダニエルの友だちは燃える火の炉に投げ込まれたのです。 うわべだけを見ると、神は彼らを守ろうとしなかった。投げ込まれないようにと主は望んだならば、もちろんできたでしょう。 けどもやっぱり悩むことは彼らにとって必要だったのです。けども獅子の穴の中で、火の炉の中で彼らはもちろん守られたからです。主は決して捨てないと約束してくださったからです。 結局、ダニエル、また友だちの前にはそのときふたつの道が置かれていたでしょう。 ひとつは、世と妥協して居心地の良い生活をすること。もうひとつは、獅子の穴、火の炉だったのです。彼らは主の道を選び取りました。 祈りながら意識して、人間的ちょっとおかしいことをしてしまったのです。「殺されても結構です。私たちは妥協しません。」 妥協せず、自らを主にささげきった彼らの祈りは天に届きました。 ダニエル、また友だちもいのちまでも惜しみませんでした。主は彼らの祈りを聞き、ご栄光を現わしてくださったのです。 彼らの妥協のない態度の結果とは、当時の全世界は福音を聞くようになったのです。すなわち主は生きておられるお方だけではなく、祈りを聞いてくださるお方であることを全世界の人々は知るようになりました。 ダニエルはこのように主に反する者からまったく分離していたから、祝福されるようになったのです。 彼はひとつの・・・ (テープ A面 → B面) 次のように書かれていますね。 ダニエル書10:12
と。ダニエルは自分の心を定めたのです。ダニエルの心は目的に集中されきっていたのです。 コリント人への手紙第IIの11章2節に、パウロの当時の信ずる者に対する心構えを知ることができるのです。 人々は心開いて、信ずることとは確かにすばらしいけど、信ずる者は用いられなければ、結局そういう信ずる者は悩みの種となります。 コリント人への手紙第II、11:2
ここに同じことば出てきます。定め、 コリント人への手紙第II、11:2
結局信ずる者は主に用いられなければ、実を結ぶ者とならなければ、中途半端だとパウロは分かったのです。 浮草のように定まらない心ではなく、主の目的に思いを定めた心を主は祝福してくださいます。われわれ信ずる者が銘々主をかしらとする、生きる神の教会であるとの自覚を持って集まり、心を定めて祈るなら、天の窓が開き、祈りは豊かに聞き届けられるのです。 心定めることとは、ひとつのはっきりとした目的を持つことです。初代教会の特徴とはそういうものだったでしょう。 例えばコリント人への手紙第Iの9章をちょっと見てみましょうか。パウロの証しにもなりますが・・・ コリント人への手紙第I、9:24-25
「私はする。」心を定めた証拠です。ヘブル人への手紙の著者は次のように書いたのです。 ヘブル人への手紙12:1
続いて読むと、主から目を離さないことの大切さ、イエス様のことを考えることの必要性についても書き記されています。ダニエルの忍耐も強調されています。 ダニエル書に戻りまして、 ダニエル書10:12-14
とあります。 ダニエルは心を込めて、21日間、3週間、主の御前に祈り続けたのです。ひとつの問題のために21日間祈るということは決して簡単ではないでしょう。われわれの場合はいったいどうでしょうか。 このような祈りをささげたことがあるなのでしょうか。主の御前にひとつの問題を携えて、ほんのしばらくの間祈り、すぐに立ち上がってしまう。だから何も祈りの答えがありません。 ダニエルは忍耐深くひとつの目的のために主の御前にとどまり続けたのです。祈り続けたのです。 忍耐深い祈りを持ってして初めて、ダニエルのようにすばらしい経験をすることができるのであります。 アブラハムについて聖書は似てること言ってます。 アブラハムという人は、創世記の18章22節によると、アブラハムはまだ、主の前に立っていたと創世記18章22節に書かれてます。結局彼は祈り続けた。 ちょっとだけ親戚であるロトのことをよろしく。そういうことではなかったのです。わがままな、自分勝手な道に行った親戚のために彼は祈り続けたのです。結果は19章29節に書き記されています。 創世記19:29
彼の祈りを、彼のささげられた祈りを覚えておられた。 創世記18:22
とあります。忍耐を持つこと。祈り続けることが要求されてます。 そして前に読みました、ダニエル書の10章12節に、「あなたの神の前でへりくだろうと決めたその日から。」と書かれています。 へりくだろうと決めることこそが大切なのではないでしょうか。これこそが節制を意味します。これはダニエルがおのれに打ち勝った、その戦いを表わしています。 ダニエルは自分の考え、自分の意思、自分の感情に負けずに、それを克服したのです。3節に書かれてるように、 ダニエル書10:3
とあります。ダニエルがいかに節制したかが書かれています。 ダニエルは少しの自分に益することをも考えないで、すべてを主にささげたのです。 御霊がわれわれを支配してくださり、私たちがただひとつ主の目的を成さんとするについに燃えるようにしてくだされば、本当に幸いと思います。 前に読みましたように、パウロは、 コリント人への手紙第I、9:25
とあります。またダニエルの確信についてもこの12節に書かれてます。 ダニエル書10:12
聞かれていると確信することは、もっとも大切なのではないでしょうか。 結局あなたのことばは聞かれたということです。ダニエルは不確かなことのために祈らなかったのです。彼は主のみこころを知っていましたし、祈りのとおりに主は成してくださることを信じて、待ち望んでいたのです。 祈りが主に聞き届けられるには、このように、主のみこころを知り、結果を期待し、確信することが必要です。 主のみこころを知っていなければ、何をどのようにしていいか分かりません。もし私たちが主のことばにより、そのみこころを知るならば、それはわれわれの力となることは間違いない。 主の一番大切にされる使命は、結局われわれの祈りなのではないでしょうか。 すなわち私たちは信ずる者として、主とともに働くことこそが大切です。私たちはダニエルと同じように、主は何を成さんとしておられるかを知ってるなのでしょうか。 もしそれを知るとダニエルに襲ったような悪の霊の働きの攻撃も身近に感ずるようになるのです。 私たちは何かあればよく人間だけを見るのです。これはもちろん決して良くない。 背後に悪魔は働いてる。全部メチャクチャにしようと望んでる。主のみこころを知った者は悪魔の攻撃の目標となります。 パウロも同じことを経験しました。悪魔はパウロを集中的に攻めました。例えばコロサイ人への手紙の4章に次のように書かれてます。 コロサイ人への手紙4:2-3
証しできないように、主を紹介できないように、彼は牢に入れられるようになったのです。 彼ははいったとき、悪魔は嬉しくなったでしょう。「もう目的を達した。もう彼は何もできなくなる。」 けども私たちはみな知ってることは、彼は刑務所の中で一番祝福される働きをするようになりました。彼の刑務所の中で書いた手紙は考えられないすばらしい宝物であるからです。 けどもパウロはここで、「たゆみなく祈りなさい。祈ってください。」と書いたのです。初めに読みましたテサロニケ人への手紙第I、もう一回読んで終わりましょうか。 テサロニケ人への手紙第I、2:18
ダニエルも心を決めたんです。パウロも心を決めたんです。 テサロニケ人への手紙第I、2:18
主はダニエルやパウロにし給もうたごとく、われわれの心の目を開く。 何をおいてもまず主とともに働く者となりたいという願いを持たしめてくださるならば、本当に幸いと思う。 主がわれわれに向かっても、大いに愛されてる人よと呼びかけられるようになれば、本当に幸いと思います。 |