引用聖句:ダニエル書9章14節
ダニエル書9:21-27
今までダニエル書を通して、主はどんなに暗い環境、暗い世にあっても、信仰をもって主を証しする人々を捜し求めておられることを学んで来ました。 主が働くと、人間は重荷から解放され、主を紹介せざるを得なくなるのです。 地方へ行っても、結局主によって変えられた人々を見ると、本当に主を礼拝せざるを得なくなります。 やっぱり主だけを仰ぎ見ると、主の栄光だけを求めると、必ず祝福がある。聖霊は働くことができ、主のご栄光を現わすことができたのです。 主は結局、証しする人々を捜し求めておられると、そのときも新しく教えられたのです。 ダニエル書を読むと、ダニエル、またダニエルの三人の友だちは本当に主を証しするようになったから、主は大いに祝福することができたのです。 確かにダニエル書を読むと言えることは、主に従ったダニエルとその友は、普通の人々よりも苦しむようになったのです。 なぜダニエルとその友だちは主に従ったのに、あんなにもねたまれ、嘲られ、圧迫され、誤解されたのでしょうか。 ダニエル書の1章から6章までの間には非常に激しい戦いが書かれています。この戦いは決して生やさしいものではなかったのです。 この戦いには、悪霊や天の使いたちのかしらも加わっていたのです。今日においても同じことでしょう。 地上における戦いは、天上における戦いでもあります。悪の霊の軍勢はいつもわれわれを狙ってます。 それとともに私たちを守る天の使いたちも、いつも私たちを見守っていてくれます。 ヘブル人への手紙の12章の1節に、この目に見えない世界について、次のように書かれてます。 ヘブル人への手紙12:1
われわれは多くの証人たちと、取り巻いてる、目に見えませんが私たちを攻撃する悪霊もいるし、われわれを守ってくださる天の使いたちは数えきれないほどいます。 エペソ人への手紙の3章の中で、証しする大切さについても書かれてます。 エペソ人への手紙3:10
明日ではない。今、この瞬間 エペソ人への手紙3:10
と書かれています。 結局主は教会を器として用いようと望んでおられます。教会とはもちろん主に属するひとりひとりの兄弟姉妹を意味するのです。決してひとつの建物でもないし、ひとつの宗教団体でもありません。 教会とはいつもからだなる教会と呼ばれます。 からだとは有機体であり決して組織ではありません。主は自分のご栄光を現わすために、主を証しする人々を捜して求めて折られるのです。 6章の12節に、今述べた激しい戦いについて次のように書かれてます。 エペソ人への手紙6:12
血肉とは人間、この目に見える世界を意味するものです。 エペソ人への手紙6:12
これ、絶えず覚えるべきものです。 われわれの戦いとは、姑に対する、主人に対する、周りの人間に対する戦いではなく、悪霊に対するものであるということです。 私たちもダニエルやダニエルの友達のように、この世と妥協せず、主に従おうとすると、彼らと同じように激しい攻撃に遭わされるに違いない。 七倍も熱くした火の炉の苦しみ、また獅子の穴に投げ込まれるといった死の陰の谷を歩ませられるでしょう。 信ずる者の多くは人に言い表わせない隠れてる苦しみや問題があります。どうしてでしょうか。 なぜこのような問題や苦しみがあるなのでありましょうか。みことばが教えてます。 テサロニケ人への手紙第IIの1章、この答えが書かれてます。 テサロニケ人への手紙第II、1:5
とあります。もう一ヶ所、 使徒の働き14:22
私たちは多くの苦しみを受けなければならないと、弟子たちはいつも主張したのです。 信ずれば全部うまくいくじゃない。問題は全部解決されるのでもない。考えられない悩みまた、苦しみを持つようになる。 もちろん、苦しみながら大いに喜ぶことができる。すべては絶望的に見えても、生きる望みを持つことができるのです。 すなわちダビデのように、「私は死の陰の谷を歩くことがあっても、わざわいを恐れません。不安、解放されています。私には乏しいことがない。私はひとりぼっちではないからです。あなたが私とともにいるからです。」と言うことができるのです。 このようにして、ダニエル書1章から6章までのあの激しい戦いがなぜ必要だったか、7章を見るとよく分かります。 ダニエル書7:13-14
とあります。 ここで、「見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られる。」と書かれていますが、このお方とは、もちろんいうまでもなくわれわれの救い主なる、再び来られる主イエス様です。 マタイの福音書24章の中で、このイエス様の御国またイエス様のご支配とは、永遠から永遠に続いている支配であると書き記されています。 マタイの福音書24:30
イエス様は再臨なさるのです。もうすでにダニエル書の中でこの主の再臨、また主のご栄光についてこういうふうに書かれてます。 マタイの福音書26:63-64
もう一ヶ所、 ヨハネの黙示録11:15
ヨハネの黙示録の中にも、福音書の中にも、もちろんダニエル書の中にもこの主のご支配について、再臨について書かれています。 私たちはどうして隠された悩みや苦しみがあるなのでしょうか。聖書のはっきりとした答えは、イエス様のご支配が全宇宙に現われるためであると。 主のみこころにかなう者が永遠に残り、みこころにかなわない者は苦しみの炉によって精錬されるためであると。 今まで私たちが通らされた悩みや病の苦しみ、理解できなかった導きの意味が分かるはずです。 主が全宇宙を支配してい給もうことが問題であるばかりでなく、われわれも主とともに支配してるかどうか問題である。 私たちも主とともに支配するということは、主がわれわれを召してそうさせようとしておられます。 ダニエル書に戻りまして、 ダニエル書7:27
ダニエル書7:22
聖徒たちとは主の救いにあずかった人々を意味するのです。 確かに将来にも色々なことが起こるでしょう。戦いがあり、悩みも苦しみも来るでしょう。 それはみな私たちが主の御国にふさわしい者となるために起こるのです。 イエス様とともに支配するにふさわしい者となるためです。これは私たちがどんな悩みの中にあっても喜ぶことのできる大きな望みなのではないでしょうか。 将来私たちを待ち望んでるのは何なのでしょうか。私たちを待ち望んでるものは不確かなものではありません。 また、不安と滅びでもありません。主とともに支配するという、すっばらしい事実がわれわれを待ってるのです。 ひとつの大切な質問とは、どういう人々が主に召されためしをまっとうするなのでしょうか。 どういう人々が主とともに支配するようになるなのでありましょうか。 ダニエル書7章に、人の子、すなわちイエス様が永遠の主権と光栄と国を持つようになり、そしてご自身に属する聖徒たちとともにその御国を支配するようになると書かれてます。 1章から6章までには、この永遠の御国を主とともに支配するにふさわしい人々はどのような人々であるかが書かれています。 われわれも主とともに永遠の御国を支配する者となりたいものです。ダニエル書1章に戻りまして、1章には聖き聖さについて書かれています。1章の8節ですか。 ダニエル書1:8
とあります。 王の食べたごちそう、王の飲んだぶどう酒とはまず偶像にささげられたものでした。 ダニエル、またダニエルの友だちは汚れたものを食べて、自分を汚すまいと心に思い定めたとあります。 ダニエルは律法的な命令からそのようにしたのではない。御霊に教えられてそうしたのです。 ダニエルは主だけを拝して、主に従っていこうと心に思い定めました。私たちの心もそのように決心してるなのでしょうか。 私たちは人間を恐れないで、ひたすらに主にだけ従っていこうと思い定めているなのでありましょうか。 もし、そのようにまったく主に従おうと思い定めますと、御霊はわれわれの心の深くに何が良いか悪いか、何が聖いか聖くないか、また何が妥協であるか妥協でないかを教えてくださるのです。 ダニエルを通してはっきり知ることができることは、まず、霊が聖いということは最も大切、根本的なことであるということです。 ですから主は一番最初にこのダニエル書1章で霊の聖きについて述べておられるのです。 このダニエル書第一章をあんまり注意しないで通読すると、これはあんまり深い問題ではない、表面的な、またダニエルの個人的な問題だととられる・・・ (テープ A面 → B面) 晩年まで仕えていたと書かれてます。 これは、王様たちは次々と変わっていったけど、ダニエルは変わらずに仕え続けたことを表わしてるのです。なぜでしょう。 それはダニエルが聖きを保ち、・・・(テープ中断)・・・妥協せず、証しし続けたからです。 誤解や迫害や憎しみが数限りなくダニエルを襲いましたけど、王は変わってもダニエルは堅く立ち続けたのです。 なぜ多くの信ずる者は、喜びをもって信仰生活を始めたなのに、途中までいって、みことばを読み、祈りすることの喜びを失い、霊的に後退してしまうのでしょうか。 主に対する心の態度が定まっていなかったからです。何があっても主に従い、主に仕えていこうという決意がないからです。 霊が聖いということはもっとも大切です。次に霊の聖さ、聖きを持つことは誰にも可能であると、このダニエル書を通してはっきり知ることができるのです。 ダニエルはそれを自分のものとしたのであります。 ダニエル書1:9
とあります。 ダニエル書1:14
ダニエル書1:16
とあります。 たぶんダニエルは、自分ははたしてこの世にあって、少しの妥協もなく、聖きを保っていけるだろうかと疑問に思ったことでしょう。 ほかの人々は、ほかの救いにあずかった人々は、世と妥協して、見せかけだけの祝福に満足してるのになぜ、ダニエルだけが妥協せず、聖きを保っていくことができたのでしょうか。 その当時の世界の支配者に逆らって立つことは、おそらく不可能なことでした。 もしそのようなことをすれば、それこそ命に関わることでした。 ダニエルはだれが何と言おうと、主に従おうと決意を固めていましたので、要領よくうまい具合に世を渡るなどということはできなかったんです。 このように、身も心もささげて、ゆだねきってくるダニエルを主は見放し給いませんでした。 ダニエルの経験とは何であるかと言いますと、彼は主の約束を経験しました。 わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを捨てない。ダニエルは異邦の宮殿で主に仕えて、しかも聖きを保って生きることを身をもって経験しました。 あなたが今もってる悩みや苦しみがどんなものであろうと、今、主にすべてをゆだねて従おうと、ダニエルのように決心し、一歩を踏み出すなら、驚くべき主の力を経験するに違いない。 この世の汚れに染まらずに、身を聖く保つには、主に従順に従う以外に方法がない。 霊が聖いということは、もっとも根本的であり大切です。それから霊の聖きをもつことはだれにも可能なのです。 主に頼ると、主は守ってくださるからです。 第三番目は、霊の聖きは間違いなく、恵みをもたらすものです。 ダニエルはバビロンに捕われていながら、汚れに染まらなかったばかりではなく、ほかの人々よりすぐれた者となったとあります。 ダニエル書1:15
とあります。 ダニエル書1:20
とあります。 信仰をもって主に従順に従っていきますと、驚くべき祝福が伴います。 主にすべてをささげ、世と妥協せずに歩む者は決して、悔いることがありません。 私たちもダニエルのように主に従い、限りない主の恵みにあずかる者となりたいものなのではないでしょうか。 主のみこころを知ろうと望む者は、節制して霊の聖きを保たれなければならない。 多くの人々は自分にまつわる人々を思い、自分の愛するまた、尊敬する人々の心を思って、主にすべてをささげることをしないので、主のみこころが分からないままでいます。 これは多くの信ずる者が主のみこころを知ることのできない原因なのではないでしょうか。 ダニエルは結果がどうあろうと、どこまでも主に従っていこうと決心したのであります。 だから彼は主によって大いに祝福され、用いられるようになったのです。 最後にもう一ヶ所読んで終わりましょう。 コリント人への手紙第II、7:1
こういうふうにパウロは、コリントにいる主の救いにあずかった人々に書き記したのであります。 主に頼ると奇蹟を経験します。主は守るお方であり、必要な勇気を与えてくださり、また、あらゆる心配から解放していてくださるお方です。 |