引用聖句:テサロニケ人への手紙第II、1章5節
使徒の働き14:22
ダニエル書7:9-14
ドイツでひとりの牧師を通して有名になったところに行きました。今回初めて分かりました。 牧師の作った歌はどこの聖歌、また賛美歌の中にも出て来るもので、彼は若いとき主に出会って、「イエス様のために生きたい。」と望むようになり、本当に祝福された奉仕をしたのです。 まず4年間、大きな町で牧師として働いていて、転勤されて、12年間また別のところで働いて、それから20年間、娘の住んでたところで活躍するようになったんですけども、彼はあのところで3年間だけ奉仕したあとで急に声が出なくなっちゃったんです。 医者もお手上げだったし、彼も必死になって祈ったんですし、友だちみんな祈り続けましたけど、病気は治らなかったんです。 人間的に考えれば悲劇そのものでした。けどもそのときやっぱり自分に与えられてる使命とは、歌を作るもんだと分かり、それからもう、なかなかすばらしい歌を作るようになったのです。 一番長いのは26節なんですけども、全部で1073曲作ったんです。ちょっと考えられないんです。全部すばらしいものです。 彼は二百何十年前に亡くなったんですけど、奉仕は結局続いてるのです。 もし彼は病気にならなかったならば、そのようなすばらしい、祝福された奉仕をすることができなかったなのではないかと思います。 苦しむことを通して祝福される。悩むことを通して実を結ぶ。 これこそが聖書の言わんとしてることです。 今まで私たちはダニエル書を通して、主はどんなに暗い環境、暗い世にあっても、信仰をもって、主を証しする人々を捜しておられることを学んで来ました。 けど主に従ったダニエル、またダニエルの友はどうしてあんなにもねたまれ、嘲られ、圧迫され、誤解されたなのでしょうか。ダニエル書1章から6章までの、あの激しい戦いがなぜ必要だったのでありましょうか。 答えは今、最後に読まれました7章を通して知ることができます。 ダニエル書7:13-14(口語聖書)
ここに、「見よ、人の子のような者の主権と光栄と国とを持って来られる。」と書いてありますが、人の子のような者とはもちろん、われわれのために死なれ、救いの道を開かれた主イエス様のことを意味します。 なぜ、そんなに隠された悩みや苦しみがあるなのでしょうか。それはイエス様のご支配が明らかにされるためです。イエス様のいのちが明らかにされるためのものであると聖書は言ってます。 よく知られてるコリント人への手紙第IIの中でパウロは、次のように書いたことがあります。 コリント人への手紙第II、4:10
イエス様のいのちが明らかになることこそが、主の導きの結果であります。 コリント人への手紙第II、4:16-18
イエス様のいのち、イエス様のご支配が明らかになること。これこそが主の望んでおられるところです。 けど主が全宇宙を支配していてくださることが問題であるよりも、われわれも主とともに支配すべきであると聖書ははっきり言ってるのです。 私たちも主とともに支配するということは、主がわれわれを召して、そうさせようとしておられることです。 将来にも色々なことが起こるでしょう。戦いがあり、悩みも苦しみも起こるでしょう。 それはみな私たちが神の御国にふさわしいものとなるために起こるのです。 イエス様とともに支配するにふさわしい者となるためです。 これは私たちがどんな悩みの中にあっても喜ぶことのできる大きな望みです。引用聖句の箇所は、 テサロニケ人への手紙第II、1:5
苦しみを受けているのは、神の国のためである。苦しむこととは、すなわち、天罰ではない。 使徒たちはよく、前に読まれました使徒の働きに書かれてるように、信者たちを励ましたのです。すなわち、 使徒の働き14:22
多くの人々は、「あなたの信仰は正しければ病気が治る。全部うまくいく。全部スムースにいくようになる。」と言われます。 聖書の言ってることとは違う。主を第一にすれば、色々なことで悩むようになります。問題が次々と起こるようになります。 もちろんそれはすべてではない。苦しみながら、悩みながら大いに喜ぶことができるのです。 なぜならば、ひとりぼっちではないからです。ダビデは、「私は死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにいるからです。」 決してひとりぼっちではないからです。 将来私たちを待ち望んでるのは、いったい何なのでしょうか。 私たちを待ち望んでるものは不確かなものではありません。また、不安と滅びではありません。主とともになることです。 「私たちは、いつまでも主とともになる。」とテサロニケ人への手紙第Iの4章17節に書かれてます。 私たちはいつまでも主とともになるだけではなく、主とともに支配するようになるというすばらしい事実がわれわれを待っていると聖書ははっきり言ってるのです。 どういう人々が主に召された召しを全うするなのでしょうか。どういう人々が主とともに支配するようになるなのでありましょうか。 ダニエル書の第7章に、「人の子、すなわちイエス様が、永遠の主権と光栄と国をもつようになり、ご自身に属する聖徒たちとともに、その御国を支配し給もう」ことが書かれています。 1章から6章までには、この永遠の御国を主とともに支配するにふさわしい人々は、どのような人々であるかが書かれています。 この間私たちは第1章には、聖きについて書かれてることを見たのです。すなわち主とともに永遠の国を支配する人はまず、霊の聖さを持たなければならないということです。 第1章の内容とはそういうものです。 第2章の内容とは、主とともに永遠の国を支配する人々とは、見分ける力を持つ者である。ダニエル書の第2章の内容とは、見分ける力が必要だよということです。 神の支配する世界と悪魔の支配する世界があります。これは神に属し、これは悪魔に属すると見分ける力を持つ必要があります。 この二つの世界の真ん中に経って、妥協するとき、霊的ないのちがなくなり、力がなくなります。 多くの人は二つの国を見分ける力がなく、結果として力をなくしてしまいます。 マタイの福音書16章の23節に次のように書かれています。 マタイの福音書16:23
「下がれ。サタン。」と呼ばれたペテロとは、イエス様の足もとにひれ伏して、「主よ。私から離れてください。私は罪深い者だ。」と告白した者だけではなく、彼は主によって受け入れられ、主に従う者となったのです。 彼は真心から主に仕えようと望んでいた者でした。けども彼はそのとき、いわゆる見分ける力を持っていなかったのです。 「イエス様が十字架につけられることなんて、とんでもない話です。イエス様がいなくなるとどうしよう。われわれは赦すことができない。命懸けで十字架につけられないように戦いましょう。」と。 イエス様はもちろんペテロを褒めることができなかったのです。「ペテロ。あなたはわたしの邪魔をするものだ。」どうしてであるかと言いますと、あなたは見分ける力を持っていないからです。 「あなたは神に仕えてると思うでしょうけど、本当は悪魔の虜になってるよ。」と、無意識のうちに。あなたは神のことを思わないで、人のことを思ってるからです。 おそらく主は多くの信ずる者に向かって、「あなたはわたしの邪魔をするものだ。」と言わざるを得ないなのではないでしょうか。 昨日ひとりの若い奥さんは、ちょっとショック受けたらしいんです。どうしてであるかと言いますと、みなさんご存知のことなんですけども、私は言ったのは、「あなたのご主人はまだ救われていないのは、ご主人のせいよりもあなたのせいだよ。」と。 「あなたは信じてますけど、あなたの不信仰こそが主の働きの妨げなのではないでしょうか。主人の救いのために感謝したことがないでしょ?」「うん。その通りです。」と。 あなたの信じたとおりになる。これは動かすことのできない聖書の大切な法則です。信仰がなければ主は働きたくない、働こうとしない。どうしてであるか分からないけど、主ご自身が自分で決めたことなんです。信仰があれば主は働いてくださる。 信仰の基なるものとはもちろん主の約束です。 主は約束を与えてくださり、人間はその約束の内容をつかむことができないでしょうし、理解できないでしょうし、けど、子どものように素直に約束を信じて感謝すれば、主は奇蹟をなすお方であるということです。 主の邪魔ものとならないように、主に用いられるようにと毎日祈り続けるべきなのではないでしょうか。 今話した区別は、二つの世界を見分ける力はどんなに頭で考えても、議論してもわれわれのうちに生まれてこない。 これはただ祈りのうちに与えられる力です。ダニエル書2章、全部読めば分かります。 ダニエルは祈りの人になってしまったのです。どうして?何が正しいか正しくないか分からなかったからです。どうしたらいいかと、さっぱり分からなかったから祈るようになったのです。 そして祈りの結果として彼は、見分ける力を持つようになりました。 祈りの人になったダニエルであって、初めて神の秘密を解くことができ、ダニエルの霊的なするどい感覚の源とは、生まれつきの賢さではなく、祈りにあったのです。 ダニエル書2:47
あなたの神は生きておられる。あなたの神は祈りに答えてくださり、秘密をあらわすお方だとあります。ダニエル書2章の47節ですね。 神は秘密をあらわす方とあります。すなわち神は、ご自身の秘密をただ祈りの人にだけお示しになります。 私たちにはこの世と教会を区別する力があるなのでしょうか。 主の教会は、地につける異邦的なひとつの制度ではありません。教会はまったく天的なものであります。 私たちは人の名誉がもてはやされ、人間的な判断が尊ばれているこの世の支配からまったく救い出されているなのでありましょうか。 私たちはこの二つの世界の力を、見分ける力を持つ必要があります。それなくして、イエス様とともに永遠の御国を治めることはできません。 日々の生活において、主にまったく従順に従い、どんな小さな事がらにおいても従っていくなら、この感覚が養われていきます。 エペソ人への手紙の5章10節に、パウロはエペソにいる兄弟姉妹に次のように書いたのであります。 エペソ人への手紙5:10
「見分けたらどう?」なのではない。提案ではない。命令です。「見分けなさい。」 そのために必要なのは、主の前に静まることであり、「主よ。語ってください。しもべは聞きます。」という心構えを持つことです。 コロサイ人への手紙の1章、パウロは今度、コロサイにいる信ずる者に次のように書いたのです。 コロサイ人への手紙1:9-13
これはパウロの切なる願いであり、また初代教会の兄弟姉妹の喜びの証しだったのです。神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子、主イエス様のご支配の中に移された。 どういう人々は主とともに永遠の国を支配するなのでありましょうか。 霊の聖さを持つ人々であり、そして見分ける力を持つ人々であります。 第三番目は、ダニエル書の第3章に書かれていることなんですけれども、真実が要求されています。 この第3章には真実が必要なことが書かれています。霊的な判別力を持った人々がどんな人であるか書かれてます。その人たちは真実な人たちです。 主に真実を傾けて従順に従う人に、このすばらしい真実という賜物が与えられます。努力した結果ではない。上から与えられる賜物です。われわれの主とは、真実なるお方と呼ばれています。これこそが救いです。主は真実です。 ダニエルとダニエルの友だちは、自分たちが今住んでるバビロンの国は、必ず滅んでいってしまう。けど、自分たち仕えてる神の国は永遠にとどまるということを彼らはよく知っていたのです。見分ける力があったからです。 だから彼らは永遠に続く主なる神を慕い、真実を尽くしてこの主に従おうと決心したのです。 彼らは二つの国を見分ける力を持っていましたから、結局自由だったんです。あらゆる束縛から解放された人々だったのです。 彼らが目指していたのは、永遠に続く神の国だけでした。だからどんなことがあろうと、真実を尽くして、主に従っていきました。 その結果は色々な試みに遭うようになりました。あるときは、火の炉に投げ入れられ、あるときには、獅子の穴に投げ入れられるという激しい試練に遭いました。 主に従ったから、すべてはうまくいったなのではない。普通の人々よりも悩むようになりました。 けど、彼らは主に頼ったから、われわれは決してひとりぼっちではない、主はともにおられると体験的に知るようになったのです。 ダニエルは獅子の穴の中でひとりぼっちではなかったのです。主はいっしょでした。 ダニエルの三人の友だちは、火の炉に投げ込まれたとき彼らは、ひとりぼっちではなかったのです。 主イエス様はいっしょにいたのです。わたしは決してあなたから離れない。この約束こそが彼らの体験だったのです。 ダニエルの友だちは、ある意味でダニエルを指導者として仰いだなのではないかと考えられます。 1章では、ダニエルは身を汚さないように、王さまの食べ物を食べないように、友だちのために彼は話したのです。 友だちは別に話さなくてもよかったんですね。彼は先頭に立って、はっきりとした態度を取ったんです。 2章ではやはりダニエルが友だちに夢の説き明かしを教えたのです。けど3章を見ると、三人の友だちは今度はダニエルなしに、火の炉に入らなければならなかったのです。三人はきっと寂しかったに違いない。 ひとりひとりがまったく個人的に主に忠実に従っていくようになるためには、この試みが必要だったでしょう。 この三人は激しい試みの中で、どうだったのでありましょうか。少しも動揺しませんでした。 ダニエル書3:18
何があってもわれわれは妥協しません。殺されても構わない。たとえ火に焼かれようとも、主に真実を尽くして従っていったのです。 なぜ三人にこれができたのでしょうか。彼らは、この世のものはみな虚しく、神の国のみ、永遠に続くことを確信したからです。 私たちも滅びるものと、永遠にとどまるものを見分ける力を持っているならば、ただ上のものだけを求めるはずです。 この目に見える世界によってがんじがらめになって、取る気になれば、心は相変わらず満たされ得ないのであります。 ダニエルの友は、通された試みはちょっと考えられないほどの激しい試みでした。 3章を見ると、バビロンの総督、長官初め、偉い人たちは全部、全国民が偶像を拝み、拝むときにあらゆる楽器を使ったことが分かります。この世のものはひとつになって神にそむいていることが分かる。 今日においても同じなのではないでしょうか。総督や長官など、偉い人々の意見に従い、それにへつらって賛成するといった人々ばかりなのではないでしょうか。 ただ主のみを仰ぎ見、主のみこころを断固として行なう人々は、少ないなのではないでしょうか。 悪魔はダニエルの友だちを初めから火の炉に投げ入れようとは思わなかったでしょう。初めはただ三人の友をこの世に妥協させようと思ってたに過ぎなかったに違いない。 もし彼らがこの世の霊に妥協するなら、自分の勝利であることは、悪魔は十分心得ていたからです。 火の炉は三人の霊的に殺してしまおうと思ってる悪魔の最後の試みでした。悪魔は全イスラエルの民に対してその目的をほとんど達していたでしょう。イスラエルの民はほとんど霊的に死んでしまったのです。 相変わらず生きるまことの神を信じていたでしょう。けど神に頼ろうとしなかったのです。単なる頭の知識に過ぎなかったのです。 彼はただ形式的に偶像を拝み、それで心を安んじていたでしょう。けどダニエルとその友だちはあくまで主に忠実に従い、悪魔がどんなに力を持って攻撃しても大丈夫だという神にある勝利を経験するようになったのです。 われわれにも悪魔はこれから色々な方法をもって何とかしてこの世の霊に従わせようとして攻撃して来るでしょう。 けど、それに耐えて主に忠実に従っていきたいものです。ペテロの手紙第Iの4章。この12節を見ると、初代教会の兄弟姉妹にとって激しい試みは決して珍しいものではなかったことが書かれています。 ペテロの手紙第I、4:12-13
簡単にこの世のやり方に妥協し、この世の流行を追い、この世の名声を追う者をイエス様は訝りの目をもって見ておられるでしょう。 妥協していくと主のために苦しむことが少なくなりますけど、主の国にはいるには、どうしても試みを通され、苦しまなければならない。 だからパウロはテサロニケにいる兄弟姉妹に、初めに読みましたように、次のように書いたのです。 このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とするため、あなたがたが苦しみを受けているのは、この神の国のためであると書き記したのであります。 主の臨在を失い、そればかりでなく将来われわれの上に与えられる驚くべき神の栄光を取り逃がすならば、本当に悲劇的なのではないでしょうか。 最後にもう一ヶ所読んで終わりましょう。よく読まれる非常にすばらしい箇所であります。 歴代誌第II、16:9
主は自分の力、ご自分のご臨在、ご栄光を現わそうと望んでおられますけども、人を通して、人間を通して現わそうと望んでおられます。 だから主は必死になって、主だけを仰ぎ見ようとする人々を捜して、求めておられるのです。 |