この人はいったいだれだろう


ベック兄

(御代田福音集会、2007/07/22)

引用聖句:ルカの福音書7章36節-50節
36さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
37すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
39イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
40するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
41「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」
43シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。
44そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。
45あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。
46あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。
47だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」
48そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
49すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」
50しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

よく言われます。「私たちは何と何をしているかは、別にどうでもいい。」、すなわち誰を知ってるのか。すなわち、イエス様を知らなければ、すべてが面白くない、そうなのではないでしょうか。
先週ふたつの葬儀もあったし、結婚式もあったし、今、福音集会です。名前は違うけど中身は全く同じです。どういう集いかと言いますと、結局悩める者の集いであり、結局イエス様を紹介する集いです。

聖書の中で、私たちは生きるまことの神の約束を見いだすことができます。どういう約束かと言うと、「私はあなたを愛している。」
これは決してむなしい空約束ではなくて、うそを知らない宇宙の創造主の約束です。複数形ではなく、単数形。ひとりひとりは、主の愛の対象であります。
生けるまことの唯一の神は、結局、人間ひとりひとりに対して関心を抱き、人間を忘れようとしないし、これを確信する人は悩みながら喜ぶことができます。

幸せです。イエス様は、私をこんなにも愛してくださいました。私のために十字架の上で死なれた。これこそが愛されている証拠そのものです。
私はあなたを愛する。聖書の一番中心的な言葉とは、おそらくヨハネの福音書3章16節でしょう。

ヨハネの福音書3:16
16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか。道を指し示すものや、道しるべではありません。道そのものです。単なる救い主ではなくて、救いそのものです。
そして聖書のいいニュース、喜びの訪れとはなんであるかと言いますと、見よ、今は救いの時。今は、明日でも明後日でもなく、今は、恵みの時です。結局救われようと思う人は救われるということです。
イエス様を知ることこそが大切です。イエス様についての知識を得ることではなくて、イエス様ご自身を知ることです。今読んでくださった箇所の中で、

ルカの福音書7:49
49すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

この人はいったい誰だろう?「この人は・・・」、失礼な言い方じゃないでしょうか。同じ表現がマルコの福音書6章にも出てきます。
当時のナザレの人々も、何回も「この人」「この人」「この人」...結局一緒に住んでいたし、イエス様のことをうわべだけ知っていたのです。

マルコの福音書6:1-6
1イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
2安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。
3この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
4イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
5それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。
6イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。

イエス様は必ずその場所で、集まった病人達みんなを癒されようと思ったのですけど、ここでは何一つ力ある業を行うことはできませんでした。
少数の病人に手を置いて癒されただけでした。みんな癒したかったのです。
どうしてできなかったかと言うと、彼らの不信仰だけです。結局彼らは、「この人は・・・いったい誰だろうか。」という態度をとったからです。

ルカの福音書7章にもどって、シモンという聖書学者、聖書の研究者は疑いもなく人間的に見れば立派な生活を送ったことでしょう。多くの人々に尊敬され敬われたに違いない。そして彼はイエス様を招待したのです。そして、イエス様は「いいよ。」と返事してくださったのです。
この聖書学者とは、もちろん宗教によって盲目にされてしまったのです。彼は、聖書の内容をよく知っていた。けど、イエス様を知らなかったのです。
イエス様は、罪人として私の所に来ない者は永遠の滅びへ至ると強調されました。私は道そのものです。誰も、私によらなければ神のみもとに来ることはないとはっきり言われました。

シモンという聖書学者の考えは違ったんです。自分たちこそ、救いを持っていると確信したのです。思いこんでしまったのです。
彼は主の御言葉に精通しており、モーセの律法を堅く守り、祈り、道徳的に高尚な生活を送っていたに違いない。
彼は、どうしてイエス様を招待したのでしょうか。確かなことは、この女性が許可を得ることなしに入って来てしまったのです。彼女にとって簡単ではなかったのです。

わたしは変な目で見られている。わたしが入るとあの聖書学者は絶対にいい顔をしない。
けど、それにもかかわらず彼女は心の奥底にたいへんな悩みを持っており、もはやとても我慢できなくなっちゃったから、恥ずかしさを乗り越えて、イエス様の御許にやって来たのです。
賢い女性でした。イエス様だったら、なんとかなると、彼女は確信しました。

ルカの福音書7:37-38
37すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、
38泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

彼女が高価な香油でイエス様の足を濡らした時、その部屋は良い香りでいっぱいになったでしょう。そして、みんなの目はイエス様とその婦人の上に向けられました。
聖書学者はすべてを自分の目で見て、次のことをまた思いこんでしまったのです。

ルカの福音書7:39
39イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

自分と違って彼女はひどい罪人。もちろん、イエス様はこの婦人について、すべてのことを知っておられたのです。彼女が犯した罪について、彼女が自分の身の上に招いた債務について、イエス様はわかったのです。
そして、またイエス様は彼女の本当の状態、すなわち良心の呵責、心のむなしさ、満たされていない恐ろしいほどの孤独をも、イエス様ちゃんと知っていたのです。
けれどもイエス様は、この罪深い女についてだけではなく、立派な生活を送ったシモンのことも全部わかったのです。イエス様は、このパリサイ人・シモンの傲慢さを知っておられ、心の中で何を考えているかも知っておられたのです。

ですからイエス様は、ひとつの例えを話され、実践的応用をなさったのです。
この適応を通して、シモンは実際問題として承伏せざるを得ませんでした。それからイエス様は罪深い女に向かって、みんなの前に言いました。

ルカの福音書7:48、50
48そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。
50しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

別の言葉を使うと、イエス様は次のように言われたのです。「あなたの信仰とあなたの信頼によって、あなたは救われた。あなたの罪は赦されている。あなたは、恵みとまことの平和を手に入れた。」

ルカの福音書7:49
49すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

「この人は、いったいだれだろう。」、これは非常に大切な質問なのではないかと思います。
当時、この絶望的な女の罪の赦しを約束なさった方とは、いったい誰だったのでしょうか。私たちは、この方について、いったい何をいうことができるのでしょうか。
イエス様は昨日も、今日もいつまでも変わらないお方です。この箇所を見ると、3つのことがはっきり言えるのではないでしょうか。

1番目イエス様は、人間ひとりひとりを徹底的に知り抜いておられるお方です。
2番目イエス様は、ただおひとり罪を赦すお方であり、この赦された確信をお与えになるのは、イエス様しかいない。
3番目イエス様は、信じる者を救い、ご自分の平和を与えてくださるただおひとりである。

まず1番目、イエス様は人間ひとりひとりを徹底的に知り抜いておられるお方です。このことは変わることのない事実です。
信じられないことですけど本当なのです。イエス様は文字通り、どんなことでもすべてを知っておられます。イエス様の前に、隠しおおせるものはひとつもない。

へブル人への手紙4:13
13造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

私たちは、すべてのことを正確にご存知であられ、それに対して私たちが最後の責任を問われ、債務を負っていますが、この主と私たちがかかわりを持っているということを覚えましょう。
私たちは宗教とか道徳とか、その他これを利用したものとかかわりを持っているのではなくて、生ける唯一のまことの神とかかわりを持っているのです。
このまことの神は、人間がごまかすことができないお方です。このまことの主なる神は、軽視することのできないお方です。すべてのことを厳密に取り扱われるお方です。そしてそのお方は、いかなる罪をも見逃すことがおできになりません。

ルカの福音書7:39
39イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

けれどもイエス様は、この女について詳しく知っておられ、しかもイエス様はこの聖書学者であるシモンについてもすべてを知っておられたのです。
シモンはただ心の中で思っただけで、何一つ公に言わなかったのにもかかわらず、イエス様は彼の心を見抜いてすぐにお答えになられたとあります。

ルカの福音書7:40
40するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。

シモン、あなたは私の愛の対象である。ただ、あなたは耳を開き、心を開いてくれればありがたい。イエス様は、この聖書学者の心の奥底にある思いと動機を知っておられ、またイエス様は罪の女の心にある思いと動機をご覧になりました。
両者の間には、越えがたい対立があったのです。一方においては、自分を正しいと見なし、誇りに満ちた傲慢なパリサイ人があり、他方には、罪を意識して心が砕かれた罪の女がいるのです。
この両者をちょっと比べてみたい。

社会的には両者はひとつになることはできませんでした。パリサイ人は、確実に郊外の高級住宅街に住んでおり、豪勢な生活をしていたことでしょう。それは、最高級の人たちだけが行うことのできる生活でした。
他方、罪の女は罪が行われる隠れた場所で生活をしていた。道徳的にも両者はひとつになることはできなかった。
パリサイ人は郊外で、立派な生活をしていましたが、罪の女は、姦淫の女、売春婦でした。

金銭的にも両者は比較できない関係でした。聖書学者は高級生活者で何の心配もなかった。けれども罪の女はあまりにも貧しいので、収入を得るために、自分の体、自分の純潔を犠牲にしてしまった。
宗教的に見ても両者は比較することができない。パリサイ人は自分の宗教のために生きており、罪の女は宗教とは、何の関わりを持つこともできず、また関係を持ちたいと思わなかったです。
感情的にも両者は比較することができないことでした。パリサイ人は冷たく計算高く厳しいでしたが、罪の女は、暖かい心の持ち主で、そのような心の持ち主だったので、大勢の人のいる所でも大勢の人のいる所でも泣くことが恥ずかしくならず、イエス様の御足に口づけすることをためらいませんでした。

このような両者は全く違っていましたが、ひとつの点については全く同じでした。
すなわち、二人とも債務を負った罪人だったのです。

ルカの福音書7:40
40するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。

それから、イエス様はひとつの例えを彼に話されました。それを通してシモンは、主の光の中に置かれたはずです。

ルカの福音書7:41-42
41「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。
42彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。

疑いもなくその時、イエス様は話を続けながらシモンの目をご覧になったのではないでしょうか。二人のうち、どちらが余計に金貸しを愛するようになるでしょうか。このなかでイエス様は次のようにおっしゃったのです。
シモンあなたも不完全であり、過ちを犯す者であり、あなたもまた自分の身の上に債務を負っている。
確かに罪の女は500デナリの罪人であり、あなたは50デナリの罪人に過ぎないかもしれないけど、私の目で見れば、少しも区別は存在しない。

パウロはローマ人への手紙の中で、すべての人は例外なく罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないと語りました。
ヤコブの手紙のなかで、律法全体を守っても、一つの点でつまづくなら、その人はすべてを犯した者となったのですとあります。
主なる神の目から見れば、シモンは罪深い女と全く同じように罪深かったのです。

多くの人にとっては立派で、宗教的で、道徳的にすぐれた生活をしている人間が、姦淫の女や人殺しと同じように救われなければならないということを理解する事は非常に困難なことです。
ですから所謂、立派な人々、みんなから尊敬される人々、立派に成功した人々とは、なかなか救われ得ない。
イエス様を信じることとは、今まで間違った方向へ行ってしまった。今までのこと全部、的はずれであったと認めざるを得ないことなのではないでしょうか。

疑いもなくその女は罪深い女でした。イエス様はもちろんそのことを知っておられ、そのことを少しも否定されませんでした。
彼女の人生は憎むほどであり、汚らわしく恐ろしい程でした。彼女は贖われ、救われる必要がありました。
イエス様がいかなる罪人をも救うことがおできになるということは、大いに主に感謝すべきことです。イエス様が救うことがおできにならない程ひどい罪は存在していない。

けれどもイエス様はシモンのような人々をもお救い下さるということは、いかに主に感謝すべきことでしょうか。
特に、何ひとつ負債をもたらすようなことをもせず、いわゆる立派な生活を送り、なにひとつ悪口を言われることのない人さえ、主の目から見れば、罪人に過ぎません。
多くの人の生活は、シモンの生活のようなものです。立派で模範的で、正直と思われるでしょう。けど私たちが必要としていることは、生けるまことの神が、私たちをご覧になるその見方です。私たちそのように自分を見るなら、自分が罪深いだけではなく、失われている者であり、救われなければならないと知るでしょう。

イエス様はシモンについて、また罪深い女について、すべてのことをご存知でした。けど、それにもかかわらずイエス様は彼らを愛しまことの満足を、与えたいと望んだのです。
イエス様は世界の造られる以前に、わたしたち一人一人の債務と罪をご存知でした。イエス様は私たちが、どれほど主なる神の救いを必要としているかをご存知でした。
それですから、イエス様は父によって定められたときに、天からこの地上に来てくださり、私たちのためにご自身の命を贖いの代価として捧げてくださいました。

けれども、イエス様はよみがえってくださり、聖霊を通して今も働いておられ、われわれを恵んでくださり、われわれの罪の債務を赦すことを心から待っておられます。
イエス様は、私たちに主の愛のすべてを感じさせたいと思っておられ、御心にかなった人間にしようと願っておられるのです。

ローマ人への手紙5:8
8しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

この方はいったいだれでしょうか?
イエス様はわれわれを徹底的にご存知であって、一人一人のことを大切にするお方です。限りない愛を持って、人間ひとりひとりを愛してくださるお方です。
イエス様とは、いったい誰なのでしょうか。2番目の答えは、イエス様はただおひとり罪を赦すことがおできになる唯一の解放者である。また救いの確信をお与えになる唯一のお方です。

ルカの福音書7:47
47だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。

そして、イエス様はあなたの罪は赦されていますと言われました。この主イエス様のおっしゃった言葉に対する応答として、一緒に食卓にいた人々は、罪を赦したりするこの人は、いったい誰であろうと言い始めました。
あなたの罪は赦されていますと言うイエス様のお言葉を言った時、この女が何を感じたか想像できるでしょう。まさにこれこそ彼女が待ちこがれていたものだったのです。
彼女は圧倒されてしまいました。重荷は彼女の肩から落ちました。その重荷は軽くなっただけではなくて、彼女は完全に解放されたのです。

どれほど多くの人々が、赦されていない罪の重荷を持ったために悩んでいるのでしょうか。
イエス様の前で謙遜の前で自分の債務を告白する人は赦されます。これこそ聖書の喜びの訪れです。
私たちは自分の罪を赦されていることを確信しているのでしょうか。私たちはイエス様に主の贖いの御業を感謝したことがあるでしょうか。

主ご自身が、私たちが罪の赦しを必要としていることを、はっきりとおっしゃっています。
というのは、私たちは自分自身に対して罪を犯し、他の人に対しても罪を犯ししました。
いかなる人間も自分の犯した罪を自分で赦したり、消し去ったりすることはできません。

伝道者の書3:15
15今あることは、すでにあったこと。これからあることも、すでにあったこと。神は、すでに追い求められたことをこれからも捜し求められる。

これからも捜し求められる。人間は、自分が何をやったとしても、自分の力で罪が起こらなかった状態に直すことはできない。
けど聖書の福音は、罪を意識して主の御許に来て、イエス様を自分の人生に受け入れる人を、イエス様が誰でも赦してくださるのです。

イザヤ書1:18
18「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

と、約束されています。
パウロは、殉教の死をとげる前に、ひとりの弟子であるテモテに書いたのです。

テモテへの手紙第I、1:15
15「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

イエス様が赦すことがおできになる。赦したいと望んでおられるお方です。
イエス様は罪を赦すことができるただひとりのお方です。いったいどうしてでしょうか?それに対して理由があります。
まず、私たちが主イエス様に対して罪を犯したゆえに、イエス様が赦すことがきでるただ一人のお方です。

イエス様によって私たちは救われ造られた者であり、そしてイエス様はご自身の血潮という代価によって、私たちを悪魔の支配から贖い出してくださったのです。
けれども私たちは自己中心的でした。これは創造主、造り主に対して罪です。

それからイエス様が我々の代わりに死んでくださり、私たちが受けるべき罰をご自身の身に受けてくださったから、イエス様こそ我々を赦すことのできるただ一人のお方です。
債務を支払った方は、赦しを与えることができる。それ以外に誰も、私たちの代わりに命を捨てる覚悟を持っていなかったのです。
イエス様こそが唯一の救い主です。

初代教会の兄弟姉妹は宣べ伝えたのです。すなわちこの方以外には、誰によっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、私たちが救われる名としては、どのような名も人間に与えられていないからです。イエス様こそが救うことができるお方です。
どうしてイエス様は罪を赦すことができるのでしょうか?イエス様がよみがえられ、生きておられ、恵むために待っておられるのです。へブル人への手紙の著者は、次のように書きました。

へブル人への手紙7:25
25したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

結局、へりくだって、助けを求める人々をキリストは完全にお救いになることがおできになります。
キリストはいつも生きてて、彼らのためにとりなしをしておられるかたです。すばらしい箇所です。
イエス様はいつも生きて、すなわち大祭司として、何があっても、いつもとりなしをしておられるお方です。

多くの人々は次のようなことを考えるのです。自分の罪と債務が赦されているということを知っているなどということは傲慢ではないでしょうか?
決して、そうではない。イエス様は次のようにはっきりおっしゃいました。

ルカの福音書7:47
47だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。

イエス様は言われたのです。
この人はいったい誰なのでしょうか?徹底的に人間ひとりひとりを知り抜いておられるお方です。また罪を赦すことができ、救いの確信を与えることのできる唯一のお方です。
最後に、イエス様は信じる者を救いご自分の平和を与えてくださるただひとりのお方です。

おそらくここには、まだ正直に次のように言う方が居るかもしれません。
「わたしの不正、わたしの債務が赦され、免償してもらいたい救われたい、私は何をしなくてはならないの?」
これに対して、主なる神の言葉はきわめて簡潔に「主の約束を信じると大丈夫だよ。」と。信ずればOKと語ります。

ルカの福音書7:50
50しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

この女は何によって救われたなのでしょうかねー?ただ信仰によってです。
彼女はイエス様を信じ、提供された罪の赦しを受け取りました。彼女は自分の罪の債務を負ったままでイエス様の御許に来ました。彼女は、もしイエス様が私を赦してくださらないなら、おしまいだということを知っていました。
イエス様は私を赦してくださるに違いない。イエス様は私を清めてくださるに違いない。イエス様は私を助けてくださるに違いない。

そして何が起こったのでしょうか。イエス様は彼女を赦してくださった。いったいどうしてでしょうか。彼女の信仰の故です。
信仰は、イエス様が提供して下さるものを受け取ります。私たちがイエス様の提供してくださるものを意識して受け取るとき、その時にだけ、イエス様はわたした達に、「安心して行きなさい。」、とおっしゃるに違いない。
すなわち、私たちの罪が赦されている時、新しい人生の一節、心の平安が満ちている人生が始まります。初代教会の証しとは次のようなものです。

ローマ人への手紙5:1
1ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

しかしそれだけではなく、つまり私たちは神との平和を持っているだけではなく、主なる神ご自身の平和をも持つべきです。

ピリピ人への手紙4:7
7そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

神の平安は、われわれの心と思いを守ってくれます。主なる神の力によって、私たちは新しい人生を歩むことができるのです。
イエス様とはいったいどういうお方なのでしょうか?イエス様は徹底的に私たちを知り抜いておられるただ一人のお方であり、イエス様はただお一人罪を赦すことがおできになり、救いの確信をお与えになるお方であり、またイエス様は信ずる者を救いご自分の平和を与えてくださるお方です。
私たちは、イエス様の愛に対して、主に感謝したいと思わないのでしょうか。赦されたと自分のものにする人は、本当に多いに喜ぶことができるのです。

イザヤ書12:2
2見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

こういうふうにいうことができるのは、本当に感謝です。




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