引用聖句:コリント人への手紙第I、15章3節-9節
前に読んでもらいました箇所は、いわゆる「よみがえりの書」と呼ばれているコリント人への手紙第I、15章です。 パウロは、「主イエスは私にも現れてくださいました。私は価値のない者です。」けれども、人間はなんであろうかということはそんなに大切ではない。人間の何と何しているということもあまり大切ではない。人間は誰と誰に出会ったのか、誰と誰を知るようになったかこそ大切なのではないでしょうか。 そしてパウロは、復活なさったイエスは私にも現れたと言うことができたのです。 今読みました3節の中で、2回も同じ表現が出てきます。3節の中で「聖書の示すとおり」と書いてあるし、そして4節「聖書に従って」。非常に大切な表現です。意味は、われわれ人間は何を考えているか、何を持ってるか、感じてるかとは別にどうでもいいよ。聖書は何て言っているか。使徒たちは皆この態度を取ったのです。 そして彼らが述べ伝えたメッセージとは、結局主は聖書の示すとおり、聖書に従ってよみがえられた。結局われわれの主とは生きておられるのです。 この主はあんまり偉大ですから、自分はもうだめ。パウロは、「私は価値のない者です」。もちろん彼はそう思ったからこそ、主は彼を用いることができたのではないでしょうか。 自分はなんとかなる、なんとかできると思えば、主は知らん顔する。絶対に用いられないからです。けれどパウロは、私は価値のない者であると言ったからこそ用いられるようになったのです。 主は必ずわかったのです。このパウロは用いられ祝福されても、彼は傲慢になりません。身になれば、それは自分の努力の結果じゃなくて、やっぱり主に頼るという切なる願いの結果です。 一番大切なのは、このよみがえりの主にまみえ、新たにされることなのではないかと思います。 パウロは、「主イエス様は最後に私に現れた」。よみがえりの主イエス様にお会いした喜びについて、彼は書いたのです。 このパウロとは、ご存知のように、どうしてイエス様を知るようになったのでしょうか。理屈でせめられ納得させられたからイエス様を知るようになったのではない。また、脅かされて強制されたからイエス様を知るようになったのでもない。 パウロはよみがえりの主にお会いしたため、主を知るようになり、それによって監禁され、捕まえられてしまったのです。 だから手紙の前にパウロはよく書いたのです、「主イエスのしもべであるパウロ」。原語を見ると勿論しもべじゃなくて奴隷となっているのです。復活なさった主に奴隷として仕えるのは最高の幸せです。これこそが本当の自由であるとパウロは言うことができたのです。 パウロはどうしてイエス様を紹介する者となり、イエス様の証し人となったのでしょうか。今話したように、多くのことを勉強したからではありません。よみがえられたイエス様に出会ったからです。 紹介したイエス様とは結局生きておられます。復活なさいました。この生きておられる主を紹介することこそ、パウロに与えられた使命であり特権です。 パウロはイエス様のよみがえりの書を、すなわちこのコリント人への手紙第Iの15章を書いたのです。どうしてであるかといいますと、必要だったに違いない。 誰に書いたかといいますと、コリントにいる兄弟姉妹です。そしてコリント人への手紙を読むとわかる。彼らは確かにイエス様のことを信じ受け入れたけれど、彼らは本当の意味での「証し」ではなかったのです。だからパウロは彼らにこの15章を書いたのです。 彼らは実際生活にイエス様のよみがえりをもちろん信じましたけど、よみがえりの力を持っていなかったのです。コリントの兄弟姉妹は等しく主に仕え、イエス様のために生きたい、奉仕しようと心がけましたけど、全部失敗に終わってしまったのです。願いどおりになりませんでした。 パウロはこのコリントの兄弟姉妹の失敗の原因の根本について、はっきり言ったのです。 すなわち、あなた方はよみがえりを体験する前の状態にある。よみがえりの土台の上に生活していない、と指摘しています。 もちろん言えることとは、もし私たちが生まれつきの性質から解放されイエス様のよみがえりの力に合わせられないなら、信仰生活は上がったり下がったりするでしょう。 2番目に、よみがえりに基づいた人たちは、目に見えないイエス様を愛しています。意味は、信仰によって歩んでいます。 信仰によって歩むことこそが考えられないほど大切じゃないでしょうか。 ちょっと一箇所見てみます。コリント人への手紙第II、4章16節からお読みいたします。 コリント人への手紙第II、4:16-18
最後に、この主なる神の愛は、たとえ訳が分からないことがあっても、理解に苦しむよなところに置かされても、愛して愛し抜く愛です。 これらの人々はパウロと同じように次のように言うことができるでしょう。 有名なローマ人への手紙8章の最後の2、3節は本当にすばらしい、初代教会の兄弟姉妹の告白です。 ローマ人への手紙8:35-39
確信に満ちた証しです。主なる神の愛はすべてのものに勝ち得て余りある愛です。この主なる神の愛は、パウロが同じくコリント人への手紙第Iの中で言ってるものです。 その前の前の書ですね。15章はよみがえりの書です。13章は主の愛の書と呼ばれています。 コリント人への手紙第I、13:4-7
私たちの場合はどうでしょうか。私たちは主のためにあれをやり、これをやり、奉仕しますけど、イエス様と親しい交わりを持ってる方はどれだけいるのでしょうか。 祈りはそのままイエス様との交わりであると言うことはできないでしょう。イエス様もわれわれに語りかけることができなければ交わりになりません。 私たちもマリヤのようによみがえりの前の土台に立ってるのではないでしょうか。マリヤはイエス様を神の御子として信じ、しかも自分を悪の霊から解き放ってくださったお方として信じ愛してましたけど、彼女は絶望に陥ってしまったんです。 多くの救われた兄弟姉妹は罪の赦しを確信し、主なる神との平和をいただいています。そして人間的な愛でイエス様を愛しています。生まれながらの賜物の、生まれながらの力を持ってイエス様に仕えようとしていますけど、信仰生活は結果としてとめどもなく上がったり下がったりします。 イエス様との親しい交わりがない。主イエス様と一つになることができない。それはいわゆるよみがえりの前の土台に立っているからです。 よみがえりの土台に立つ者は、自らの力で主に仕えようとしない。自分の力に頼ることをやめ、人間の誉れを望まず、よみがえりの主に任せおゆだねするということは、なんという自由でありましょうか。 自分を愛する愛は哀れっぽいものです。自分を愛する愛は傷つきやすいものです。 主なる神の愛はこれに対して傷つきにくいものです。主の愛は、別にしるしを求めません。主の愛は信仰によりて目に見えるものを望み見て歩みます。 私たちが必要としているのはなんでしょうか。この主の愛に満たされることなのではないでしょうか。 もしイエス様がよみがえられなかったら、果たしてマリヤは7つの悪霊に立ち向かうことができたでしょうか。よみがえりの土台に立っていないコリントの兄弟姉妹たちはどうだったでしょう。 憎しみと妬みと傲慢と汚れの霊に打ち負かされ、全然証しが立っていませんでした。 イエス様がわれわれにマグダラのマリヤのように新しい愛を授けられ、私たちが心からパウロのように、よみがえりの主は最後にこの私に現れたということができれば、本当に幸いと思います。 |