引用聖句:民数記23章19節
ルカの福音書18:27
今読んで下さった2箇所を通して、我々の主は紹介されているのではないかと思います。 我々の主とは、本当に比類なきお方であり、考えられない力と知恵を持つお方です。だからもうすでにモーセは、告白したでしょう。「神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない。神は言われたことを、なさらないだろうか。約束されたことを成し遂げられないだろうか」 答えは絶対にない。主は自分の約束を守るお方です。我々の考えと祈りにまさるものを与えていてくださるお方です。 「人にはできないことが、神にはできるのです。」毎日、覚える事実なのではないでしょうか。「人にはできないことが、神にはできるのです。」 信じる者にとっても、「すべてのものが可能です」と聖書が言っているのです。どうしてであるかと言いますと、何でもできるお方と繋がっていれば、主はみことばのゆえに、約束されたがゆえに必ず奇蹟を成してくださるからです。 「人にはできないことが、神にはできる」毎日覚えるべき事実なのではないでしょうか。 人にはできないことが、神にはできるとは、どなたが約束したかと言いますと、もちろんイエス様ご自身です。そしてイエス様は、ただ単なる真理を語ったお方だけではなく、真理そのものです。「わたしは真理、まことの真理そのものである」とイエス様は何回も言われたのです。 イエス様は、生きておられ約束を守っていてくださるお方です。すなわち、嘘をつくことがおできにならないお方です。 聖書全体は、人間において全く不可能なことが、主なる神においては容易に可能となるということの証明です。生けるまことの神は、イエス様において、ご自身を我々に啓示してくださったのです。 この主なる神は、ただ単にすべてをご存知のお方、また限りなく愛してくださるお方だけではなく、全能なるお方でもあります。そして私たちは、この主と結びついていると、人間にとって不可能な事が主には可能であるということを体験するに違いない。 おもにこのルカの福音書18章の中では、すべてがこの真理を我々に証明してくれる、いろいろのことが我々の目の前で繰り広げられます。 幾つかの点について考えてみたいと思います。まず第1に、1節から8節まで、イエス様によって語られたたとえ話を見ることができます。このたとえ話の内容は、主は、差し迫って出された願いに必ず答えてくださる。 ルカの福音書18:1-8
このたとえ話の根拠は、1節に書いてありますように、「人はいつでも祈るべきであり、失望してはならない」ということです。私たちも、いつでも祈るべきである。失望してはならないということです。祈ると失望させられることは絶対にない。 このたとえ話の中心人物は、一人の裁判官を責めてしまったやもめです。「私の相手を裁いて、私を守ってください」と彼女は言いました。「そうか。やっちゃいましょう」裁判官はそういう思いを持っていなかった。長い間、答えようとしなかったし、結局彼女を無視してしまった。彼女にとって辛かったでしょう。 けれど、彼女は何度も何度も同じ訴えを持って来続けましたので、裁判官はかわいそうと思わなかった。「うるさい」と思っただけなんです。「うるさい、仕方が無いからこの女のために裁判をしてやろう」と決めました。このやもめは、決してあきらめなかった。願っただけじゃなくて、願い続けたのです。 私たちもよく言います。大切なのは3つです。 第1番目、祈り、第2番目、祈り、第3番目、祈り 確かにそうだけれど、祈り続けることこそが大切です。このやもめは願い続けたのです。祈り続けたのです。あきらめなかった。だからイエス様は、彼女の態度を褒めました。 聖書全体は、主が差し迫って、ひっきりなしに持ち出される願いを聞いてくださると何度も約束しておられます。 私たちは、いつでも祈ること、失望してはならないこと、あきらめてはならないことを要求されています。イエス様が聞き入れてくださるという約束を与えてくださいましたので、だから私たちは、希望を持って大胆に祈ることができるのです。 私たちは、主の約束の成就を経験するまで、いつまでも祈るべきです。この態度を取ることこそ、結局祈りつづけることこそが大切です。イエス様は、次のように言われたことがあります。信じる者の大切さを言いたかったからです。 マタイの福音書17:20
条件付きです。信じれば。みことばに頼って信じると、主は奇跡を成してくださるのです。 パウロとは、ローマの刑務所の中で、いろいろなことを考えたでしょう。「どうして、何のために入ったのか」よりも結局主は、目的を持っておられる。今は解からなくても、けれど解かる時が必ず来る。 この刑務所の中で、彼はすごいことを書いたのです。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」、ピリピ人への手紙4章13節。 すごいことばです。私は、私を強くしてくださる方によって、イエス様のおかげで、どんなことでもできる。私そのものは、全然ダメ、どうしようもない者です。相変わらず、迷える羊にすぎませんけれど、主のおかげで、私を強くしてくださるお方によってどんなことでもと。 聖書全体が強調していることとは、普通だったらちょっと考えられない、想像できないことです。すなわち、ちっぽけな人間である私たちは、祈る時、全宇宙を動かす方の御手が動きますということです。そして、そのことによって不可能なことが可能となるのです。 イエス様は、大いなることをなさり、むずかしいことをも成し遂げてくださると約束しておられますから祈りましょう。祈り続けましょう。 おそらく私たちは、むずかしい人のために、また人間的に見れば不可能と思われることのために長い間、祈っているかもしれない。失望しないようにしましょう。主イエス様だけを見上げましょう。と言うのは、人間にとって不可能なこともイエス様にとっては、たやすいことであるからです。 それからこのルカの福音書18章を続いて読むと解かります。今見ていた1節から8節まで強調されているのは、主は、差し迫って出された願いに必ず答えてくださる。 そして、9節から14節までを見ると、一人のパリサイ人と取税人のたとえ話が出てきます。イエス様は、どうしてこのたとえ話を話されたかと言いますと、どんなにひどい人さえも、救われようと思えば、救われるということです。 ルカの福音書18:9-10
時間をつぶすためじゃない。他の仕事がなかったからなのではない、祈るために宮に上った。 パリサイ人とは、当時の宗教家であり、聖書をよく勉強した人々でした。 取税人は、ローマ帝国のために金を集めた人々です。ユダヤ人にとって、大嫌いな仕事をしたんです。けれども金になれば、いいじゃないか、お金のために何でもする、そういう気持ちを持つ男でした。 ルカの福音書18:11
神様じゃない。神よ。失礼だよ ルカの福音書18:11-13
イエス様の判断は、すごいね。 ルカの福音書18:14
よしとされ、救われて、 ルカの福音書18:14
結局、聖書全体が言っていることは、へりくだればOK。あわれみを請う者は、必ず恵んでくださるのです。絶えず祈ることを呼びかけておられる。 このたとえ話との関連で、イエス様は今読みましたように、パリサイ人と取税人のたとえ話を話されました。このパリサイ人とは、非常に宗教的な男でした。けれど、生ける真の神を知らなかったのです。神について、いろいろなことを確かに解かったでしょう。けれども神ご自身を知らなければ、意味のないことです。 彼は、自分のことだけを考え、自分の立派な生き方や良い行ないのことだけを考えていました。祈りの中でさえ、彼は自分のことだけしか考えなかったのです。みじめな男です。 それですから、次のように言われているのです。彼は自分に向かって、変な祈りですけれど、自分に向かって心の中で祈ったと。もちろん彼は、神の御名を使ったでしょうけれど、御名の栄光のことは全然考えなかったのです。 しかし、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』 取税人は、ただ単に罪人であっただけじゃなくて、そのことをよく知っていたんです。彼は次のように言いました。「神様。あなたがあわれんで下さらなければ、もう見込みがない。おしまいです。」 彼は、自分がやっぱりひどい者です。わがままそのものですと解かったんです。私は最もひどい、闇の中で永遠の滅びに至るに値する者ですと思ったでしょう。けれど、イエス様ご自身はここで次のように言われますね。この罪人が義とされ、受け入れられ、罪を赦され、神の家族の一員となったのであります。 しばしば私たちは、「あの人は救われるのでしょうか。この人が救われるのでしょうか。」と疑うかもしれないけれど、イエス様の救いの力は、誰も贖うのに充分です。 イエス様の一人の弟子であるヨハネは、次のように書いたことがあります。「御子イエスの血は、すべての罪から私たちを清めます。」イエス様の流された血のゆえに、赦しがただで提供されています。 パウロはこのイエス様の救いにあずかる者となりました。彼の証しは本当にすばらしいものです。 テモテへの手紙第I、1:13-15
彼の証しはすばらしい。13節ですね。「私はあわれみを受けた」、主があわれんで下さらなければ、もう見込みがない。終わり、永遠に。けれど、私はあわれみを受けたと、パウロは喜んで言うことができたのです。彼は、我々のイエス様の熱烈な証し人の一人となっちゃたんです。 私たちが、家族、親戚、友人などイエス様から遠く離れている人々のことを考えると、次のことを忘れてはなりません。人間にとって不可能なことも、イエス様にとっては可能です。 イエス様は、一番ひどい罪人をさえも救って下さるお方です。 私たちは皆、主は不可能を可能にしてくださるということを経験したのではないでしょうか。信仰に導かれた人々は、イエス様が不可能を可能にしてくださるということの生ける証拠、また証明なのではないでしょうか。 私たちは、私たちが救われたことを考えるならば、確信を持って、再び他の人々のために祈り続けることができます。 この15節は本当にすばらしい証しです。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」一番ひどいのは私です。 例えばルカの福音書7章に出て来る罪の女は、イエス様の非常に深い愛を経験し、救われました。イエス様は、彼女に何と言ったかと言いますと、「あなたの罪は赦されています。」結局、彼女の欲しかったのはそれだけなんです。イエス様の口から、この言葉を聞いた時、彼女はもう解放され、嬉しかったでしょう。 イエス様は、そう言うと間違いなくそうなんです。主は赦すと同時に忘れてくださいます。聖書の中の最もすばらしい箇所の一つはそれじゃないでしょうか。 すなわち「わたしは、あなたの罪を思い出さない。」永久的に忘れます。 あるいは、ルカの福音書19章に出て来るザアカイという男は、結局、お金、お金、お金しか考えられなかったのです。金銭欲の強い男でした。彼は、成功して大金持ちになっちゃった。けれど心は満たされなかったのです。 イエス様を見たい、イエス様に出会いたいという思いを持つようになっただけじゃなくて、イエス様との出会いによって、彼は完全に変えられたのです。 7つの悪霊に取りつかれていた女性マグダラのマリヤは、何の喜びも平安も満足感も知らなかったのです。けれど、大いなる解放を経験しました。 私たちは、こういった例、次から次へといくらでも続くことができる。というのは、イエス様は今も同じことをなさって下さるからです。 私たちが、決して期待できないような人々も、瞬間的に変えられます。なぜなら、その人たちは、イエス様に信頼を置いているからです。そういう人々はもちろんイエス様に受け入れられます。 人間にとっては本当に不可能なことが、したがって全く絶望的で、何も期待できない場合でさえ、全能者である主イエス様は、ご自身を啓示してくださり奇跡を行なって下さるのです。我々の主は、何でもできるお方です。我々の主は生きておられます。私たちは、ますますこの主に信頼しようではないでしょうか。 もう一回ルカの福音書18章に戻りまして、31節からちょっと読みます。 イエス様は、あらゆる約束を果たすお方であるとありますね。 ルカの福音書18:31-34
私たちは、イエス様がこれから起きるべき苦しみと死が、3日目のよみがえりと同じように、すでに何百年も前に預言者たちによって預言され、主の経験なさることが、旧約聖書の預言の成就であると仰っているのを読むことができます。 イエス様の預言は正しかったでしょうか。イエス様は、預言されたことがすべてそのように起こったのでしょうか。そのとおりです。すべては預言されたように、正確に実現されました。 そのことから、私たちは主の時において、すべての約束が成就されるという結論を引き出すことができます。 将来については、信じる者を迎えるためのイエス様の再臨、それから死を見ずしてすべての真の信者の携挙、さらに目に見える形でのイエス様の再臨、そして千年間に続く平和の国の確立、それからイエス様は、世界の裁き主として、すべての者を裁くようになると預言されています。 私たちは、多くのことを想像することができません。 けれど、すべてのことは成就するのです。というのは、人間にとって不可能なことも、主にとって可能だからです。 イエス様を産んだ女性マリヤにとって、彼女が約束された救い主の母親となるなどということは、全く考えられない不可能なことでした。 このことが、御使いを通して彼女に預言された時、彼女は結局、何を答えるべきか解からなかった。次のようにしか言えなかったんです。「どうしてそのようなことになり得ましょう。私は、まだ男の人を知りませんのに。」 けれど、それにもかかわらず彼女は、御使いの福音を信じました。感謝するようになったのです。そしてマリヤは、みことばの真理を経験しました。「人にはできないことが、主にはできるのです」と。この巌のように確固とした確信は、我々の日常生活の特徴となるべきなのではないでしょうか。 主なる神は、私たち信じる者のため、イエス様のからだなる教会のため、また選民であるイスラエルのため、世界の諸国民のために、すばらしい約束を与えてくださいました。そして約束を守るお方です。 神は人間ではなく、偽りを言うことがない。人の子ではなく悔いることがない。神は言われたことをなさらないだろうか、約束されたことを成し遂げられないだろうか。もちろんあり得ない。 イエス様は、はっきり言われました。「この天地はいつか滅び去ります。わたしのことばは決して滅びることがない。」「人にはできないことが、神にはできるのです。」 ルカの福音書18:35-43
ここでバルトマイという名前の盲人が癒されたことが記されています。この男の人はもちろん全盲でした。けれど、「見えるようになれ」というイエス様の命令によって、彼はたちどころに目が見えるようになったと書き記されています。 私たちは、このことを理解できませんが、人にはできないことが、主にはできるのです。主は生きておられるからです。不可能なことが可能となる。 主にむづかしすぎるというような状況があるのでしょうか。主が解決できないような問題があるのでしょうか。主が救うことができないような頑固な人がいるのでしょうか。主が回復できないような堕落した人間がいるのでしょうか。主の能力を超えるようなことが何かあるのでしょうか。 もちろん絶対にそうじゃない。自分の状態は、もうどうにもならないと思い込んでしまうほど、ひどいものであるかもしれない。もうダメ、遅すぎると思われるかもしれない。 確かに人間的に見るならば、すべては全く、絶望的かもしれない。けれども、次のようなみことばは、それに勝っているのです。人間的に見ればと言うよりは、主の目から見ればということになると、全てはまったく違ったものとなるということです。 なぜならば、全能者なる主こそが、何でもできるお方です。不可能なことが何一つないからです。人にはできないことが主にはできるのです。 今のルカの福音書18章を通して、私たちはいろいろなことを見ることができたね。 まず、主は答えてくださる。差し迫って出された願いに。 それから、主は救ってくださる。どんなにひどい罪人でさえも。 それから、主は成就してくださる。あらゆる約束を。 それから、イエス様は奇跡を成してくださる。 私たちの主イエス様は、いかに大いなるお方なのでしょうか。私たちは、イエス様の偉大さと力とを認識しているのでしょうか。 私たちは、イエス様の偉大さと力とを見るならば、安心してすべてを主にゆだね、次のことを経験するでしょう。 私たちの主イエスは、生きておられるゆえ、私たちの人生においても不可能なことが可能となるのです。 |