引用聖句:イザヤ書6章1節-8節
マタイの福音書28:18-20
あらゆる人間にとって一番大切なのは、祈ること、助けを求めることなのではないでしょうか。 われわれの歌う歌は全部、ひとつの信仰の告白であるか、あるいは祈りであるかのどちらかです。ある歌のことばとは非常に簡単なのですけどもすばらしい祈りです。 弟子となしたまえわが主よ わが主よ弟子となしたまえ 心の底からより弟子となしたまえ すばらしい、大切な祈りなのではないでしょうか。イエス様の呼びかけとは結局そういう呼びかけです。 「わたしについて来なさい。わたしを信じなさい。」、だけじゃない。「わたしに従いなさい。」 マルコの福音書から3ヶ所、ちょっと見てみたいと思います。よく知られている個所ですけども。イエス様は公に福音を宣べ伝えたときからすぐ、将来用いられる器を捜し求めたのです。 マルコの福音書1:16-17
そのときまで魚をとった漁師だったのです。今度は人間をとる漁師にしてあげよう。 マルコの福音書1:18-20
マルコの福音書2:13-17
もう一ヶ所。 マルコの福音書3:13-15
とあります。この個所を読むとはっきりわかるのは、イエス様は呼びかけてくださったのです。もちろん聖書全体は主なる神の、ちっぽけな人間に対するひとつの呼びかけなのではないでしょうか。 もちろんひとつの呼びかけだけではなく、ふた種類の呼びかけがあります。ひとつは、神の子となるための呼びかけです。提供された救いを自分のものにするための呼びかけです。 もうひとつの呼びかけとは前に話したように、イエス様の弟子となるための呼びかけです。 このマルコの福音書とは、福音書の中で一番わかりやすい福音書です。なぜならば、旧約聖書からの引用はあまりない。 マルコの福音書はユダヤ人、すなわち旧約聖書をよく知っていた人々のために書かれてるものではなく、旧約聖書とまったく関係のないローマ人のために書かれたものです。非常にわかりやすい福音書です。 このマルコの福音書全体が言わんとしていることは、主イエス様を大いなるしもべとして特徴づけることです。 例えば、マルコの福音書の中の一番大切な節は、10章の45節でしょう。みんな暗記している個所だと思います。 マルコの福音書10:45
イエス様は、仕えられるためではなく、仕えるためにしもべとして現われたのです。 これに対してマタイの福音書では、イエス様はしもべとしてではなく、王として、主の主、王の王として明らかになります。ユダヤ人にとっての来てもらいたいメシヤとは、王の王だったのです。彼らはしもべと関係を持ちたくなかったのです。 ルカの福音書では人間としてのイエス様が明らかになっています。福音書の中でイエス様は確かに色々な名前で呼ばれたのです。ルカの福音書の中でイエス様は人間の子として明らかにされています。 そして最後のヨハネの福音書ではイエス様は神の御子として、永遠なる神として特徴づけられています。イエス様は神と呼ばれ、神の御子と呼ばれ、人間の子と呼ばれ、しもべと呼ばれたお方です。 けどもマルコの福音書においては、初めに述べたとおり、神のしもべとしてのイエス様が同労者たちを、弟子たちを捜し求められることが描かれています。 イエス様の同労者であり、また弟子とはイエス様とともに奉仕する備えのできている人のことを言います。 そしてここのマルコの福音書では、主イエス様が弟子たちに呼びかけて言われることがはっきりと描き出されています。中心人物とはいうまでもなく人間ではなく主イエス様です。 本当は四つの問いについて考えてみたいと思います。今日はたぶん初めての二つの点についてしか考えられないと思うのです。四つの問いとは、 第一番目、呼びかけておられるお方はどなたでしょうか。 第二番目、その呼びかけはいかなるものなのでしょうか。 第三番目、呼びかけられている者はだれなのでしょうか。そして 第四番目とは、その呼びかけはわれわれに対していかなるものなのでしょうか。 第一番目、呼びかけておられるお方はどなたでしょうか。 第一の質問に対しては、中心人物がイエス様であることからにしても明らかなとおり、呼びかけておられる方はまさしく私たちの主イエス様ご自身にほかならない。 今読みました文章を見ると、その中に出て来る動詞を見るとわかるように、イエス様は常にまず初めに行動なさり、率先して行動を起こされる方であることがわかります。 マルコの福音書3:13
とあります。また、初めに読みましたマルコの福音書の1章の16節と19節。それから、2章の14節。「イエスはご覧になった。」、「イエスはご覧になった。」、「イエスはご覧になった。」と3回も書き記されています。 そしてマルコの福音書の1章の17節と20節と2章14節に、「イエスがお呼びになった。」、「イエスがお呼びになった。」と、やっぱり3回も出てきます。もちろんイエス様はまったく個人的にお呼びになりました。 ザアカイもサウロもまったく個人的に主イエス様によって呼ばれたように、弟子たちも結局、まったく個人的にお呼びになられたのです。このことは非常に重要な意味を持つものです。 なぜならばイエス様と私。イエス様とあなたというふうにイエス様との一対一の関係こそ、非常に大切な関係であるからです。 また人間が主を選んだのではなく、主イエス様ご自身が人間をお選びになって、その中にはいって関わりをもってくださったからです。 今日でも人間の力によっては、また人間の決定によっては決して救われません。イエス様がわれわれの心の目を開いてくださり、自分の本当の姿とイエス様によって完成された救いとを明らかに示してくださらなければ、本当に何もなりません。 イエス様の呼びかけとは、例えばマタイの福音書11章の28節に記されているように、今日でも私たちひとりひとりに当てはまっています。 この肉のことばとは、いわゆる主を知らない人々に対する呼びかけだけではない。もうすでに何十年前から主を知るようになった人々への呼びかけでもあります。すなわち、 マタイの福音書11:28
信ずる者も疲れますよ。 マタイの福音書11:28
信ずる者も重荷を負うものです。疲れた人、重荷を負っている人は、 マタイの福音書11:28
罪人のために、助けを求める人のために、絶望している人のためにイエス様はおられます。悔い改めと信仰を通して主イエス様の現実と救いが明らかになります。 けど悔い改めと信仰は決して人間からやって来るものではなく、まさに上から与えられる賜物です。それですから信者とは贈り物を喜んで受け取った人であると言えます。 あなたはもうすでにお受けになりましたでしょうか。それともまだお受けになっていらっしゃらないのでしょうか。 われわれの人生にとって、いったい何が必要なのでしょうか。一番大切なことは、神の子となることです。すなわち救われることです。そのためには何が必要なのでしょうか。 まず第一に、自分が救われなければならないという必要を知ることです。 第二に、人間的な努力はむなしいということを知ることです。すなわち自分も他人も、決して自分自身を救うことはできないということです。 すべて人間的な努力は見込みなく、望みなきものです。聖書が言っている救いとは、結局罪の問題の解決です。 人間の罪、過ち、わがままのゆえに、聖なる神の怒りのもとにある人間は、主との平和を持ち、債務が支払われ、罪は赦され、永遠のいのちをもつと聖書は言っています。 けどこれは人間や宗教によってではなく、主イエス様によってのみ与えられるのです。なぜならばイエス様は罪に対する、聖なる神のさばきの的になられ、ご自身の聖い、尊い血によって債務を支払い、罪を赦してくださったのです。この真理の事実を心で受け入れ、信ずる者は、主なる神ご自身の平和、罪の赦し、永遠のいのちをもつことができるのです。 すべての人間は自分の力で罪の問題を解決することはできないから、どうしてもイエス様が必要であると告白する状態に至らなければなりません。 すなわち、「主イエス様よ。私はダメです。あなたのみもとにまいります。あなたが私のわがままの問題を解決してくださり、私を贖ってくださったことを心から感謝いたします。」、このようにイエス様に向かって言うことのできる人は幸いです。 もう一回まとめましょう。創造主なる神の子どもとなるためには、二つのことが必要です。第一は、主の言われることを認めることです。次に、提供された罪の赦しを受け入れることです。 けど主なる神は何と言っているのでしょうか。主は、絶対にいやされない罪の病、それはまったく改善の望みがないと言っておられます。 けどもイエス様はわれわれの身代わりとなってくださったのです。そしてイエス様が成してくださったことは十分です。 第二、提供された罪の赦し。イエス様ご自身を受け入れることです。 聖書の一番最後に、ヨハネの黙示録の22章の17節の後半に次のように書かれています。 ヨハネの黙示録22:17
いのちの水とは、もちろんイエス様による救いの贈り物です。ほしい者は、受けるがよいと書かれていますけれど、結局ほしがっているかどうかが問題です。欲すればそれを受けるに違いない。ほしいと思わなければ、将来は真っ暗やみです。 イエス様は永遠のいのちを与えるために、決して強制するようなことはなさいません。ほしい者は受けると約束されています。受ける者は持つ。 神との平和を得、罪の赦しを受け、主なる神の子どもとされた喜びを持ち、永遠のいのちをもつことができるのです。イエス様の呼びかけとは結局、永遠の救いを受けるための呼びかけであります。 そして前に話したように、もう一つの呼びかけとはいかなるものなのでしょうか。すなわち、弟子となるための呼びかけです。 「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」と。このイエス様の呼びかけはいったい何を意味しているのでしょうか。 私たちは救われるために救われているのではなく、用いられるため、仕えるために救われたということです。 まだ救われていない人も、救われたいという切なる思いが欠けている場合には、その人の信仰は非常に疑わしいものです。 主イエス様は救いを受け入れるように、重荷を下ろしてあげようと呼びかけてくださったのです。そして呼びかけられたあとで、ご自分に仕えるように、従うようにと呼びかけていてくださったのです。 けれどもイエス様に仕えるということはいったい何を意味しているのでしょうか。それは、あれこれを行なうということではなく、ただイエス様に従っていくことを意味しているのです。 けどもイエス様に従っていくこととはどういうことなのでしょうか。イエス様について行くこととは、本当は大変なことです。すなわち自分自身を否定すること。自分自身を捨てることを意味しているのです。 マタイの福音書の中でイエス様は当時の弟子たちに次のように言われました。16章の24節と25節、ちょっとお読みいたします。 マタイの福音書16:24-25
損したくない、失いたくないとだれでも考えるのではないでしょうか。 もちろんここで、いのちを救おうと思う者はそれを失い、と記されています。原語を見るとここで、いのちではなく、たましいとなっているのです。 本当は全然違うことなんです。自分のたましいを救おうと思うということは、自分勝手な道を歩んで行くことを意味しているのです。 いわゆるたましいの働きは、まず第一に考えること、第二に感じること、第三に欲することです。したがって自分自身を否定するということは、自分の考え、自分の感情、自分の意思を支配させないことです。 それに対していのちを失うということは、自分自身の意思を、結局心の座から下ろし、イエス様をそこに置いて、第一の座に着けることです。これがなければ決してイエス様に従っていくことはできません。 イエス様について行くこととは、自分自身を否定することであり、自分自身を捨てることです。 けれどもそれだけじゃない。自分自身を憎むことを意味していると書かれています。ルカの福音書の14章の26節、27節を見ると、憎むということばまでもはっきり出てきます。 ルカの福音書14:26-27
前に話したように、救われるために別にイエス様に従わなくてもいいよ。救われるために人間は何にもできません。 けどイエス様の弟子になりたいと思えば、やっぱり条件があります。もちろんイエス様は強制なさいません。わたしについて来たいと思うなら。来たくなければ結構。 自分を憎むこととは、自分自身に対して信用を置かないということがどうしても必要です。自信に満ちた態度がダメにならないと、イエス様に従うことはできません。イエス様なしには一歩も進むことができないというふうにならなければならない。 結局われわれの模範とは、もちろん人間ではなくイエス様です。このイエス様とは、福音書の中で何回も何回も驚くべきことを明らかにしたのです。「わたしは自分の力ではどうすることもできません。」とイエス様ははっきり言われたのです。 イエス様の思いだけを大切にしないと妨げになります。ところが自分自身を信用しないどころか、自分自身を憎まなければわたしに従うことはできないとイエス様ははっきり言われたのです。 いったいどうして聖書は憎むというような、非常に厳しいことばを使っているのでしょうか。パウロの答えは明確です。 ローマ人への手紙7:18
と彼は正直に書いたのです。善がいないと悪しかないことになります。 よく引用されるイザヤ書の55章の8節のみことばも非常に大切にすべきことばです。そして覚えるべきなのは、このことばはいわゆる主を知らない人々に書かれているものではない。一度提供された救いを自分のものにした人々に書かれたことばです。 イザヤ書55:8-9
意味は、全然違う。イエス様のひとりの弟子、ペテロの・・・ (テープ A面 → B面) ・・・けれどイエス様は一回も同情したことがない。一回も人間のわがままを通したことがないお方です。 マタイの福音書16:21-23
ペテロがイエス様を信じていたにも関わらず、イエス様から十字架を取り除こうとしたときにイエス様は、「悪魔。サタンよ。引き下がれ。」と言われたのです。 なぜそんなことになったのでしょうか。そのときペテロは本当の意味での弟子ではなかったからです。上辺だけ一度イエス様に従ったのです。けれども本当の意味での弟子ではなかったのです。 ペテロの目的、またペテロの動機は別に悪くなかったよ。けれどペテロが人間的に考えて、人間的に行動をしたゆえ、イエス様は「サタンよ。」と厳しいことばを発せられたのです。 「すべてのことにおいて、わたしの思いではなく、主の御胸が行なわれますように。」という思いをもって行動しなければならないのです。 自分の思いを捨てて、主のみこころだけを大切にすることがどうしても必要です。 マタイの福音書26章の39節と42節に次のように書かれています。 マタイの福音書26:39
マタイの福音書26:42
イエス様に従うことは、毎日自分の意思と自分の思いとを主に明け渡すことを意味しているのです。 さらにここで自分自身を憎むということだけでなく、自分の家族をも憎まなければならないと記されていることに注意しましょう。 ここで、自分の家族を憎むということは、本当に自分の家族を無視して、まったく顧みないということを意味しているのでしょうか。 当たり前のことですけれど、私たちはひとつの問題について考えると、聖書から適当に一ヶ所選んで、こう書いてあるのではないかという態度を取ることは非常に危ないことです。何があっても聖書全体は何と言っているかと思うべきです。 言うまでもなく主は、人間ひとりひとりの救いよりも、全家族の救いを心から願っておられます。そうすると、家族を憎むとはいったい何を意味しているのでしょうか。 ひとつの答えとは、パウロがテモテに書いたことばなのではないでしょうか。テモテへの手紙第Iの5章の8節。どうして彼はそれを書いたかと言いますと、もちろん必要だったからです。 テモテへの手紙第I、5:8
このことばと前のことばとは一見したところ、まったく正反対のことを言っているようにみえるかもしれない。 聖書ははっきりと、私たちが家族を大切にし、尊敬しなければならないと言っています。しかしながらそれと同時に、私たちは人間に対してよりも、主に対してより忠実に従うべきであると聖書は言っているのです。 主、また、主のみことばを第一の座に着ける者は、必ず家族を大切にしています。けれど家族を第一の座に着ける者は、主を否定するようになります。マタイの福音書の10章の中でイエス様は次のように言われました。 マタイの福音書10:34-37
家族が救われることを望む者は、家族を捨てるべきであると聖書は言っています。 曖昧な態度と妥協によっては救いが成就しません。もしあなたが家族の救いを真剣に望むならば、100%主のがわに立たなければなりません。 すなわちイエス様に従うということは、自分自身及び、家族を否定し、憎み、主イエス様を第一にすることになります。 妥協のない態度を取ると、主はあふれるばかり祝福してくださり、家族も約束どおりに間違いなく導かれ、救われるようになります。主イエスを信じなさい。 主の弟子となりなさいとも含まれています。そうすると結果として、あなただけではなく家族も導かれ、救われるようになります。 |